チラシ配りの思い出

長い人生で戸別のチラシ配り、つまりはポスティングをやったことが何度かある。ポスティングの求人のチラシがたまにポスティングされているが(ややこしい)、そういう専門の事業としてではない。事業なら数種類をまとめて投函するので1枚あたりのコストが下がるのだが、そうではないため、かなり効率が悪かった。

直近でそれをやったのは、十年ほど前、どういう行きがかりか家庭教師で食っていくことになったときだった。細かいことはほかで書いたことがあるので省略するのだけれど、ある家庭教師の会社から委託契約で生徒をもらうことになったが、なにせ時給が安い。自前で生徒をとればずっと実入りがよくなる。さらにいえば、会社からもらう生徒は遠方のことが多い。片道1時間かかるとかはザラだ。何年かやるうちにそういうのはうまいこと断る方法も身につけたにせよ、片道30分以内の生徒で揃えても移動時間はボディブローのように効いてくる。けれど、自分で生徒を見つけるのであれば、最初から近場だけをターゲットにできる。ぜんぶ近所の自前の生徒で揃えることができれば、夕方から夜にかけてちょっと教えるだけでヘタに勤めに出るよりもよっぽどいい収入が得られる皮算用となる。現実にはそうはいかない。自前で10人の生徒が集められるかといえば、ほとんどの場合それは無理だ。なので、会社からの生徒と併用になる。それでも自前の生徒が多ければ多いほど、自分がラクになる。

どうやって生徒を集めるか。21世紀に入って以降、仕事はネットからとるものという感覚が自分の中で定着していた。だからまずはWebサイトをつくった。当時はまだSEOというものが有効だったので、しっかりとそういう対策もやった。すぐに、地域名と「家庭教師」の検索ワードでトップに表示されるようになった。そんなマイナーな検索語の組み合わせでどうするよと思わないでもないが、こちらとしては地域を絞って集客したいのだから、あんまり手広くSEOをかける意味はないわけだ。

だが、それだけで生徒が集まるだろうか。ここはベタなことをしたほうがいいのかもしれない。昔ながらの方法といえば張り紙とチラシ撒きだ。張り紙は現代ではほぼ絶滅したし、近所の子どもたちの帰宅途上でチラシを撒くのは息子の評判を落としかねないからさすがに踏み出せない。となるとチラシのポスティングだろう。幸い、私の住んでいる地域は郊外の住宅地で、子どものいる一戸建ての家が密集している。潜在的な顧客には事欠かない。20年も前に開発された地区はさすがに子どもたちも減っているが、5年前とかに開発された地区はちょうど子育ての真っ最中だ。500戸とか700戸とかあるようなそういう地区に順番にチラシを撒いていけばいい。

私はもともと編集屋だから、PhotoshopIllustratorも使える。ないのはデザイナーのセンスだけだ。実際には高額なAdobeのソフトもないから、このあたりはオープンソースGimpInkscapeで間に合わせるとして、どうしても不足するデザインセンスに辟易しながらも、とにかくカラーのチラシのPDFをつくりあげた。ここまでやっておけば、現代はPDF入稿で安く印刷してくれる業者がいくらでもある。なんとも便利な世の中になったものだ。数千枚単位で刷っても、単価5円ぐらいで両面カラーが印刷できたんじゃないかと思う*1

印刷業者のサイトには、ポスティングの単価も書いてあった。なるほど、そこがつながってるわけか。地域を指定して依頼できるし、単価もそこまで高くなかったから、そこに頼むのが賢い人のすることなのだろう。けれど、私はとにかく金がなかった。出費をすこしでも抑えたいし、無差別に撒くよりはすこしでもチラシを有効に使いたかった。外見からどう見ても高齢夫妻しか住んでないような家には入れたくなかったし、そういう判断はポスティングサービスを利用したのではできない。なので、自分でポスティングすることにした。

デザイナーに見せたら眉をひそめられるようなみっともないチラシだったけれど、一応、2つ折りにして表に訴求したい文が出るように工夫はしていた。折りも注文すればできたと思うけど、それも自分で手作業でやった。そのあたりは若い頃にさんざんやったことだから、もう手が覚えてる。それをカバンにいっぱい詰め、日中に配りにまわった。なにせ夕方からは生徒が入っているわけだし、朝は家事が忙しいから、いきおい暑い日中になる。5月だったと思うが、2時間ぐらい走り回るとすっかりくたびれた。そういうのを週に2回、3回と繰り返して、重点地区を攻めた。

このチラシ配り、馬鹿にしたものでもなく、配りはじめてすぐに2件の問い合わせがあり、いずれも契約に至った。「チョロいやん」と思ったのだが、ビギナーズラックは続かず、すぐに問い合わせは止まった。最初のロットを配りきろうかという頃になって、「やっぱりデザインがまずいよなあ」と思うようになった。

チラシを配っていると、同業者に出会う。「同業者」というのは実際に配っている現場で出会うポスティング業者という意味でもあるけれど、生徒を募集している家庭教師という意味でもある。家庭教師募集のチラシを配っている現場に遭遇したことはないけれど、ポスティングされたばかりの家庭教師募集チラシは何度か見た。ずさんな突っ込み方をしてあってポストからこぼれ落ちているものは参考のためにもらっていくことにした。あるいは、私の家にもそういうチラシが投げ込まれていることが何度かあった。そういう同業者のチラシを研究して、ひょっとしたら私は間違えていたのかもしれないという気がしてきた。光沢紙にカラー印刷という業者っぽいチラシよりも、こういう手書きでコピーしましたみたいな手作り感あふれるチラシのほうが訴求力があるんじゃなかろうか。アピールの方向が間違っていたんじゃないかという気もしてきた。

そこで、カラーチラシの増刷は1回だけやってやめた。その代わり、プリンタで印刷したいかにも安っぽいチラシに切り替えた。ちなみに印刷品質にはこだわらないから100均でリフィル用のインクを買ってきて印刷したので、印刷単価は1枚1円以下の計算だ。これをやっぱり数千枚はポスティングした。

最終的にその方向転換が正しかったのかどうかはわからない。というのも、最初の2件以後、カラー印刷のチラシもプリンタ印刷のチラシも、ただのひとつも問い合わせを生まなかったからだ。全部合わせたら1万枚ぐらいは配ったと思うけれど、ごく最初に千枚配る前にヒットした2件だけが成果という、ちょっと情けない話になってしまった。そうこうするうちにWeb経由の問い合わせがそこそこにあって、10人は無理だったけれど、常時4、5人くらいは自前の生徒がいる時期がすこし続いた。やがて家庭の事情で方針を変更し、自前の生徒はあえて増やさないようにした。自然減に任せても今度はなかなかゼロにはならないのだけれど、それはそれ。いまは会社からのオンラインの生徒主体でやっている。

ということで、チラシのポスティングをやったのは最初の年の初夏と、あとは暇な時期になると思い立って撒きに回るぐらいの運用を2年ぐらい続けただろうか。戸建てばかりの地域で、家を選んでポスティングしていたので、あまり嫌な思いをしたこともない。留守の家は放り込むだけだけど、庭に人が出ていたりしたら、必ず一声かけるようにしていた。「要らないよ」と言われるばかりかといえば、「入れといて」と言われることもけっこう多かった。なかには「家庭教師ですか。うちの孫がそういう年なんだよなあ」みたいな話をする人もいた。もっともそれで契約になったとかいうことはないので、どうということもないのだけれど。

 

ポスティングはスポーツかゲームだと思って、「あそこの通りをこういう具合にまわって何分で抜けられるか」みたいな感じで進めていた。たまに郵便受けの場所がわからなかったり構造が複雑だったりして手間取ると、「やられた」みたいな感覚だった。靴底は減ったけれど、すこしは健康になったかもしれない。経済的にはほとんどプラスにならなかったから、まあ、失敗だったんだろうな。儲からないことばっかりやってる人生だわ。それを楽しむぐらいになってきてるから、ほんと、始末がわるい。

*1:当時の帳簿をみればわかるのだけれど、めんどくさいから正確な値ではない