言葉の力を信じること - 民主主義は道徳教育からはじまるのかもしれない

人間は、環境をより良い方向に変えていこうと工夫することで独自の進化を遂げてきた生物だ。たしかに一般に生物は周囲の環境を変化させ、そこにニッチを見出して進化してきた。しかし、ほとんどはそれを能動的に行ってきたわけではなく、その生物の存在が結果的に環境を変化させたに過ぎない。人間はそうではない。遺伝子に働く淘汰圧以上の速度で自分自身を変化させ、環境に働きかけてきた。その圧倒的なスピードは、大脳皮質の働きによる思考と言葉による情報の伝達によるところが大きい(関連:なぜ坊主は妻帯しないのか)。

だから、思考と議論は人間が人間であることのアイデンティティだ。人類をここまで連れてきたのは、考えることと言葉を使うことだ。言葉によって思想を組み立て、それを伝え、そして社会集団としてライフスタイルを変革することだ。そんなふうにして新たな環境に進出し、また、新たな環境を創出して、人類は世界中に広まった。ま、地球にとってはウィルスみたいなもんかもしれないけどね。けれど、それを人間である自分の口から批判はできない。そういった歴史の端っこにいる者としては、もしも不都合があるのなら、これまでの戦略の延長の上で解決していくしかない。大絶滅以外の選択肢はそれしかないはずだ。

だから、古代中国の政治思想家たちのように学問によって政治を導こうという発想が生まれる。哲人政治プラトンのような理知主義が説得力をもつ。議論による最適の解決策の選択を前提にした民主主義が世界標準となっているのも、そういった考えかたの延長だろう。現行の代議制民主主義が最良の形式であるとはとても思えないが、とりあえずは「いままでに試されたなかで最もマシな方法」であるのかもしれない。

 

そんな民主主義に関して、なにか根本的な誤解が世の中を覆っているような気がしてしかたない。それは、「多数派を占めた者がその思うままの政策を実行できる。その多数派を決める人気投票が選挙であり、それが民主主義だ」という考えかたと言ってもいいかもしれない。こんな単純に要約できるものではないし、さまざまなバリエーションもあるが、つまりは政策決定のために知恵を絞るとか議論によってさらに上のレベルを目指すということを視野に入れず、ただ多数決原理だけに目を向ける考えかただ。ひどいのになると多数派が自分たちの利益のために政治を行うのが当然だというところまでいく。その延長にあるのが、「自分も多数派にならなければ落ちこぼれる」というバンドワゴンに乗り遅れるな式の発想だ。それはもう、完全に民主主義とは別物だから。

そういう誤解を生み出しているのは、「議論によって問題を明らかにする」というプロセスを多くのひとが理解していないからだ。そういう経験がない。多数決原理は、議論によって問題を明らかにすることによって、もっともよい解決策への賛同者が増えるはずだという前提にもとづいている。一人の判断は信頼できないが、多くの人の判断は信用できるという考えかただ。これが有効にはたらくためには、「議論によって明らかになったことからひとは考えを変えることがある」ということが前提になければならない。当初はAが正しいと考えていても、議論のなかで明らかになった事実から「やっぱりBだな」と判断を変えることは変節でもなんでもない。そして、実際にそういうことを経験すれば、「ああ、話し合いによって世の中は変わるんだ」と実感できるはずだ。そういう経験を積ませなければ、民主主義は党派の争いに堕ち、ヤクザのケンカとかわらないものと成り下がるだろう。そして、そういう経験を積む機会が、現代の学校教育を受ける若い人たちの中には少ない。だが、まったくないわけではないはずだ。

 

いま高校生の息子が小学校の低学年のころだから、もう10年近くも前の話だ。授業参観があって、その日は道徳の時間だった。そのころはまだ家庭教師の仕事もしていなかったので授業にはあまり興味もなかった。それでも参観日に親が来るのは子どもにとって少し嬉しいことであるのはわかるので都合をつけて出かけた。

授業の内容は、おとなにとってはつまらないものだった。チョウをクモが食べるというような教材を読んだあと、子どもたちに感想を発表させるというようなものだった。こういうのは、「ちょうちょはかわいそう」「でも、くもだって生きるためにしかたないんだよ」みたいな展開の中から、倫理観を養うという観点で設定されているのだろう。で、教師はうまい具合にそういう展開を導いていった。

ただ、おそらく予想外だったのは、意見の内容が一方に偏ってしまったことだ。教師は何人も指名したのだけれど、みんな似たりよったりの意見だった(低学年の授業参観なので、みんな競って挙手をするから指名に困ることはなかった)。小学校の教師もそれなりにプロだなあと思うのは、「じゃあ、いままでに出たのとぜんぜんちがう意見の人、いませんか?」みたいにして、どうにかして次の展開を引き出そうとしたことだ。そうするとまだ何人か手をあげたが、やっぱり似たような意見。「お前ら話、聞いてないだろ」と思ったが、まあ小学一年生だしね。しかし、最後に指名されたウチの息子はちがった。はっきりと、みんなと別の意見を出した。

教師もホッとしたと思う。そして、「いま、まつもとさんの意見が出ましたが、これに賛成するひとはいませんか?」と、教室中に尋ねた。だれもいない。圧倒的多数に負けている。けれど、まあようやくここにきて、授業の計画通りの「いろんな意見」が(まあ大きく分けたら2種類に過ぎないのだけれど)出揃った。

そこで、「じゃあ、なぜそう思うのか、説明してみましょう」と、教師はまた挙手を求めた。多数派の方は次々に新しい子どもが指名されて意見が述べられる。そして、少数派の方は息子一人しかいないのだから、しかたなく、「じゃあ、まつもとさん、なぜそう思うのか説明してみましょう」と2度めの指名となった。

ま、私も親バカなのだけれど、このとき息子は、臆せず、堂々と自分の意見の根拠を述べた。拙い理屈ではあったけれど、きちんと筋道を立てて、なぜ自分がそう考えるのかを説明した。

これを受け、教師はようやく次の段階へ進めることになった。「みんなの説明を聞きました。説明を聞いて、意見を変えてもいいんですよ。じゃあもう一回聞きます」。そして2つの意見への賛否を挙手で尋ねた。すると、驚いたことにクラスの半数まではいかないがかなりの割合の子どもが息子の意見に賛成だと挙手をしたのだった。

私はこの経験を、議論とは何かを息子が理解する上で大きな価値をもったものだと思っている。正しく話せば、世界は変わる。言葉には、他者の考えを変化させる力がある。息子はそれをこのときはっきり理解したと思う(念のため、もっともっと砕いた言葉で後日それを確認した)。

 

議論とは、声の大きさで相手を圧倒することではない。あらかじめ味方を集めておいて援護射撃によってその場を乗り切ることでもない。ただ、自分が正しいと信じることを理性でもって説明し、人々に判断を委ねることだ。そういった民主主義の基本を、息子は道徳の時間に学んだ。

奇妙なことに感じられるかもしれない。道徳は、古い価値観の押しつけではないのだろうか。そればかりではないというのは、学習指導要領を見ればわかる。中学校の学習指導要領では、「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」において:

生徒が多様な感じ方や考え方に接する中で,考えを深め,判断し,表現する力などを育むことができるよう,自分の考えを基に討論したり書いたりす るなどの言語活動を充実すること。その際,様々な価値観について多面的・ 多角的な視点から振り返って考える機会を設けるとともに,生徒が多様な見 方や考え方に接しながら,更に新しい見方や考え方を生み出していくことが できるよう留意すること。

と、こういった冷静な議論をすることの重要性がきちんと述べられているからだ。考えてみれば、道徳科は学習指導要領第1章第6の2に

 各学校においては,生徒の発達の段階や特性等を踏まえ,指導内容の重点化 を図ること。その際,小学校における道徳教育の指導内容を更に発展させ,自立心や自律性を高め,規律ある生活をすること,生命を尊重する心や自らの弱 さを克服して気高く生きようとする心を育てること,法やきまりの意義に関す る理解を深めること,自らの将来の生き方を考え主体的に社会の形成に参画す る意欲と態度を養うこと,伝統と文化を尊重し,それらを育んできた我が国と 郷土を愛するとともに,他国を尊重すること,国際社会に生きる日本人として の自覚を身に付けることに留意すること。

とあるように、法治主義や全員参加による民主主義の意義を伝えるものでもある。ある部分は価値観の押し付けになるのが道徳科だが、そもそも日本国憲法が民主主義を国是としている以上、押し付ける価値観が民主主義そのものであって何の不思議もないだろう。

けれど、問題なのは、そういった観点からの道徳教育が実際には(おそらく)ほとんど行われていないのだろうということだ。教材としては、結論が出ないような事項を題材にして議論によって考えを深めるようなものが用意されている。しかし、素養のない教師によって、「こういった題材ならこういう価値観からの結論が期待されているだろう」みたいな誘導が行われているのではないだろうか。だからこそ、若い人たちの間で、よりよいものを議論するのではなく、単に政策相性診断みたいなことをやって投票先を決める、みたいなことが標準化しているのではないだろうか。迷信とポエムより数歩も出ないような意見でもって政治を語ったことになるような風潮になってしまっているのではないだろうか。

 

そうではない、という証拠を見たいと思う。なあに、私はすぐに意見を変えるからね。