しょせん政治は呉越同舟

どうやら私は自由主義者らしいのだが、なかなかこういう主張にぴったりくる政党はない。政治とは正義を実現するためのものであって、私利私欲のぶんどりあいではない。ただ、正義はひとの数だけ存在するわけで、その正義を折り合わせるために多数の人々が議論する制度ができている。それが代議制というものだ。だから、議員に選ばれたひとは必ずその信じる正義にもとづいて行動すべきであって、特定の個人や集団の利益のために行動すべきではない。これはきれいごとでもなんでもなく、そうでなければどんな支持も得られないからだ。支持の得られない為政者は失脚するしかないだろう。

ただし、正義があまりにも異なり、それが正面から衝突するような場合には、多数をとって多数派以外の正義を押しつぶしてしまえというような乱暴な戦略もあり得る。選挙をそういった利害関係の衝突の究極の形である闘争だと位置づける政治集団は過去にもあったし、そういった考えかたを受け継いでいる人々もいる。しかし、そういった考えかたもまた、多数の支持を継続して得られないだろう。民主主義は、あくまで「私の正義とあなたの正義とどっちを実現するのか」を理性でもって決定していくプロセスでなければならない。だから退屈で、時間がかかるのが本来の民主主義。

しかし、実際の選挙は、そういった理性的な判断では決まらない。私の思想はいまの日本の政党のどれにも当てはまるものがないが、それでも一票を行使しなければ政治への参加はできない。前回の選挙では、私は立憲民主党を支持したが、それは政策への期待というよりは理性を信じる枝野さんの姿勢に対するファン投票のようなものだった。非常に残念なのは、党首が理性的である割には、そのメンバーに「?」をつけたくなるようなひとが少なくないことだ。ちゃんと人材を揃えておかないと、万が一にも政権とったときには悲惨なことになるぞと思うのだが、まあよけいなお節介であるのかもしれない。

そして、今回の選挙では、私は「れいわ」と書いた(「新選組」なんて、こっ恥ずかしくって書けない)。「山本太郎」と書かなかったのは、私が彼のことをよく知らないし、どっちかというと興味がないからだ。たぶん、政治的な考えかたもちがう。彼が主張していることの半分もピンとこない。

それでも私がそこに投票したのは、単純に、そこから当選者が生まれたら、国会に重度障害者の議員が行くことになるからだ。それも、うまくいけば2人。これに乗らない手はないと思った。

国会に重度障害者が議員として登院する意味、みたいなことを私は深く考えたことがない。障害者のこともよく知らない。ただ、自分が教えている生徒に障害者がいる。

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楽天的な性格、なにごともポジティブに考える能力、それが彼女を支えている。けれど、もう中学生だ。小学生のころのように「がんばる!」だけでは済まない現実も見えてくる。将来のことも悩み始めるころだ。

そんな彼女に、「こんど、重度障害者が国会議員になったんだって。障害があってもそんな未来だってあるんだよ」と、話してやりたい。未来への希望をもってもらいたい。選挙公報を見ていて、私はそんなふうに思った。

もちろん、彼女に「将来は国政選挙を目指せ」みたいなことをいうつもりではない。彼女はもっと「ふつうの」生活を望んでいるだろう。多くの中学生がそうなのだ。みんな「ふつう」を望んでいる。「ふつう」に生きたいと思っている。

彼らは知らないのだ。「ふつう」なんてものはないってことを。ひとりひとりの人生は、どこまでいっても個別であり、特殊なものだ。彼らにはそれが見えない。私だって、こんなへんてこな人生を歩みながら、30代なかばぐらいまでは「何の変哲もない、そこらに転がってる石ころ程度の人生だ」ぐらいに思っていた。だからこそ「ふつう」にあこがれた。そして、それは最後まで得られなかった。

「自分はこれだ」と見つけ出すこと、いやちがう、「自分はここから逃れられない」と諦めること、そこからしか人生は始まらない。そして、その諦めをつくるまでには、いろんな人生が世の中にあって、そのなかで自分がいる場所が特殊なのだということを知らなければならない。そのためにも、ある意味、めったに出ない重度障害者の国会議員というのは、彼女にとっていい刺激になるはずだ。

 

そんな私の一票がどれほど効いたのか知らないが、「れいわ」からは2人の当選者が出た。そして、一夜明けたら、こんな増田の記事が出ていた。

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山本太郎アンチだった私が山本太郎に投票した理由」というのが、そのタイトルだが、タイトルだけならまさに私そのものだ。「アンチ」というほどには知らないところがちがうかもしれないが、そこに票を入れたい政党ではない。けれど、理由があってそこに投票した。そこまではまったく同じ。ただし、理由がちがう。大きくちがう。

ということで、私は複雑な思いを抱えることになる。政治家が「皆さんの思いを受け止めて」みたいなことを言うとき、受け止められる思いはその政治家にとって都合のいいものでしかない。有権者はそれぞれの思いを抱えて投票するがその思いは既に投票行動で完結しているともいえる。私としては、下手に増田のような支持者の思いを受け止めてもらって妙な経済政策に走るよりもおとなしくしておいてもらいたいという気もするのだが、彼らが彼らの公約なりマニュフェストなりを掲げて当選している以上、そうもいかないだろう。そして、私が評価しない部分を評価しているひとの中には、戦闘力として物理的に弱い障害者議員を他の議員に替えたかったひともいるにちがいない。

今回集まった多くの票のひとつひとつを見たら、それぞれが投じられた理由はそれぞれにちがう。代議制とはそういうものなのだろう。しょせん、政治は呉越同舟なんだなあと、まあそんな青臭いことを改めて思った。