民主主義って何かというのが、まず人によってちがうという話

細かい話をするといろいろと面倒なので、大雑把な話。

このあたりを読んで、「ああ、なるほど、そもそも民主主義ってものに対して考え方がまったくちがう人がいるんだなあ。それもけっこうな多数で」と思ったので、そのこと。

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まあ、以前から生徒なんかにもいってることなんだけど、家庭教師としての私の立場から「民主主義ってなんですか」というのをごく大雑把にまとめると、「みんなで知恵を出し合って、みんなが納得する政策を決めていくこと」みたいになる。なぜなら、それが学習指導要領に通底している科学主義だからだ。科学主義そのものには、個人的にはいろいろ怪しいところもある気がしないではないのだけれど、現代の教育課程においては科学主義が採用されているし、究極の話が学校の成績は科学主義的な素養によって決まるのだから、自分の好みとかはさておいても、立場上はそこに立脚しなければどうしようもない。

なぜ科学主義からみた民主主義が上記のようになるのかといえば、それは、科学というものが相互批判を通じて真理に到達する過程であるからだ。この場合の真理というのは神様とかそいった絶対的なものではなく、単純に、人間が理性でもって「それはたしかにそうなるよね」と認めることが可能なものだ。もしもそれに納得しない人がいたら、その場合はさらに相互批判を通じて互いに納得のできる地平を切り開く。だから、科学というのは「真理に至る過程」であっても、真理そのものではない。過程であるから途上で意見の相違も発生するが、それは常に確実な証拠をもとにした議論によって解決されるべきものである。その過程を政治に投影したものが近代民主主義であって、なぜ議会政治が民主主義で重視されるのかといえば、それが議論*1の場であるからだ。こういうふうに見ていけば、なぜ科学主義による民主主義の理解が「みんなで知恵を出し合ってみんなが納得する政策を決めていくこと」であるのかがわかるだろう。

もちろん、政治は科学と折り合いが悪い。それは、同じ学問といっても人文系の学問がいまひとつ「真理」から遠いところでもたもたしていることと無関係ではないだろう。理数系では、納得がいこうがいくまいが、その理論でもって何らかの事実が実証され、そして場合によってはそれでもって新製品がつくられるようなことがあれば、それは認めざるを得ない。人文系ではなかなかそういうことが起こらない。政治においても、「これが正しい政策だ」というようなものはなかなか決められない。多くの人が「正しい」と思っても、「いや、それはちがう」という意見が絶えることはない(全会一致は民主主義の危機であるというような言説だってあるぐらいだ)。それをいつまでも議論を続けていたのでは時間が失われてしまうので、最終的には妥協の産物として多数決がとられることになる。徹底した議論のあとでは、多数の理性が示す方向が正しいとするのが最も合理的であるということなのだろう*2

 

根本的に異なった立場からの民主主義の理解がある。これは教育の場においては常に誤った理解であるとするのだけれど、現実にはむしろ多くの人の直観的な理解である。どういうものかといえば、政治とは権力闘争であるという理解だ。古来、人間は権力を手にするためにさまざまな闘争を行ってきた。しかし、暴力はいかん。暴力を避けるため、選挙をして多数を取ったものが有無を言わさず権力を握る制度を採用する。それが民主主義であるというものだ。

実際、明治以降の日本の政治史を講義していると、日本の議会政治がそういった「サル山のボス闘争」的なしくみで動いてきたことがよくわかる。多数派工作なんてのは、およそ「何が正しい政策であるか」みたいなことを考えていたのではできない。「誰にすり寄れば権力に近づけるか」でしかないし、その場合の政策は、「権力取ったらオレがやりたい政策」でしかない。正しいか正しくないかは自分の感覚だけで決める。それができる人間こそが政治家であるぐらいに思っているのだろう*3

これはマルクスも悪い。彼は、「資本家と話し合いなんかするだけムダ。根本的に立場がちがうのだから、彼らは彼らの立場でしかものが言えない。だったら多数派とって独裁しなきゃ解決しないじゃない」みたいに、本人の理論の根本である弁証法とまったく矛盾することを言っている(んじゃない? 個人の感想です。まあ、俗流にはそういう解釈が通ってると思う)。確かに議論を通じて真理に到達する道のりは遠いし、その無限の時間の間に無数の人々が苦しんでいくのは間違いないのだから、バッサリと「えい、や」と独裁したい気持ちはわからんでもない。でも、それがどうなるかは歴史が証明しているだろう。

しかし、そういった「権力奪取」的な発想から、多くの団体が自分たちの利益を求めて政治家を送るようになる。自分たちの送った議員が与党のなかで重要なポストを占めれば自分たちの要求が通るからだ。このようにして、議会は議論の場ではなくなり、単純に利益分配の場に成り下がる。それが民主主義の現実であって、学校で教えられる「政策議論の場」とはかけ離れたものとなる*4

 

しかし、現実がそうだからといって、「民主主義ってそういうもんですよ」と言ってしまうべきなのだろうか。ここで、「テロリストの言い分など聞いてはならない」の話に戻る。真理を追求する議論のためであるならば、たとえ犯罪者の意見であろうが、そこに理があれば議論の場に引っ張り出すべきだ。あらゆる人々の知恵を集めるのが民主主義であれば、そうならざるを得ない。処罰は処罰として厳正に行われるとして、人間の声を抹殺してはならない。それによってよりよい世の中がやってくるのであれば、それは犯罪行為とは切り離して考えられねばならない。これが理想の意味での民主主義的な考え方。

ところが、サル山の権力闘争的な発想の民主主義的な考え方ではそうはならない。なぜなら、多数派を取った者こそが政策を決めるのであって、そこに犯罪者が犯罪行為でもって意見をねじ込むことは絶対にあってはならない。それこそが民主主義の危機だ。暴力によって政治を変えることはあってはならない。犯罪者の言葉は黙殺されねばならないとなる。

 

この2つの「民主主義って何?」という考え方が交わることはないだろう*5。したがって、この問題に対しても、和解はない。罵り合いだけが続くと思うと、憂鬱だなあ。

そして、罵り合いになれば声の大きいほうが勝つという現実が…

*1:ただし、この「議論」に関してもまた、その捉え方が人によってちがう。科学主義の立場からは「エビデンスにもとづいた相互批判から弁証法的により高次の命題を導くこと」であるのだろうけれど、一般に教えられるのは「互いの主張を譲り合いましょう」みたいなことだから

*2:したがって、こういう立場からは、党議拘束とか「アホちゃうん」と見えることになる

*3:官僚が選挙に立候補し、有権者もそれを信頼して投票する心理は、そういうところからきているにちがいない

*4:議会だけでなく、有識者を集めた審議会や諮問委員会のようなものも、さまざまな意見を集約することだけを念頭にメンバーが集められ、メンバー同士の批判や討論は基本的に期待されていない。選ばれた有識者も、自分の主張を議事録に残すことが使命であると心得ているようだ

*5:仮に「理想はそうであるが現実はそうでない」というところまで合意が得られたとしても、そこから「現実がそうなんだから理想論はいうだけムダ」という立場と「現実がそうでも理想を目指して頑張ろうよ」という立場が生まれ、これらは相容れない。もちろん、最初っから「理想論はそもそも成立しない」みたいに否定にかかる人々とそうでない人々は相容れない