幼児教育は有効なのか? - 「教育」という意味ではなく

「子どもの貧困とライフチャンス」という本の第4章は、保育・幼児教育と子どものライフチャンスについて書かれてある。私は近所の保育園に縁あって年に何度かお邪魔するぐらいの関係は小さな子どもたちとつないでいる。なので、この章にはとくに関心があった。

books.rakuten.co.jpそれはそれとして、家庭教師という仕事上、早期教育の効果に関して以前に調べる機会があった。とくに、その「非認知能力」に対する効果に関しては、かなり分厚いレポートを読んだ。これは政府関係の報告だから、それなりに信頼できるのだとおもう。それによれば、幼児期の早期教育には効果がある。ただし、無条件で早期教育の効果が云々できるものではない。というのも、効果があることが実証されたアメリカの研究はかなり古い時代のものであり、それは幼児期の教育サービスをまったく受けることができなかった人々に対してふつうの保育サービスを提供することによっておこった変化をモニタしたものだったからだ。たしかに幼児期の教育が非認知能力の向上に寄与したのは明らかだったが、それは無から有への変化であり、早期教育の特別な内容ではない。また、そのメカニズムが明らかになったわけでもない。学習産業界にとって都合のいい「こういう特別な早期教育をしたら効果があります」といったものではまったくない。

さらに学習産業界にとって都合がわるいのは、非認知能力をあげるとされる幼児期への介入のほとんどが、実際には効果が疑わしいものばかりだという事実だ。非認知能力にはいくつかの指標がある。それらの指標をあげることができるトレーニングは、確かに存在する。だが、その効果は長続きしない。結局これは試験対策とおなじことだ。指標とされるものに対して反復練習をすれば、確かにそのスコアは上がる。だが、それは単純に反復の効果であって、非認知能力そのものではない。トレーニングをやめればすぐにもとにもどることがそれを証明している。唯一効果があるとはっきり根拠をもっていえるのは読み聞かせだ。だが、そのメカニズムははっきりしていない。

したがって、その報告書を信用するなら、早期教育の効果にエビデンスはない。もちろん、特定の獲得目標に対する特定の訓練が特定の成果をあげることはある。お受験したければそれに特化した塾にでも行くべきだろう。そうすれば合格証は手にはいる。ただ、その訓練そのものが子どもの成長に何らかの役に立つということは、とくにない。強いていうなら、「それでも子どもは成長する」。多くの子どもは、それだけの強さをうちに秘めている。

人間の発達は脳の生理学的な発達とともにおこなわれるから、なんでも早くにやればそれでいいというものではない。日本には「芸を仕込むなら小さいうちから」みたいな発想で早くからやたらと複雑なことを子どもにおぼえさせようとする人々がいるようだが、仮にそれが訓練のたまものでできるようになったとしても、それが子どもの成長に意味をもつわけではないのがほとんどだ。

だから、この第4章で「子どもたちのライフチャンスに与える保育・幼児教育のプラスの影響については、重要で信頼すべきエビデンスが存在する」とあったときには、ちょっと眉に唾をつけた。これは1997年から2003年までの期間に保育・幼児教育を受けた集団と「家庭育児」集団を比較したものであるとのことで、やはり有か無の効果測定だ。

もうひとつの研究があって、それは2000年度に実施されていて、こちらは乳児期の保育と3歳時点の認知能力等との関係をみたもので、こちらは保育の種別や家庭の状況との相関もみている。もちろん、いずれにせよプラスの影響がある。

ということで、幼児教育は子どもの能力を開花させるが故に、ライフチャンスを改善する、という理屈がなりたつ。イギリス政府はそういった立場でこの分野に臨んでいるらしいし、おおくの政策提言もそういう方向でおこなわれるらしい。私としては「なんだかなあ」とおもったところで、私が読んだ上記の日本の報告書にも出てきたアメリカの古典的な研究が引用され、この失望感はさらにおおきくなった。

だが、その説明で、「今日の政策立案に現在でも有効であるのかどうかは、つねに疑問を呈されてきた」とあるのを見て、「おやっ」とおもった。つづいて「実際、保育・幼児教育の効果について誇張された効能が喧伝されていること、ことにそれ単独で子どもの貧困対策よりも効果があるとする風潮に憤慨する学者もいる」とアメリカ心理学の重鎮の発言を引用し、「幼児教育や幼児ケアを主体とした幼児期の介入がそれ自体で良好な教育的達成をもたらすのに十分だという信念、よって子どもたちにより良いライフチャンスをもたらすのに十分だという信念は、ある種の迷信に過ぎない」と結論づけているのを見て、「そうだよねえ」とうなづいてしまった。

保育・幼児教育の影響は、学校の成績から就職率にまで影響をおよぼしている可能性があるが、そこには親の経済状態や教育の質にも左右される。「保健サービス、安全な環境、十分な栄養、家賃を抑えた適切な住居、公共サービスのアクセスなど」が満たされていなければ、保育・幼児教育は、仮に有効なものであるとしても、その力を発揮できない。幼児教育は、「子どもの貧困の広範な影響に対する予防接種にはならない」。

それでも、とくに貧困家庭にとって保育・幼児教育の効果がみられるのは、それは一定の質が確保されていれば、そして金銭の負担がおおきくなければ、そういったサービスを受けることで親に余裕ができるからだろう。子どもの発達には「家庭学習環境が重要である」し、それは「親の社会階級や学歴よりも大きな影響を与える」。たとえば、最初の方で私が報告書から読み取った「非認知能力に唯一寄与する介入は読み聞かせだ」という事実をもとにかんがえても、そもそも余裕のない親が読み聞かせに時間をさけるわけはない。前章では「子どもに悪影響をあたえるのはひとり親かふたり親かという形の問題ではなく、親の精神が安定しているかどうかである」と読みとったわけだけれど、子どもを信頼できる場所にあずけることが子育て中の親の気持ちをどれだけ楽にするかは、多くの人が証言してくれるだろう。もちろん悪質な保育であればそれはかえって親にストレスをかけることにもなる。幼児期の子どもにとってたいせつなのは、どれだけ知識やスキルを身につけたかではなく、どれだけしあわせな時間を過ごせたかである。しあわせな時間を保育サービスで過ごした子どもは、親の心理状態を改善する。それが子どもの成長にプラスの影響をあたえる。保育・幼児教育は、そういった正の循環をうみだすためにもちいられるべきなのだろう。

ところが、どうもイギリスではそれがうまくいっていないようだ。イギリスでは低所得者向けの保育対策として税額控除や無料チケットなどの補助がなされているとのことだが、おおくの保育施設が公的に運営されているヨーロッパ諸国ではめずらしいことだという。イギリスは、保育・育児事業に関して市場モデルを採用しているわけだ。つまり、競争原理にもとづいた民間事業で保育園や幼稚園を運営することだ。その結果、親の負担は増加する。週に15時間の無料保育を政府が保証しているらしいのだが、この枠だけでは保育園は儲からない。なので、無料枠の利用に制限を設けたり、無料枠の利用とほかのプランを抱き合わせにしたりと、低所得の親が無料サービスを受けにくい状況が生まれている。市場モデルの弊害だ。だいたいが、15時間の保育を受けられたところで、それで親が働きに出られるほど雇用状況はあまくない。

市場モデルは、保育の質も下げる。事業者は人件費を下げようとするから、当然スタッフの給与、待遇、研修などが低下する。さらに、貧困家庭の多い地域では儲からないから、裕福な家庭の多い地域に質の高いサービスが集中し、質の低いサービスだけが取り残される。教育、医療、食料生産に市場原理はなじまないと、ある大学の教授が主張していたのをおもいだす。もう30年もまえだ。けれど、この日本でも市場モデルは拡大をつづけている。

本書では、市場モデルの変更という大幅な制度の変更を政府にもとめるのは無理とみて、市場モデルのなかでどうすればその弊害を抑えていけるのかという観点から、かなり具体的な提案をしている。それが日本の幼保事業にどのように関連してくるのかは門外漢の私にはわからない。ただ、「たとえば、保育士に対する有給の専門的研修の機会を含む最低賃金保障と雇用条件の改善」と書いてあるようなところにおおきくうなづくばかりだ。保育士は、肉体的にも精神的にもかなりきつい仕事だ。そして、プロである彼らのはたらきによって、多くの子どもが日々のしあわせをかんじているのは、まちがいないのだから。

 

(次回につづく)