非政治的存在がない世界におけるノンポリ

「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と論じたのは紀貫之だが、そんなこといわれたって、誰もが歌人であるわけはない。私だって三十一文字のうたはつくらない。平安の雅な世は知らず、現代では、歌人のほうが希少種だ。だがもちろん、貫之の意図はそうではない。蛙の声に歌を感じる貫之は、人々が日常発する言葉の中に「歌」を見る。ポップソングや演歌やラップも歌であるのは当然として、もっと幅広く、声として外に出てくる人の心の端を歌というのだろう。日常に思わず口をついて出る心の叫びこそが歌だ。なんならTweetだってブコメだって歌である。そういう意味では、たしかに歌をよまないひとはいない。

人間は政治的な存在である、というときの「政治的」の意味も、似たようなものだ。たとえば私が「キムチはどうも苦手だ」と言ったとして、そこにはひとかけらも政治的な意図はない。うまいと思ったことがないとは言わないし、それどころか「たしかにこのキムチは絶品だ」と感じたことも何度かはあるのだけれど、やっぱり振り返ってみて、キムチはどうも苦手だ。自分の食生活の中にうまくなじんでこない。アトピー的な体質で刺激物に弱いということもあるのかもしれない。非定型発達気味でにおいに過敏であるせいかもしれない。進んで食べたくはないし、できれば食卓にはないほうが嬉しい。ほぼ純粋に、味とにおいに関する好みの表明だ。けれど、これはほとんどの場合、政治的な発言となる。なぜなら、キムチは朝鮮半島の文化であり、その地は日本が長らく不法に占拠していたものであり、そしてその関係で日本には根深い民族差別が存在するからだ。だから、「キムチが嫌い」発言は、民族差別を容認するもの、あるいは、そういった民族差別に対する意識が欠落しているものであるという政治性をおびてしまう。

そこで私はよっぽど必要に迫られない限りは「キムチが苦手」みたいなことは言わないようにしている。だが、それもまた、政治的な行動であるわけだ。政治的な意図と無関係な自分の嗜好を発言することによって政治的な誤解を受けることを避けたいという動機は、そういう誤解を受けることによって自分が政治的に不利な立場になることを避けたいからに違いない。それを政治的と言わずしてどうなのよ、ということだ。

以前にも書いたのだけれど、多様性なんか知ったこっちゃない空気が支配していた1970年代、政治的立場は右と左とノンポリに分類されていた。ノンポリは当節あまり耳にしない言葉だが、non-polotical の略語で、「非政治的」なひとということだ。つまり、右だの左だのかしましく言う人に対して「自分はそういうのに興味ないから」という立場を「ノンポリ」と(少なくともそれを自称として使う人は)表明していた。もちろんそこにはいろんな微妙なニュアンスがあり、「自分は心情的にはあなたの言うことには同調するけれど、一緒にゲバ棒を振るのはイヤだ」というような場合も「ノンポリです」みたいに言ったのだと思う。あるいは、「あいつはシンパだと思ってたけどノンポリだったわ」みたいに侮蔑的に言われたのだと思う(まあ、私はゲバ棒振ってた世代ではないので、このあたりは想像だけど)。

そして、この「ノンポリ」が、決して非政治的でないことは、古今和歌集仮名序を持ち出すまでもなく、当時から指摘されていた。「ノンポリプチブルであり、人民の敵である」みたいなアジビラがそこらに舞っていたような気もする(あくまで個人の印象です)。政治対立があるときにその対立から中立であると表明することは、多くの場合、力のある側を利することになる。だから、「ノンポリ」であることは、結局は権力者側につくという政治的選択である、と、激しく批判されたわけだ。

しかし、当のノンポリ枠であった自分自身の感覚から言うならば、ノンポリは、本当に政治に対して関心がないひとであった。なんでもかんでも「闘争だぁ」みたいに言うのはちがうんじゃないのと、違和感を覚えているひとであった。そりゃ、理屈で「ペナントレースで上位チームの引き分けは1勝の価値があるというのはわかるんやろ」みたいに詰められると、「まあ、そりゃそうやろな」と納得しないわけではない(あ、実際にはそういうことじゃないからね)。自分がノンポリとして生きることが結局は保守政権を生きながらえさせることになるんだと言われて「そりゃそうだなあ」と思っても、だからといって政治的な関心が高まるわけじゃない。選挙に行って対立候補に一票入れるぐらいでお茶を濁しても、「これってきっと、政治的なひとからは批判されるんだよなあ」と思いながら、「ほかにどうせいっちゅうねん、知らんもんは知らんがな」と思うしかない。だって、本当に関心がないのだ。そういう意味で、「ノンポリ」の本人の感覚は、嘘偽りなく、非政治的である。

本人の感覚が非政治的であることは、実際にそのひとの存在が非政治的であることを意味しない。社会生活から逃れられない人間という種にとって、すべての個人は政治的な文脈の中に存在する。だから非政治的な動機で始まった個人の行動は、多くの場合、政治的な意味合いを持つことになる。次のエピソードはきっちり取材したわけではないので寓話と思ってほしいのだが、1970年代末だか80年代初頭だかに、生徒にダンスを教えたいと思った体育教師がいた。サタデーナイトフィーバー以来のダンスをフィーチャーした映画がヒットし、フラッシュダンスのブレイクへとつながっていく時代だった。ディスコにルーツのあるそういったダンスを生徒にやらせてみたら、授業に対する態度が一変した。これはおもしろいと、彼女は思った。ジャズダンスや後にストリートダンスと呼ばれるようなダンスを自分の授業の中にとりいれることにした。そのためにわざわざアメリカにまで勉強にいった。生徒がのってくると、自分もわくわくする。こんな楽しいことはないと思った。ところが、これに対して教育委員会からストップがかかった。授業でダンスを教えることはまかりならんという。なぜですかと反論すると、学校が乱れるからだという。時代は「学級崩壊」とマスコミが騒ぐようになっていく頃だ。いや逆ですよ、それまでやる気のなかった生徒がダンスをとりいれたら生き生き輝き始めたんですよと反論しても、教育委員会聞く耳を持たない。最終的に彼女は教師をやめなければならなかった。数十年がたってダンスが教育課程に正式に採用されているこの時代に高校の校長としていまも現役の彼女のそこからの再出発の物語は、彼女の個人的な感覚としては「ダンスが好きで、それを続けたくて頑張ってきた」という完全に非政治的なものであった。しかし、外側から見ればそれは政治的な闘争であり、実際に、教育行政を変えてきた。個人の感覚が非政治的でありながら、その存在が政治的である事例として、典型的なものだと思う。

トップアスリートが、政治的な争いに巻きこまないでほしい、あたたかく見守ってほしいと訴えるとき、その心情に嘘はないと思う。競技者がその競技に没頭し、なんら政治的な関心がないとしても、なんの不思議もない。むしろそうあるべきかもしれない。道を極めるひとは、そういうものだ。けれど、それで当人が政治的な文脈から逃れられるわけではない。沈黙を貫いても、あるいは「自分は政治とは関係ないのだ」と主張しても、それは政治的な文脈のなかで解釈され、意味をもつ。この世の中はそういうことになっている。

そのことはもう、歴代の社会学者が明らかにしてきたことで、私は何ら異議を唱えるつもりはない(もしも「本質的に非政治的な存在はない」という命題に納得できないひとがいたら、社会学の教科書を読んでもらえればいいと思う。ごく最初の方に書いてあるはずだから)。ただ、そこで、「じゃあすべてのひとは意識的に政治的であらねばならないのだろうか」となると、それはそれでまた少しちがうんじゃないかと思う。

たとえば、ある政治的な関心の低い人が、それでも特定の政治的立場の人に与したくないと思ったとする。そして、自分の心情を発言することがその人々を利することになると客観的に理解できたとして、はたしてその人は、それでもって自分の発言を抑制すべきだろうか。あるいは、自分の心情を偽って、自分の感じていることとは異なることを発言すべきなのだろうか。もちろん、そうしてならないということはない。とくに、政治的関心は低くとも周囲の空気に敏感な人であれば、そんな気遣いもするだろう。けれど、そうすべきなのだろうか。あらゆるひとは空気を読んで行動しなければならないのだろうか。

自分の行動が意図せぬ結果につながることを指摘されると、私達は戸惑う。混乱し、ときには絶望する。たとえば、「うまそうにハンバーガー食べてるけど、それが熱帯雨林を破壊してることはどう考えるのよ」みたいにいわれたりしたら、怒るか、シュンとなるか、悲しむか、嘲笑するか、ひとによって状況によってそれぞれだろうが、私達はなんらかの感情を突き動かされる。だれだって、そんなことを知らされたくはない。あなたのスマホは劣悪な労働環境のもとでつくられているんだよといわれて気持ちがいいひとはいない。現実は辛辣だ。それでもひとは生きていかねばならない。動物を傷つけたくないからとヴィーガンになるひとばかりではない。人間の存在が地球にとって脅威だからと反出生主義にはしるひとばかりではない。そして、「それを知ったところで自分にはどうしようもないではないか」とひらきなおるひとを、私達は責められない。だれもが大なり小なりそういった無神経さをもたなければ生きていけないのがこの現実世界なのだし、それでもそれを肯定するものだけが自然選択の結果生き残って現人類をつくっているのだから。

だから、「あなたの非政治的な行動が政治的な帰結を生むのですよ」と、氷の刃のような事実を突きつけられても、「うっせいわ! だからどうやっちゅうねん」と突っぱねることは許されていいと思う。そしてそうやって傷つくひとに対して同情し、それを守ろうとすることもあっていいと思う。ノンポリの心情としては、「なんでもかんでも政治的な文脈に持ち込むなよ!」と怒りの声を上げるのも、たとえ現実は好むと好まざると政治的であることがわかっていてさえ、頷けることであったりもする。

結局は、自分がどこまで耐えられるかなのだろうなと思う。たとえば、家庭教師である私の仕事は、原理的には非政治的だ。微分の結果が政治的立場によって異なっていたら、私の仕事は成り立たない。けれど、カリキュラムのきめられ方は相当に政治的であるし、学校教育の現場の様子は政治でなければ解決できない問題を多数抱えている。百分率は小学生にではなく高校生に教えたいし、鶴亀算や植木算は歴史的エピソードとして社会科で扱いたい。英語は世界標準的な方法で進めたいし、日本史は世界史的な視点から見渡したい。そういうのは個人的な「こっちが好き」でしかないのだけれど、実際にそれを実現したければその動きは政治的にならざるを得ない。それを嫌うなら、小さく隠れてやるしかないし、それもまたひとつの方法だ。どんなバランスでどれだけやるのかは、自分の器量がどれだけなのかに依存している。

私は政治は嫌いだ。このブログの最初っから、「政治なんて大嫌いだ」というカテゴリーをつくってきているぐらいだ。できるなら逃げ回りたい。けれど、自分の存在が政治的にならざるを得ないのは意識している。だから、ごまかしたり、ウソをついたり、ときには大胆になったりと、いろんな策略を弄して、なんとか潰されないように生きている。適者生存なんて嘘っぱちで、生き残るのは結局、卑怯でずるい奴らだ。生きるためには、それもまた一興。