以下、ごちゃごちゃと長いけれど、特に主張とかある話じゃなく、単純に「昨日、こんなことがあったよ」というだけの話。
自治会について書き始めたら長いので、そこは端折ることにする。大雑把に私の認識だけは初めに書いておくと、これはもともと鎌倉から室町時代にかけて成立した農村の自治の動きの中から生まれた「ムラ」(惣村)がベースにある、本質的には政治組織であった*1。ただし、秀吉の改革以後、江戸時代の幕藩体制の中でこれは支配のツールに転用され、それを受け継いだ明治維新以後の政府によってある部分は行政に組み込まれ、ある部分は行政の下請けとして、戦前日本社会の骨格のひとつとなった。GHQはこれを問題視して解散・解体させたが、行政はその便利さを手放したくなかったため、形式上は民間の任意団体として基本的にすべての地域に組織させた。これが現在の自治会につながるものだ。この理解は何度かの引っ越しでいくつかの自治会に関わってきた私の観察だけでなく、いくつかの書物・文献からも学んだものであるので、概ね多くの人の理解とそれほど異なっているものではないと思っている。
民間の任意団体なので本来それには義務的な参加はない。ただし、歴史的には住民の権利・義務としての参加があり*2、居住に無関係な自由意志による加入や脱退は許されていなかった。現代では制度上そうではありえないのだから、自治会は「有志によるボランティア団体」ぐらいにまで縮小すべきだと個人的には思っている。「なくすべき」とまではいまのところ思わない。というのも、時代が変わればまた別な役割・意味をもってくるのが地域コミュニティという単位だと思うからだ。事実、「ムラ」の役割はこれまでも時代に応じて拡大と縮小を繰り返してきた。いまの時代にはかつてのような「住民の自治組織」としての政治的な役割はそこにそぐわないというだけのことだ*3。
前置きがやたらと長くなったが、その自治会の「地区役員」に今年はあたっている。何年かに一回まわってくるので、しかたなくやるわけだ*4。個人的に「自治会なんて有志によるボランティア団体ぐらいに縮小すべきだ」と思っていても、現実にそうなっていない以上、自分の個人的な思いを前面に出して「当番はやりません」みたいに拒絶したり「自治会やめます」と宣言したりまではしない。そこは波風立てずに生きていたい。
この自治会、地区役員は3つの委員会に振り分けられる。私が属しているのは「文化厚生委員会」で、イベントなどの文化行事の裏方が主な仕事ということになる。たぶん元は他にも仕事(「厚生」の部分)があったのだと推測するのだけれど、文化行事だけでも、かつてあった夏祭りも文化祭も餅つき大会もなくなって、小規模のイベントがいくつかあるだけだ。仕事がないのも張り合いがないから的な感じで規模の小さなものは企画されているのだけれど、もう大イベントをやるだけの体力はこの高齢化が進む住宅地にはない。そして、そのイベントのおそらくは残滓として、「敬老の日のお祝い」というのがある。おそらくかつては「敬老祝賀会」のイベントぐらい自治会館でやっていたのだろうが、いまは「お祝いの品」の進呈のみだ。土曜日に文化厚生委員会の会合があったのだけれど、その議題がこの「敬老の日のお祝い」だった。
いまでもあるのかどうか知らないが、かつては高齢者に自治体が記念品を贈ることがよくあった。「米寿の祝いに市役所から座布団をもらった」みたいな話をよく聞いたものだ。まだ平均寿命がそれほど高くなかった昭和の時代にあっては、「健康に長生きをすれば市から表彰される」みたいな意識があれば人々の健康維持へのモチベーションを上げることができた。だから公的機関が高齢者に祝意を示すのは保健政策上も意味があったわけだ。おそらく自治会の「敬老の日のお祝い」も、そういった時代の流れの中で定着したのだろう。近隣の自治会でも金品の贈呈をやっているという。ただし、毎年やるところはだんだん減ってきているとか、もう廃止したとかの話もあるらしい。高齢者がこれだけ増えれば、そりゃ、珍しくもないものな。
今日の委員会の話だと、ここの自治会のように、「敬老の日のお祝いの品を希望されますか?」と意思を確認してから毎年、粗品を配布している自治会は少ないらしい。ここの自治会がそれをする理由はもちろんある。さまざまな事情(たとえば「まだワシは若い!」というようなカワイイものから、「入院中でそれどころじゃない」という深刻なものまでいろいろあるだろう)で祝い品が嬉しくない人は普通にいる。さらに、たとえば施設入所とか「娘の家に厄介になってます」とかで不在の人のところに祝い品を届けようと無駄足を繰り返すのも負担になるばかりだ。なので、まずは回覧でアンケートを回して、希望者分だけ粗品を用意して、それを地区役員が敬老の日に合わせて届ける、という段取りになる。
もともとこの粗品、紅白まんじゅうだったらしい。昭和の時代には、なにかというと紅白まんじゅうが出た。小学校の頃は運動会とか卒業式とか、年に3回ぐらいは紅白まんじゅうを家に持ち帰らされたような記憶がある。その時代はまだ大家族時代の名残があったから、おじいちゃんから孫までのどこかに必ず需要があって、それはそれなりに喜ばれたのだろう。ただ、小学校のどこかで「あれは衛生上よくない」みたいな話があって、やがて紅白まんじゅうの配布はなくなった。それでもそういうのを一手に請け負う地域の和菓子屋みたいなのがどこにでもあって、ここの自治会の「敬老の日のお祝い」も、当初はそこのまんじゅうだった。それが数年前に「まんじゅうかもしくは商品券」という選択式になった。確認するアンケートの際に、どちらを希望するかを記入してもらう。なぜ商品券になったのかの理由は複数あるのだけれど、その最も大きなものは「医者から甘いものを止められている」人が一定数存在するからだ。かつての大家族なら、自分が食べなくても貰い物のまんじゅうを喜ぶ子どもがいた。いまの少子高齢化の時代、そんな子どもはめったにいない。メタボリックシンドロームの撲滅が喫緊の課題とされるこのご時世にあって、甘いまんじゅうの押しつけはどう考えてもダメだろう。だから、選択肢として商品券を入れるのは理にかなっているわけだ。
ただ、この商品券の配布に関しては、当初より強烈な反発があった。高齢化の進んだこの地域、商品券配布の対象になる住民は少なくない。そしてその原資は、月額数百円の割で徴収される自治会費だ。お金を集めて配るだけの事業など、おかしいではないかというわけだ。それが社会政策のように「富の再分配」によって不平等を和らげるためのものであればまだ納得もできる。払う人と受け取る人がほぼ同じ場合、それは何の意味もないのではなかろうか。実際にはそこまで突き詰めた考えでもないのかもしれない。単純に、「そんなことに金を使うのなら自治会費を安くしろ」ということであるのかもしれない。なにしろ、「自治会なんて毎年何千円ものお金を徴収しておきながらたいしたことは何もしてないじゃないか」というのは実感として多くの人が抱いている不満なのだから*5。
その一方で、皮肉なことに「まんじゅうと商品券のどちらを取るか」という選択肢を示された該当の高齢者は圧倒的に商品券を選択するほうが多かったという現実がある。甘いものがまだまだ貴重だった昭和の半ばぐらいまでならともかく、この時代、まんじゅうの価値は高くないのだ。特別に食べたいわけでもないまんじゅうをいきなりもらって賞味期限を気にしながら過ごすよりは、商品券でもらっておいて自分の都合のいいときに自分の好みのものを買ったほうがよっぽどいいということになるのは、ある意味、自然なのだろう。つまり、反発が強いのと同じくらいに賛同も多いわけだ。
委員会の議題は、具体的な段取りの打ち合わせや役割の相談を経て、この商品券問題に行き着いた。去年からは和菓子、洋菓子、商品券の3択になっている。原案では商品券に対する批判を受けて、「たしかに甘いものが困る人もいるだろう」とその代わりにお茶を入れるという3択案になっている。それに対して、「いや、商品券への支持が多いのが現実なのだから、これはお茶で代替できるものではない」という意見があって、議論は暗礁に乗り上げた形になった。
この例題、いろんな角度から考えてみることができる。たとえば、なぜお菓子ならそれほど反対意見が出ないところ、商品券なら強烈な反対が出るのだろうかというのは興味深いポイントだ。商品券というのは結局は現金と同じだから、「現金を徴収して現金を配る」ことに虚無を感じるのは感覚的に頷けなくない。ものがぐるぐる回るだけならその果たす意味はないのではないだろうか、という疑問だ。ここで思い出すのは、若い頃に読んだ狩猟社会における観察事例だ。狩猟採集を主要な生計とするあるむらで、森から獲物が運び込まれた日の獣肉の分配の様子を事細かに追いかけた興味深い研究だった*6。分配はむらの社会的序列に則って行われるが、うまいぐあいに末端まである程度公平に行き渡るように配分される。冷蔵庫などの保管施設がないため、どのみち2、3日内に消費してしまわねばならないから、できるだけ公平にしたほうがいいという物理制約もあったように記憶している。おもしろいのは、むらの広場で行われる解体と分配後に、肉の贈与・交換が始まることだ。つまり、ふだんのつきあいのなかで感謝の贈与をしたくてもなかなか機会がなかった人々が、肉という価値のある消費財を手に入れたこの機会に、その一部を日頃の感謝の意で贈与する。これを読んだとき、私はちょっと驚いた。貨幣経済以前の交換経済では、一方に希少なものがあり、他方に余剰があればそれが余剰側から希少側に交換価値を持つのだと、なんとなく思い込んでいた。けれど、ふだんはほとんど何の余剰もないところにほぼ公平に同じ価値のものが分配された状態から、いきなり贈与や交換が始まる。そしてさらにおもしろいのは、肉は腐る前に食わねばならないから、贈与を受けた者はそれによって生じた余剰分を別の人との間の贈与・交換にあてる。これが村落内で繰り返され、同じ肉がぐるぐるとむらのなかを巡って、ときには元の所有者のところに戻ってきたりする。結局は、物理的な配分としては元の状態とあまり変わらない公平分配になって、獲物はむら全体で消費される。では、この肉はただぐるぐると回るだけで何の役割も果たさないのだろうか。そうではなく、そこでは日常の生活内に必ず発生する社会的な負債の解消という役割をその過程で果たす。たしかそういった研究だったように思う。
つまり、同じものがひとつの社会の中をただぐるぐる回るだけのことであっても、その過程で何らかの社会関係にまつわる問題が解決されることがありうることが示されている。けれど、金銭は、物品とは違ってその価値が定量化されている。おそらくそれによって阻害される社会的機能があるのだろう。「感謝の気持ち」は、けっして表立って定量化されてはならない。たとえ現実には「あのまんじゅうの売価は500円」とか知っていても、それが「500円」と印刷された商品券と等価ではないわけだ。
あるいは、「わずかな価値の祝い品などもらっても嬉しくない」という感覚がそこにあるかもしれない。自治会が大山鳴動してそこらの駄菓子と大差ない程度のまんじゅうひとつもらっても釣り合わないという感覚だろう。ただ、それが(昨年の選択肢にあったような)和菓子や洋菓子であれば、金銭的な評価は見えにくい。「まあ、いいものをもらったんだろう」で終わって、詳細を追求するまでもない。けれど、額面に金額が印字された商品券だと、「わずかこれだけのことか」とがっかりするような感性があるのかもしれない*7。
こんなふうに、価値観によって物事の見え方が真反対になってしまうような問題は、なかなか解決がしにくい。同じ価値判断の中での尺度の問題であれば、「間を取る」ことで落とし所を探ることはできる。商品券の是非のような「それは無意味・害悪だ」という見方と「それが助かる・名案だ」という見方に現れる真逆の価値判断は、中間地点がない。プラス1とマイナス1なら、極端な場合、ゼロという中間地点がある。ゼロかイチ、つまり存在の有無に関する問題には中間地点がない。最終的には多数決ということにならざるを得ないのだけれど、そうなると少数意見である「商品券はやめるべきだ」という動議は最初からなかったことと同じだ。
こういうことは政治の世界ではしょっちゅうだ。そして少数意見は、結局はあってもなくても同じことになるのだから、「だったら最初っから混ぜっ返すなよ」ということにもなってしまう。政治の効率化を妨げる雑音のような扱いを受けることになる。本来そうであってはいけないのだが、価値観や思想の対立にはそうそう簡単に決着点は見つけられない。
ということで、結局は多数決で商品券は存続と決まった。まあ、オチのない話であるのだけれど、ただ、最後に私はひとつだけ、便宜としてちょっと卑怯なゴマカシの提案をしておいた。ので、それを付け加えておきたい。それは、「商品券」を「ギフト・チケット」と呼びかえることだ。
昭和の昔に比べたら物品を贈り合うような関係はずいぶん少なくなったが、老母のところにはまだまだ親戚から祝い返しのようなギフトがよくやってくる。そしてその大半が、カタログギフトだ。カタログギフトなんて、実質は商品券だし、それもカタログ内に登録された商品しか買えない非常に割の悪いものだけれど、案外とそれが通用する。実際、使いもしない食器類だとかタオルだとかを贈られるよりは、とりあえずカタログから必要なものを選べるので、便利といえば便利なのだ。現実にはそのカタログを見ればそのギフトが何円相当のものであるのかもわかるから、現金と変わらない。どこがちがうのかといえば、単純に名称だけだ。「金券」となっていれば角が立つものを「ギフト券」と言い換えてるから、納得してしまう。ゴマカシではあるが、人間の心理なんてそんなものかもしれない。
自治会で問題になっている商品券、調べてみると券面には「ギフト・チケット」と印刷されている。だったら、「商品券」の使用をやめて「ギフト・チケット」を使うようにしたら、反対意見も多少は宥められるのではないか、という姑息な提案だ。失笑をかうような案ではあったが、どういうわけか承認された。これがどういう反応を得るのか、少し楽しみにしている。
*1:ただし、どこか別のところでも書いたが、顔の見える範囲内での直接合議(これは古代のギリシア哲学者が想定したものでマキャベリまでも踏襲されている)と現代的な民主政治(アメリカ合衆国で現実化した巨大領域国家の代議制政治)がどこまで性質が同じで性質が異なるのか、ここは議論のしどころだとは思う
*2:これは以前書いたシチズンシップとの関連で理解するとわかりやすい。当然参加できない住民もいたわけだ
*3:ただし、これは全国一律にそうだというわけではない。地域コミュニティの果たす役割は地域ごとに異なっている。地域によってはその存在が最後の生命線みたいなところもあるわけで、そういうところに「時代に合わないから縮小すべきだよ」みたいにはいえない。だからこそ、私は自治会廃止論まではとれないわけだ
*4:地区によってちがうらしいのだけれど、私のところは「輪番制」みたいにカチッとしていなくて一応は拒否もできる。実際、仕事がいちばん忙しかったときには「仕事の都合で会合に出られないので」で1回はパスさせてもらってる
*5:自治会には会費収入の他に市からの補助金が降りてくるのだけれど、これは公園清掃とか道路の維持管理の代償という性格が強いので、いってみれば住民の労役で自治会が潤っているという構図に見えなくもない。ちなみに、自治会の予算・決算で問題になるのは「積立金」なのだが、たしかにこれがなければ自治会費は大幅に減らせるだろう。けれど、自治会館が老朽化したときの建て替え予算は積んでおかねばならないという理屈にも一理あって、このあたりは解決がつきそうにない
*6:たぶん調べればすぐにソースが出てくるぐらいに有名な研究だと思うのだけれど、私は学者じゃないから曖昧な記憶に頼って書いた
*7:実際、ある自治会では金額の張る祝い品を贈るために贈呈を10年に1度と定めているそうだ。そうすれば同じ予算で10倍の価値のあるものが調達できる。ただ、これはその10年分の名簿管理の問題や、期間内の物故や転入・転出による不公平感の問題が発生してしまうことになるのだろう