「安心」は安心じゃない - 定訳の厄介さ

専門的な文書、論文であるとか専門書であるとかを翻訳する場合には、まずはその分野の基礎知識がなければならない。とはいえ、依頼が来てからきっちり勉強していたのでは間に合わないから、だいたいは参考文献リストとかから見当をつけて、周辺の文献を大急ぎで斜め読みすることになる。それをやっておかないと、文脈を読み違えてクライアント(たいていはその道の専門家)からお叱りを受けることになる。それでは次の仕事につながらないので、ここは手を抜けないところだ。

周辺の文献を調査するのは、既に存在する訳語を押さえておくためでもある。特に英文和訳の仕事では、たいていの分野で既に先行する何らかの翻訳が存在する。特定の単語についてそういった先行訳を無視すると学問の世界ではまずいことになる。とはいえ、先行訳が必ずしも適切とは限らない。そういう場合にはきちんと先行訳の存在とそれがなぜ依頼の文献に適切ではないのかのコメントを添えて納品するようにしている。最終的にどちらを採用するかは、たぶん私の知らない学者の世界の仁義によるのだろう。

この先行訳が、マイナーなものであれば、それで済む。たとえば社会学の方で出てくる比較的新しい概念である「proportionate universalism」に関しては、「比例的普遍主義」(戸渡,2017)、「比例的普遍アプローチ」(医療科学研究所)、「社会弱者に配慮したユニバーサル・アプローチ」(近藤,2018)、「比例的全体アプローチ」(東北大学,2016)、「傾斜をつけたユニバーサル・アプローチ」(福田,2018)などの訳語があるようだが、依頼された文献の翻訳でそのどれをとっても、あるいはそれらとはまったく別の訳語を選択しても、それはそれで大きな問題はないだろう。もっと古くからある、たとえば「social mobility」に関しては「社会移動」「社会的移動」「社会的流動性」「社会流動」「ソーシャルモビリティ」「社会可動性」「社会的可動性「社会移動可能性」などが1950年代から使われていて、どうも特定の学者の流派によってそれぞれ特定の使われ方をされている気配がある。けれど、それはマイナーな分野だけにその業界内ではしっかりと意味が伝わるようだから、それはそれで問題にならない。

ところが、先行訳がもっとメジャーなものになると、翻訳者泣かせになる場合がちょくちょくと出てくる。特に、当初は翻訳語であったものが日本語としても定着し、公式の定義が教科書にも載るようなものが、案外と辛い。こういう翻訳語を定訳というが、定訳には案外と困らされることがある。

 

もちろん、定訳には便利なところもある。特定の英単語が特定の日本語とイコールで結べるわけだから、極端な話、検索置換機能で置き換えることもできるぐらいだ。だが、一般に、ひとつの英単語とひとつの日本語の単語がイコールの関係になることはあり得ない。専門分野内だけでは定訳としてそれが成り立つのだが、それでも単語のもつニュアンスや広がりは、実際には専門文献でもかなり柔軟に用いられている。そういう端っこのところにくると、ニュアンスがうまく伝わらない場合も出てくる。そういう場合は語を補ったり補注を入れて逃げることもできるが、苦しくなってくるのは、学問の広がりだ。ひとつの分野で用いられている概念が別の分野に広がりをもって用いられる場合や2つの分野でそれぞれ別々の定訳があってその境界領域で用いられている場合など、どちらをとっても意味がうまく伝わらなくなり、さらに補うにも補いようがない、というようなケースが発生する。

たとえば、conflictという単語は、心理学では「葛藤」という定訳があり、これはもう動かせない。一方、法律関係では「抵触」や「対立」が使われる。さて、社会学関連の文献で、離婚に伴うひとり親の困難について語る場面でこれが出てきたとしよう。この場合、conflictは社会制度的な摩擦であったり矛盾であったりすると同時に、当事者間の紛争であったり、心理的な葛藤であったりする。それを英文でひとつの単語で表現しているとき、翻訳でひとつの単語を選択すると原文の意味が伝わらなくなる。さりとて定訳を無視して説明的な文を補うと、用語としての正確性を欠くことになる。このあたりになってくると、長々とコメントを書いて専門家に下駄を預けるしかなくなる。

 

もうひとつ定訳で困るのは、往々にしてそれがどうにも不適切なまま定着してしまっていることだ。たとえば、povertyの定訳は「貧困」であり、それ以外の訳語を当てるとほぼ誤訳ということになるのだけれど、これが不適切であることは以前に書いた。

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

povertyという概念を、ほぼ意味が等しい既に存在する「貧困」という漢語に当てはめたのは決して悪い翻訳ではなかったのだろうが、そこに原語にはない「困」のニュアンスがくっついてしまった。そのため、貧困について語る議論に根本的な行き違いが発生している。こういう例はけっこう少なくない。

たとえば、educationの訳語として「教育」が明治政府によって採用されて、これはそれ以外の翻訳が認められないほどの定訳になっている。しかし、それが正しく英語と等しい概念を伝えられているかどうかに関しては、実は多くの論文が書かれていたりもする。

そして、「安全と安心」は、「safe and secure」あるいは名詞形での「safety and security」の訳語として定訳になっている。これはこれで便利である。ちなみに私が初めてこの定訳に気づいたのはまだ専門的な文書の翻訳をはじめてから数年程度しかたっていない時期に看護学の分厚いテキストを翻訳したときだった。safeの「安全」はともかく、secureに関してはどんな訳語が当てはまるべきか、ずいぶんと悩んだ。悩みながら文献の下調べをしていて、それが「安心」だとわかったときの拍子抜けは、いまでも覚えている。「え、それでよかったんだ」という驚き。

なぜ悩んだかといえば、このsecureという単語、辞書的には

1. a: free from danger
    b: affording safety
    c: TRUSTWORTHY, DEPENDABLE
    d: free from risk of loss
2. a: easy in mind : CONFIDENT
    b: assured in opinion or expectation : having no doubt
carchaic : unwisely free from fear or distrust : OVERCONFIDENT
3.  : ASSURED sense 1

https://www.merriam-webster.com/dictionary/secure

となっていて、「危険がない状態」「安全が担保された状態」「損失のリスクがない状態」であるとされているからだ。それを表現する日本語は、おそらく「安全」だろう。しかし、「安全」は、既にsafeの訳語として使われている。そうなると、safe and secureは、両方合わせて「安全」と訳すべきではないのかと、そんなふうに悩んだのを覚えている。

だから「安心」という定訳には少なからずの違和感を覚えた。けれど、よく考えたら、「危険がなく、安全が担保された」ときに人は「安心」する。ということは、ここは「安心」でも、結果的な状態を見ればあながちおかしなことではないのかなと納得した。そして、実際に、その後も他の分野(たとえば機械の運用マニュアルとか)で「安全と安心」がしっかり使われているのを知るにつけて、私もこの定訳に「安心」した。なるほど、何も考えずにsecureが出てきたら「安心」としとけば十分に意味は伝わるのだろうと。

 

けれど、最近になって、この定訳はおかしいのではないかと思うようになった。なぜなら、日常的に使われる「安心」は、決して「安全が担保された状態」のことではないからだ。そうではなく、「安全が担保されたと思いこんでいる状態」である。そして日本では「安全に関する責任を誰かに預けることができた(あるいはそう思い込んでいる)状態」のことである。そういう「安心」は、絶対にsecureではない。

そしてもちろん、ここ数ヶ月は寝ても醒めても影響を感じざるを得ないCovid-19に際して、「安心」なんてのはありえないことを強く感じている。だからこそ、こういうTweetにも、納得してしまう。

 医療の専門家が、secureの重要性を知らないわけはない。だから、ここで語られている「安心」は、専門用語ではない。そうではなく、専門用語の訳語として定着し、そして、一般にはまったく別の意味で用いられるようになった「安心」である。専門的には、secureには必ず根拠が伴わなければならない。科学の分野では、実証的なデータが伴わなければならない。それがない「安心」は、とても「安全が担保された」とは言えない、「心を安らかにする」という本来の漢語としての意味合いで使われている「安心」である。そういった日常的な意味合いの「安心」を、あたかも国際標準で重視されている専門用語としての「安心=secure」であるかのように偽って用いることが問題である。それはたしかに困る。

 

困るのだけど、その根本は、やっぱり定訳が不適切であることから来ていると思う。けれど、定訳というのは一翻訳者が「おかしいよ」といって変更できるものではない。ほんと、翻訳という仕事は因果なものだと思う。

 

 

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【追記】

id:TakamoriTarouさんから、ブックマークコメントを頂いた。

「安心」は安心じゃない - 定訳の厄介さ - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

本論は同意だけど「知らないはずがない」から「専門用語以外で使っている」が良くわからん。それって学術的に定義された用法や定義知っててあえて誤用して煽っているって事だけど、そこまで不誠実な人ではないでしょ

2020/04/16 14:19

b.hatena.ne.jp
本論は同意だけど「知らないはずがない」から「専門用語以外で使っている」が良くわからん。それって学術的に定義された用法や定義知っててあえて誤用して煽っているって事だけど、そこまで不誠実な人ではないでしょ

 

ああ、やっぱり雑な仕事をしてはいかんなあと、まずは反省。本文中に引用した岩田さんのTweetを見たとき、「ああ、これは日頃思ってることを書くべきだ」と思って後先考えずに書き始めたのだけれど、洗濯物はあがるわ、学校閉鎖で自宅にいてしかも寝起きの悪い息子を起こさなければいけないわ(起きたらおきたで飯を食わせなければいけないわ)で、後半急ぎすぎて、自分でも何を書いているのか整理されないままアップしてしまった。その後少しは手直しをしたのだけれど(TakamoriTarouさんが見たのはたぶんその後)、やっぱり意味不明だったのだろう。ものを書くときには一晩おいて推敲しろという先人の教えを蔑ろしてはいけない。

さて、コメントの件、私は岩田さんじゃないのでポイントを外しているのかもしれないが、私の理解したTweetの意味は、

いま、世間で人々は「安心」を求め、政府の政策もその「安心」を与えようとしている。

      ↓ 

しかし、その「安心」には何の根拠もない。

      ↓

学術的に定義される「安心=security」は、「安全=safety」を確保するための根拠のある手段である。

      ↓

だとしたら、そこで語られている「安心」は、学術的な意味でのsecurityではない。

      ↓

であるなら、そんな「安心」は要らない。

      ↓

本来の意味での「安心=security」は、「安全=safety」を確保するための根拠のある手段なのだから、まずは「安全」にフォーカスして議論すべきではないか。そのためには事実にもとづくことが重要であり、そのためには情報公開が出発点になるだろう。

ということ。これに則ってブログ記事を書こうとしたのだが、それが雑になったのは上述のとおり。

なぜ私が岩田さんの言わんとすることを上記のように受け取ったかと言うと、それは岩田さんが専門家である(したがって「安全と安心」がスタンダードであることを十二分に理解しているはずだ)ということと、岩田さんが英語に堪能である(彼が一躍時の人となったダイヤモンド・プリンセス号のYouTube動画は、英語版のほうが遥かにわかり良かった)ということから。そういう人の頭の中には、securityと「安心」の落差がおそらく意識されているだろうと思われるし、その上で「安心は要らない」というのなら、その「安心」は、専門的な術語から逸脱して誤用されている(日常語としては誤用ではない)「安心」にちがいないと推測できるから。

 

まあ、このあたりは私の思い込みなのかもしれない。私はかつて編集者としての仕事で悪文を読み込むことに慣れてしまったので、かえって深読みをしすぎてしまっているのかもしれない。 

いずれにせよ、教訓は、言葉はなるべく正確に使おうということで、やっぱり家事をしながらモノを書くのはやめておいたほうが…

 

TakamoriTarouさん、ありがとうございます。