なぜ若者に説教してしまうのか - 老害は避けられない運命

17歳の若い子を友人の家に連れて行った。この春まで家庭教師として教えていた生徒である。推薦枠を利用しての大学進学という方向性がほぼ確定したので、これ以上の受験準備も必要なかろうということで指導を終了した生徒だ。私の中では片付いた生徒だった。そのお母さんからメールがあったのが半月ほど前。進路のことで悩み始めたという。大学に行く意味が見出だせない。いや、そりゃそうだよ、と、大学中退者である私は思った。ただ、だからといって放置するわけにもいかない。

思いとどまって進学するように説得してほしいというお母さんの気持ちはわかる。進路相談という名前で面談をして、いろいろ聞いてみた。大学に何があるかわからないのに、流されるようにそこに行くことがいいのかどうかわからない。知りたいことがあれば自分自身で勉強もできる。それよりは、いろんなことを実際に体験してみたい。具体的には海外に行ってみたい、というような内容だった。

この生徒、なかなか優秀な人で、特に数学的な推論の力がずば抜けている。通常のセンター試験対策は3ヶ月もやらなかったが、学校でろくに数学をやっていないのにそのままもう半年も鍛えたらどんな偏差値のところでも勝負になるだろうと思っていた。なぜ学校でろくに数学をやっていないかといえばその学校は進学校でもなんでもない商業系の高校だからで、なぜそんな高校に彼が行っているかといえばそれは中学3年間のうちまる2年を不登校で過ごしたからであり、また、彼が特に受験勉強に興味を示さなかったからでもある。受験勉強に興味がないから勉強が嫌いかといえば、いきなり「不確定性原理について知りたい」みたいなことを言い始める。かまわないけどそのためには高校レベルの物理学はやっとかないとわからないよと答えると、素直に高校物理の講義は受けてくれる(商業高校では物理はやらない)。その上で不確定性原理になると、いまとなっては古典的な部分でさえ高校物理の教科書では不足するから、大学教養程度の教材を用意する。そんなふうにして、西洋哲学史やら経済学やらと、高校と大学の中間ぐらいの勉強をずっとやってきた。特に哲学ぐらいになるとそういう学習にちょうどいいテキストがないので、Google Scholarから文献を探し出して教材にした。そういう体験がたっぷりあるから、「知りたいことは自分で勉強できる」というのは、それなりに根拠のある自信なのだ。文献の批判的な読み方もできる。そして、そういう学び方を身につけた人にとって、むしろ不足するのは身体的な感覚だ。だから、広い世界に旅立ちたいという彼の思いは、それなりに説得力がある。おそらく、冷静に自分自身と取り巻く環境を分析して得た結論なのだろう。頭のいい人にはかなわない。

だが、私はそれでも、「とりあえず大学行っとけや」と思ってしまう。彼はその頭脳で商業高校では遊びながら成績は無双なので(ほとんどチートに近い)、推薦枠は選び放題。そのなかから面接と小論文だけでOKな、地方大学ではあるけれどそこそこに権威のあるいい大学を志望校にした。簿記とか、ふつうの高校生が持っていない資格や検定を大量にとってるので、合格は確実だろう。つまり、とてつもない優待カードを手にしているわけだ。これを使わない手はない。

だが、もしも自分が高校生で同じように進路に迷っていて、家庭教師から「大学に行け」と言われたとしたらどうだろう。そんな月なみなことを言われたら、ひどくがっかりするだろう。だから私は、彼を友人のところに連れていくことにした。何人か候補は考えたが、とりあえず地理的な条件なども考慮して、夫婦で有機農業をやっている古い友だちを選んだ。畑仕事でも手伝いながら、いろいろ経験を語ってもらおう、そうすれば頭のいい若者は、自分で何かのヒントを見つけるだろう、という考えだった。

この友人夫婦、この時代に有機農業を20年以上も続けていることだけでも相当変わっているのだが、そこに至るまでの経歴が相当にハチャメチャだ。詳しいことはあえて避けるが(私もよく知らない)、大学を休学して海外を放浪していたとか、民族衣装を着て都会をうろついていたとか、武勇伝には事欠かない。そういう先達の姿を見れば、あるいは、はっと現実に返って自分がやろうとしていることのバカバカしさに気がつくかもしれない。すくなくとも、海外放浪の実際ぐらいは聞いといて損はないだろう。

 

私は連れて行っただけなので、彼らの間でどんな話があったのかは知らない。最初のしばらくの時間、アイスブレイキングのために一緒にいたのだが、そのときのことだ。まず、嫁さんの方と話したのだけれど、彼女は一通り話を聞いたあと「大学、行ったらええやん。海外行きたいんやったら、大学入ってから休学して行ったらええし」と、実にあたりまえなアドバイスをした。そして旦那の方も、「大学行ったらええんちゃうん?」と、実に常識的な意見。おいおい、自分のことを棚に上げるのは私だけじゃなかったのかと、ちょっと驚いた。

若者に、説教まではいかないにしても、ごくごく当たり障りのないことをさもわかったような顔をして言ってしまう。いつの頃からか、私も友人も、そういう年齢に達してしまっていたようだ。若い頃だったらどうだっただろう。そういう決断をする人に対して、「すごいなあ」とか、「ようやるわ」といいう感想は出ても、「とりあえず大学に入っといたほうがいいのに」みたいな意見は自分の中からは出てこなかっただろうと思う。

そういう凡庸な意見を支えているのは、「せっかくのチャンスを見逃すのはどうかしている」という感覚だ。ちょうどそれは、野球中継を見ながら「なんでいまのタマ、打てへんねん!」とボヤく野球ファンとよく似ている。「ストレート待ってるつもりかもしれへんけど、ど真ん中やないか。あんなん見逃してたら追い込まれるだけや。ストライクは3つまでやねんで。カウント悪くしたら、結局は自分の好きでもないタマを振らないかんやろ。それやったら、狙いダマと少々ちごうても、あんな甘いカーブ、がつんといかんかいな」と、自分自身ではバットを振ったこともないようなおっさんが、ビール片手にテレビ画面を見つめながらひとり力説している、あれだ。

たぶん、おっさんの言うことは正しい。選択肢が豊富にあるうちに、自分に最も有利なものを選ぶのが、勝負に勝つ常道だろう。追い込まれ、選択肢を完全に絶たれた状態でやむなくバットを振るのは苦しいだけだ。もしも推薦枠でAO入試という願ってもないチャンスがあるのならそれを使うべきだ。もちろんそのチャンスを見逃しても、いくらでも人生には選択肢がある。その先に大学に行きたくなったとしても、改めて受験勉強をして正面突破でどこの大学でも入ることができる。彼ほどの頭があれば夢物語でもなんでもない。けれど、その選択は、そのためにムダに1年なり2年なりの受験準備に時間を潰すこと、試験運わるく不合格になるリスクなど、ネガティブなポイントがいくらでもある。選択肢を狭め、その方法しかなくなってそれを選ぶのは、多くの不利を引き受けることになる。だから、もしも塁に出たいのならバッターは積極的にバットを振っていくべきだろうし、大学に入りたいなら推薦枠とAOが活用できる現役生のメリットを捨てるべきではない、と、おっさんはあまりにあたりまえの結論を出す。そしてそれを実行しない若者を、コップを片手に批判する。

まあ、野球の話ならまだわかる。バッターが塁に出たいのはまずまちがいないわけだ。けれど、あの高校三年生の場合はどうだろうか。彼は本当に大学に行きたいのだろうか。そこに迷いが生じている。そのときに、「チャンスを逃すな」と外野から言うことが正しいのだろうか?

もしもバッターが「一塁に行くべきかどうかで悩んでいる」みたいなことを言ったら、「ちょっと顔を洗って出直してこい」と叱りつけるのがいいのだろう。あるいは、ルールブックを持ち出して、まず一塁を踏まなければ二塁に行けず、そこから三塁を経過しなければ本塁には戻れず、本塁を踏まなければ一点が入らないという野球の本質から復習をしてもいい。野球というゲームをはじめた以上、塁に出るのはまず第一の目標だ。そこで悩まれたらどうしようもない。しかし、高校三年生が「大学に行くべきかどうか」と悩んでいるのは、ちょっとちがう。たしかに彼は、人生というゲームをプレーしている。ただ、そのゲームにはルールブックはない。バットを振らずに直接二塁に歩いても、場合によってはOKなのかもしれない。フィンランドの野球はヒットを打ったら三塁に走るのがルールなのだそうだ。ひょっとしたらルールはそうなっているのかもしれない。

人生というゲームは、実は一人ひとりにカスタマイズされている。その全貌は、人生の半ばを過ぎないと見えてこない。場合によっては最後までわからない。だから、若い人には、自分がどういうゲームをやっているのかさえわからない。ルールもわからないままに、とにかくプレイを迫られる。歳を重ねてくると自分の人生がわかってくるし、そのなかで、やるべきことや避けるべきこと、必勝パターンや自滅への道筋も読めてくる。そういう人にとっては、若い人がみすみすチャンスを逃すのが歯がゆくてしかたない。だが、冷静に考えてみよう。その若い人は、自分とはまったくちがうゲームを戦っているかもしれないのだ。どっちかといえばルールが異なっていることがありそうなことなのだ。そんなときに、自分自身の経験からアドバイスすることが果たして正しいのだろうか。

正しかろうと正しくなかろうと、相手への感情移入が大きければ大きいほど、ひとは「こうやったほうがいい」と主張してしまう。特に教育の分野ではそうだ。自分自身が猛勉強していい学校に進み、そのおかげでいまがあると思うようなひとは、やっぱり猛勉強こそが必勝パターンだと思いこむだろう。それを伝えるのが自分の義務だと思うだろう。そして、人生が二度ない以上、たとえ遊んでばかりいてそしていま幸福な人であっても、あるいは「もう少し勉強していたらもっと幸福だったかもしれない」と思うかもしれない。そんなふうに人生を振り返る人は、やっぱり子どもに「勉強しろ」と言うだろう。大学が少しでも役に立った経験があれば、「とりあえず大学、行っとき」と言うだろう。

教育に限らない。自分が生きてきた軌跡は、自分自身の人生においては強力な説得力をもつ。だからどうしても、そこにこだわってしまう。そして、他人の人生、特に若い人の人生がまったく別の原理で動いているかもしれないということには想像が至らない。そうやって、私のような年代の年寄りは、若い人に説教をしてしまう。老害は避けられない。

 

ただ、若い人は思いの外に柔軟でもある。年寄りの言うことを割り引いて聞くこともできるし、反面教師にすることもできる。反発できるだけの気骨もあれば、老骨をいたわるだけの憐れみももちあわせている。そして、迷ったときにはさまざまな情報に触れることが、きっかけをつくってくれるだろう。

とかなんとか書いていたら、こんな匿名日記記事(増田)に行き当たった。

anond.hatelabo.jp

過去の知恵に学ぶことは重要だ。つまりは、老害だの説教だのといわずともかく先達の言うことを情報として取り入れることは有用だ。しかし、それを個別に当てはめようとするとき、すなわち自分自身の人生の戦い方を判断する材料にするとき、そういった情報は決して鵜呑みにしてはならない。頭を使って考えなければならない。なぜなら、人生のルールはまだ目の前に明かされておらず、そして、ルールのわからない戦いを切り抜けるには、よほど慎重でなければならないからだ。

 

やれやれ、また説教をしてしまったよ。