障害を個性と言い切れる時代まで、まだまだ遠い

障害者について何かを書けるほど、私は障害者のことを知らない。もちろん身近にも障害者はいて、たとえば老齢の父親は近頃、障害者手帳を交付された。役所に行って手続きをしたのは私だから、これはまちがいない。ただ、だからといって障害者のことが以前よりもわかるようになったかといえば、やっぱりわからない。父親は父親だし、他の障害者はまったく別な困難を抱えているのだろう。百人百様、単純に括ってしまえないのが人間であり、障害者は特にそうなのではなかろうか。個性的という言葉の文字通りの意味に立ち返れば、まさに個性的なのが障害者だともいえるのだろう。

ただ、そんななかで、「障害者として生きることは生易しいことじゃないんだろうなあ」と想像させてくれる経験は、少しだけある。家庭教師としての私の生徒の中にひとり、生まれついての身体障害を抱えた中学生がいるからだ。職業上知り得た事柄には守秘義務もあるしプライバシーも大切だからかなりフェイクを混ぜて書いていくつもりなのだけれど、彼女からは多くを学ばせてもらっている。その一端をここにシェアしておきたい。

 

彼女は、身体が思うように動かない。完全に動かないわけではなくある程度の動作はできるのだが、可動域に制限があるのと細かい動作のコントロールが効かないのとで、車椅子生活を余儀なくされている。手指の動作がうまくいかないので通常の筆記はできないし、発声もぎこちなくなる。しかし、そういった不自由さを除けば、どこにでもいるふつうの中学生だ。実際、コンピュータのキーボード操作を教えて作文を書かせてみると、ごくふつうに文章を書く。できあがった作文だけ読んだのでは、彼女が障害者であることに誰も気づかないだろう。国語、数学、理科、社会、英語と、どれを教えても特別に大きな困難はない。家庭教師として教えにくい生徒ではない。

だが、彼女に対して完全に他の生徒と同様に家庭教師の仕事ができるかというと、そういうわけにはいかない。決して同じではあり得ない困難を抱えているからだ。

たとえば、私は通常、どの生徒に対しても、大雑把なゴールを決める。これは将来の目標でもいいし、興味の対象でもいい。方向性と見通しを決めておくことが、多くの場合、よい結果につながるのだ。そのために指導の開始時に実施する問答も、ほぼ定型的なものができている。貿易の仕事とか弁護士、美容師、トリマー、教師などなど、生徒に夢を語らせたりもする。

ところが彼女の場合、将来の夢は「歩けるようになりたい」なのだ。そういった夢に対して、家庭教師ができることは何もない。医療関係者であれば何かができるのかもしれないが、家庭教師はお呼びではない。彼女の夢を叶えるために、私は何の力にもなれない。そういう状況は初めてだ。職業に夢があるのならばそれに相応した学校に進学できるように助けることができるし、学歴がほとんど不要の夢(たとえば「パティシエ」というようなのもあった)の場合でも、「一流になったら英語は絶対役に立つよ」とゴールを設定することもできる。「幸せな結婚がしたい」というような夢であったとしても、そのために学問が果たせる役割を見つけることはできる。特別に夢がない生徒には、夢がないことを前提にそれに対応したゴール設定ができる。ところが、彼女には夢がある。そしてその夢である「歩ける」を実現するためには、何を勉強したかはまったく関係がない。どうやってもこじつけられない。これには困った。

そんなふうに、生徒としては出発点からふつうにはいかない。それでも、教科に対する理解力はふつうだ。ぎこちない発音を聞き取れるようになったら、コミュニケーションをとるのも困難ではない。なにより助かるのは、そのポジティブな性格だ。少々のことではめげないし、失敗があってもすぐに立ち直る。これは、そうでなければ障害とともに生きてこれなかったという経歴が影響しているのかもしれないが、他の生徒の見本にしたいほど前向きだ。だから、身体の困難は相当に大きいはずなのだけれど、外見的にはその困難を困難と感じさせない。なるほど、ひとは強いものだなあと、感動さえ覚える。

その楽天的な明るさに感銘を受けるのは私だけではないのだろう。しばらく前、彼女が治療のために訪れたある病院で、医療関係者(なのかカウンセラーなのか支援団体なのか、私にはよくわからなかったのだけれど)から、「あなたは障害者のリーダーとしてこれから世の中を良くしていく仕事ができるはずだ」と、激励の言葉を受けたそうだ。

けれど、ここで私は障害者の抱えるもう一つの困難を目の当たりにした気がした。いや、障害を抱えて生きるって、物理的にもしんどいのに、それだけじゃないんだなあと、ちょっと呆然とした。

どういうことかというと、たしかに彼女は障害にもかかわらずふつうに学業をこなす能力がある。けれど、言葉をかえればそれはあくまで「ふつう」レベルでしかない。特別に優れているわけではないのだ。もしも彼女が身体障害をもっていなかったとしたら、おそらく彼女は定期テストで平均点前後をウロウロするような生徒だろう。そういう生徒に対して、家庭教師である私は適切なゴールを設定することである程度の点数を伸ばしていくことはできるのだけれど、無理なレベルにゴールを設定することはしないし、実際、そうしてもゴールには到達できない。人には向き、不向きがあるのだ。論理的な思考を積み上げる学問に向いているひとは、そういう方向に進めばいい。それよりも感性が美しい人は、それを伸ばす方向に進むべきだ。そして障害者の彼女は、どちらかといえば感性のひとだ。日常に美しさを紡いでいくようなタイプのひとだ。理性でもって全体を見渡し、人を導いていくリーダーにはまったく向いていないひとだ。

だが、彼女は障害者であるという理由で、そして、その障害が身体だけにとどまっているからという理由だけで、勝手に「リーダー」として成長することを期待されている。そして、彼女の幸福を考えたときに、ふつうの中学生が夢見るようなネイリストとか客室乗務員とかスポーツ選手とかの未来が困難である以上、実は頑張って勉強してもらってそういう「障害者だからできる障害者のリーダー」みたいな方面に進んでもらったほうが、実現性が高かったりするのは否めない。彼女の本当の適性とか志望とか、そういうこととは無関係に、彼女が置かれた位置によって、彼女の人生にいろいろな期待や重荷がかぶさっていく。ただでさえしんどいのに、さらに高みを目指さねばならなくなる。

 

そういうことは、障害者に限らないのかもしれない。人間は、ひとりひとり、その社会的な位置によってあらぬことを期待される。それも個性なのかもしれない。けれど、障害者に負わされたものは、ことさらに強烈であるような気がする。物理的な制限が、その社会的なあり方にも制限を加えてしまう。障害者として生きることは、何重にもしんどいように見える。

そういうしんどさを軽くして、できないことよりもできることにフォーカスして、そしてそれが個性だねと笑える時代が来れば、どんなに楽なことだろうと思う。少なくとも、家庭教師商売にとっては、そのほうがラクなんだ。が、まだまだそこには遠い。それでも未来を信じることはできる。私もあの楽天的な彼女の笑顔に少しは見習おうと思う。