「主義」という語のややこしさについて - まとまらない雑感

-ismと「主義」

量としてはたいしたことはなくなったとはいえ、いまだに翻訳の仕事をあたえてくれるクライアントがいる。AIの時代にこれはなかなかありがたいことだ。いずれはくると予測していた「翻訳はマシンの方が使いやすい」時代が、現に到来しつつある。そんななかで翻訳者として生き延びていくのは、相当にむずかしい。

AI翻訳のほうが信頼できるような時代に、人間が翻訳をする意味はどこにあるのだろうか。ま、いろいろ考えることができるかもしれないが、ひとつには、「途中がみえる」ということではないかと思う。ひとつの語を訳出するときに、AIは「なぜその語を選んだのか」を説明してくれない。人間にはそれができる。その説明は、特に求められなければ記録しておくことも報告することもない。ただ、そういう論理的な説明根拠があるからこそ、全体を通したときに整合性のとれる翻訳ができるのだし、場合によってはアクロバティックな訳文をつくりあげることもできる。このあたりはまだAIには追いついてこれない領域ではなかろうか(そのうちに追いついてくるかもしれないが)。

機械翻訳は、かつては辞書式に行われていた。それだけではとんでもない訳文ができあがることが(特に日本語のような非ヨーロッパ言語とヨーロッパ言語の間のような大きく異なる言語間では)多発する。そこで、共起表現に着目する改良が行われてきたが、それでもまだ「機械翻訳の文章を読むと頭が痛くなる」時代が長く続いた。現代のAIは、そういった単語レベルの対応を捨てて、「いかにもありそうな訳文」を(表現はわるいが)捏造する。それは実際に人間の翻訳者が頭の中でやっていることに近いわけで、それだけにいい訳文が生まれる。ときには下手な翻訳者が訳した文なんか足元にも及ばないほどの精度の高い翻訳をする。単語レベルの対応にかかずらっていたのでは、そういった質の高い翻訳はできない。とはいえ、単語レベルの変換をAI翻訳が無視しているわけではないし、人間の翻訳者だって単語レベルで悩むことがないわけではない。というよりも、悩みの多くはそこだ。そして、そこを悩めることがむしろ、AIではなく人間が選択される理由でもあるのではないかという気もする。

 

と、前置きが長くなったが、書きたいことは「主義」という翻訳語についてである。ちなみに漢語としての「主義」はあまり古いものでなく、どうも唐代に仏典の注釈で用いられるようになって以後のもののようで、そのまま「主な意味」とか「導き」「理論」「(仏教の)教義」のような意味で用いられることが多かったようである。ま、私は漢籍を含めて中国語をほぼ知らないので、このあたりは間違っているかもしれない。正確なところは詳しい人に聞いたほうがいい。

この「主義」、現代では「-ism」の訳語として広く用いられている。たとえばsocialismは社会主義だし、capitalismは資本主義だ。個人主義はindividualismだし、全体主義はtotalitarianismだ。ただ、この-ism、辞書を引いてみるとけっして単一の「主義」という概念に収まらない。

-ism

1   a : act : practice : process
  b : manner of action or behavior characteristic of a (specified) person or thing
  c : prejudice or discrimination on the basis of a (specified) attribute
2   a : state : condition : property
  b : abnormal state or condition resulting from excess of a (specified) thing
   or marked by resemblance to (such) a person or thing
3   a : doctrine : theory : religion
  b : adherence to a system or a class of principles
4     : characteristic or peculiar feature or trait

-ism Definition & Meaning - Merriam-Webster

とある。小分類まで加えると、8種類あるわけだ。このうち、「主義」があてはまるのは3−bだけであって、他は「主義」とやるとちょっとおかしい。たとえば1-aで例にあがっているcriticismは「批評」だし、bのanimalismは「動物愛護」、cのsexismは「性差別」だ。2-aのbarbarianismは「蛮行」だし、bのalcoholismを「飲酒主義」と訳す人はいないだろう。3-aのBhuddismは「仏教主義」ではないし、4のcolloquialismは「会話体」ぐらいになる。つまり、-ismはそのまま「主義」と訳すべきではないし、また実際に、そのように一律に訳されてきているわけでもない。

ところが、「これはどう考えても主義じゃなかろう」という-ismが「主義」で訳されていることがある。去年の後半は貧困関係の本を訳していた。そのときに、これに出くわした。racismだ。これは、上記の辞書にもはっきりと1−cの用例としてあげられている。つまり、明らかに「人種差別」の意味だ。けれど、どういうわけかこれに対しては「人種主義」という訳語が定着している。「レイシスト!」というのはしょっちゅう聞く罵り言葉なのだが、「人種主義者」という訳語が、ふつうに本を読んでいても出てくる。辞書的には誤りなのだけれど、その誤りが定着してしまっているから、もうそれで通じてしまう。これはちょっとマズいんじゃないかと思った。

もうひとつの「主義」:-cracy

実は、「主義」と訳されるのは-ismだけではない。民主主義、官僚主義などは-ismではない。それぞれdemocracy、bureaucracyとなる。辞書によれば、

-cracy
1 : form of government
2 : social or political class (as of powerful persons)
3 : theory of social organization

-cracy Definition & Meaning - Merriam-Webster

とあって、やはり3種類あるのだけれど、これは-ismほどに差がはっきりとしていない。それでも1は「国家」、2は「階級」みたいな訳語が当たることが多いようで、「主義」は3に相当する。ただ、3に関しては、たとえば例としてあがっていたtechnocracyを「テクノクラシー」とカタカナで訳出するなど、「主義」を避ける場合も多いようだ。民主主義も「デモクラシー」と書く場合も多いし、「メリトクラシー」なんて日本語がすぐに思いつかなかったりもする。

-ismと-cracyは、英語的にははっきりとちがう。確かに-ismの3-bと-cracyの3はよく似ている。ただ、-cracyの方ははっきりと社会組織に関する理論であるとしているのに対し、-ismの方はそういう縛りはなく、「原理体系に従うこと」となる。したがって、-ism系の「主義」と-cracy系の「主義」は、枠組みが異なっている。

そう思うと、たとえば私たちはうっかりと「民主主義 - 社会主義」みたいに言ってしまうのだけれど、これは-cracyと-ismの組になるので、対義語としておかしい。どちらも-ismで揃えるなら「資本主義 - 社会主義」というのが正しいし、-cracyで揃えるなら「民主主義 - 独裁制」あるいは「民主主義 - 官僚主義」ということになるだろう。「主義」という言葉に引っ張られて異質なものを対比するのは、まったく無意味というわけではないけれど、ときに本質を見失う。

重商主義重農主義

なんで近ごろこんなことを思っているのかというと、ひとつには去年の翻訳仕事で拾ったネタにふくまれていたからではあるけれど、もうひとつはすこしまえ、マイケル・サンデルの解説書を読んだことが関係している。いろいろとおもしろい内容ではあったのだけれど、やっぱり「正義」の出処がどうもいまひとつピンとこなかった。このあたりはまた詳しく書こうと思うのだけれど、やっぱりサンデルは哲学の人であって、社会学の人ではないのだな、というのが率直な感想。おそらく社会にとっては正義は存在するのだろうけれど、それをそのまま個人にあてはめてしまうわけにはいかない。そこのところの切り分けと関連づけがうまくいっていないような気がした。ともかくも、社会にとっての正義は、結局は生物としての人間集団の存在ということであって、それは生物学、それも物理学や化学にもとづいた現代の生物学に基礎を置くべきものではないのかなあと思った。そして思い出したのがフィジオクラシーだ。

フィジオクラシーphysiocracyは、通常、重農主義と訳される。これがいろいろ問題含みなのはあちこちに書いてあるから見てもらえればいいのだけれど、少なくともこの単語中には「農」の含意はない。なぜそんなことを気にするのかといえば、かつて私は日本語の文字通りの意味としての「重農」主義者たちと行動をともにしていたことがあるからだ。実のところ、あらゆる経済、というよりも人間の存在の基礎に農耕をはじめとする第一次産業があるというあまりに明らかな事実が往々にして無視されるのに憤りを感じることは、未だに変わっていない。結局のところ、人間は農業が生産する食料の総和が支える以上の数には増えられないのだし、その上に成り立つ経済は単純に食料の分配構造の問題でしかない。もちろん、こんな単純化をすればたちまち非難の嵐を呼び込むことになるわけだが、少なくとも農業の側からみれば、世の中はそのぐらいに単純だ。そこから世の中を見ていこうよというのが日本版の「重農」主義であるわけなのだけれど、実際のところ、これはケネーの唱えた「重農主義」とされるフィジオクラシーとはいささか異なる。

これは、言葉をみればよりはっきりするわけだ。なぜなら、世界史の教科書なんかでは、「重農主義」はコルベールらの「重商主義」との対比で取り上げられる。この重商主義は、英語ではmercantilismだ。つまり、本来は-cracyであるフィジオクラシーを-ismである重商主義と対になる概念であるかのように翻訳したのがおかしいわけだ。もちろん、歴史的に、ケネーらの思想を継承する人々とコルベールらの思想が対立したという事実は、あるのだろう。だが、その対立の軸上にフィジオクラシーを「重農主義」として理解することは誤りを含んでいる。だって同じ「主義」という翻訳語を使っていても、もともとの言葉がちがうのだから。

-ismは、「この原理体系に従う」という「主義主張」である。これに対して-cracyは、社会集団(伝統的には国家)が「こういう原理で成り立っている、成り立つべきだ」という「主義主張」になるだろう。そういう意味では、それぞれが主張する「正義」に関して、すこし意味合いが異なってくる。-ismのほうが曖昧な分だけ包摂する範囲が広いともいえるが、社会集団をより意識した概念が-cracyということになるだろう。

これが、社会集団と正義の関連を考えはじめたときにフィジオクラシーを思い出した理由だ。サンデルはコミュニタリアン共同体主義者)だと書いてあったが、コミュニティというのは社会集団であって、社会学の対象になる。社会学でも正義は問題になるのであって、それは昨年末に訳していた貧困に関する本でも書かれていた。たとえばロールズの引用があったりした(ちなみにその中にあったgoodは「善」のはずなのだが、監訳者の校訂で「財」に変更されていた。いや、それは複数形のときの意味だからって指摘しといたんだけどなあ)。正義はやはり、社会を考えるときに重要な概念になる。そういうことをつらつらと考えていて、自然法則と社会集団としての正義の関連に気がついた。そういうことを過去に言ってた人がいないかなあと思い巡らせて、歴史の教科書に出てくるケネーのことを思い出したという順序だ。そういや、フィジオクラシーについて、そういう説明があったよなあと。

たとえば、「事物の固有の運動として、ケネーが他の論考で挙げる例は、自然界の天体の運行、物体の衝突の法則すなわちケネーの理解した限りでの運動量保存則、七大要素が司る生物の仕組みなどがある。それらが、それぞれ自然な運動によって秩序を形成するように、行政もまた同様な自然運動に任せればよいだろう。ここでのケネーの確信を支えているのは、自然界の秩序と同じ秩序が社会にも存在するという前提である。」(解釈理論からみたケネーの政治経済思想, 1990, 森岡邦康)のような説明を読むと、フィジオクラシーの発想が、自然法則の中の社会法則という捉え方をしているのがわかる。そこを単純なアナロジーでもって説明することの危険性や誤りは古くから指摘されてきたし、また失敗の実例も多い。しかし、人間が生物であるという事実、生物の生存は物理化学的な存在に還元されるという現代科学の立場からは、少なくともその集団である人間社会のいくらかの原理は導かれ得るのではなかろうか。啓蒙思想の時代の科学の理解から現代の科学の理解は相当に変化している。その変化に立って、改めてそういうふうに考えてみたらどうなのだろうか。

 

ここから先の考察は、まだまだ材料が足りてないので、もしもちゃんと勉強できたなら、もう少し先に書くことになると思う。ただ、ひとついえることは、社会にとって仮に「正義」が存在するとしても、それは結局は個人一人ひとりの正義を束縛するものにはなり得ないということだ。個人の存在は社会を基盤としている以上、社会に束縛されるけれど、それでも個人は究極的には自由である。だから、個人の正義は、その人が自分自身で設定して構わない。人間はそのぐらいに自由である。たとえその自由がその人を孤独な場所に連れて行こうとも。