それは「予言の自己成就」ではない - 類似の構造ではあっても

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mazmot.hatenablog.com

について、早速にブックマークコメントを頂いた。こういうことがあるからブログはやめられない。ありがたいことだ。

指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

社会学的には「予言の自己成就」という用語がまさにドンピシャという感じですかね ( https://kagaku-jiten.com/social-psychology/interpersonal/self-fulfilling-prophecy.html )

2022/02/04 07:02

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社会学的には「予言の自己成就」という用語がまさにドンピシャという感じですかね 

そういわれてみれば、「予言の自己成就」とよばれる概念に、私があげた事例はよくあてはまるのかもしれない。これは基本的には情報のフィードバック作用であり、未来予測がそれを避けようとする行動を引き起こし、その行動の集積が結果的に予測された事象を引き起こすという現象だ。確かに情報がフィードバックしていくということでは、私のあげた3つの事例は「予言の自己成就」と同じカテゴリーに分類されるのかもしれない。ちなみにその3つとは、

  • 「家賃と民度は比例する」という言説が流布することによって、表面上、「家賃の高い地域に民度の高い人々が集まる」現象が発生する。
  • 「学校の優秀さは偏差値によって測定できる」という言説が流布することによって、偏差値の測定から外れる公立校から優秀な生徒が流出し、結果として偏差値の測定基準からこぼれ落ちる公立校は優秀ではないという見かけ上の観測結果が現実化する。
  • GDPが景気の指標とされることで、虚偽のGDP統計によって実際に好景気が発生する。

さて、これらが本当に「予言の自己成就」にあてはまるかどうかということだ。たしかにGDPの例はあてはまりそうな気がする。古典的に予言の自己成就の例としてあげられるのは銀行の取り付け騒ぎだ。「あの銀行は危ないらしい」という噂が発生する。根拠のない、おそらくは虚偽の噂だ。ほとんどの人がその噂は真実ではないと思う。けれど、念のために預金は引き上げておいたほうが安全だろうと穏便な判断をする。そこで預金を引き上げようと銀行に向かう。すると、同じような穏便な判断をした人がすでに殺到していて、長蛇の列ができている。それを見た人が「やっぱり危ないって話は本当らしいよ」と第二次の噂を広める。その噂によってさらに多くの人が行動を起こし、結果として銀行がパンクする、というわけだ。これは「予言の自己成就」の概念を提唱したマートンの1948年の「自己成就する予言」という表題の論文に1932年の事例として掲載されている。もっと最近の事例だと、コロナ騒ぎの初期に起こったトイレットペーパー不足も、予言の自己成就だろう。「トイレットペーパーがなくなるかもしれない」という噂は、最初はほとんどネタ扱いでひろまった。多くの人は、それを信じなかった。けれど、「念のためにいつもより多めに買いだめしておくか」という程度の穏便な行動が輻輳した結果、実際に多くの店舗の店頭からトイレットペーパーが消えた。それがさらに人々の購買行動を加速し、結果的にトイレットペーパー不足という予言を実現した。

こういった典型事例と引き比べると、たとえばGDPの事例は銀行の取り付け騒ぎのちょうど反転であるようにも見える。「家賃と民度」の話も似たようなものかもしれない。けれど、私の問題意識は、どうもそこにはない。どういうことか。

それは、私の関心が未来予測とその事象そのものにはないからだ。まず重要なのは、「指標の設定」だ。これは「未来予測」ではない。指標設定は、前の記事でも書いたけれど、人間が不完全な五官での知覚を補うために採用するものであって、近年では特に計測手段を用いて数値化されることが多い。指標を設定する目的は、基本的には外界の状況を知覚したいからである。もちろん、人間が何のために外界の状況を把握したいのかといえば、それはそこから状況の判断を行い、場合によっては未来の行動を予測するためのものだ。そういう意味では、指標の設定は未来に関わるものだと言えるかもしれない。けれど、その予測は、指標を設定した段階ではニュートラルなものであって、何らかの方向性をもったものではない。

次に、前回記事ではこのあたりは明確にできなかったのだが、指標の設定によって発生する現象は、「指標が有効化される」ということだ。これは、指標が本来の有効性を喪失し、なおかつそれでも有効なものとして機能してしまうという現象だ。指標が表現する特定の事象のことではない。

これら2つを踏まえると私の問題意識、つまり、「指標がいったん設定されると、それが本来の目的として有効かどうかに関わらず、その指標が有効なものとして機能してしまう」は、明らかに予言の自己成就ではない。あるいは、「指標あれ」との言説によって「指標が機能する」という現実が生じるのだといえば、それは予言の自己成就と言えるのかもしれない。けれど、そこまで風呂敷を広げたら、ほとんどあらゆる事象が予言の自己成就だと言えてしまうのではないか。

実際、「ソシオロジ/40 巻 (1995-1996) 1 号」は小特集として予言の自己成就をとりあげているらしいのだけれど、中野正大氏による「コメントⅠ」では、

まず岩本氏は、受験の際、合格不合格の目安になるといわれる偏差値によるいわゆる「輪切り」現象の発生と展開のなかで、予言の自己成就を見て行こうとする。そこでは、「A校の方がB校よりランクが高い」という予言=噂が広まると、実際、A校の方へ学力の高い受験生が流れ、その結果、A校とB校の聞に格差が生じる、つまり予言が自己成就するということをシミュレーション・モデルを使って明らかにしようとしたものである。

という研究を批判して、

結果として学校間格差が生じるのは、受験生の行動のそれも合理的/行動の単純な集積、つまり意図された結果にすぎないように思われる。

と、概略これは予言の自己成就現象と言えないのではないかというような意味のことが述べられている。つまり、行為者/参与者が複数いてその意図に対して自己を含めた行為者/参与者の行動がフィードバックされるような事象は現実にはふつうにあり、それをすべて「予言の自己成就」として括ってしまうことはかえって「予言の自己成就」現象を研究する上では妨げになるのではないか、ということのように私は読み取った。

 

ここで、どこまでが「予言の自己成就」になるのかを少し考えておこう。もともと私の関心はそこにないのでこの分析は少々的はずれなのだけれど、自分の関心をはっきりさせるためには意味があるだろう。まず、社会は多様な多数の人々から構成されるとして、その一部の人々の中に共有される考えかたがあるとする。これはある部分は信念であり、ある部分はその信念から生み出される意図である。信念の中には科学的な知見もあれば、習慣的な文化行動や個人的な迷信・俗信の類もあるだろう。意図の中には意識的なものもあれば無意識的なものもあるだろう。これら信念や意図が、合理的/非合理的な判断を経由して、個人を行動に駆り立てる。この行動は、同じ社会の他の構成員によって観察される。この観察が、個人の合理的/非合理的判断にフィードバックされ、行動を変化させる。その一方で、この観察や行動が考えかたに一部フィードバックされる場合もある。このような過程は、社会生活を営む人間にとってごく一般的なものであり、日常的に常に行われていると考えていいだろう。

その中で、「予言の自己成就」とされるものは、どのようなものだろうか。まず、「予言」だが、これは必ずしも未来に関するものでなくてもかまわないだろう。というのは、多くの現状認識は、現状を表現するとともに未来に関わるものでもあるからだ。たとえば「日本の政治は自民党が支配している」という現状認識は、そのまま「この先も自民党支配が続くだろう」という予測に変化する。もちろんそれが変わるという未来をその上に描くこともできるわけだが、それはべつの命題になるだろう。だから、「予言」の部分は、「命題」と言ってもいい。もちろん、あらゆる命題があてはまるのではない。現実に関するある種の命題が「予言」である。そしてそれが流布すること、つまりある程度の人々の間に共有されることが前提である。その上で、「自己成就」というのは、その命題が存在することによって、命題が現象として観測されることである。これは、その命題が存在しなかったら観測されなかったか、少なくとも観測された様子が異なったものであったことを前提としている。そうなってはじめて、「自己成就」といえるわけだ。

ここで、まず、その命題が事実をどの程度反映しているのかということで、このプロセスは二種に分けられるだろう。およそ事象を完全に正確に反映した命題は自然言語では通常ありえないので「程度」というのだけれど、たとえば「あの銀行は倒産するかも」というのは、すべての銀行に倒産の可能性がある以上は完全な偽ではないけれど、たいていの場合は偽、すなわちデマだと言えるというようなことだ。だから論理学的な意味ではなく、実用的な意味で、「予言」は真と偽に分けられるだろう。検証不可能なものや検証可能性が著しく低いものは偽に突っ込んでおいてかまわない。

次に、その命題の存在によって人がとる行動が、その命題の実現を避けようとするものか、それともその実現を積極的に肯定しようとするものかに分かれる。たとえば、「トランプが大統領選挙で優勢だ」という命題によって、「それだけは勘弁してくれ」と反対票を投じるのが前者であり、いわゆるバンドワゴン効果でトランプに投票するのが後者だとする。そうすると、次のような組み合わせが考えられることになる。

  1. 命題:真 かつ 行動:ポジ
  2. 命題:真 かつ 行動:ネガ
  3. 命題:偽 かつ 行動:ポジ
  4. 命題:偽 かつ 行動:ネガ

1の場合、これは「予言の自己成就」とは呼べないだろう。たとえば、「みんなでがんばれば運動会は楽しくなる」という命題は(実際には検証できないけど)、経験則的に真といっていいだろう。それを信じた生徒たちが運動会の練習に励んだ結果として、運動会を楽しんだとして、それを「予言の自己成就」と呼ぶだろうか。最大に枠を広げればそうかもしれないが、多くの人はこれを「予言の自己成就」からは外すと思う。楽しもうと思って楽しむのは、共同幻想か何かの研究対象とはなっても、「予言の自己成就」の研究対象とはならないように思う。

2の場合も、「予言の自己成就」ではないように思う。たとえば、「教室内のひとりひとりが互いをきちんと理解しなければいじめが発生する」というのは、ある程度は真と分類してかまわない命題だと思う。そこで、ある学級で、いじめを根絶しようと、互いの理解を深めるためのワークショップが行われる。しかし、いじめられる側の生徒にとってはそのワークショップそのものが地獄であり、さらに、そこでさらされた個人的な弱みから、さらにいじめが加速するという現実が発生する、なんてことはふつうにあり得るだろう。けれど、これは命題の現実化を避けようとしてとった回避行動そのものに欠陥があったに過ぎない。現実にいじめが発生している場における正しい相互理解のためにはまずいじめの構造を解消しておくことが前提であり、それなしでいきなり「お互いのことをよく知りましょう」みたいなことをやってもまるで対策になっていないわけだ。だから、命題が正しいときには、それを適切に回避する正しい手段が選択できる限りは、予言は自己成就しない。もちろん回避方法がない場合はそうではないが、それについては行動によるフィードバックが影響しているとはいえないので、やはりこの範疇からは外れるだろう。

3の場合も1の場合と同様のことが言えるだろう。極端な場合は「ハルマゲドンが来る」という命題を信じた結果として、その実現のために毒薬を撒くような行動になるかもしれない。まあ、そのたとえは穏当ではないだろうが、命題が偽りであっても、それを現実化させようとする努力があれば、その命題が真になることは十分にあり得る。「我々は絶対に負けない」という信念のもとに戦えばその戦いには勝利できるかもしれない。けれど、こういうのはどちらかといえば目標設定と努力であって、「予言の自己成就」とはちょっとちがうような気がする。広義にはそこまで含めてもいいのかもしれないが、疑問がある。

誰から見ても「予言の自己成就」の例として適切なのは、4の場合だろう。命題が偽であり、なおかつ人々の行動がそれを避けようとするのに、その行動の集積がフィードバックされて、命題が現実化してしまう。古典的な銀行の倒産の例はまさにそうであり、トイレットペーパーが店頭から消える現象もそうだ。実際のところ、大元のマートンの論文でも、最終ページでわざわざイタリック体で、

The self-fulfilling prophecy, whereby fears are translated intoreality,

恐怖が現実を生み出していくものである自己成就する予言は、…

と、書いている。さらに上の方で引用した中野正大氏の文でも、

何故なら、マートンの予言の自己成就の命題が意図せざる結果だということ以外に、いまひとつのポイントは、先に見たように、彼の例示するエピソードを見ても明らかなように、予言の内容が噂やデマや偏見であるような根拠のない〈誤った〉予言であり、しかもそれが広く行為者によって信じられる、という点にあるからだ。

と、「予言の自己成就」の成立要件としてそれが誤っていることが必要であると述べられている。結局のところ、狭義の「予言の自己成就」は、現実を正しく反映していない情報をもとに望ましくない結果を避けようとして多くの人が行動することが結果としてもともとの情報にあった現実を実現させてしまう、ということなのだろう。

 

さて、そういう視点から見ると、私の関心があるのは、「予言の自己成就」と類似ではあってもそれそのものではないことがわかる。ここで前回あげた3つの事例に戻って検討してもいいのだけれど、本当のところ、私が最も関心がある事例はそれではない。ただ、そのことはこのブログで何度も書いてきているので「あんまりにもくどいなあ」と感じたから、意識してべつの事例を持ち出した。どうも話が見えにくかったのはそのせいもあるだろう。ということでくどいのは承知の上で、自分が最も関心のある事例で話を進めよう。それは学力試験の点数だ。

学力試験はもともと、講義その他の学習内容をどれだけ生徒が理解したかを測定する目的で行われるようになったのだと言って差し支えなかろう。もちろん、中国の科挙に由来する東洋的な歴史だとか、産業革命期における労働者のスキル測定だとか、そういったところまで遡ってもっと正確な記述をすることもできるだろう。だが、大まかなことでいえば、近代以降の学力試験、我々がおなじみになっているテストは、生徒の達成度を測定する目的で行われるものだ。

その結果は、成績として、生徒の評価に用いられる。子どもたちの進路を決め、その将来を決めていく。極めて重要なものだ。だが、その点数は、ごく簡単に操作できる。その操作を受験業界では「対策」と呼んでいる。あるいは一般には「勉強」と呼ばれる。勉強すれば点数は上がる。

ここで多くの人には私が何を問題にしているのかがわからなくなるはずだ。だって成績は勉強を反映したもので、勉強した人が報われるのは当然だろうと、多くの人が考えているからだ。けれど、実際に受験業界で生徒に点を取らせる仕事をしている者から言わせれば、点数をとるのはゲームであって、本来の学習内容とはほぼ無関係だ。よく作り込まれたテストは、たしかに生徒の達成度が上がることによって点数が上がるように設計されている。教科内容をよく理解した生徒は、たしかにしっかりと堅実な点数をとってきてくれる(だから私はそこを重視して指導する)。けれど、そんなことは一切無視して点取りゲームに勤しんでも、やっぱり同じように点数は取れる。場合によっては、教科内容の理解だけではとれないような高得点もとれる(だから私だって必要なときには生徒に点取りゲームの必勝法を伝授することだってやる)。だが、ゲームの熟練度が上がることと、子どもたちの成長とは、基本的に無関係だ。あるいは、関係があるとしたら、スマホやプレステのゲームの熟練度と成長の関係程度の関係だ。そりゃ、ゲームのやりこみで成長する部分もあるだろう。だが、それが本来の教育が求めているものとはとても思えない。

実際のところ、教育の効果の測定指標として学力テストが適当かどうかの検証は、ほとんどなされていないように見える。なぜなら、検証の結果はやはり何らかのテストでしか測定できないからだ。そして、テストとなると、必ず生徒は対策をしてしまう。勉強してしまう。だから、測定結果は常に本来意図しない操作によって汚染される。あるいは、「勉強」部分までを教育の意図であるとしてしまうことによって合理化される。だが、それが誤魔化しであることは言うをまたない。

重要なことは、そのように信頼性がそもそも検証されないものであるにも関わらず、この学力試験が社会的に機能してしまうことなのだ。私自身は学力試験的な測定指標によって子どもたちの将来を振り分けるような考え方には賛同できないのだけれど、それでもその建前は理解できる。つまり、成績はその生徒の適性を反映しているはずだから、適性に応じて専門性を振り分け、さらには職業を振り分けていくのが合理的だという考え方だ。たとえば高度な判断力と知識が必要な医師には成績上位者を振り分ける。あるいは国家を動かす重要な仕事である官僚には成績上位者を振り分ける。そういった考え方だ。その建前をとりあえず受け入れるとして、さて、それでは実際に成績上位者が学業優秀なのだろうかといえば、そうではない。その中には本当に学業優秀な人々もいるが、単純に点取りゲームに秀でただけの人も少なからず混じっている。学力試験はそれを判別する機能を持たない。つまり、現実には学力試験は本来の意味では機能していない。

けれど、別の視点で見ると、学力試験は実によく機能してしまっている。それは、確実に一定の能力をもった人々を選別する。その能力とは、無意味だけれど実利のある点取りゲームに粛々と従事するだけの耐性であったり、そのゲームを続けられるだけの経済的・文化的なバックグラウンドであったりする。そういった、本来測定するはずのものでないものを学力試験は測定してしまっており、そして、その測定による選別が社会的に機能する。なぜなら、これほど職業や生き方が細分化された社会においては、そのひとつひとつのニッチに若い人々を送り込んでいくためには何らかの装置が必要であり、その装置として学力試験による選別は見かけ上非常に優れているからだ。だから、社会は検証され得ない、おそらくは目的と大きくズレてしまっている学力試験を所与のものとして受け入れる。

そして、現実が逆転する。本来は、生徒の達成度を測定するのが学力試験であったはずのものが、学力試験の得点が高いことが生徒の達成度が高いことであると定義されるようになる。点数を上げることが学習の目的であり、点数が上がってさえいれば学習がうまくいっていると判定されるようになる。これが現代の日本を覆う常識であって、それに異を唱える私のような者は異端者となる。いや、語呂合わせで暗記したって、そんなもの、何の理解にもなりゃしないからという明らかな事実は、だってそれで点数が上がるじゃないかという厳粛な事実の前に効力を失う。解の公式を導き出せる論理的な思考のほうが重要であって解の公式で方程式が解けることはそれほど重要じゃないよという正論が(これは学習指導要領を見ればわかるはずだ)、実際に点数に結びつくのは後者でしかないという事実によってキレイゴトと切って捨てられる。

だから、「指標が自己実現する」というのは、こういうことだ。ある指標が設定される。すると、その指標は、その指標の有効性いかんに関わらず、現実を代表するものとして扱われるようになる。その結果、「現実が変化すれば指標が変化する」という当初の図式が「指標を変化させることによって現実が変わる」という認識に変化する。そして人々は、指標を直接操作しようとし始める。最終的に、指標の操作こそが現実を変えるための条件であると認識されるようになり、指標はその有効性を確実にする。

これは「予言の自己成就」ではない。「この指標が現実のある側面を表現する」という命題がある。たとえば、「学力試験の点数は生徒の教科理解を反映する」という命題だ。そして、それは当初は真であることのほうが多いだろう。学力試験はそうやって設計されるのだ。次に、「指標を変えれば現実が変わる」という逆転が起こる。「点数を上げれば勉強が成功した」という考え方だ。だが、指標を上げる方法は、実はひとつではない。教科内容の理解はそこそこにして反復練習をしたほうがよっぽど点数が上がる場面は少なくない。これ以上圧縮しようがないほど圧縮された情報が詰まった教科書(例えば歴史の教科書なんかその典型だ)よりも、さらにそこから重要語句を抜き出したドリルのほうが愛用されるのを見れば明らかだろう。GDPの例で言ったら、景気を回復させるよりも異次元緩和を行ったほうがよっぱど指標は上がる。指標なんてものは、直接それを操作するほうがよっぽど容易いものなのだ。そして最後に来るのが、「操作されることを前提に、なおかつ指標が機能する」という現実だ。指標が何のために設定されるかといえばそれは社会的に機能を果たさせるためであり、そして、その目的は本来の意味を離れても機能してしまう。これが私の知りたい現象のメカニズムだ。そしておそらくこれは一般的に研究の対象となっているに違いないと思う。だって、私が思いつくぐらいだもの。

 

ともかくも、最初に家賃と民度だのGDP不正操作だのを持ち出したのがいけなかった。やはり疑問はストレートに疑問として表明すべきなのだろう。そういえば、マートンの大元の論文、

Merton. Self Fulfilling Profecy

にしたところで、実は「予言の自己成就」をテーマにした論文ではない。たとえば現代文の問題でこの論文の和訳を受験生に読ませ、「この論文のタイトルを次から選べ」と設問して

 ア.予言の自己成就
 イ.人種差別をなくす方法
 ウ.リンカーンの偉業
 エ.信念によって形成される現実

と選択肢を出したら、まともな受験生なら間違いなくイを選ぶだろう。そう、この論文は5つの節からなっているが、上で分析した定義上の「予言の自己成就」を扱っているのは最初の1節だけでしかない。以後の節ではアメリカ社会を覆う人種差別問題が描かれている(日系人のクロカワ氏も登場する)。たしかにその差別は「予言の自己成就」の一形態であると主張されているのだけれど、最初に出てきたスト破りの事例のほかは、どちらかといえば「信念が現実を形作る」というより広い命題によってカバーされるものである(ちなみにその命題「もしも人が状況を現実であると定義するならば、その文脈においてそれは現実となる」が冒頭に書かれているので、上記の設問だとエも正解候補としてはかなり有力になる)。では、なぜマートンはこの論文に「自己成就する予言」みたいな釣りタイトルをつけたのだろうか。それは、予言の自己成就の事例として典型的な銀行の倒産があまりに鮮やかで人を惹きつけるから、だけではないだろう。実は、その銀行の倒産事例には、解決策がある。それはデマをデマだといって人々を安心させるようなものではない。倫理や理性に訴えるものではない。そうではなく、実際に銀行の倒産を防ぐ政策装置をルーズベルト政権が施行したから、倒産が劇的に減ったのである。つまり、先程半分しか引用しなかった結論のイタリック体の部分を最後まで書くと、

The self-fulfilling prophecy, whereby fears are translated intoreality, operates only in the absence of deliberate institutional control.

恐怖が現実を生み出していくものである自己成就する予言は、意図をもった制度的なコントロールが存在しないときにのみ働くものである。

ということだ。最後の節でイタリック体で書かれていることから、これがマートンがこの論文で主張したかったことの本質だと考えて差し支えないだろう(もしもそうでないとしたら、やっぱり日本の現代文のテスト設計はおかしいということになる)。つまり、マートンは、人種差別問題を解消するためには、政府が率先して社会装置としてさまざまな制度を実装しなければならないと主張しているのだ。

それが論文の本質であるときに、いくらその重要な根拠であるとはいえ、銀行の倒産事例をキャッチに使ったのは、マートンの失敗だっただろう。だから私も思うのだ。受験の構造がおかしいと思うのなら、やっぱりストレートに言わなきゃいけなかったんだって。過去から学ぶには、やっぱり先人の古典は読まなきゃいけないよなあ…