どのような形で「感染拡大下の教育」が可能になるのか - 極論としての試案

学校のスタートを9月にするという政策が動きはじめているようだ。1ヶ月前からそれを主張してきた私は、複雑な思いをかかえている。それに関しては前回のエントリに簡略に書いた。

mazmot.hatenablog.com

正直、この話題には少し辟易してきていて、そろそろ別の話題(たとえば料理のことだとか)に移りたいのだけれど、乗りかかった船、もう少しこれに絡んだことを書いていこう。

上記記事で、「感染拡大の状況下で教育はできないのか? 方法さえ工夫すればできるはずだ」と書いた。では、どのような方法が考えられるのだろうか。もちろん実際には公教育の外側で家庭教師なんかやっている私なんかよりもずっとそういうことを考えるのにふさわしい人々はいる。これから書くことは外野の騒音でしかない。けれど、立場がちがえば見えてくるものもちがう。私は学校内でのさまざまなことは知らないが、幼稚園児から大学生までさまざまな年齢の子どもたちを相手にしてきて、彼らの目を通した学校という存在はよく知っている。そういった視点からは、内部から見えないものが見えるかもしれない。そして、そういった異なる視点は、参照項目としては役に立つだろう。書き記す意味はあると思う。

 

本論に入る前に、まず、前提として、私の学校や公教育に関する考え方をごく短くでも述べておいたほうがいいだろう。というのは、こういった非常時の大きな動きに際しては、ふだんからの問題意識が前面に出てしまうもののようだからだ。たとえば、ふだんから「日本の学校はなぜ欧米のように9月始まりじゃないのだろう」という問題意識のある人は、この期に及んで、およそ本質とはかけ離れた9月始業の利点を語りだしたりする。彼らにとっては、それこそが本質なのだろう。

では、私にとって本質的な問題意識は何かというと、それは、「現在の公教育は、憲法に保障された教育を受ける権利を阻害している」というものだ。つまり、もともと根本的な問題をかかえている(詳細は当ブログの他の記事も参照していただければと思う)。これが、多くの人の思う「現代の教育問題」とは大きくちがう点だ。多くの人々が「問題」と思うのは、たとえばPISAの点数であったり、不登校生の増加であったり、大学の生産性であったりする。だが、私のように獣道を選んだ者にとっては、そういう問題意識はしょせん、現代の教育システムをうまく勝ち抜いてきた人々の「なんでお前らはダメなんだ」というおせっかいにしか見えない。それこそが「教育改革」がダメダメな根本原因だとさえ思っている。まあ、前フリはこのぐらいにしよう。

 

感染拡大下での教育の形は、子どもの年齢によって異なる

「学校」と一口に言っても、小学校から大学まで(あるいは幼稚園から大学院まで)その性質は大きく異なる。だから、対応もそれぞれに異なってくる。細かい話でいえば各学年ごとに異なるぐらいだが、あまり細かすぎる話をしてもこの段階で現実的ではないので、とりあえず学校種別ごとに考えてみよう。

まず、簡単なのは高校、大学だ。というのは、これらの学校で学ぶ人々は、それなりに大人である。分別もあれば、かなりのスキルもある。だから、ICTを活用したリモート教育も、それなりに可能になる。スクーリングや実習、実験などが必要となっても、短期間であれば常識的な安全対応で乗り切ることができるだろう。大学でも研究室での研究が必要な段階や、大学院での研究はそうとばかりも言っていられないかもしれないが、対人接触頻度を減らしながら実施することは、この年齢層ではある程度の自律によって可能であろう。もちろんそれを支援する体制が学校側になければどうしようもないのは言うまでもない。

一方、まるで事情が異なるのが小学校だ。なぜなら、小学校で最も重要なのは、教科学習ではなく、集団生活を通した社会的技能を身につけることだからだ。学習塾的な発想だと、「自宅でオンライン教材を用意すれば学力は…」となるのだが、小学生の成長のために必要なのは、そんなケチなものではない。

そして、もうひとつ重要なのは、小学生に関しては学校には教育以外のニーズもあるということだ。現在の学校に教育以外の役割があまりに多く社会から押し付けられている現状を私は好ましく思っていないのだけれど、それでも、まだまだ物理的にも精神的にも弱い存在である低学年児に関しては親が仕事中にその安全を守ってもらう役割(託児機能)が必要だし、探検や冒険に心が動く中学年から高学年にかけては別な意味で安全を確保してもらう役割がある。そういうニーズには対応してほしい。つまり、密集を避けるべき感染拡大状況と真っ向から対立する集団化がどうしても要求されるのが小学校なのだ。

中学校ぐらいになると、事情が変わる。だが、現実には、学習産業界でいうところの「教育ニーズ」が最も高いのが中学生なのだ。それはなぜかというと、もう単純に高校入試があるからでしかない。そして、たいへん申し訳ないのだが、これについてほとんどの中学校で思い違いの教育が行われている。現場の教員の方々は頑張ってるのに、そもそも枠組みの設定がおかしいから、子どもたちが一方的に苦しんでいる。そして、その状況で、もしもICT化とかで合理的な教育をやり始めたら、子どもたちの苦しみは倍加することだろう。だから、中学校に関しては、その在り方を根っこから変えない限り、感染拡大下での安全な教育はありえないと思う。

 

感染拡大下、小学校の教育はどう行われるべきか

小学校の場合、「子どもたちを学校に集める」スタイルは、変えるわけにいかない。ただし、それ以外のことは、現行指導要領に準拠しても、かなり変更が可能だ。

感染拡大下でまず手を付けるべきなのが、「学級制度」だろう。「学級」の歴史に関してはたとえば柳治男あたりの研究を参照してもらえればいいが、日本独自のものである。これが、多数の子どもを一人の教員が効率的に管理し、しかも同年齢集団を育成する上で効果的であるということは、まちがいないだろう。けれど、かつて45人から50人にまでふくれあがった1教員の担当児童の数は、現在では30人程度であり、さらに副担任制の導入などにより、多数を同時に管理しなければならないニーズは小さくなっている。それにもかかわらず多くの教員の苦労が減らない(どころか増えている)のは、教員が管理すべきとされる項目が一方的に増えすぎているからではないだろうか。もちろんそれぞれにはそれぞれなりの必要性があって増えているのだが、学習指導要領の精神からいっても、学校はもっとスリム化してもいい。そうすれば、必ずしも「学級制」は必要と言えないのではないか。

「学級」を解体することによって、「同時に一教室に全員が集まって同一の行動をする」必要がなくなる。そうすることによって、過密を避けることができるようになる。小学校をよく観察してみるとわかることだが、あれだけ広い敷地内に、常に児童が充満しているわけではない。児童は学級の行動とともに密集しており、ある時間にはある空間にだれもおらず、別の時間には別の空間がガランとしている。その一方で、児童は常に密集した集団内に存在する。これが現在の「学級」の在り方だ。

もしも、行動の単位を7〜8人程度までの小集団に変更することができれば、学校内での密集度をかなり下げることができる。その場合、現状の講義型授業中心のスタイルは無理になる。日本ではほぼそのスタイルでしか学校が運営されてこなかったためギョッとするかもしれないが、外国の例を見ると、小集団単位の探求型学習にはメリットが多いことがわかる。そして、それは現行の学習指導要領とも矛盾しない。実際、ごく少数であるが、日本でもそういう学校運営を取り入れて成果をあげている学校はある。それもずいぶん以前から。そういう手法が広まらないところが、学級制の強固なところなのだろう。だが、それは感染拡大と両立しない。

さらに密集度を下げる方法として、学校の敷地を広げる方法がある。単純に面積が広がれば人口密度が下がる理屈だ。これには分校方式を採用すればいいだろう。少子化の影響で、多くの学校が統廃合になっている。その校舎のかなりの部分は使用不能になっているが、まだまだ使える校舎は残っている。こういった空き校舎、空き教室を分校として復活させればいい。また、地域の公民館などの公共施設も、時期を限定して分校扱いで教室化することができるだろう。うまくいけば登下校の負担も軽減され、密集度を大きく低下させることが可能になるかもしれない。

感染拡大の中で、高校はどのように対応可能か

実はこの答えはもう出ている。多くの高校で、学習のオンライン化が進んでいる。その基盤となっているのがCMS(コース・マネージメント・システム)だ。実は私は翻訳者として十数年前から十年間ばかり、CMSの開発・販売をするある会社の仕事を継続的に受けていたことがある。だからその仕組みも長所・短所もよくわかっているのだけれど、システムそのものは非常に合理的にできている。各社さまざまなものがでているが、基本的な仕様に大きな差はない。うまく使えば、かなりのことがCMSを利用して可能になる(ただし、GIGO、使い方が誤っていればロクな結果にならない。もしも「あんなモノ使えない」と思っているユーザーがいたら、そもそも使い方が正しいのかどうかをもう一度見直してほしい)。現在最大手はベネッセのClassyというシステムらしいが、哀しいかな先日情報漏れを起こした。まあ、そのあたりは別の話だ。

学習の主要部分をオンライン化し、分散登校を組み合わせれば、高校では9月といわずすぐにでも学校は再開できるはずだ。そして実際、いくつかの学校ではオンラインによる課題管理と学習を4月から開始している。そして、非常に皮肉なことなのだが、家庭教師としてそういった生徒を教えていて、現在評価されている基準をもとにした「学力」だけを単純に測定するのであれば、今年の生徒のほうが去年の生徒よりもよく伸びている。申し訳ないが、学校の斉一式の授業よりもオンラインを利用した自習のほうが成績を上げるらしいのだ。

それで本当にいいのかと言われれば、私は絶対にちがうと主張したい。けれど、現在の高校の学習指導の主要部分は、大学その他への進学に引きずられている。そして、その中で、「テストの点数を上げる」こと以上の正義はないとされている。アホな話と思っても、現実にそこをやらないと生徒が進学において不利益を蒙ることになる。だから、高校の教育改革は大学入試制度改革を伴わなければ方向性も見えない。そして、いくらなんでも、コロナに紛れてそこまでやったら牽強付会と言われるだろう。だから、本当はそこからやらねばならないし、そこからやるのならさらに「感染拡大下での高校教育」についてもっと深い議論ができるのだろうけれど、それは当面、見送らなければいけないんだろう。残念ながら。

そして、中学校

小学校と高校の間にあって、中学校はいちばん厄介だ。現状の学校システムを破壊するぐらいに変えないと、感染拡大下での安全な教育なんてありえないだろう。たとえばオンライン授業するといったって、そもそも「スマホを禁止すべきかどうか」レベルで止まっている現在の精神状態じゃ、話にならない。さらに、高校では「やむを得ない」と目をつぶることもできる(なぜなら極端な話、高校は行かなくったってどうにかなるのがタテマエだから)「学力」重視の学習も、中学ではやはり本質論としてちがうと言わざるを得ない。ここでいう「学力」は、もちろん試験の点数のことであり、本当の意味での素養はそういうものではない。ただ、私たちはそういうものを評価する正しい方法をまだ知らないでいるので、下手にそこを語りだすといろいろとあやしいものが紛れ込んでくる。本質的に中学校教育にはそういう難しいところがある。その上、この年代は危険な年代でもある。精神的なケアも必要で、本来学校にそこを過剰に求めてはいけないのだが、それでも果たす役割は小さくないだろう。

ということで、もしも中学校に話を進めるのであれば、どうしても「じゃ、公教育って何よ?」というところまで風呂敷を広げなければいけなくなる。この緊急事態下でそれができるのかどうか疑わしいが、それでもやるべきことはやらねばならないのではないだろうか。

 

「9月入学で日本も欧米並み!」みたいな議論が、心底アホらしいことが、少しでもわかってもらえるだろうか。「9月」は、「感染拡大下での安全な教育」を可能にするための議論と準備にかける最低限の(たぶんもう足りないけれど)時間を確保する便法に過ぎない。そしてその議論って、ほんと、たいへんなんだから!