「有機農業」についての7つのよくある勘違い

はじめに

現実がどうかとかいうことはさておいて、理念として有機農業に一定の価値があることはいまさらどうこういう必要のないことだと思っていた。小学校の教科書にさえ有機農業や無農薬、省農薬の概念が記載されるようになって久しい。世の中の全員が認めるものでなくとも、大多数の人はその価値を認めているものだと思っていた。ちょうど、「暴力はいけない」という考え方が大多数の人に共有されているのと同じ程度のものだと思っていた。ちなみに、世の中には「いや、暴力(と当人はいわないけれど、物理的な力)こそが重要だ」みたいな価値観の人は一定数いるし、「暴力はいけない」という理念を正しいと認めていても「とはいえ現実にはそういうのが必要になる」と考えている人も少なくないだろう。「非暴力」はキレイゴトであるのかもしれない。有機農業も同じようなもので、理念としてはわかるけど、「現実には無理だよ」「現実はそうなってないじゃないか」みたいいな批判はあるし、「そうはいってもねえ」と敬遠されることも多いだろう。だが、理念としては、「まあそうだよね」と共有されていると思っていた。だから、いまさら「なぜ暴力がいけないのか」を説明する必要がないのと同じくらいに、「なぜ有機農業なのか」を説明する必要もないと思っていた。どうやら私は間違っていたようだ。

ここのところ立て続けに、「なんで有機農業なのかわからない」的な言葉を聞いた。いや、実際、有機農業は理念としてはりっぱでも、現実とうまく噛み合わないところはある。だからむかしから批判も多いし、私自身、無条件でそれが素晴らしいとも思ってこなかった。だからそういう話なのかなと最初は思ったのだけれど、どうも繰り返しそういう言葉に接するうちに、「こりゃ、本当にわからないのかもしれない」と気がついた。これは相当にショックだった。自分が世界の常識だと思っていたことが、実はそうではなかったとわかったときの衝撃は決して小さくない。自分がある種のエコー・チェンバーのなかにいたのかもしれないと、ちょっと呆然とした。

有機農業の概念は、語る人によって異なる。「有機農産物」に関してはJASに定められた規格があって定義があやふやということはないのだけれど、有機農業については狭い定義から広い定義、歴史にもとづいたものから理念にもとづいたものまでさまざまだ。また、有機農業ということばを嫌って、別な概念で自分の実践を語る農家も数多い。そういうものを含めるのかどうかということも、問題になってくる。だからあえてそこに踏み込まないとして、私が共有されている価値観だと思っていたのは、「だってこれ、ヤバイじゃん」と、化学肥料や農薬を手にしたときのあの感覚だ。あるいは除草剤が撒かれた圃場を前にして、「これはマズいよね」と感じたあの恐怖だ。もちろんそこから、「そうはいってもこれ使わないとダメじゃん」という方向に向かうこともあり得る。それでも、化学物質が基本的には人間にとって危険な物質であるという認識は、それに触れてみればだれも否定しないことだと思ってきた。だからこそ、その危険な物質を否定する概念である有機農業が存在するのだし、そこに関しては、「わからない」はないだろうと思ってきた。もちろん、現実にそれを否定してどうするよ的な批判とか、有機農業だって十分に破壊的じゃないの的な批判とか、批判はいろいろあり得る。けれど、出発点の理念は説明するまでもないほど明らかだと思ってきた。どうやらそうではなかったらしい。

だから本来は、そういう理念を改めて共有するための文章を書くべきなのだろう。けれど、それをやりはじめたら、たぶん1冊の本ではおさまらない。私一人の力でも無理だ。有機農業の関係者はそれぞれ独自の立場をもった一国一城の主であることが多いし、世の中の農学者は確実に有機農業者よりも多い。そういう百家争鳴の場所にあえて飛び込んでもろくなことにならないし、また、そういうレベルではおそらく有機農業の理念についてはイヤというほど語られている。問題は、それが世の中の多くの人に共有されていないことだろう。閉じられたサークルの外にひろがっていない。かつてレイチェル・カーソンの「沈黙の春」のような名著が世の中に化学物質の危険性を知らしめたようなことはあったのだけれど、そういったエポックメイキングなことでもない限り、どうやら「なぜ有機農業なのか」は、多くの人に伝わらないだろう。がんばってそういう書物を書いたところで、結局はエコー・チェンバーの中の騒音を増やすだけにしかならないような気がする。

そこで、(ああ、前置きが長くなった)とりあえずは表題のように、「有機農業についてのよくある勘違い」を書いておこうと思う。そうすることで、多少なりとも誤解が解けるのではないかと期待するからだ。誤解が解けたら、なぜ、そんな有機農業の理念が、それでもひろく行き渡っているのかと考える方向に進むだろう。そうなってはじめて、「なぜ有機農業なのか」について語ることが意味をもつ。そうあってほしいと思う。

 

1.  有機農業って有機肥料をつかった農業でしょ

私たちは「有機」という言葉を「無機物」に対する「有機物」として習います。そしてホームセンターに行くと、有機肥料が置いてあります。有機肥料ではない化学肥料が窒素やリン、カリウムといった無機物からできている一方、有機肥料は畜糞であったり油かすであったり落ち葉や樹皮であったりと、有機物からできています。だからほとんどの人は「有機肥料とは有機物でできた肥料のことなんだな」と思うでしょう。そして、「有機農業ってのは有機肥料を使う農業のことなんだろう」と類推するわけです。このような類推は、実際、1970年代の農村でもふつうにみられました。だから荒唐無稽というわけではありません。けれど、語源的にいっても考え方の上からいっても、これは誤りです。

諸説ありますが、有機農業という言葉が最初に使われたのは1940年代のアメリカでのことです。この時代、思想史的には、要素還元主義に対する批判として「全体は部分の総和ではない」というホリスティックな思想が流行していたようです。フランケンシュタインの怪物のように生物体のパーツを繋ぎ合わせても生命は機能しない、生命は全体の総和以上のものであるという考え方です。そういう思想のもとにみた生命を「有機体」といいます。有機体においては、各部分はそれぞれの機能を担いながらも、他の部分と協調して、全体として部分の総和以上の存在になります。そういった全体をかたちづくる存在を「有機的」と表現するわけです。ですから、「有機的」は「命があるもの」とかなりの程度同義的に使われていたことになります(これは「有機」のもともとの意味とそれほど離れたものではなく、だから生物由来の炭素を含んだ物質が「有機物」とよばれる理由でもあります)。したがって、「有機農業」(organic farming)は、有機体である自然生態系の一部をなすものとして名付けられたわけです。

もちろん、自然循環の一部に農業を組み込もうとすれば、どうしても肥料は有機質肥料になるでしょう。そういう意味で、「有機農業って有機肥料をつかう農業のことなんだろう」という理解は、完全に的外れとまではいえません。けれど、だったらなぜ農薬の使用を拒むのかが理解できなくなります。有機農業の理念が工場生産された化学肥料だけでなく農薬の使用も受け付けないのは、それが「有機的」ではないとする思想からなのです。

2.  有機農業の野菜っておいしいんでしょ

残念ながら、そうだとはいえません。なぜなら、有機農業の理念が自然生態系の一部として農業を営むということである以上、「だからおいしい」とつながる論理的根拠がまったくないからです。「自然のものがおいしい」というのは、「そうあれかし」という願望ではあっても、現実にそうだということにはなりません。たしかに自然循環の中で生み出された食べ物は「本物」であるかもしれませんが、「本物のほうがうまい」というのは、ときには真実であっても、ときにはそうではありません。

私が世話になった多くの農家の名誉のためにいっておくと、有機農業(と本人は名乗っていなくても自然循環的な農法)でつくられた野菜は確かにおいしいものでした。ただ、それは彼らが野菜を育てることが心底好きで、実にこまめに田畑に精を出していたからにほかなりません。野菜に限りませんが、手をかけ、目をかけてやればいいものができます。有機農業を営む人にそういう人が多いことが結果的に有機農業の野菜をおいしくしている事実はあると思います。けれど、だからといって「有機農業の野菜はおいしい」という論理的帰結にはなりません。極端な話、完全無化学肥料・無農薬でつくっても、まずい野菜はできます。私の家庭菜園の野菜がその見本です。放ったらかしでおいしい野菜がとれるほど、自然はあまくありません。

これは有機農業以外の方法(慣行農法というような言い方もあります)に関しても実は同じことです。手をかけてやればいい作物がとれるし、いい加減なことをやったらおいしくない作物がとれます。有機かどうかということは基本的に無関係でしょう。もちろん、一般人にはわからない微妙なちがいまで求めるグルメであれば、「本物かどうか」にこだわる場合もあり得ます。そういう人が、「やっぱり有機はうまい」という言葉まで否定するつもりは私にはありません。あくまで標準的な味覚の持ち主として、農作物のうまさは有機農法か慣行農法かというちがいよりも、その年の気候や収穫してからの鮮度、農家がどれだけ作物に思い入れをかけているかに依存するほうがはるかに大きいのです。

3.  有機農業って安全なんでしょ

安全かどうかということが「食べ物の安全」であるのなら、現実には有機農産物の安全性はそれ以外の農産物の安全性とほとんど変わりません。野菜を食べて中毒になったという話はふつう聞きません。もちろん、ときに多量の残留農薬が検出されるような事例がないわけではありませんが、それはほとんど事故レベルのことですし、また、そういった野菜を食べたからといってすぐに健康被害が発生するものでもありません。「農薬が心配だから」と野菜を敬遠するよりも、とりあえず野菜350グラムを毎日摂るように心がけたほうがよっぽど健康にはいいでしょう。多くの農薬は洗えば落ちるものですし、出荷直前の野菜に農薬を大量に使用することも(ふつうは)ありません。農薬は有料の資材ですから、利益を減らしてまで使うような人は(ふつうは)いません。

有機農業がもともと「健康のため」からスタートしているのは、紛れもない事実です。アメリカで「有機農業」の概念を提唱したロデールも、それ以前から「自然農法」を実践していた日本の先駆者たちも、ほとんどが「健康のため」が動機でした。たとえば日本で有機農業の先駆的な販売網をつくりあげたMOAは、世界救世教創始者岡田茂吉が健康を害したときに大本教の教団が実践していた自然農法の食べ物を食べて健康を回復したことが出発点になっています。有機農業運動が日本でスタートしたのは1970年頃、公害問題が人びとを不安に陥れていたときに環境汚染から身を守る方法のひとつとして有機農業が注目されたからです。つまり、化学物質が危険であるから、安全である有機農業に転換すべきだと、消費者が考えたことが日本の有機農業のひとつの出発点です。だから、有機農業の看板として「安全」ははずせないものであったわけです。

物質として硝酸アンモニウムや硫酸アンモニウムのような化学薬品が人体に有害であるのは、明らかです。ただし、それは大量に摂取した場合です。一方の農薬はそもそもその使用目的からいっても毒性が強いもので、取扱いには注意が必要です。ただし、いずれも微量ではそれほど有害ではなく、また、適切に使われれば消費者の食卓には基本的に達しないものです。その一方で、これらの物質が大量に用いられるのは農業の現場です。そして、その使用目的から、これらの物質の使用は、生態系に確実に影響を与えます。影響を与えることを目的に製造・使用されているといってもいいでしょう。

個別の健康被害(直接毒性)はほとんど問題にならない(もちろん、有機農業であればもともと使わないのでその発生はゼロであるわけですが)化学肥料や農薬が、少なくとも理念として「危険」であるのは、そういった理由です。化学肥料の過度の使用は、正常な土壌微生物の活動を妨げ、「土を殺」します。環境中に放出される農薬は、生態系の循環を通じてときに破壊的な影響を与えます。これは、個人の健康観のような些細なレベルではなく、もっと確実に人類の生存に悪影響を与えます。少なくとも、「自然循環という有機体の一部を成す」という思想からうまれた有機農業の立場からいえば、とてつもなく危険なものです。そして、それに対置するものと考えれば、「有機農業は安全である」というお題目は、確かに成り立つでしょう。ただし、それは個人のレベルで有効なものではなく、人類レベルでの話です(だから有機農業はもっとひろがるべきだという話にもここでつながるわけですが)。

先人たちが「有機農業(あるいは自然農法)によって健康をとりもどした」と感じた事実は、決して軽視していいものではないと思います。けれど、それは安直に「食の安全」と結びつけるべきではありません。人間の健康は、何よりもその精神によって大きな影響を受けます。自然から切りはなされ、疎外されて病んでしまった人が、自然循環を意識し、その大きな流れのなかに身を委ねることで健康を回復することは、大いにあり得ることです。有機農業は、そういう意味では健康に役立つかもしれません。ただ、単純にそれが化学物質を使わないからだという理解では、データによって「そんなことはないだろう」と否定されるのを待つだけになるのです。

4.  有機農業って、結局はビジネスでしょ

有機農産物が認証され、マークをつけて売られるようになったときから(あるいはその少し前に有機ブランディングがはじまったころから)、「有機農業をするのは金儲けのためだ」という見方が生まれてきました。実際、有機農業にビジネスとして取り組んでいる人びとがいるのは事実です。しかし、順序からいえばこれは逆転しています。

もともと農業は、消費者の意向に左右されて成立してきたものです。当初から経済作物であった穀類の生産は別として(自給自足的な生産も別にして)、「業」として農が成立するのはそれを消費する都市生活者が現れて以降のことです。物流が十分でなかった時代に軟弱野菜よりも重量野菜の生産が多かったのもそのあらわれですし、それが改善されていく高度経済成長期に葉物の生産がふえたのも、それに伴って「清浄野菜」の需要がふえたのも、常に需要が農業を規定してきたことのあらわれでしょう。農村においてそういった市場動向に敏感である人びとは明らかにビジネスとして農業に取り組んできましたし、そこまでの感覚のない人々でも「農協にいわれたものをつくる」なかでビジネスとしての農業に参画してきたのだといえるでしょう。そういう意味では、有機農業に限らず、農業には本質的にビジネスとしての側面があります。

しかし、その一方で、農業にはビジネスよりももう少し生活にまとわりついた生業的な側面もあります。それは、いくら儲け話が転がっていても、自然条件の許容範囲の中でしか対応ができないからです。季節がこなければタネはまけないし、収量のコントロールも限定された範囲でしかできません。リードタイムは長いし、生産物は長期に保存できないほうがふつうです。それでも農業が生業として成り立つのは、そういった自然のサイクルの中で多様な暮らしの要素を組み合わせればなんとか生きていくことができるからです。特に有機農業は、自然循環のなかでの生産を基本においていますから、コントロールできる幅がずっと狭まります。その狭い幅の中でやりくりするため、有機農業は本来儲からないもの、ビジネスからは最も遠いものでした。

経済主体でまわる現代では、ビジネスとして成立しない業は消えていくことが運命づけられています。実際、有機農業運動がはじまった時代、農村部で有機的な農業を営んでいる農家はごく僅かでした。農薬や化学肥料がはいってくる前の古い方法に頑固にこだわる人や思想的にそういったものを拒む人がひっそりとやっている程度で、それも周囲からは煙たがられながらどうにか折り合いをつけている程度だったといわれています。有機農業運動の正史によれば、そういう人びとを都市部の意識の高い消費者が発見したのが日本の有機農業のスタートであるとされています。

ほかの農業と同じく、有機農業も、都市部の消費者のニーズから生まれたといってもいいかもしれません。もちろん、それを受け入れる農村側の生産者がいたからこそどうにかなったわけですが、彼らは経済の中で消えゆくべき存在でした。しかし、需要を作り出した消費者としては、消えてもらっては困ります。そこで生み出された理論が、「買い支え」でした。有機農業を持続させるためには、消費者が生産者の農産物を買わねばならない。それは、経済の枠組みの外でおこなわれねばならない。なぜなら、「安くて品質のいいものを」という消費経済の理論のなかでは有機農業者は潰されてしまうからです。心ある消費者は有機農業生産者の農産物を価格や供給時期の偏りを度外視して買わねばなりません。そうすることでしか、自分たちが必要とする(と感じた)有機農産物を確保できないのです。これは経済的な行動としては非論理的なことですから、この時代、有機農産物の消費者は、「だって安全で安心だから」という理屈で自分を納得させるようになります。彼らが有機農産物を望んだもともとの理由がそうなのだから、それはそうなりますよね。さらに納得させるために「おいしい」も付け加えられることになりました(いや、たぶんこの時代の生産者の野菜はおいしかったはずです。有名な精農家が活躍した時代ですから)。

ところが時代がすすむにつれ、この「買い支え」理論が破綻していきます。当初有機農業運動を担った消費者たちが高齢化していき、買い支えきれなくなっていったからです。その一方で、そういった理論と無関係に、「有機農産物=安全安心でおいしい」のイメージが普及しはじめます。それならばと、そういうイメージをビジネスに利用する人びとがあらわれます。あたりまえの野菜に「無農薬」や「有機」とラベルを貼って金儲けに利用する人びとです。「どこが有機なんですか?」「有機肥料をたっぷりつかっていますよ」という笑うに笑えない状況が広まります。これは有機農業関係者にとっては非常に困ったことです。

有機農業運動のひとつの功績は、「食料生産は自然循環の中でしか行えない」という厳然とした事実を改めて認識させてくれたことだろうと思います。人間は生物である以上、食物連鎖のなかに組み込まれてのみ、生存が可能です。第一次産業はすべてその循環のなかに存在するのですが、そのなかでも特にその循環を意識し、それを積極的に取り入れようとするのが有機農業でしょう。ですから、有機農業の価値は徐々にひろく認められるようになっていきました。けれど、その一方で、買い支えが先細っていく状況下、有機農業で食っていくことはどんどん厳しくなります。その向こう側で、「有機農業」のラベルだけで儲ける人々も生まれています。非常にまずい状況が生まれていました。

それを解決するひとつの方法として採用されたのが有機認証制度です。これは、一定の基準を満たした圃場で生産された農産物に限って「有機」を名乗ることを認めようという制度でした。ニセモノの「有機」に市場を荒らされていた生産者にとっては、確かに説得力のある制度でした。しかし、これは危険な賭けでもありました。というのは、日本が世界経済のトップを走っていたこの時代、農産物の自由化が国際政治の争点であり、そして外国産の農産物をいかに日本に売り込むかはビジネスにとって重要なテーマだったのです。

認証制度は国際的なものでならないという枠組みがいつの間にか設定されました。そして国際標準を決定する議論の中で生まれた基準は、日本の有機農業者がとても実現できないような厳しいものでした。たとえば、慣行農法の圃場との距離を確保することは、大規模農業を実施する海外の農場では何の苦もなく行えることです。中山間地に狭い農地の点在する日本の状況で同じ基準を満たすのは非常に困難です。あるいは、日本の輪作体系の中で圃場のいくつかの条件を満たすことが困難になります。さらに、小規模農家が多い日本の有機農業の状況にとって(日本のような土地で自然循環に沿った農業を営もうとすると大規模化は現実的ではありません)、認証機関に定常的に支払うコストは経営を圧迫します。だから、途中からこの制度の制定には多くの批判が寄せられました。それでも、有機農業運動の中の人が制度の実現に努力したのは、やはりそれによって有機農業を持続可能なものにしたいという理想があったからでしょう。

実際、農村で有機農業をひろめようとしても、「それは儲かるのか?」という壁に阻まれるのがふつうでした。もしも有機認証制度によって有機農産物が安定的に高値で売れるようになったら、経済的に苦しい有機農業者がなんとか生きていく道筋が見えるだけでなく、「儲かるのならやろうか」と普通の人々もまきこんでいくことができるはずです。有機農業の理念からいえば、自然循環の中でおこなわれる農業は一部の変わり者だけがすべきものではなく、ひろく主流としておこなわれるべきものだということになります(もしも農薬や化学肥料が環境を破壊しているのであれば、全体としてそれを減らすことが重要でしょう)。農村で人をまきこむ最も説得力のある言葉は「これをつくったら儲かる」です。有機認証制度に努力した人びとは、外国農産物のリスクは十分に認識していたけれど、それを超えてなお、有機的な農のあり方をひろめるベネフィットがあると信じていました。

さて、現状はどうなったかというと、有機認証制度を利用できているのは、よっぽどしっかりした生産者の団体のほかは、ビジネスとして参入してきた人びとです。とくに、外国農産物の輸入業者です。それが「有機農業ってビジネスでしょ」という受け止め方につながっているのでしょう。けれど、順序が逆なのです。

有機農業は、もともとビジネスとは最も遠いところにあるものです。けれど、それを存続させるためには経済的な支えが必要になり、支えるために「有機農産物は割高でもしかたない」という認識が生まれ、その認識を確実なものにしようとして、ビジネスを呼び込んでしまいました。これは、現代社会で生き延びていく中で逃げようのなかった帰結であるかもしれません。けれど、多くの有機農業の生産者は、決して「儲かるから有機農業」的な発想ではないのだということは、理解してほしいと思います。

5.  有機農業では世界の食料生産はまかなえないでしょ

化学肥料の発明は、世界の農業生産を変えました。これは否定のできない歴史的事実です。農薬もそうです。防除によって収量が安定したことは農業をおおきく変えました。そして、結果として現在の世界人口があるわけです。ですから、化学肥料や農薬を否定してしまえば世界が飢餓に苦しむだろうという論には説得力があります。何の準備もなく一気にこれらを廃止すれば、おそらく予想は現実となるでしょう。

その一方で、では、現在のような農業をつづければ将来の飢餓は心配しなくていいのかといわれれば、むしろそちらのほうが心配だと考えるほうが妥当でしょう。そのひとつの理由は、マルサスを持ち出すまでもなく、人口は食料生産に合わせて増加するからです。利用可能な食料に合わせて人口が増えるのであれば、飢餓をもたらすのは絶対的な生産量ではないことがわかります。実際、世界全体で十分な生産があるときでさえ、局地的な飢餓はたびたび発生しています。飢餓の発生は生産の問題以上に分配の問題であることが経済学の力によって明らかになっています。

もちろん、分配以前に絶対的な量が不足することは起こります。しかし、食料が基本的には長期の保存ができないものであることを「人口は食料生産に合わせて増える」という事実に加味すれば、飢餓は収穫の絶対量ではなく、収穫の変動によって生じるのだということがわかります。つまり、安定した収穫を確保することが、収量以上に飢餓を防ぐ上で重要だということがわかります。つまり、持続可能性です。

そういった観点に立つと、むしろ、化学肥料や農薬を多投する農業のほうが問題だということがわかります。部分的に野菜の工場生産が実用化されているとはいえ(そしてそのエネルギーが太陽光発電など持続可能な方法で得られるように進化しつつあるとはいえ)、大部分の農業生産は自然のエネルギー循環を利用したものに頼らざるを得ません。そして、その有機的なつながりを人工的な化学物質は妨げます。たとえば乾燥地域での化学肥料の多投は土壌を荒廃させ、利用不能な荒蕪地にしてしまうことが知られています。農薬や除草剤の過度な使用は生態系を乱し、かえって病害虫を発生させ、さらなる薬剤の使用を余儀なくするといった悪循環につながる場合もあると指摘されています。こういった弊害は予測不可能な形で発生することが多く、安定的な農業生産を損ないます。

それ以上に問題になるのが、化学肥料や農薬に依存することで、農業が自立的な基盤を失うことです。日本の農家には、「いよいよとなってもウチの田んぼの米を食えばいい」という安心感があります。どんな危機が来ようとも、最低限の自給のための食料はいつでも確保できるという感覚は、農家の強みです。そして実際に、そういう自信は社会を安定させます。農地のプランテーション化が進行した地域においては、農民はほぼ完全に自給の基盤を失って農業賃労働者になります。そういう地域で不作が発生すると、賃金が得られないために農民がまっ先に飢餓に陥ることになります。プランテーション化されていなくても、農業が資本の投入とその売上という工業的サイクルに変化してしまった地域では、やはり同様の不安定さが発生します。有機的な農法は、貨幣経済への依存を減らしてその分だけ自然循環に依存するため、不作による社会の不安定化に対するバッファになります。商品作物に特化しない自作農地では、多様な作物を組み合わせることができるため、持続可能性がおおきく高められるのです。

このようにみてくると、短期的には化学肥料や農薬を一気になくすことは現実的ではなく、社会的影響が大きいにせよ、長期的にそれを減らし、有機的な農法に変化させていくことは、むしろ世界の食料問題の解決におおきく寄与するのだということがわかります。

このような論を書くと、「昔の原始的な農業にもどるのか」的な誤解を受けるので、1960年代以降の急速な農業の変化以前の農業がどんなようすだったのかに少しだけ触れておきましょう。私は野菜づくりの教科書として戦前の昭和初期に農業学校で使われていたらしい教科書を愛用していたことがあるのですが、そこでは化学肥料は高価な資材なのでなるべく使わず、農薬はマシン油や硫酸銅程度の素朴なものだけが掲載されていました。そんな農業の教科書ですが、そこに記載された収量は現代の農法と大差ありません。手間さえ惜しまなければ、有機的な農法でも十分に量は確保できていたことの査証であるといえるでしょう。さらにまた、有機農業の歴史の中で、化学肥料や農薬に依存しないさまざまな工夫も進化してきています。農業は昔にくらべればおおきく進化しましたが、化学肥料や農薬は、その進化のなかのほんの一部分を担っているにすぎないのです。

6.  有機農業って、お金持ちのためのものでしょ

有機農産物が割高なものであり、この格差の時代に一般の人びとが割高なものなど買えないことを思えば、「有機農業は金持ちの贅沢」という考え方は、素直なものだとさえいえるでしょう。これはいまにはじまったことではなく、有機農業運動の初期にあっても、都市部の消費側の人びとは概ね経済的に豊かな人が多かったようです。一方生産者の側で有機農業で蔵を建てたような人はあまりいませんから、外見上は貴族が奴隷をつかって趣味の農業をさせているように見えたかもしれません。

けれど、有機農業は決して都市住民の贅沢にとどまっていいものではありません。むしろ農村部の自立的な経済のためにこそ、有機的な農業が発展していくべきです。それは、ひとつ前の世界の食料生産に触れたところでも書いたように、農業資材への依存を減らしてくれるからです。自然循環のなかに生産を位置づけることは、自給的な暮らしとしての農の上に販売としての業をのせることになります。そのような暮らしは大儲けはできないかもしれませんが、安定します。有機農業の付加価値に依存するのではなく、有機的な生存基盤に依存することが、本来の有機農業の理念です。そしてそういった暮らしは、都市部の富裕層に奉仕するためのものではなく、自分自身のためのものであるべきです。

そうはいいながら、現実の中で、それを達成するにはやはり余分な金を落としてくれる消費者がいなければならないのも事実です。ただ、それが「贅沢」でないことは、上のほうで書いた有機農産物だからといって特別においしいわけでもなく、特別に安全・安心なわけでもないということを読んでもらえればわかるでしょう。「いいもの」に余分なお金を出すのは贅沢かもしれませんが、べつにそうでもないものに余分なお金を出すのは贅沢とはちょっとちがうでしょう。

では、なぜ有機農産物に余分なお金を出すのでしょう。それは、そうすることによって有機農業の生産者にお金を渡し、その行動を支援するということです。つまり、投げ銭とかクラファンと同じようなことです。そして、上記のように、有機農産物であっても、それだけで支援にあたいするかどうかは証明できません。たとえば奴隷的労働によって生産されていても、基準が満たされていれば有機認証を受けられます。その土地の自然循環には全くそぐわないような方法で生産していても、基準さえ満たせば有機農産物です。そういった略奪的な農産物に投げ銭するのはナンセンスでしょう。

有機農業は、金持ちの遊びではありません。あるいは、そういうものにしてしまってはならないものです。持続可能な生存のための戦略として、有機農業を考えるべきです。もしも余分なお金を払うのであれば、そこまで考えてカードを切るべきだと思います。

7.  有機農業って宗教でしょ

有機農業は、一歩踏み出すと怪しげな世界です。認証ビジネスに関わっている人はまだマシです。ある意味、お金儲けのために動くのは、現代社会の常ですから、ふつうに理解できます。むしろ、そういうことに関心のない人々のほうに、怪しげな人が多いですね。宗教がかった人にもけっこう出会います。

上の方で世界救世教の自然農法に触れましたが、そもそもそれ以前に大本教で自然農法をやっていたわけです。また、私がかつて田舎にいたときに世話になったある農業者は、統一教会の信者向けの産直ネットワークをやっていました。キリスト教系の新興宗教の人もいましたし、真光の人ともよく話をしました。そういった教団がしっかりある系統の人ばかりではなく、インディペンデントなスピリチュアル系の人も少なくありませんでした。ある意味、私自身がどこかスピ系であるのかもしれません。

EM菌はほとんど宗教のようなものかもしれませんし、古くは福岡正信さんや川口由一さんのように教祖的な自然農法実践者も多くいました(川口さんは実質的には「単なるおもろいおっちゃん」だったそうですが、教祖に祭り上げられてましたね)。山師みたいな人もたくさんいました。有機的な農業は近代経済原理とは対極のところに理念があるので、社会で痛めつけられた人を誘引する力をもっています。「自分がやっていたことがすべて間違っていた!」と目覚めた人が流れ込んでくる素地があるわけです。

そういうカウンターバランス的な存在として、「自然な生き方」があってもいいと私自身思います。けれど、「こっちに来て」も、しょせん私たちは現代社会の枠組みからはのがれられません。どこにいても不条理なことにはぶち当たるし、しんどいこともついてまわります。逃げ出せたと思えるのは錯覚にすぎないことが多いのです。

有機的な発想は、そういう社会全体を変えていくものでなければなりません。化学肥料や農薬がマズいのは、それが自然循環を壊すからだけなく、その過程を通じて社会的な剥奪を行うからです。物質そのもの問題ではなく、それがつくり出す社会構造の問題だと言ってもいいかもしれません。だから最終的には持続可能性の問題になります。人が人を痛めつけ、その上にあぐらをかくような社会は持続可能ではありません。そのツールとしてモノが使われているのだということをしっかりと認識すべきです。

そんなふうに風呂敷を広げると、「やはりこれは宗教か」と感じる人もいることでしょう。宗教の基準をどこにおくのかによるでしょうが、組織宗教という意味ではそれはちがいます。有機農業教団のようなものがあってそれが取り仕切っているような世界ではありません。ひとりひとり言っていることもちがえばやっていることもバラバラです。そういう意味では思想ではあるでしょう。カウンター・カルチャー的な思想です。そして、そちら側から見れば、現代の都市生活者の経済に依存した生き方もまた、一種の宗教に見えるのだということは付け加えておくべきかなと思います。

 

おわりに

まさか自分が有機農業の解説を書くとは思わなかった。私自身は有機農業の人ではない。四半世紀も前に有機農研の集まりには2度ほど行ったことがあるけれど、その程度の関わりだ。どちらかといえば脱サラや田舎暮らし、新規就農者のコミュニティにいた。そういうところには有機農業関係者もすくなくなく、個人的なつながりから、有機農業のことを遠くから見るような感覚だった。もちろん、世話になった多くの人の中にも有機農業の農家はたくさんいて、そういう人びとには個人的な恩義を感じている。それでも、「有機農業運動」には特別に何の義理もないと思っている。

有機農産物が市場にあふれ、教科書にさえ有機農業が記載されるこの時代、私がこういう方面でなにか言葉を発する必要はもうないのだろうと思っていた。持続可能性は小学生でも学び、そこを語らないと大学のAO入試さえ通過できないような時代である。農業にだって農ギャルがいたり、いろんな新しい感覚をもった人があつまるようになっている。昔のことをどうこういうのは錯誤でしかないと感じてきた。

けれど、冒頭で書いたように、実際には有機農業はおおきく誤解されている。誤解されているというよりも、そもそもそれがなんであるかの理解がないままに言葉がつかわれている。毎度同じことをいうようだが、これが現代の教育だ。言葉さえ覚えれば、それについて深く考えることまで求められない。本来、言葉を知ることは出発点であって、そこからようやく学びがスタートする。けれど、現代の多忙な子どもたちは、考える時間を与えられていない。

だから、少なくとも考え始めるヒントとして、自分の知ることを書いておく価値はあるのかなと思った。ちなみに、ここに書かれている「事実」は、ぜんぶ私の中途半端な記憶から引っ張り出したものであって、根拠となるエビデンスはひとつもない。だからもしもこの話をもとになにか考えるのであれば、いちいち根拠を探し出して確認してほしい。ときには私の勘違いや記憶違い、時代遅れな情報もまじっているだろう。そういうものを批判的にきっちり調べることが、きっといい訓練になるのではないかと思う。

というか、だったら自分で調べろよなと、自分にツッコんでみたりする。書いていて、「あ、これって聞きかじりだけどどっかに根拠があるんだろうか」と思ったことが再三あった。本当はそれを調べるべきなんだろう。だが、それをやったら、たぶんこのブログ記事は1冊の本になる。そして、そんな本なんてだれも読まない。農学者が書いた本がベストセラーになったという話は聞いたことがない。私は学者ではないけれど同じことだ。

もしも本を書くなら、もうちょっと面白いテーマで書きたい。いや、きっと書く。いま中断しているけれど、もうスタートしている。その本の宣伝ができるぐらいの時期が来たら、きっと楽しいだろうなといまから思う。まあ、形になるのはずっと先だろうなあ。