「元首の器」は、美談ではない - 一般庶民にも帝王学を

天皇陛下がオリンピック開会の辞を訂正されたということが報道され、ここ、はてなでもブコメが集まっている。「さすが」とか、あるいは先の「原稿糊付け事件」とあわせて「首相とくらべてどうよ」みたいなコメントがあって、それはそうだろうとは思う。

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東京五輪、天皇陛下はJOCの「誤訳」をさり気なく訂正 開会宣言に垣間見えた元首の器 (1/5) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

一般庶民とは教養がちがうわ、と、私でも思う。そして、思い至った。なるほど、百年前、二百年前の人々は、そんなふうに感じていたのだろうと。

 

歴史とか政治史、思想史的なことを教えていて、困惑することがある。私が現代民主主義のもとで教育を受けた人間だからなのだろうが、なぜ、アメリカ独立以前の人々が、唯々諾々と君主制を受け入れていたのか、どうにも説明しにくいと感じる。「むかしっかっらそうだったから」というだけの理由で、なんで人々は王を支配者として受け入れられたのだろう。ヨーロッパであれ日本であれ、人々は世襲制の君主を受け入れていた。もちろん、それに疑問を抱く人もいたわけで、だからこそ、儒教のように統治者の倫理性を強く要求する(そしてそれでもって統治者の支配を正当化する)学問が普及したのだし、あるいはホッブスのように「そんなこと言うても万人が万人とケンカしたらグチャグチャになるやないか」と統治者の存在を必要だと主張したり、あるいは「王が契約違反したらクビ切ってもええねん(物理)」と革命権を主張したロックみたいな人があらわれたりもしたわけだが、基本的に一般大衆は、そこまで深く考えず、支配者は支配者であるから支配者であるみたいな思考停止で権力に服従していたようだ。けれど、これは民主教育を受けた人間としては、どうにも納得できない。

私だけではない。民主主義のチャンピオン(自称)アメリカの高名な文学者、アメリカ文学夏目漱石みたいな人であるマーク・トウェインに「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」という転生モノがあるのだけれど、ここには、中世「暗黒時代」(19世紀にはそうよばれていた)のイギリスに転生した19世紀のヤンキーが、一般庶民になんとか民主主義を理解させようとして挫折するエピソードがおさめられている。民主主義的な教育を受けた人間からすれば、王の支配を疑いもせずに受け入れるのは無知蒙昧の極みであり、単純に愚かである、という以上の理由がないように見える。これは実際、アメリカが民主主義のチャンピオン(自称)として世界に対してきた態度であるわけだ。そこまでいかなくても、事実私も、生徒に革命以前のことを教えるときに、どうにも歯切れの悪い説明にならざるを得ない。「こいつら、何も考えてなかったんか?」と。

しかし、人間なんて、実際にはそこまで急速に進歩するものではない。現在の我々にもしも知性があるとすれば、百年前、二百年前の人間にも同じくらいには知性があると考えるのが穏当だ。過去の人間をアホのバカのと謗ることは、未来の人間から同様以上に謗られる覚悟がなければできない。アメリカ独立やフランス革命以前の300年前の人々にも現代人と変わらない知性があるのは、ほぼ間違いなかろう。だとしたら、彼らはどういう考えで、同族会社の社長みたいに世襲で代々トップをつとめる君主を受け入れていたのだろうか。その感覚が想像できない私は、「民主主義の思想が成熟する以前には、受け入れるよりなかったのである」とか詭弁を弄して切り抜けるしかない。

 

けれど、今回のオリンピック開会の辞の修正をみれば、明らかに、選挙で選ばれた与党の領袖よりも、君主(?)として世襲天皇の位についた今上天皇のほうが有能なのだ。こういう実態を目の当たりにすると、「王者は王者であるがゆえに王者である」みたいな感覚が、微かに理解できるような気がしてくる。「選挙で選ばれたとかいっても、それは有権者を騙すような詭弁と利益誘導で勝ち取った議席の上に、さらにボス猿の権力争いのような低級な策略を弄して勝ち上がったに過ぎないじゃないか。そういう人よりも、早くから帝王学を仕込まれて、君主としての器を磨いてきた人のほうがすぐれているのは当然じゃないか」といった気持ちにもなってくる。そんなときに、王が威厳を示すような行いのひとつでもすれば、人々は「やっぱりそこらの馬の骨に任せるよりも王様だ」と思うだろう。そういうことか!

だが、民主主義教育を受けてそだった人間として、私はそれを受け入れるわけにはいかない。だいたいが、支配者としての王族も皇族もとっくの昔にいなくなったこの現代の世の中で、いまさら王党派に鞍替えしても、担ぐ人がいないのだ(いまの日本の皇族は、担がれることを絶対に拒否するだろうし)。だから、ここで思考はどうしても自分の畑、というか田んぼに流れてくる。我田引水というやつだ。もしも今上天皇を優れたものとしているものがあるとすれば、それは何だ? 血統ではない。遺伝学的に優劣を決める思想を、現代民主主義は否定している。だとすれば、育ちの方であるはずだ。すなわち教育だ。教育が、この優れた人材をつくったはずだ。

だが、ここで疑問がうまれる。そりゃ、特別な教育も受けているだろう。いまでも学者が「ご進講」とかいって特別講義をすることもあると聞く。そういうものが日常的にあれば、そりゃ、教養もついていく。けれど、そうはいっても、基本的な部分では、皇族だからといって特別な教育が組まれるわけではないのが、近代以降の世界的な標準だ。とくに日本の場合、皇太子候補者であったとしても、小学校、中学校、高校、大学と、一般的な教育課程に則って教育を受けることになっている。学習院の内情まで私は知らないけれど、日本の公的な教育機関としての認可を受けている以上、その教育内容は学習指導要領をはじめとする諸法令に準拠しているはずだ。準拠した上でなおさらに優れたところが、もしもあるのであれば、学習院の人気がもっと高まって日本最高の教育機関としての地位を得ているだろう(入試の偏差値的にはそこまで高くない)。あるいは、その教育メソッドが他の教育機関にも広まっているだろう。現実にそういうことがないということは、つまり、基礎教育に関しては、たとえ皇族であったとしても、ごくあたりまえの教育を受けているのだ。つまり、「教育こそが帝王をつくる」みたいなことは、現実を見ると当てはまっているようには見えない。

けれど、よくよく考えてみたら、実は、現代の教育が歪んでいるのは、そのカリキュラムがおかしいんじゃない、という自分自身の持論がここにあてはまることに気がつく。どういうことかといえば、常々主張しているように、よく考えられ、練り上げられた現代の教育カリキュラムがクソみたいな結果になっているのは、入学試験の存在だ。入試対策みたいなことを生業としてやっているとわかるのだけれど、入試に勝ち上がるには点取りゲームに徹するのが最も効率的だ。つまり、入試が目的である限り、学生がやるべきことは、ゲームのトレーニングである。しかし、学問はそうではない。学問はゲームではない。もっと別な次元で取り組むべきものだ。ゲーム必勝法なんかでは、断じてない。

だから、学問のためには、現代の入試制度は百害あって一利なしだ。とはいえ、大学は学問の府としてだけ機能しているのではなく、結局は階級を発生させ、そこに経済的な格差を作り出すための社会的な装置としてこの社会に組み込まれ、機能している。だから、キレイゴトをいっても始まらない。とりあえずチートでもなんでもそこをかいくぐっていかなければ、生存が確保できない。それが現代の入試制度あり、本来は学問の府であるはずの大学自身がそこによっかかっている(そうでなければとっくに廃止してるはず)。だから、一般庶民は学問の本質は脇においても、とにかく入試をこなしてしまうことをまず目標におかざるを得ない。そのことによって青年期の貴重な時間が潰され、成長の機会がうばわれるとしても、それが人生。

だが、帝王にとっては話はちがう。なぜなら、将来の天皇の座を予約された人にとって、競争に勝ち上がるとか、そんなことはどうでもいいことだからだ。だから、基本的人権の一部をうばわれ、その代償として皇族の身分を確約された人々は、チートである入試対策なんか忘れて、本質的な学問を楽しむことができる。だとすれば、なぜそこに「帝王の器」ができるのか、理解できるのではないだろうか。

 

ま、現実には、陛下も受験勉強されたんだろうとは思う。だから、これは、今回の事例に限っていえば妄想なんだろう。それでも思う。学問は、しっかりと学べば本当に役に立つ。ただ、それを目先の競争の道具に使ってばかりいたら、その恩恵は受けられなくなる。そういう意味で、根本的な教育改革は必要なんだと思うよ。まずは入試制度の全廃から始めるのが手っ取り早いと思うんだけどな。あ、こういうことをいってると、きっと後世の人々から、「むかしは野蛮だったんだなあ」とバカにされるのだろうけれど。