金がないのは、かせげないからだ

かせぐにおいつく貧乏なし、とはよくいったものだが、最近ではどうも貧乏の足がはやくなったのか、ときどきおいつかれてしまう。経済の基礎代謝があがっているからだ。過去30年ばかりも賃金はあがっていないのに、固定的に出ていく金額はジリジリとあがってきている。そりゃ、そのぶんだけ便利にもなったし快適にもなった。けれど、「生活が苦しいからその便利さと快適さをがまんするんで支出をへらしたい」といっても、世間標準がそれをゆるさない。具体的にいうなら、通信費が高いからといってスマホをやめたら、たちまち仕事がなくなるだろう。クレジットカードをつかいすぎるからと解約したら、日常の光熱費の支払いにもこまる。むかしのように6畳一間の安下宿があるわけではないし、外出するならマスクだってつけなきゃならない。ラジオで必要な情報がとれる時代じゃないから、アマゾンプライムに課金ぐらいはしとかなきゃいけない。文化水準はあがり、楽しみがふえ、生活も豊かになったかもしれないけれど、お金がかかるのはさけられない。自分ひとりがぬけるわけにはいかない。

その一方で、平均をとったら賃金はかわらないのかもしれないが、実感としては下がっている。最低賃金の見直しがあったここ数年はようやくすこし変化があったのかもしれないが、2000年代、2010年代の下りかたはきびしいものがあった。それは非正規雇用の拡大だ。正規と非正規なんて本来制度上分けられるものではないのに、実際にはそこで身分の一線が引かれる。その線の向こうがわで賃金がすこしずつ上がる一方で、こちらがわでは時給が下がる。統計的な根拠があっていうのではない。職安にかよった肌感覚としてはそうだった。平均賃金が下がらないのに目のまえの手のとどく仕事の時給が下がっていくのは、格差がひろがっていくからだというのがよくわかった。

こんなふうに賃金が下がっているのは日本だけだよというのが、ネットのニュースでみる情報だった。だいたいは「日本の政治はなってない」という愚痴とセットになって、世界のなかで日本の賃金だけがあがらない状況がグラフとともにしめされることがおおかった。なるほど、そうかもしれないとおもっていたが、どうもこの本の第9章を読むとようすがちがう。「子どもの貧困とライフチャンス」のことだ。

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子どもにとって、仕事と賃金は2とおりの意味をもつ。ひとつは親の収入だ。子育て世代の親はまだ若いことがおおく、若い人の賃金はそのまま子どもたちの生活のゆたかさにかかわってくる。もうひとつは生涯の経済的地位をきめることになる職歴であり、その第一関門は就職ということになる。

就職に関するかんがえかたは、日本では過去数十年のうちに完全に様変わりした。若い人と話していて「一生そこにつとめるつもりで就職先をえらべって親はいうんですけど、そんなの現実的じゃないでしょ」みたいなことをきいた。安定就職をめざそうにもそんな職場のほうがすくないのが現代の労働市場だ。そして、おどろいたことに、それはイギリスでも大なり小なりにたようなことであるらしい。「就職の概念さえ、非常にちがった意味合いをおびるようになりつつある。…これには 2 通りの意味合いがあって、まず、現代の若者にとって不完全雇用が常態化しつつある」ことで、「次に、不安定雇用が増えてきていることだ」とある。不完全雇用というのは仕事を見つけることはできるのだが、その仕事がパートタイムや短期雇用のような非正規型の契約である場合だ。イギリスでは「16~24 歳の若者の不完全雇用率は 20 パーセント付近」とされていて、ほかの世代にくらべて倍以上の高率になっている。不安定雇用というのは、たとえば、「会社都合で一方的に呼び出され、需要の大きいときには長時間労働、そうでないときには短時間労働もしくはゼロ時間労働」という雇用形態である。これは「ゼロ時間契約」とよばれるのだけれど、「ゼロ時間契約で雇用される労働者の数は増加していると推計され 、最新の推定ではイギリス労働力の 2.4 パーセントがゼロ時間契約であるという。そして、若者は中高年層に比べてここにあてはまる比率が高い 」とのことだ。ひどい話だとおもったけれど、よくかんがえたらこれは日本の「アルバイト」で常態化している雇用形態だと気がついた。シフトは雇い主側の都合で入れられる。月に何時間とか定時が何時から何時とか、そういうことがきめられた雇用形態ではない。さらに不安定雇用の例としては、「ギグ・エコノミー」とされるUberのように「断片的な労働を組み合わせて当座をしのいでいる。これが現代の雇用構造や若者の個人的な経済をどうにかこうにか下支えしている」とされている。

たしかに、失業率は下がっている。ニートという言葉の本家はイギリスで、雇用されているわけでも学校にいっているわけでも職業訓練を受けているわけでもないひとの意味で、完全に仕事からはじき出された人びとをあらわす概念としてつかわれてきた。この数字は、どんなかたちであれ仕事がふえればへる。アルバイトでもしていれば、それは統計上はニートではない。不完全雇用、不安定雇用でも、雇用されていれば失業者ではない。また、必要があろうがなかろうが、学校に籍があったり職業訓練を受けていたりすればニートではない。そこで、統計上の失業率を下げるため、若者を適性や将来性、安定性にかかわらず、いずれかの状態におしこむ政策がイギリスではとられてきた。たとえば失業給付金は、仕事をしなくてもどうにか暮らせる状態をつくるので、就業への意欲を下げるとして、給付条件が強化されてきた。あるいは、16歳から24歳までの若年層にたいして最低賃金制度からの適用除外を用意するなどの方法で、若者にたいする求人をふやそうとしてきた。その結果、不本意でも就業への道はひらかれ、失業率は下がる。

しかし、そこでえられる仕事は、安定にはほど遠い。とくに就業とも訓練ともつかない「6ヶ月の無給研修」とか、中世の徒弟制度に源を発するアプレンティスシップの拡大が不安定性と不確実性に輪をかけている。アプレンティスシップは、もともと伝統的な職業(18世紀ごろの産業化以前から存在するもの)について労働法関連の規制対象外とするものだったが、1960年代に規定のOJTや研修を実施することを条件に近代産業にも拡大され、1990年代、2000年代と、さまざまな業界に拡大されていったものだ。これは2010年代にはいっても「急成長中」であるのだが、「実際に行われているアプレンティスシップの多くは、貧困に陥らない成人期を保証してくれそうにもない」。たとえば、「清掃業、倉庫業のアプレンティスシップさえ存在するし、伝統的に低賃金で不安定な雇用の代表とされてきた…保健介護関連セクターでのアプレンティスシップが…最も多くを占めている」。けっしてこれらの業種の専門性をとやかくいうつもりはないのだけれど、アプレンティスシップが「学校では教えない現場のことを学んでその道の専門家になり、修行時代がおわったら独立して一人前の親方としてかせぐ」ものであるという考えかたには、とうていそぐわないものだろう。つまり、アプレンティスシップは、単なる低賃金労働者を雇用するための口実につかわれているのが実情のようだ。実際、「アプレンティスシップは長期雇用ではない」し、「不利な立場に立たされた若者を貧困から脱出させるような質の高い雇用にアプレンティスシップからつながる道すじは、何も保障されていない」。無給研修の制度もそうで、本章にはピザハットが「スキルを若者にあたえる」と称して「ホスピタリティのトレイニーシップ」を募集している広告の例があげられている。無給でピザハットの接客を「職業体験」しても、それが将来の人生に役立つだろうか。けれど、こういう枠組みにおしこめられれば、その若者はもうニートではない。

これにかんしては、本書とは関係ないのだけれど、The Global Auction: The Broken Promises of Education, Jobs, and Incomes(Phillip Brown, Hugh Lauder, David Ashton, 2010)という本のイントロダクションの内容が理解をたすけてくれる。これによれば、高等教育を受けた労働力の爆発的な増加、価格/品質革命、標準化、格差の拡大が高度な教育をうけたスキルのたかい安価な労働力をうみだしている。知識産業社会への移行が語られるようになって半世紀、高等教育が世界標準でおこなわれるようになり、大卒、院卒の肩書があふれるようになって、その経済的価値が下がった。そんななかで企業は「高価だが良質な労働力」と「安価だが低質な労働力」の2択で雇用する必要がなくなり、「安価で良質な労働力」を買いたたけるようになった。本来、知識は力であって、スキルのたかい人材は代替がきかないものだった。ところが、知的労働を標準化して断片化することで本来は一連の知的活動が分業化できるようになり、結果として労働者と雇用者の力のバランスが雇用者がわにかたむくことになった。標準化され切りはなされた労働は、それが高度なスキルを要求するものであっても買いたたける。そして、同じ水準の教育をうけても、エリートコースにのったひととそうでないひとでは、給与水準が数桁のちがいにたっする。教育は、その内容でもってひとをたすけるものではなくなっている。

本書にもどると、職業訓練として無給で雑貨屋の店員をする大卒者の例があげられ、それが「成功への機会を増大させる」といえるのだろうかと疑問を呈している。単純に「不安定な雇用を20代半ばから後半にまでひきのばす」だけではないのかと提起している。「質の低い雇用と失業のあいだの短期間の往復をくり返すパターン」におちいるだけであり、それは「中年になっても続いていく」。つまり、「失業が長期にわたることよりも不安定な状態が長期にわたることのほうが」問題であって、見かけ上の指標の改善のために質の低い雇用や見込みのない職業訓練をあてがうのはあやまっているのだろう。

本章の分析で「なるほど」とおもうのは、政府が若者の失業問題にたいしてもつ「若者がニートになったり質の低い仕事から抜け出せない問題はスキルアップで解決可能である」という前提をきびしく批判していることだ。「どのような基準から見ても、いまの若者世代はかつてないほど資質が高い」のだし、その意欲は「過剰なほどに高い」。つまり、「若者の資格、意欲、スキルと実際に提示される仕事との乖離」「すなわち労働力需要側の問題」こそが本質であり、労働力供給側の問題ではない。「資格を手にすることがスキルを生かせる高賃金の仕事を必ずしも保証しない」しくみができてしまっている。つまり、<スキルや資格のある労働者の増加→すくない求人をめぐる競争→最も資格能力の高い人が雇われる→本来スキル・資格を要求しない仕事までが有資格職になる←ただし、賃金は据え置き>というながれで、どんどんと標準があがってしまう。そういう現状があるときに、教育や職業訓練にいくら力を入れても若者の就業状況は改善しない。現状イギリス政府の政策は、「仕事のない人に仕事を創り出そうというものではなく、だれも望まないような仕事のための労働者を創り出そうということ」になっている。そうではなく、せっかく有能で意欲もたかい若者に、それにふさわしい仕事をつくり出す政策が必要なのではないかというのが、本章の趣旨だ。

「いまの若者世代は、このままでいけば両親とそれ以前の世代に比べて生涯の経済状況が低くなる初めての世代になる」。なにせ、「若者は雇用率が低く、不完全雇用の率が高く、時給が低い」。そのうえ、「若者が持ち家を所有したり公的住宅に入居したりできる比率は…低下してきている。その結果として若者は高価な民間賃貸部門に頼らざるを得なくなり、可処分所得、…持ち家資産の取得能力がどんどん低下してきている」。さらに教育費の負担も増加し、「生活費給付奨学金が生活費ローンへと置き換えられる」なかで「相当な借金を背負って社会に出る」わけだ。イギリスの若いひとは、相当な苦境にたたされている。

日本では、なにかというと「氷河期世代」の苦難が取り沙汰される。現代の若者は、それにくらべればマシだとみられることもおおい。けれど、実質的な給与があがらず、雇用が不安定化し、正規採用と非正規採用の格差がどんどん拡大し、能力と意欲に見合った職がなかなかみつからず、就職後も奨学金の返済と利子に苦しめられるようすは、なんだかイギリスと相似形にみえる。もちろん個別の例をとりだせば実に多様な人びとがいるわけだが、全体としてみればいまの若者は優秀だ。まじめに勉強させるシステムができあがっているし、教えるがわもむかしよりは手がぬけなくなった。インターネットのおかげで情報にさとく、英語の能力もはっきりとあがってきている。そういう人びとにふさわしい仕事があるのかといえば、世の中には旧態依然とした仕事ばかりがあふれている。あまり明るい展望があるようにはおもえない。

けれど、そんな時代は過去にもあった。夜明けまえがいちばん暗いともいう。希望がみえなくなったときが、実は新しい時代のはじまりだ。歴史はそうおしえてくれる。

そのためには、若いひとが自由にうごける環境が必要だ。経験を積んだがわからみれば、あまりにもあぶなっかしかったり、むちゃだったりすることもあるかもしれない。それでもおもうとおりにやらせてみるべきだ。もしも年かさのがわに知恵があるのなら、それは若いひとをささえるためにつかうべきだ。年があらたまり、ひとつ年をとって、そんなふうにもおもう。

 

(次回につづく)