校正やってた頃の思い出

大学を途中で辞めてバイト生活をはじめてしばらくして、私が自分の仕事として選んだのは編集だった。もう40年も前のことだ。まだDTP以前の時代で、主流は写植だった。電算写植がそろそろ出てきていたけれどまだ虫眼鏡でドットが見えるぐらいの解像度で評判は悪かった。むしろ活字のほうがきれいだということで、実際、活版清刷り*1の仕事なんかもそこそこにあった。そんな時代のことだから、現代の常識とはちがう。もっというと、出版関係のオペレーションは出版社によってちがうし、業界によってもだいぶ常識がちがう。たとえば私のいた学参業界なんてのは著者と編集者の境界線が非常に曖昧だった。編集プロダクションは著者を起用する前提で原稿料と編集料の両方を請求するのだけれど、手練の編集者になると著者への依頼はせずに自分で原稿を書いてしまい、両方とも懐に入れるなんてことをやってた。出版社もちゃんとした原稿ができればそれでOKという、ちょっと他の業界の常識では考えられないようなことが通っていた。まあそんなぐらいだから、この昔話も一種の与太話と思って聞いてもらえればいい。

なんのことかといえば、「校閲は何をしているのか」の話題だ。

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編集業をやっていた時代、私は「校閲」にかかわることはなかった*2。信じようが信じまいが、学参業界には「校閲」という概念がほぼなかった。数学の問題集とかは「あのプロダクション、信用できないからいっぺんゲラ見てもらえますか」みたいなのはあったけど、それは校閲というよりかなり程度の低い仕事だったし、こっちも校閲とは思っていなかった。

私は学参仕事が嫌いだったから、極小プロダクションである会社にいたあいだも、そして会社を辞めてフリーになってからは特に、できるだけ学参以外の仕事を優先するようにしていた。だから、学参業界以外の仕事もポツポツとはやってきた。最も嬉しいのは翻訳者としての仕事だったが、これは数えるほどしかなかった*3。主にもらえる仕事は校正だった。

校正と校閲はどうちがうのか。その説明のためには、その時代、私が関わっていたいくつかの出版社の業務フローの概略を見るのが手っ取り早いだろう。ちなみに、このフローは企画ごとにかなり変わる。大まかな話と思ってほしい。

まず、著者からの原稿を編集者が読む。「え? 執筆依頼とかは?」と思うかもしれないけれど、その界隈では既に出来上がった原稿から企画が出発することが多かった。著者の持ち込みであるとか、あるいはどこかの雑誌に連載されていたエッセイの単行本化であるとかだ。全集モノなんてのもあった。翻訳の場合は原書の持ち込みからスタートすることもあるのだけれど、実際の企画は訳者が翻訳原稿をあげてこないと始まらない。翻訳中の訳者は実は非常に不安定な立場で、出版社との契約は存在せず、ただ「原稿もってきてもらったら検討します」という口約束程度のことだった。だから、いい加減な原稿をあげたら「これじゃウチは出せません」と突っ返される危険もあったわけで、それなりに気合を入れて訳す必要があった*4。出版契約のことはいまもときどき話題になるが、原稿からスタートするあの界隈の感覚だと、出版契約が執筆よりもあとになるのは当たり前じゃないかという気になる。まあ、時代もちがうんだろう。

ともかくも、原稿があがってくると、原稿整理ということになる。これは2種類の意味がある。まずひとつは、原稿に変なところがないかのチェック。明らかな誤字・脱字は著者に断りも入れずに朱を入れるし、(私の感覚ではけしからんことなのだが)段落分けなんかも著者に無断で入れる。用語・用字の統一なんかもする。内容に疑義があれば、甚だしいものはこの段階で著者に質問し、場合によっては書き直させる。写植の時代には特にこの段階で直させておくのがいちばんの経費削減になった。写植はゲラでの訂正にコストがかかるからだ。後に電算写植、さらにDTPになると、「ここは初校で著者に直させよう」みたいな判断が増えていった。なにせ、いまとちがってほとんどが手書き原稿の時代だ。読みづらい原稿に朱を入れすぎるとわけわかんなくなる。ゲラで話したほうがわかりやすい*5

原稿整理のもうひとつの意味は、写植屋に渡すための指定作業だ。写植屋は、基本的には指示通りの文字を指示通りの体裁で印画紙に焼き付けるのが仕事だ*6。そのためには、写植を打てるような原稿にしておかねばならない。基本級数や行間の指定は1回やっておけばいいのだけれど、本文途中の書体変更やルビ指定、割注の指定とか、けっこうやることはある。そういうのが印刷入稿前の編集者の仕事。

次に写植屋からゲラとよばれる校正紙があがってくる。ここで校正の仕事になる。校正は、概ね3通出てくる。1通は著者に渡して著者校とする。ちなみに、著者校ではロクな赤字が入らない。なにせ著者は自信をもって原稿を入れてるわけだから、写植屋の打ち間違いのようなことでもなければ赤字を入れる動機がない。そして著者は編集のプロではないから、写植ミスはほとんど見落とす。なので、著者校に赤字はほとんどないものと思えばいい。もちろん例外はあって、初稿ゲラに原稿にはない文を挿入したり、原稿を大きく書き換えるような訂正を入れてくる著者もいる。こういうのは編集者泣かせだ。「推敲は原稿段階でやっといてくださいよ」とぷりぷり文句を言うことになる。

校正紙の1通は編集者が手元に置く。一応、編集者自身も読むのだが、原稿との突き合わせのような面倒なことはやりたくない。ここで3通目のゲラが使われる。私のようなフリーの編集者に「校正お願いしますね」と仕事が降ってくるわけだ。単価とか忘れたけど、安い仕事の場合、ページ500円なんてのもあったように思う。原稿とゲラを突き合わせて1文字ずつエラーがないかを読んでいく辛気臭い仕事だ。私がやっていたのはそういう仕事だ。

この「校正」という仕事、実は印刷屋の内部にもある。だから1回はそういう校正を通ってゲラが出ているわけだ。ちなみに印刷業界的には印刷屋がやる突き合わせが「校正」なのだけれど、出版業界的には印刷屋のやる校正は校正のうちに入っていない。「内校」といって、そこは写植作成プロセスの一部とみなしている。印刷業の人と話していてときどき噛み合わないことがあったのを覚えている。

編集側でやる校正は、ゲラとの突き合わせだけではない。だいたい標準的なプロセスとしては1回目は突き合わせをやり、2回目は原稿を脇に置いて読む。これを素読みという。素読みでは、原稿整理段階で見落とした誤字・脱字や用語・用字の統一漏れなんかをチェックする。そして、この段階ではじめて本の内容を読むことになる。「なるほど、こういうことを著者は言ってるんだな」みたいなことを、一読者として感じることになる。そして3回目も素読みだけれど、これは自分が入れた朱もふくめて、作品を批判的に読んでいくことになる。当然、内容がわからなければ、「ここは読んでもわかりません」とコメントを入れる。事実関係がちがうと思えば、その旨をコメントする。著者の思い違いがあると思ったら、遠慮せずにコメントする。

校正者としては、とにかく赤字やコメントは入れられる限り、入れる。遠慮はしない。なぜなら、遠慮する役割は校正者にではなく、編集者にあるからだ。編集者は、いろいろな事情で修正を見送ることがある。それはたとえば著者に対する力関係のような政治的なものである場合もあるし、「こんなに修正したら写植のなおしの請求で予算がぶっ飛ぶ」みたいなベタな配慮である場合もある*7。だが、そういう判断をするための素材としては、「最大限でこのぐらいの直しが入る可能性がありますよ」と指摘してやるのが校正の仕事だ。だからどんな権威の書いた作品であっても、自分がダメだと思ったらどんどんダメ出しをする。それは文字レベルの場合もあれば文法レベルの場合もある(ここは文章が長すぎる、みたいに)。いまの言い方だとファクトチェックにかかわる部分もあれば、言い回しがおかしいとか、この熟語はここでは使えないとか、そういったこともどんどんコメントとして書き込む。これだけやってページ500円とか……。

そうやって初稿戻しが終わると、やがて再校ゲラがあがってくる。これは基本的にはなおしがちゃんとなおっているかどうかのチェックだが、ここでも初校同様のコメントを入れることがある。まあ、たいていの場合は初校時にカタがついている。そして、校閲が入るのはたいていこの再校のゲラだ。そのプロセスの詳細は、外部の校正者である私にはわからない。たいていは、「○○さんに読んでもらったらOK出ました」とか「△△先生からあそこ、やっぱり訂正しろってことでしたね」みたいな話を編集者から聞いて、「ああ、校閲が入ったんだな」と思うぐらいだった。ちなみに編集者がわざわざ個人名をあげるぐらい(あるいは「詳しい人に読んでもらったら」みたいに、明らかに「お前ら校正者レベルの人じゃないんだよ」みたいにいうことから)、校閲担当者は文字レベルのチェックとは別に、内容に関してきっちりと批判的に訂正を入れられる権威者であるようだった。長いこと校正の仕事をしていれば、あるいはそういう権威側に出世することができたのかもしれない。けれど、私は結局、30代に入ってすぐにその世界を離れてしまった。

 

埒もない思い出話だが、最近は「校閲」もずいぶんと格が下がったものだなと思わなくもない。とはいえ、現実としては、長年の学識経験よりも、むしろネットでどこまで掘れるかの根気と技術がいい校閲の条件であるような時代でもある。もちろん、「校正」である私だって、疑問があれば1日図書館にこもるようなことだって、あの時代でもやった。けれど、図書館であれやこれやと調べるのと検索で原著論文を引っ張り出すのと、どっちが目的のものに直接たどり着く上で効率がいいかは論をまたない。けっこうな時代になったものだ。とはいえ、あの図書館の雰囲気、それはそれで楽しかったなあと…

 

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【追記】

そういえば、以前、こういう話も書いた。

mazmot.hatenablog.com

*1:活版の技術で文字を組むのだけれど、活版で直接印刷するのではなく、オフセット版の版下を活版で刷る技法

*2:皮肉なことに、いまは翻訳者として論文の校閲を依頼されることがある。正直、儲からない仕事なのでできるだけ避けているが、おもしろい部分もあるので、たまにやっている

*3:自分で売り込んだ最初の本のあと、共訳で2冊、単独の訳で1冊の本がこの時代の全てだった

*4:ちなみに私が訳した2冊めの本は、原書を持ち込んだ翻訳者がロクな仕事をしなかったので、翻訳を他に頼みますということでやってきた仕事だった

*5:こういうことが実質編集作業の後ズレ化を生み、それが営業の都合と干渉する中で、「校正・校閲は何やってんの?」というような書籍が店頭に並ぶことにつながっているのかもしれない

*6:だから気を利かせて誤字を訂正してくるような写植屋にはむかっ腹が立ったものだ。言われたとおりにやれよと。もちろん、原稿段階で誤字を訂正できなかった自分のせいではあるのだけれど

*7:もちろん、「校正のまつもとはこんなこと言ってるけど、それはあいつの読み方が悪い」みたいな判断もある。そこまで含めて、こっちは大げさにやっている