提言を価値あるものにするために

「子どもの貧困とライフチャンス」の第10章〜12章は、ここまでのまとめということになっている。10章は各章で述べられてきた事実、すなわち所得、家族の構造、幼児教育、学校教育、健康、健康、メンタル、住居、就労の問題を有機的にまとめ上げている。11章は測定指標の提案だ。「ライフチャンスを改善するというのなら、それはどうやって測定可能になるのですか?」ということをあきらかにする。12章は、むすびとして「子どもたちの未来のためにライフチャンスが必要だというのなら、じゃあどうやったらそれがめざす結果をあげられるのですか?」という疑問にこたえようとするものだ。結局は、それがこの本全体をとおしたテーマでもある。

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私のようなシロウトはとばして読むのだけれど、実は本書のなかでもっとも実用価値がたかいのは第11章なのだろう。実際、監訳者もここには力をこめていた。4ページにわたるリストは私の担当外だったので、私はラクをさせてもらったし、思い入れもない。けれど、いわれてみればたしかにたいせつなところだ。なぜか。

およそ、政策の効果は指標によって測定され、評価されなければならない。このことは日本ではしばしば無視される。おもいつきのような政策がいったい効果をあげたのかどうか、いつまでたっても決着がつかない。あるいはあきらかに決着がついているはずなのにアクロバティックな擁護者が出てきて議論をまぜかえしたりする。「この政策はこの指標を改善する」という因果関係をあきらかにせずに政策が実施されるのだから、当然といえば当然だ。評価をしようにも、なにを評価していいかわからない。もしも最初から政策の効果を判定する指標があきらかにされていれば、効果の有無ははっきりと検証できる。

ただし、そのためには、指標が正しく現実を反映していることが重要だ。たとえば、一般に株価は経済の状況をあらわす指標とされている。だからこそ、おおくのことがあいまいに、なあなあにされる日本においてさえ、経済政策は株価で評価される。株価があがればそれは正しい政策であり、下がれば政府がわるいということにされる。けれど、この株価という指標は、現在でもほんとうに有効なのだろうか。経済とはなにかといえば、結局はそれは商品の生産や流通をつうじて人びとの幸福が増大することである。ところがいまは、株価がたかいことが経済がいいことであると、指標をつうじて逆向きに定義されるものになっている。そのとき、株価という指標をあげることが、ほんとうに本来の意味での経済の状況を反映しているといえるのだろうか。むしろ、格差の状況をしめすジニ係数や時給の平均値にたいする最低賃金の比率のような指標のほうが人びとの物質的な幸福の総計としての経済をよくあらわしているのではないだろうか。株価は、単純に投資家の金儲けの指標にすぎなくなっているのではないだろうか。また、経済指標としてよくひかれる住宅着工数のようなものは、「豊かになれば人は家を建てるものだ」というかつて有効だった観測をもとにしている。けれど、そういった人間の行動は、現代でも有効なのだろうか。指標が正しく現実を反映しているかどうかは、つねに検証され、訂正されていかねばならない。

そして、指標を設定したとしても、本質を見失ってはならない。たとえば、経済指標として失業率は重要なものとされているが、本書で見たように、人びとの適性や将来性とは無関係にむりやり就業させたり職業訓練にあてはめたりすることで、見かけ上の失業率は下がる。見かけの数字だけを変化させても本質は変化しない。これは、私が再三にわたって文句をつけている「勉強」とおなじことだ。学力テストの点数は、もともと学力を測定する指標として設定された。ところが、点数をあげるには、学力をあげること以上に対策をとることのほうが効果がある。たとえば高校の三角比の基礎である正弦と余弦がどういう概念なのかは円周角にたちもどってかんがえればしっかりした理解ができるのだけれど、それよりも「サインは筆記体のs、コサインはc、タンジェントはtでおぼえたらいいよ」というチートのほうがテストの点数を効率的にとれるようになる。なぜ「この方程式の判別式をDとおくと」と前置きしなければ証明にならないのかは論理的にかんがえる訓練をつめばおのずとあきらかになることだけれど、その修行をするよりは「判別式Dはことわりなしでつかっちゃいけないきまりだから、まずは呪文をとなえましょう」式な暗記をしたほうがよっぽど手っとりばやい。そうやってチートをかさねることが勉強であると本質がおきかわり、最終的には「テストの点数で高得点をとることこそが勉強の目的である」みたいな逆転したかんがえかたがしみわたる。点数は指標にすぎなくて、その指標が正当かどうかはつねに批判の対象にならねばならないということがわすれさられる。

だからこそ、指標を設定することが重要であるのはもちろんとして、それともに、その指標が正しく現実を反映しているかどうかを批判すること、指標はあくまで目安であって、指標そのものを目的にしてはならないことをわすれてはならない。すべて公共的な行為は検証可能でなければならないし、検証可能性を確保するには指標が必要になる。けれど、的外れの指標は意味をなさない。また、指標を操作することは、仮にその数字が正しく導き出されたとしても、その過程を意図的に誤ったのではやはりチートでしかなくなる。

実際、本書にも「測定尺度が利用価値をもつためには、有効性と信頼性が必要だ。有効な尺度とは、根本にある概念を適切に表しているものだ」と記されている。有効な尺度の例として健康にたいする出産時の体重をあげているわけだけれど、それは、「子ども時代、さらには成長後のあらゆる…リスクに低体重が関連している多くの実証的な根拠があるからだ」。さらに、「信頼性のある尺度とは、測定しようとしているものを測定しているものだ」とある。なんのこっちゃとおもうのだけれど、たとえば上記の低体重の話だと、日本人はもともと小柄なので、同じ基準で低体重を測定しても尺度としては信頼性が下がる、というような例があげてある。医療の進歩によって低体重児でも生存確率があがったことも同様だ。だから、信頼性を確保するには、つねにその指標のおかれた状況を確認する必要があるのだろう。

そして、「ライフチャンスの指標」としては、「測定値が定期的に得られていること」「子どもたちのニーズ全体がカバーされていること」などの追加の条件が設定されている。そういったきびしい目でえらばれた指標群だからおそらくこの章にあげられた指標はほんとうにやくにたつのだろう。

しめくくりの12章では、これまでかかれてきたことがくりかえされているところもあるが、あらためて指摘された事実もある。たとえば、「低賃金は構造的な問題であり、単純に最低賃金を引き上げるだけでは解決できるものではない。直近の経済危機の期間をつうじて失業率は増加しなかったが、その一方で賃金は低下を続けた。2007年から2015年にかけてイギリスの実質賃金は10パーセント近くも下がった。OECD諸国の中ではほとんど最大の低下である」という記述をみると、「あれ? それってこの国の話じゃなかったの?」とおもってしまう。リーマンショックのとき、雇用でおこった変化は失業ではなく非正規雇用の増加だった。雇用の質が低下し、それにともなって実質的な可処分所得は減少をつづけている。「さらに、不安定な雇用という見逃せない問題がある」として、失業者が短期間で再就職できる状況ではあっても、そのなかで正規雇用に相当する「期限を定めない雇用契約」を手にできるのは「半分にも満たない」という。つまり、せっかく職を手にして貧困から脱出しても、また貧困に逆もどりする頻度がたかい。そして、「低賃金の仕事についている人びとのうち、10年たって高賃金の安定した仕事に移行できた人はたったの25パーセントに過ぎない」。つまり、格差がしだいに固定化されつつある。「大多数は低賃金と高賃金のあいだを行ったり来たりしており、さらに相当数は低賃金と無給のあいだを行ったり来たりするサイクルから抜け出せない」。いったん非正規雇用におちいるとそこからぬけだすのが困難な日本の状況とオーバーラップしないだろうか。

それでもイギリスがうらやましいなとおもうのは、それがおかしいという批判が、きちんと政治の場にまでとどくことだろう。日本でも個別には批判はおこる。学者はきちんとデータをつみあげているのだろう。けれど、ニュースになるのは建設的ではないグチや、あるいは糾弾調、告発調のおおげさなものばかりだ。政治の場での批判は議論としてなりたたず、単純に政争の一部にしかみえなくなっている。議会は議論の場ではなく多数派工作の場にしかなっていない。本書をうみだした「子どもの貧困アクショングループ」は、一流の学者が核になって、政策の場に提言をおこなっている。そういう提言が空回りせずにきちんと政治の場での議論の土台になる。それは、たとえ敵対する勢力の論であっても、論理がとおったものは検討にあたいするという姿勢が政治家にもあるからだろう。他者の話に耳をかたむけ、ちがうとおもうのならその根拠をあきらかにして論争をいどむ。それが正しい議論のありかたなのに、この国では些細な瑕疵をみつけて論破したり、見当ちがいなこたえかたをしてすれちがい状態をつくったり、はなからとりあわなかったり、およそ議論らしい議論をしないためならどんな手段をとってもかまわないという風潮がある。議論ではなく、中傷や声のおおきさ、数の力でもっておしきるのが政治だという常識ができてしまってながい。これでは、なにもかわらない。

そうなると、気のながい話だけれど、やっぱり教育に期待するしかないんだろう。正しい議論のしかたは、そんなにむずかしいことではない。ちゃんとひとの話をきき、それを論理的に整理し、論理にもとづいてそれに反論していくことをくりかえすだけだ。それは学習指導要領でもやることになっている。それが正しく学校教育にとりいれられていれば、やがて世の中はかわる。

そして、また絶望がやってくる。学校教育は正しくおこなわれているだろうか。いくら学習指導要領にいいことがかいてあっても、それが曲解され、序列化の道具としてもちいられるかぎり、その効果はみこめない。そして、出口に入試がまちかまえているいまの基礎教育システムは、本質よりも表面的な得点力にばかり注力している。

だが、グチはこのぐらいにしておこう。それが建設的でないのは、すでにかいたとおりだ。グチではなく、事実をつみあげていくことからしか出発できない。そういう意味で、この本をつくりあげた学者たちのような人びとに、私は期待している。淡くはあるけれど、期待している。

 

(次回につづく)