英語教育の理想と現実
家庭教師として中学生に英語を教えるのは、けっこう悩ましい。というのも、理想と現実の間の距離があまりにも離れすぎているからだ。
究極の理想としては、言葉はその言葉が使われている場所で生まれ育った人々が覚えるように覚えていくべきだ。人間が言葉をどんなふうに覚えていくかは、それはそれで専門家がいろいろ研究していることであって、シロウトの私がどうこういうことではない。ただ、まちがいがないのは、まず音として聞いている期間が最初にあり、その音と概念を結びつけながらオウム返しで真似をする期間があってから、ようやく音をコミュニケーションの手段として使えるようになる順序だ。やがて音は文字と結びつき、そのなかで規則を発見し、整理していく。こういった過程が頭脳の発達と並行しながら進行する。
外国語を学ぶ場合、まず、言葉を覚える過程と脳の発達の過程が同時進行するわけではないという点が既に大きなちがいとなっている。母語で一通りの発達がある程度までできあがった段階で、母語とは別のものとして学びはじめる(だからさまざまな「学習法」みたいなのが流布する)。そうではあっても、私の経験上、やはり言葉は音から入るのがベストなようだ。初学者は音として把握する練習をメインとし、文字は補助的に使うべきだと思う。そうやってある程度、モノマネ的に使えるようになってから、文法的な理解に進んだほうが話がはやい。だから、非現実的な意味での理想としてではなく、実現可能な理想としては、英語を教えるならまず実際に英語の音を実際のイメージとセットで反復してもらうことから始めたい。英会話教室のような方法だ。手許にいろいろなものや画像を用意して、「これは何?」「だれの?」「どこにある?」「何色?」みたいなことを問答したり、あるいは買い物のロールプレイをしたりして、実際に英語を使う場面を大量に経験させる。入門用の動画教材(セサミストリート的なやつ)も使えるだろう。そうやって英語に慣れてから、補助的にそれが文字とどう対応するのかを少しずつ練習させる(フォニックス的なやつだ)。そして、ある程度、「英語ってこんなもんなんだな」と自信がついてきたところで、集中的に文法的な説明にはいる。基礎的な文法が把握できたら、今度は長い文章を何度も音読させる。音読は、音と文字を結びつけて学習できるので、原始的だけれど侮れない方法だ。可能であれば、この段階で英語音声の動画も大量に見せたい。たとえば英語圏の映画やアニメだ。楽しめるものがいい。動画視聴や音読がある程度までいったら、もう声は出さなくていいから、長文を大量に読ませる。辞書を積極的に使うのはこのあたりからだ。そんなふうに進めれば、英語力は急速に上がる。そうやって英語の実力がついた上で、最終的に英語の検定(英検とかGTECとかTOEICとか)や入学試験(高校受験や大学受験)のための対策をすれば、おもしろいように点数は上がるだろう。これが実現可能なレベルでの理想だ。
だが、実際にはそんな理想通りに英語の指導ができたためしはない。理由はいくつもある。そのひとつひとつをあげたらきりがない。というのは、家庭教師は生徒一人ひとりの状況にあわせるのが仕事であって、生徒一人ひとりの特殊な事情のもとで、できない事情も多岐にわたるからだ。ただ、概ね共通して言えることはいくつかある。
まずひとつは、そもそも家庭教師は英語だけ教えるのではない、ということだ。しかも、多くの生徒が週1回だ。複数回の生徒はだいたいが受験対応だから、のんきに英語の基礎教育なんかやってる場合じゃない。上記の英語の特訓は、英語を中心に週2回か3回やらなければ実行できない。そういうケースは、ほぼありえない。
もうひとつの理由は、学校英語を無視して進めるわけにいかないということだ。これは上記の理由とある部分は重なる。自分が全面的に英語教育を担うわけにいかないから、かなりの程度は学校での英語指導をアテにしなければならなくなる。そして、学校英語は家庭教師の都合なんかにはかかわりなく、学習指導要領の組み立てどおりに進行する。それをアテにする以上、こちらもそこをあまりはなれられなくなる。
ちなみに、学習指導要領の英語カリキュラムは、理念的には上記の「実現可能な理想」と考え方は大きく異なっていない。小学校に英語が導入されたが、そこでは文法的なことを詰めるのではなく、「英語に親しむ」ことが主な目標となる(指導要領改訂で少しは様子が変化するが、基本的姿勢は変わらない)。そうやって「英語ってこんなもん」という感覚がわかってから、中学校で文法を学ぶという手順だ。ただ、絶対量がちがうことと、なによりもテストの設計の関係で、実際にはかなり理念からかけ離れる。生徒は「何を暗記したらいいんですか」という発想で英語に取り組んでくるし、学校教師もそういう発想を歓迎するから、中学英語は、実質的には文法的なステップを一つ一つ踏みながらしか進んではいけないことになっている。そして、そのステップは非常に漸次的だ。だから、習うまでは過去形はテキストに用いてはならない。未来形や不定詞や完了形も、習っていないあいだは読んでも書いてもいけない。各段階で厳格に使える用法が規定されてしまう。これは、「文法は一気にやってしまって、あとは音とテキストの物量で攻める」という理想からかけ離れたものになる。
学校英語を無視できないもうひとつの理由は、それが生徒の成績に直結しているからだ。もしも学校のカリキュラムを全部無視していいのなら、それとはまったく別な方法で英語を教えても、中学生だったら高校受験の英語のテストで高得点をとるぐらいのところまでもっていくのは(生徒の適性や好みによっても一概にはいえないにしろ)だいたいは可能だ。英検だったら2級ぐらいまで上げることもできるだろう。だが、その場合、途中の学校の英語の点数は保証できない。多くの場合、高得点は望めない。なぜなら、学校英語の定期テスト対策は(多くの人がそういうもんだと思っているから気づかないのだけれど)、かなり特殊なのだ。だから、定期テストの点数は、学校英語にあわせて、その単元の文法事項を集中的に反復しないと上がらない。別の方法をとったほうが最終的な得点能力が上がると思っても、途中で通知表の成績が下がれば生徒本人の自信も低下するし、内申書も不利になる。だから、学校英語の進め方にある程度あわせないわけにはいかない。
ユニバーサルな教材が使えないわけ
学校英語にあわせようとすると、とたんに教材の問題が出てくる。いや、完全に学校英語の通りに進めるのなら、教材は無数に市販されている。けれど、こちらは、学校の英語を利用しながらも、できれば理想に少しでも近づけた英語教育をしたいと思っている。そのほうが生徒の利益になるからだ。つまり、学校での英語と相補的な形で英語を教えたい。そのためには、学校英語と矛盾しないように「音から入る英語」「大量に長文を読むトレーニング」を実施したい。けれど、それをやろうと思ったら、たちまち手にはいる教材がそれほど多くないことに気づく。そして、「語学は量」という本質を考えたら、分量は絶対的に不足することになる。
一般に、英語の初学者向きの教材は、近年、かつてなく入手しやすくなっている。インターネットのおかげだ(なかでも音声教材に関しては、YouTubeの恩恵は大きい)。英語を外国語として学ぶのは、日本人だけじゃない。世界中の多くの非英語圏の人々が外国語として学ぶ。そればかりでなく、英語圏であるはずのアメリカやイギリスの国内でも、母語を英語としない人々は少なからずいて、そういう人々は第二言語として子どものうちに英語を習得する。だから、子ども向けの英語の教材は、音声、テキスト、あるいはそれらを複合させたマルチメディアと、多種多様に存在する。もちろん有料素材もあるし著作権にセンシティブなものもあるが、多くのものは教育上の配慮から無料であったりオープンであったりする。だから、ライセンスを気にせずに英語教育に使うことは、かなりの範囲で無理なく行える。
ただ、それらの豊富なユニバーサルな教材は、日本の学校英語との整合性が非常に悪い。学校英語を無視して独自に教えるのなら、いくらでも使える。だが、学校英語をアテにして、その進度にあわせて使おうとすると、とたんに使えなくなる。
英語だと想像しにくいかもしれないので、小さな子どもがどうやって日本語に親しんでいくのかを思い起こしてもらうのがいいだろう。子どもは、まず、音声として親の言葉を聞き、真似るところからはじめる。親は、確かに子どもに対してむずかしい言葉は使わないようにする。けれど、よくよく観察してみると、親や保育士、幼児教育の教師は、文法的にはかなり高度な表現も意識せずに使っていることがわかる。倒置法とか体言止めなんかも、ふつうに使う(だからそういう技法が詩の表現で出てきても小学生は違和感なく読むことができる)。日本語的な表現でいえば、副詞の呼応的用法なんかは、相手が幼児だろうとふつうに使う。「絶対〜ダメ」とか「きっと〜はず」なんてやつだ。もしも外国人が日本語を学ぶとしたら、こういった高度な表現は少し段階が進んでから勉強するだろう。けれど、子どもはそういうのも混ぜこぜで学んでいく。文法的な段階なんか無関係に学ぶ。そしてテキストとして与えられる絵本、あるいはマンガなんかの文章は、決して文法的に理解しやすいものではない。むしろ、文法的に整理しようとしたらひどく難解なものが、「音が美しいから」「響きがいいから」「リズムが楽しいから」みたいな理由でどんどん盛り込まれている。実際、そうでなければ子どもたちは読む気を失うだろう。言葉を学ぶとはそういうものだ。
だから、英語教育を「ネイティブ・スピーカーと同じように」と思って外国の絵本を使ってやろうとすると、発想を入れ替えない限りたいへんなことになる。絵本であっても難しい単語はどんどん出てくるし、現在完了形どころか未来完了形や過去完了形、仮定法、分詞構文、原型不定詞など、文法的には高度なことがおかまいなく出てくる。そういったものをごちゃ混ぜに、ただし、概念的には子どもにも理解しやすいように噛み砕いてどんどん与えることで、子どもたちは言語を獲得していく。
外国語、あるいは第二言語として英語を学ぶための教材の場合、多少はそのあたりに配慮はある。ネイティブ・スピーカーを想定した絵本や幼児向けの動画なんかに比べれば、明らかに高度な表現は抑制的につくられている。ただし、ユニバーサルな教材は、日本の中学生用の教材ほど厳格ではない。現在形を主に学習することがターゲットだなと思われる単元でも必要なときには補助的に過去形や未来形を使う。だってそうしなければ不自然になることが多いからだ。仮定法とか完了形も、よくよく聞けば紛れ込んでいたりする。なぜなら、言葉は、さまざまな場面で使用されるからだ。実用的な場面を、動画とかテキストとかに落として教材にすることが必要になる。ユニバーサルな教材は、そういった実用性を重視している。文法的な枠組みからはみ出さないことに気を使い過ぎるほど気を使う日本の教材とはちがい、多少の逸脱はあっても、「それはまた別の機会に学ぶので、とりあえずそういうもんだと思って聞き流して」みたいな感じで許容する。だから順序からいったら現在形しか知らないはずの段階の教材でも過去形や未来形が出てくるし、単数形・複数形を学習する前からどちらもふつうに出てくる。言葉の中のどこに注目するかが問題であって、「習ってないから使ってはいけません」という規制はない。
これが、インターネットで豊富に利用可能な英語教材を、私が英語を教えるときにそのまま利用できないと感じる大きな理由なのだ。もちろん、学校英語を完全に無視して進めていいのなら、いくらでも利用できる。実際、ごく稀にはそういうふうにして英語をスタートする生徒もいて、その時点ではおもしろいぐらいに英語が上達していく。けれど、上述の事情でどこまでも学校英語を無視するわけにもいかず、どこかの段階で学校英語にあわせなければならなくなる。そうなると、やっぱり既習事項と未習事項は気にしないわけにいかなくなる。なぜなら、下手に学校で習ってないことを進めすぎるとテストで想定されていない解答を書いたり、あるいは学校で要求される反復に支障が出たりするからだ。理想と現実は同時進行で進められない。理想と現実を折り合わせなければならず、そのときに、理想的な形で利用可能な教材は、利用できなくなる。
日本の教材が使えないわけ
ならば、「ふつうの教材」、つまり、書店で売っている学習参考書・問題集や、日本人が日本人の中学生向けにインターネットで提供している英語教材を使えばいいではないか、となるかもしれない。けれど、これらを使って効果的な英語教育をしようとしても、すぐに限界にぶち当たる。
もともと日本の教科書は、上記のように、ステップ・バイ・ステップを厳格に守っている。中学1年生の冒頭のレッスンこそは文法的な縛りにとらわれずに慣用的な挨拶や定型句を学ぶのだけれど、すぐに一般動詞の使いかた、be動詞の使いかた、というふうに進んでいく。最初は単数形からなので、その間に複数の表現は禁じ手になる。一人称、二人称しか学んでいないあいだは、絶対に三人称表現は使えない。そうなると、自由な表現はできない。それでも教科書には、英語が使われている場面が描かれる。そういう場面に未来形を使わないとか不定詞は使えないとかいった限定を加えると、どんどん人工的な、ありえない文が並びかねない。しかし、場面をごく短いものに限るなら、あまり不自然でもなくそういった細工ができる。日本の英語の教科書はそういう仕組みでできている。苦しいなかでよく工夫しているなと感心する。
だが、それをもとにした教材は、その限定的な例文をもとにいくつかのバリエーションを飽きるほど繰り返して覚えさせるようにつくられている。それはそれでひとつの方法ではあるのだけれど、言葉が実際に用いられるような形とはどんどんかけ離れていく。現実に用いられる言葉はもっと多様であり、ぐちゃぐちゃにみえて、そのなかにパターンが現れてくる。文法はそれを蒸留したものであり、文法を学ぶことは重要だが、現実はエッセンスだけでできているわけではない。両方を知らなければならない。学校英語は文法的な要素の習得にばかり目が向いている(もうちょっと正確にいうなら昔に比べたらここは大きく改善しているし、理念的にも決して文法中心主義ではないのだけれど、テスト設計の関係で現実は文法に過度に傾斜している)。家庭教師として英語を教えるなら、そこで抜け落ちるもっと豊かな英語を教えたい。英語の実力を養い、最終的な「得点力」をアップする上でも、それは欠かせない。けれど、日本の学校教育に沿った教材ではそれに対応できない。
現実には、多くの中学生が、教科書の例文に準拠した問題集の反復教材で英語を覚える。けれど、それだけで英語の多様で豊かな実際が学べるだろうか。そういった学習法で身につけた英語で、たとえば英語圏の幼児向けの絵本を読もうと思っても、たちまち行き詰まるはずだ。これは実際に、まだ私が駆け出しのころに試行錯誤をするなかで見出した事実だ。絵本も読めない英語で、小説が読めるだろうか。雑誌記事が読めるだろうか。まして論文が読めるだろうか。もちろん、そのためにはさらに高校、大学で英語教育を積むわけだ。高校三年生なら幼児向けの絵本も理解できるし、簡単な小説も読めるようになる。大学生になれば論文も読めるようになる。けれど、そういう順序は正しいのだろうか。
理想論を語るのではない(それは冒頭の方で既に語った)。現実のカリキュラムがそうなっているとき(そしてそうなっている理由は、それなりに十分理解できる)、そこにもう少しだけ、実際に使われている英語、文法にではなく、もっと日常にフォーカスした英語、楽しさや美しさに着目した英語、豊かな英語に近づけた教育はできないのだろうか。それは可能だ。だが、書店に売っている参考書や問題集ではそれに対応できない。あまりにも文法的なステップ・バイ・ステップにフォーカスしすぎているからだ。
どんな教材が必要なのか
理想を現実にすり合わせるには、微妙なごまかしを意識した教材が必要になる。基本的に、学校の例文中心主義はある程度受け入れる。そしてこの部分は、ふつうの市販教材で対応できる。家庭教師が用意しなければならないのは、そこからこぼれ落ちる、もっと多様な英語を収録した教材だ。具体的には、さまざまな音声教材とテキスト教材だ。問題はその内容だ。
まず、学校の進度にあわせた文法要素が中心にこなければならない。その上で、中心部分ではない部分では、単語や文法要素は、既習にとらわれない。ではあっても、あまりに学校英語からはなれたものは扱わない。このあたりが「微妙なごまかし」になるわけだ。たとえば、「すばやく」という表現にはquickly、promptly、swiftlyなどがあり、また類似表現にat once、soon、right away、immediatelyなどがある。実際にはもっともっと豊富にある。だからユニバーサルな英語教材ではそれらがどんどんとっかえひっかえ出現する。ニュアンスがちがう場合に最適のものが選ばれるのはもちろんだが、それだけではない。英語は繰り返しを嫌う傾向があるので、同じ表現を使っても差し支えないような場面でも言い換えはどんどん行われる。文脈も影響する。けれど、日本の生徒に教える場で実用的に使おうと思ったら、そこを制限する。中学生用の教材だったら、このうちのいくつかは使わない。できれば副詞を避けてat onceを優先するだろうし、副詞で使いたければquicklyから優先するかなと思う。immediatelyは高校1年生かな、みたいに思う。同様に、文の構造も、節は中学1年生にはなるべく避ける。完全に除外すると不自然になるからそこまではしないけれど、避けられるところは避ける。重文構造はなるべく単文に分解する。たとえば中学2年生なら、関係代名詞はなるべく避ける。やはり少しぐらいは許容しないと不自然になるけれど、解説が必要になるほどの頻出は避ける。仮定法もできる限り避ける。
つまり、なるべく英語の豊かさ、多様性を失わないようにしながらも、学校英語を基本に教えられてきた生徒が迷ってしまわないように、相当な抑制を加えるわけだ。そのためには言い換えを工夫し、なるべく平易な表現を選び、意味を推測しやすいように文脈を配置し、単語を選ぶことになる。
ある程度、それに近い工夫をしているのは、 意外にも実は英検、実用英語技能検定だったりする。英検は、かつて「あんなものとっても学校の成績は上がらない」と批判されたものだが、民間試験活用の流れのなかで注目され、さらにまた批判されたりと、毀誉褒貶が激しい。ただ、その出題の傾向は良くもわるくも一貫しており、なるべく「実際に使われている英語」を意識しながらも、学習カリキュラムにもしっかり目を配り、各レベルに相応以上の文法知識や単語を避けるようにしてきている(だから英検対策の単語集とかも出されるほどだ)。英検の出題とユニバーサルな教材を比べると、学校英語の教材までいかないが、かなり既習事項からはみ出さないような工夫がされていることがわかる。単語も、学校の進度とぴったり合わないのは当然としても、「どう考えても中学生が知ってる必要はないだろう」というレベルのものはほとんど出てこない。出てきても注釈付きで負担をかけないようにしている。
だから、英検の過去問題は、学校英語プラスアルファの英語指導をしたいときにはいい教材になる。1年分の過去問題はつねに英検公式のWebサイトで公表されているので、生徒にそれを使わせるのは著作権法上も問題はない。とはいえ、1年分をこえると非公表になるし、それを無理に使えば著作権の問題が発生する。したがって、すぐに量が不足するようになる。
いま私はオンライン専任になっているのだけれど、そうなる以前は生徒が使っている教科書とは別の教科書会社の教科書を副読本的に使っていた。教科書は数百円で買えるし、ある意味、その学年の進度にぴったり合っているのだから、テキストの量を確保するにはいい手段だ。ただ、オンラインになるとそれは使えない。生徒に購入してもらえばまだ著作権上の問題は発生しないのだけれど、家庭教師側の手許にしかないものを生徒と共有したら、著作権侵害になる。このあたり、Webで学習用としてフリーで公開されているデータに比べれば使いにくい。
テキスト教材をつくってみた
ならば自分でつくるか、となって、ようやく本題になる。やれやれ、前置きが長くなった。数日前に思い立ったので、その報告だ。今回は、要件として、
- 中学2年生(現状は1学期)が読むテキスト
・ よって過去形・未来形は既習、不定詞、動名詞、完了形は未習
・ 未習範囲を含んでもよいが、主要部分は既習の知識で概ね理解できるようにする - 長さは200 words程度までの読み切り記事で、記事数は10以上、必要に応じていくらでも追加可能なものとする
- テキストの末尾に簡単な問題をつけるが、これは達成感を与えるためのもので、重要なものではない。
- 興味をもって読める内容
とにかく量を読ませたいとなると、1回読み切り形式で、毎日新しいのが読めるようにするほうがいい。読んでもらえばそれでいいので設問は本来不要なのだけれど、かなしいことに中学生はテスト形式に慣れすぎていて、問題がついていないと教材と思ってくれなかったりする。また、問題が解いてあれば一応、こちらも「あ、ちゃんと読んだんだな」と確認できるので、入れることにする。もっとも重要なのが、読んで面白いこと。面白くなければ続くはずがない。
となると、オリジナルの作文は不可だ。まずなにより、中学生が面白いと思えるような読み物をいくつも書くだけの才能はない。その才能があれば、家庭教師なんかやってないはずだ。次に、オリジナルで英文を書いて、きちんとした英語になるとは思えない。もちろん、後述するように機械翻訳を使えばそれなりに誤りのない英文を書くことはできる。けれど、英語として自然かどうかは、思いのほかに書かれてある内容に依存する。よくいわれることだが、英語的な発想と日本語的な発想は異なるのだ。一応私は、家庭教師になる以前に(あるいは家庭教師になってからも兼業で)、英語翻訳者の実務経験が長い。だから、文法的にソツのない英語を書くことは可能なのだけれど、それを中学生の教材にしていいかと言われたら、残念ながら首を横に振るしかない。
そこで、いろいろ考えて、最終的にこういう方法で作成した。
- 大元の素材は、外国の小学生向けの読み物からとることにした。具体的には、子ども向けに英語に翻訳されたイソップ寓話集のサイトからテキストをコピーした。
- 次にこのテキストを、DeepLを用いて日本語に変換した。
- 日本語のテキストを再度DeepLに入力し、日本語の文を調整して、英語が平易になるように書き換えた。
- DeepL上で、英語表現を簡易なものに変更した。
- できあがった英語テキストを、元のテキストと比較して推敲した。
- 最終的にLibreOffice上で体裁を整え、設問を追加した。
大きな流れとしては、実際に英語圏で子ども向けの読み物として用いられているものを日本の中学生の学習段階に適合するように書き直す、というものである。なぜそうするのかといえば、ネタを書き下ろす力がないから、というのに尽きる。もちろん、実際に英語圏で読まれているものを学習の対象にするのは、英語教育の趣旨からいってもふさわしい。教育用にいろいろなサイトが存在するが、そのなかでイソップ寓話集を選んだのは、ひとつにはこれほど古い物語に著作権上の問題はさすがに存在しないだろうと思ったからだ。もちろん、英語のサイトには英語への翻訳者がいるわけで、その翻訳著作権はあるだろう。ただ、ひとつには教育目的での使用にはオープンにしていることと、それから、全面的に英語を書き直すことになるので、いずれからいっても問題はないと判断した。テキストは、基本的にはInternet Archiveで公開されているオープンなテキストと同じものであるようだ。あと、単純に私がイソップ寓話を好きだという理由もある。幼児期に絵本で読んだ記憶がいまだに鮮明で、「おもしろいなあ」と思う。きっと中学生も面白いと思ってくれるんじゃないかと思う。ここまで古いと、かえって時代遅れとか、関係ないだろうし。
このテキストをそのまま使用しなかったのは、なんといっても文法的にも出てくる単語のレベル的にも、中学2年生には難しすぎるからだ。格調高いといってもいい。小学生レベルのイソップ寓話であるのに、おそらく高校生ぐらいじゃないときちんと読解できない。このあたりが日本の英語教育どうなのよというところでもあるのだけれど、そこは妥協することにしているのだから、文句は言わないことにする。そして、粛々と書き換える。
書き換えるためにDeepLという翻訳エンジンを利用するのは、ひとつには手作業でやってたら私自身のコストがかかってしかたないということでもあるのだが、それだけDeepLの精度が高いということでもある。以前話題になってからときどき使っているのだが、入力する文をある程度機械が読み取りやすいように調整してやりさえすれば、下手な人間が訳すよりはずっと「自然な」翻訳が得られる。英語→日本語の翻訳ではたとえば「です、ます」と「だ、である」が混ざったりしてがっかりするが、そういう目立つアラはかえって手作業でなおせるから、問題にはならない。そして、日本語→英語の翻訳は、日本語を単文を中心にしたシンプルなものに整えれば、ほぼ信頼できる結果を出してくれる。
私は日本人だから、英文を書き換えるよりも、日本文を書き換えるほうがずっと能力が高い。上述のように翻訳の実務経験があるから英文を直接書き換えることもできるのだけれど、仕上がりのクォリティを考えたら、それはやらないほうがいい。いったん日本語に変換してから、日本語の方でどんどん単純化していく。
そして、これを再度DeepLにかけるわけだ。このときに、DeepLでは、英語→日本語には実装されていない機能が利用可能になる。訳語にマウスオーバーすると、別候補が表示されるのだ。別候補を選ぶことによって、それにもとづいて訳文が書き換えられる。これは使える。DeepLで翻訳された英文を読みながら、「ああ、ここは中学2年生にはしんどいなあ」と思えるところが出てきたら、まず日本語の方を調整できないかどうかをみる。文の構造的な問題はだいたいこれで解決する。表現や単語が難しい場合は、マウスオーバーで別候補にする。そうやって英文テキストを仕上げていく。
できあがったテキストを元のオリジナルと比較するのは、原文の意図を表現レベルで損なっていないかどうかをチェックするためだ。「味わい」が失われていないかどうかのチェックといってもいい。オリジナルのネタを日本文からもってくるのではなく英文からもってくるのには、こういう利点もある。日本人には納得できるが英語的ではないような論理構造みたいなのはやっぱりあるわけで、それは原文と比較することでチェックすることが可能になる。
と、まあ、機械翻訳のDeepLにおんぶに抱っこのような世話になってテキストを用意した。だいたい英検4級レベルと3級レベルの中間ぐらいのテキストが、思った以上にうまく作れた。このテキストを自分で書きおろせるかと言われたら、ちょっと無理だなあと思う。ツールがあればこそで、ほんと、いい時代になったもんだと思う。せっかくいい時代になったんだから、学校英語ももうちょっと…。いや、その話はやめとこう。