ポン菓子の思い出

ポン菓子の日本での普及に関しては詳しい研究があるようなので、そちらを参照してもらうのがいいだろう。

 

ポン菓子の起源と米・韓・中・台
および愛媛県のポン菓子の食文化
The Origin of the puffed rice and the Pongashi Culture
in U.S.A., Korea, China, Taiwan and Ehime Pref.
和田寿博

https://ehime-u.repo.nii.ac.jp/record/1362/files/AN10593675_2012_33_03.pdf

 

私は何の専門家でもないので、単純に思い出話だけ。こういう思い出話なんか、ありふれすぎていて価値がないと思ってきたのだけれど、ここ数年、ときどきこのブログにも書いている。時代の変化の中で、「え? そういうことがもう実体験がない世代が世の中の過半なんや」と思わされることが増えてきているからだ。

たとえば、89歳の老母と話していて、昭和30年代の買い物事情がどうだったのかということが問題になったことがある。

「あんたらが赤ん坊の頃、買い物はどうしてたんやろねえ」

「豆腐とか魚は、行商にきてたという話は、前にしとったな」

「そうやったね。おかずはだいたいそれで間に合ったかな」

「肉はどうしてたん?」

「肉屋さんの行商はなかったように思う」

「じゃあ、肉は食べなかった?」

「どうやったかなあ。市場に肉屋さんはあったんやけど、あんたらを背負っていったんやろか」

「私が2歳ぐらいの頃は自転車に乗せられておばあちゃんとこ(=母の実家。駅の近くで市場もある)まで行ってたと思う」

「そうやね。赤ん坊の頃はどうやったかな。あんたのおばあちゃん(=義理の母。農村部に住んでいた)がよく、市場の帰りにこの家の前を通って、それで〈これ、買うてきたから〉と果物やらはくれたなあ」

「肉はどうやったん?」

「さあ、覚えてない」

みたいなことがあったからだ。豆腐、魚の行商は、以前にも聞いたし、実際、私が小学生の頃はそういうのを見ているから、間違いない。野菜に関してはまだまだ当時は農村だった大阪近郊、近所でいくらでももらえたのだろうと推測する(ただし、「シロナ」ぐらいしかなかった様子はある)。けれど、肉をどうしていたのかは、もうわからなくなっている。

母が結婚する前に市場の近くに住んでいたときに利用していた肉屋の話は聞いたことがある。私が小学生ぐらいのころには別の市場の肉屋に行って牛肉を買っていた(何なら私がお使いで買いに行かされた)ことも覚えている。けれど、買い物に行くのも不便だった2人の赤ん坊を抱えていた時代、肉の買い物をどうしていたのか、もう不明になっている。当時は冷蔵庫も小さいから、週末にまとめて買い物なんて時代ではない。だいたい、日曜日には市場も休みだったのではないか。

 

というようなこともあるから、私も思い出せるうちに昔のことを書いておこう。百年もしたらこういうのが資料になるかもしれないから。

 

「ポン菓子」は、「ポン」とか「ばくだん」と言ってたように思う。豆腐や魚の行商とは異なってそんなにしょっちゅうは来なかったがそれでも年に2、3回は回ってきたのではないかと思う。だいたいは橋のたもとに機械を据えて、人が集まってくるのに応じて実演販売をしていた。

人を集めるのはかんたんだった。当時はそこら中に歩行者がいたから、まずポン菓子の機械を下ろしたら、すぐに近所の人が気づく。私が覚えてる当時ではもうオート三輪か軽トラかわからないが自動車に乗せていたような気もするが、リヤカーだったような気もする。ともかくも、ポン菓子の職人がやってくるというのはそれだけでもワクワクする出来事だった。特に予告はなかった。

誰も気づかなくとも、すぐに人々は集まってくることになる。なぜなら、持参した最初の一合の米を機械に入れて「ポン!」と破裂させたら、それだけでもうむら中の人が「あ、来たな」と反応するからだ。いそいそと台所から米と砂糖を持って飛び出す。そして袋いっぱいの(紙袋だったかポリエチレン袋だったかはもう覚えていない。ちなみにポリエチレン袋は普及をはじめた頃で、その普及の最前線にいたのが私の父親が営業職で勤めていた会社だった)ふくらんだ米菓を持って帰ってくるという寸法だった。

米は農村にこそあった。だからポン菓子職人は原料は最低限しか持ち歩かず、各戸から原料を調達して手間賃だけを稼いでいた。物々交換的な取引(米2合を提供して、1合分は手間賃として徴収する)だったような気もするが、ここはもうはっきり覚えていない。「何円」というような価格設定ではなかったと思う。あるいは、「1回何円」というような手間賃仕事になって急速に人気がなくなったのかもしれない。このあたりは当て推量なので、気にしないでほしい。

 

私が高校生ぐらいのころには「そういえばむかし、そういうのもあったよなあ」程度の昔語りになっていた。1970年代なかばには過去のものになっていたということだ。どうも1970年の大阪万博あたりで街の空気が一気に変わったような印象があるのだが、このあたりはあくまで当時の小学生の感覚でしかない。そして、私が大学に行っていたころには、もうポン菓子はイベントのときにわざわざ呼ばれるノスタルジーをそそる演物になってしまっていた。

 

かつての農村だった大阪近郊にスーパーマーケットが進出してきたのが1970年代のはじめごろだ。ポン菓子のようなものでさえ、袋詰で売られていた。「あんなものはニセモノだ」みたいに私は思ったのだけれど、それはあの「ポン!」と爆発する興奮、砂糖が鍋の中でカラメルになっていくあのワクワク感がどこにもないからだった。それでも時代は変化していった。

交通の便が悪かった時代、農村にモノは向こうからやってきた。豆腐のような日配品、ポン菓子のようなおやつは、そうやって田舎の隅々にまで届いた。もちろんそれは割高だったはずだ。選ぶこともできない。人々は、与えられたものを買うしかない。だからこそ、スーパーマーケットができ、そこに買い物に行くことができるようになると、人々はそちらにシフトした。

これからも時代は変わっていくのだろう。「え? むかしはわざわざイオンに買い物に行ってたの?」と驚かれる時代がそのうちに来るのかもしれない。そうなったらそのことを思い出に書き記す人々が必要になっていくのだろうな。