アンラッキーと貧困と

「子どもの貧困とライフチャンス」の各章の紹介、というよりも読書感想文をここまで書きつづってきた。監訳者のあとがきをのぞけば、これですべてである。あとがきについては、ふれる必要はないだろう。あとがきだ。このシリーズは、これでおわりにしよう。今回は、自分なりのまとめ、というか雑感だ。

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今回よみかえしてみて、最初におもったのは、「翻訳、ヘタクソだなあ」。言い訳はあって、まず特急でたのまれたということ。さらに監訳者がつくということだから、そこに気をつかった。具体的にいうなら、自分の翻訳なら文章の構造をくみかえて論旨を整理したり、伝聞の形式を整理してまだるっこしさをなくしたり、いろいろとくふうをする。そんな箇所も、できるだけ原文の構造はかえないように訳出した。監訳者が原文とつきあわせるときにまよってしまうからだ。そのせいで、日本語の感覚だとなかなか論旨がはっきりせずにいらいらするような文もできてしまった。監訳者が適当になおしてくれるかなとおもったのだけれど、文章のよみやすさは学者の関心外なので、結局そのままになった。指示語のつかいかたとかも生硬で、どうもいただけなかったりする。ところどころ唐突にはいる「ターム」は、学者の仁義なのだろうけど、「それだとわかんないよなあ」とおもわざるをえない。彼らの世界ではそれで通用するんだろうから、やっぱりそこは現実とズレがあるんだろう。

とはいえ言い訳は言い訳で、やっぱりまだまだ修行がたりないのだろう。足もとにはDeepLをはじめとする自動翻訳がおいあげてきている。人間の翻訳者としてはさらに高品質なものをつくってはじめて仕事になる。誤訳まではいかなくとも「これは誤読されるよね」とか、「もうちょっとしっかり原文の意図をよみこんでから訳すべきだったよね」的な文も今回みつけてしまったし、誤植(同音異義語の誤変換)もさっそくひとつみつけてしまった(といってるあいだに、監訳者がまたひとつみつけた)。ああ、はずかしい。本づくりはかたちがのこるから、あとあじがわるい。人間、失敗はふせげないのだし、その失敗のあとがいつまでものこる。だが、それにくじけていたのでは翻訳も編集も業としてできない。後悔しながらもまえにすすむしかない。

内容にかんしては、「勉強になった」につきる。知らないこともおおかったし、イメージで「こんなかんじなんだろう」とおもっていたことがだいぶズレていたこともわかった。イギリスの若いひとがずいぶんとくるしいところにおいつめられているのが、おどろきでもあり、納得でもあった。イメージとしては、イギリスをEU離脱においやった反移民感情は中高年のものであり衰退する地方のものであって、一方の若者やロンドンのような大都市は国際化によって繁栄を謳歌しているとおもっていた。だからこその分断だろうとかってにおもいこんでいた。だが、本書によれば、大都市にひきよせられる若者のくらしもけっしてラクではない。彼らは一山あてるブリティッシュ・ドリームをおいもとめてあつまるのではなく、単純にそこにしか仕事がないからやってくる。けれど、その仕事は不完全で不安定だ。成功を手にするのはごく一部であり、大多数は貧困線をこえてあがったりさがったりをくりかえす。くるしいのは地方在住者とかわらない。

国民投票で都市部がEU離脱に反対したのは、単純に、大都市の仕事がEUとの関係性におおきく依存しているからにすぎないのではないか。反移民なんていってられないぐらいに、EUとの関係を切ることでうしなうものがおおきい。それだけのちがいであり、くるしいのは若者も中高年層もかわらない。だから本当の問題はEUにとどまるかはなれるかではなく、もっと根深い社会構造の問題だったわけだ。それをEU離脱という一見わかりやすいかたちでまとめあげた政治のうごきが、本来分断されているところをおおいかくし、ありもしない分断をつくり出したのではないか。

そして、世界のうごきは想像以上に一体化している。現代が通信と交通の発達によってちいさくなったこと、つまりはグローバル化の時代だからだ。ただ、中高生に歴史をおしえていて、程度の差こそあれ、これは現代だけのことではないとかんじている。たがいにその存在を意識するようなこともなかった古い時代においてさえ、世界の人びとはおもいがけず同期しながらおなじ時代を生きていた。世界は均質ではないが、やはり全体としてひとつの有機的な存在だ。地球がひとつなのだから、これは無理のないことだ。寒冷化や温暖化のような気候変動には世界が同時に影響をうけるし、巨大火山の爆発の影響はやはり広範囲におよぶ。疫病の流行は現代とはちがって地域的なものにとどまったにせよ、もしも大流行のせいでひとつの地方の社会構造が大きな変化を受ければ、その隣接する社会が影響を受けないわけはない。人間の社会はそのごく初期から相互依存的であり、ひとつの社会集団が単独で長期に存続できるものではない。古代文明の象徴ともされる農耕も、周辺の牧畜民との相互関係のなかでしか語られないようになっている。グローバル化の時代は、歴史にたいする見方もかえた。

そういう視点から本書をみると、ユーラシア大陸のこちらのはしとむこうのはしで、おなじようにまずしさがひとをくるしめていることがわかる。古めかしいかんがえかたや慣習が既得権益をがっちりかためてしまっているのは、いずこもおなじだ。だが、既得権益者がぬくぬくと安住しているかというとそうでもない。彼らとて一歩あやまれば貧困へとおちこむだろう。だれかが安楽をむさぼっているからダメなのだという感覚は、どうもちがう。すくなくとも大多数にはあてはまらない(まあ、ごく少数の「富裕層」はさておくとして)。

となると、分断をあおるのはちがうのだろうとみえてくる。だれもがくらしをおびやかされる可能性がある世の中に生きているのであれば、なすべきことは、それが恐怖にかわらないようにすることだろう。およそ、恐怖こそが人間をもっともむしばむ。くらしがなりたたないことにたいする恐怖は、幸福感をうばう。であるならば、「どんなことがあっても、あなたのくらしはだいじょうぶ」と安心をあたえることが、もっとも重要だ。つまり、社会保障政策ということになる。

社会保障はたかくつくということで批判される。しかし、不幸におちいったひとをすくうことと、ひとが不幸にならないようにすることと、最終的にたかくつくのはどちらだろう。本書のテーマはどうやらそこにある。「ライフチャンス政策」は、貧困におちいったひとが貧困の再生産のサイクルから脱出できるようにすることを眼目としている。しかし、それはほんとうに可能なのだろうか。「チャンス」をあたえようとしても、いったん貧困におちいったひとは、それをつかめない。そこを無理にもつかめるようにしようとすればどんどんコストがかさむ。それよりは、そもそも貧困におちいらないようにすること、つまり、仕事や健康、家庭の事情などでくらしがおびやかされたひとに直接やくだつ支援をすることのほうが安あがりなのではないか。それこそが本質的な意味での「ライフチャンス」の改善につながるのではないか、と主張するものだと、私は読んだ。

全体でみたら不幸をつくっておいてそこからすくいだすよりも不幸をつくらないほうが安あがりだとみえるのに、それでも社会保障が否定的にみられるのは、「それってズルじゃない」という感覚ではないかとおもう。「自分はこれほど苦労して財産を手にいれたのに、なにもしないひとがそれをもらうのはゆるせない」という感覚だ。それはたしかにそうだろう。苦労してなにかをうみだしたひとが、それにみあった成果をうけとるのは当然だと私もおもう。ただ、現代の社会で財を成したひとのうち、ほんとうに自らの手でそれをうみだしたといえるひとがどれほどいるだろうか。もちろんたくさんいるのは知っている。けれど、それ以上に、自らの手でなにかをうみだしながら、貧困におちいるひとがおおいのはまぎれもない事実だ。そんなときに、ゆたかになったのは苦労したことの成果だといいきれるのだろうか。世の中にはいっしょうけんめいはたらくひともいれば、そこそこにがんばるひと、あまりがんばれないひと、まるではたらけないひともいる。また、ゆたかなひと、まずしいひともいる。この2系統の尺度が強い相関にあれば、「苦労したからこそ、ゆたかになったのだ」といえるだろう。けれど、相関が弱ければ、「苦労したかもしれないけれど、あなたがゆたかなのは運がよかったからじゃないの」と、当人にとってははなはだ不愉快な指摘をされることになる。ただこれは「がんばったけど運がわるくてまずしい」というよくある状態の裏返しでしかない。そして、世の中にまるで苦労もなく、ただ運がよかっただけでゆたかなひとがふえればふえるほど、富は生産の結果ではなく、単に運のよしあしによって偏在するようになっているのではないかといううたがいがつよくなる。

「たしかに私は苦労してないかもしれないが、そのぶん、親が苦労したんだ。苦労して親がのこしてくれたものでとやかくいわれたくない」というひともおおいだろう。気持ちはわかる。けれど、苦労したのは親であって、そのひとではない。苦労したひとがむくわれるのは正しいかもしれないが、たまたまその子どもにうまれたのは「運がよかった」部類にはいるだろう。

人間が生存していくためには、その生存をささえる労働が必要だ。それは否定できない。ただし、人間は社会的生物だ。自分ひとりの生存をささえるだけの労働をきっちりとやり切ることはできない。かならず余分な労働をして、それを他者と交換することでささえあう。あるいは自分の労働で不足するぶんをおぎなってもらう。太古のむかしから、それはなにもかわっていない。そのときに、どうしても運のよしあしが発生する。運のいいひとのもとには富があつまり、運のわるいひとからはにげていく。これはおそらくさけられないのだろう。ただ、それによって運のわるいひとが生存をおびやかされるようなことがあれば、それは社会の存続にかかわってくる。運のいいひとだって社会が崩壊すれば生きていけない。だからこそ、運のいいひとは、自らの富がたまたま幸運によってそこにあつまったものだということをかえりみるべきなのだ。そうすれば、「自分は苦労したのに不公平だ」みたいな感覚はなくなるのではないか。たしかに苦労もしたかもしれないが、そこに運のよさはなかっただろうか。たいていはある。だったら、その運のよさは、運のわるかったひとの不足する部分をうめあわせるのにつかってもかまわないのではないだろうか。それが社会保障というものではないのだろうか。

おそらくこういう感慨は、学者からみれば生ぬるいのだろう。また、生産の現場で苦労している当事者からみれば、べつの意味でお花畑にみえるだろう。けれど、不公平感というものが事実に即しているかどうかを冷静にみれば、実はみかけほどの不公平は世の中にはないのだということがわかってくる。それは給食のおかずの盛りかたみたいなささいなことでもそうだし、ひともうらやむセレブな生活と庶民のくらしのあいだでもそうだ。どこにいても人間ひとりがうけとることのできる快楽の量には限度があるし、安楽は一定をすぎれば安楽でなくなる。けれど、生命の危機にかんしては、そんなのんきなことはいってられない。プラス方向には大差のない不公平が、ある敷居をこえて下がわにいくと、生存そのものにかかわってくる。生命の危機といえばおおげさかもしれないが、それを微分すれば健康の危機、精神の不安定、栄養の不足、労働の過剰、家族生活のきしみ、明日への不安などになる。つまりは貧困だ。だからこそ、貧困は「あいつがズルい」みたいな不公平感とは別次元のものとしてあつかわなければならない。

古い歌ではないが、運がいいとかわるいとか、ひとはときどき口にする。そういうことってたしかにあると、あなたをみててそうおもうわけだ。ひとは、それぞれの能力や適性に応じて、社会のなかでそれぞれにあたえられた役割をはたしている。そしてほとんどの場合、幸運にたすけられる。なぜなら、おおくのひとは自分自身の生存の必要をこえて富を生産するのだし、その余剰分がたまたままわってくるのは必然だからだ。それがたまたま不足するところにまわるから、社会は全体として生存に必要なだけの生産をして持続している。根本はそういうしくみになっている。ところが、運のよさが偏在し、固定化されると、不足するところはいつまでも不足するようになる。その状態がおかしいのだ。だから、これは公平とか不公平の問題ではない。

翻訳をしながら、結局はこの本の主張とはとおいところを夢想していた。もともと社会のうごきにはあまり関心のなかった私だけれど、ながいこと生きてきて、いろんなことを学ぶなかで、結局、みながおなじように人間のしあわせをねがっているのだとおもえるようになってきた。そのときに、どこまでのひろがりでみることができるのかによって、かんがえかたがかわる。私の視野はだいぶひろくなったが、それでもまだ、たとえば動物の権利みたいなところまではひろがらない。まだまだ知らないことがおおいし、みえないところがおおい。

人間のいのちの時間はかぎられている。だから、いろんなことを学び、いろんなことを知っても、結局それは墓場へもっていくだけだ。そうおもうとちょっと残念にもなるが、同時に、だからこそおもしろいのだという気もしている。そうやって朽ち果てていくものがあるから、そのうえにまた、あたらしい芽がふき、花がさく。そういうものだとおもう。ああ、さらにさらに、とおくまで雑念がながれてしまった。

 

(このシリーズの終わり)