学校というやっかいな存在

私は学校がきらいだ。自分自身の経験として、すきではない。学校の唯一の魅力は友だちとあえることであって、それ以上ではない。授業のすべてがつまらなかったかといえばさすがにそこまでではなく、たまにおもしろい授業をしてくれる教師もいた。けれど、それが魅力でわざわざ行きたい気持ちになるかといえば、そんなことはなかった。

「なぜそんなつまらない学校に行くの?」みたいに、もしも当時の自分にたずねたら、おそらく「ほかに行くところがないから」と答えたことだろう。当時の自分の感覚では、おとなになればはたらかなくてはいけない。はたらくのは学校に行くよりもめんどうそうだから、まあ学校のほうがマシなんだろうな、程度にみえていたようにおもう。言葉をかえれば、おとなになったら自分もなんらかの手段でかせぐんだろうとはおもっていた。だが、不思議なことに、学校とその状態をむすびつけたことはなかった。「おとなになる」のは、年齢をかさねれば自動的になるのであって、学校で必要なスキルを身につけたからそうなるのではない。そのくせ、「自分はまだ子どもだから、とても仕事なんてできない」とはおもっていた。おとなになる過程でなにかを身につけなければいけないのだとおもっていたが、それを学校でおしえてもらうんだとは、ついぞおもわなかった。

これは、当時の社会が、現代ほどにさまざまなスキルを労働者にもとめなかったからでもあるかもしれない。当時の大学生は麻雀ばかりやっているとか酒ばかり飲んでるとか、そういうふうに世間からおもわれていたし、実際、いまの学生にくらべればはるかに学校によりつかなかった。大学がそういう状態だったから、社会に出るためになにか学ばなければいけないという感覚は、高校生、中学生、はては小学生にまでかんじられていなかったのだろう。おとなになるには、一定の年齢をかさねなければならない。それまでのあいだの子どもを世間から隔離して収容しておく場所が学校だ、ぐらいの感覚でいたのだろうとおもう。

そして、ある程度はそれもまた誤りではないという気が、いまでもする。たしかにむかしにくらべれば知っておくべき基礎知識や身につけておくべきスキルはふえた(とはいえ、むかしは必須だった農業に関する知識やちょっとした道具をあつかうスキルみたいなものは不要になった)。しかし、ひとはおしえられるから成長するのではなく、内在的な力によって成長する。たとえば、いま、過去数年のあいだ「勉強」から逃げられるだけ逃げてきた高校生をおしえはじめているのだが(通信制高校だとそういうことができてしまうらしい)、すこしおしえると「そうなんだぁ。なんでなんだろうなっておもってました」みたいなことをいう。「なんでなんだろうとおもう」ことはあらゆる学習の出発点であり、それがないところにおしえこもうとおもっても実際にはたいした力にはならない(だからカリキュラムどおりの授業はつまらない。もちろん、カリキュラムは実によくくふうされているのだけれど、それでもつまらない)。「なんでなんだろう」とおもいつづけてきた彼は、無為に過ごしたようにみえる数年のあいだに立派に成長して、正しく学べる位置にまできているのだと私はおもう。人間にはそういう力がある。

ともかくも、私のもつ学校のイメージは、よくて友だちと遊ぶ場所であり、わるくいえば収容所だ。本来そこには学ぶ場としての機能がそなわっていなければならないのだけれど、内在的な欲求が生じないうちにどんどんとカリキュラムにそってすすめられる学習にそこまでの意味はないようにおもえる。以前にもかいたが、おおくの社会人は、社会に出たあとで必要なスキルを自力で学びなおしている。必要性をかんじてスタートする学びは、それだけ効率がよく、ふかいところまでとどく。それが本質だろう。であるのに、学校には選別と競争の機能があたえられている。どれだけはやく正確に計算ができるかとか、どれだけの量の漢字をかけるかとか、どれだけの項目を暗記できているかとか、およそ学びの本質とは無関係なことでひとを測定し、それによってふりわけをおこなう。それがひとの生涯賃金や経済的な安定を左右する。ときには愛情や幸福感も左右する。

そういう実態があると感じている以上、私は社会学者が安直に教育の価値を説いてもうなづけない。彼らはいうのだ。貧困家庭が学校で不利になり、その結果として貧困が再生産されると。だからこそ、貧困家庭に教育援助をしてその再生産の輪からぬけだせるようにしなければならない。そういう理屈はたしかにわかるのだけれど、それって、学校でおこなわれている選別と競争を所与の前提として肯定していないのだろうか。選別や競争で不利になるからと、そこで勝てる方法をかんがえるのは正しいのだろうか。もしも貧困によって不当な選別をされるのだとしたら、わるいのは選別されたひとのほうではなく、選別するシステムではないのだろうか。

ことに、そういった貧困の再生産論を根拠に不利な立場におかれた子どもたち(貧困もそうだし、家庭の事情もそうだ)に対して無料の補習指導をやるボランティアみたいな美談が出るたびに、「それってただでさえ不利な人びとに質のわるい教育でさらに輪をかけるだけじゃないの」とおもわざるをえない。「ないよりマシだろう」的にたいしてスキルもない学生が「勉強を教える」ことをよしとするのは、ひとをバカにした話じゃないのとおもう。まあ、金をはらって似たようなサービスをうけるひともいるわけだからしょせんそんなものなのかもしれないが、どっちかといえば貧困の再生産がおこらないようにするには、学校をとりまくものをかえ、そして学校のありかたをかえることが本当じゃないのとおもわざるをえない。

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「子どもの貧困とライフチャンス」からずいんぶんはなれて持論を展開してしまったが、この本の第5章は学校教育の話だ。この章では、まず貧困の再生産論が実証的に語られる。貧困家庭に育つ子どもたちは、学校でうまくいかないことから、大学進学や就職、その先の収入で不利になる。「資格もとれずに卒業・中退することは、失業、低賃金、社会的疎外に至る確率を高め、広い意味でのウェルビーイングに影響をあたえる」。貧困家庭の子どもの学校での成績が低いことは統計的に実証されているし、長期欠席の可能性、退学処分の可能性も高い。15歳時点では、学力のおくれは平均2年分であるという統計もある。

なぜこのような差異が生じるのかといえば、ひとつには前章でとりあげた幼児教育の差異が影響するのだと著者は説いていく。しかし、それ以上の問題があると、著者はつづける。「低所得世帯の子どもほど…、刺激的な家庭学習環境に育つことが少ない」というわけだ。「社会学では文化資本が注目されているが、これは人の所有する習慣、技能、嗜好、選好で社会が評価するもののことである。教育分野に関して学界では、社会的に価値があるとされる文化資本の水準が低所得世帯で低いことが広い範囲の傾向として注目されてきた」と、再生産のしくみを説明する。いまとなっては古典的な理論であり、私は正直、「またかよ」とおもった。だからそういうものを低所得の家庭に援助しようとかいって、質の低いまがいものをあてがおうとかいう話になるんじゃないかと。

けれど、つぎの段落で、「おや?」とかんじた。「しかしながら集団ごとの親の文化・生活態度・将来への志望の差異を調べる研究には、つねに注意が必要である。…ステレオタイプを不利な立場にある家庭に持ち込み、『改善が必要』とかいった描写をして、そういった家庭が直面する主原因としての経済的制約の明らかな重要性から目をそらしてしまうからだ」と記されている。もやもやがすこし晴れた気がした。もしも貧困家庭の教育投資がすくないのであれば、それは単純に金がないからだ。まずそこをしっかりとみることが重要であり、「勉強がおくれているからサポートしましょう」「読書量がすくないようだから図書館にいかせましょう」「インターネットへの接続ができずにオンライン授業が受けられないようだから無料の接続サービスを手配しましょう」みたいなことは、現実にはほぼ無意味だ。そうではなく、先立つものがすべての家庭に十分にいきわたれば、そういった差異は自ずと目立たないほどに改善する。「さらに、貧困下に暮らす家族が直面する心理的なストレスの水準が高いことが、親が子どもの教育に時間や心の余裕を割けない原因になる」と、まさに「たりないものをおぎないましょう」では問題が解決しないことがあきらかにされる。

結局のところ、貧困の再生産による連環をたちきるために教育にはたらきかけましょうという発想にそもそもの無理があるのではないか。そうではなく、連環をたちきるなら、貧困そのものにアプローチすべきだろう。たしかに教育をつうじて貧困は再生産される。しかし、再生産されたとしてもどこかで貧困の状態を改善すれば、それで連環は切れる。教育の成果がたとえば就職や昇進の「チャンス」をあたえるものとして「ライフチャンス」に影響するのであれば、まずは貧困対策をすべきだという理屈になる。結果としての「チャンス」にはたらきかけようとしても、それはかえって不公平感を生むだろう。機会均等というなら、均等に機会があたえられる環境をこそ整備すべきなのだと、そんなふうに私は読んだ。

章の後半には、もうひとつのおおきな問題がかかれている。これはつまり、「いい学校」の問題だ。「低所得世帯の子どもは貧困地域に居住している傾向がある」ため、「こういった子どもたちはそういった地域にある学校に隔離されることに」なり、さらに「子どもたちを私立学校に送る余裕」や「公立の『いい』学校の校区に引っ越すだけの余裕」もない。宗教系の学校は、イギリスにおいてはそういう家庭でも手のとどく脱出戦略になりうるようだが、おおくの家庭ではそこまでの力もない。つまり、学校格差が目に見えないかたちで固定化していく。

さらに難関校であるグラマー・スクールは「何十年にもわたって均衡を欠いて富裕層の生徒を受け入れてきている」。人気のある学校は、入学志願者がおおいため選抜を恣意的におこなえる。したがって、「不利な立場にある生徒を、実際に親が入学願書を出しても、入学させたがらない」。そして、「貧困地区にある学校にはさまざまな困難がふりかか」る。そのメカニズムはあとのほうの章であきらかにされるということだが、この章でふれられているのは「社会構成効果」とか「ピア効果」とよばれるものだ。本来学校にはさまざまな社会的バックグラウンドのある生徒がいるものだ。貧困家庭の子どももいれば、裕福な家庭の子どももいる。ひとり親家庭の子どももいれば、両親ともに外に職場のある家庭の子ども、一方がつねに在宅の子どももいるだろう。こういった多様な子どもがバランスよくいることで、子どもの社会性はよく発達する。ところが、そのバランスがくずれたところで問題が発生する。「社会構成効果」というのはそういうことらしい。さらに、貧困地区で「あの学校はねえ…」といったうわさがたつと、経済的に余裕のある親は他地域の学校に子どもを送るため、学校の充足率が低下する。定員割れとなった学校は予算不足におちいり、「質の高い教員を維持することがむずかしくなる」。

こういう話をみると、とくに東京周辺で特異的にさかんな中学受験のことをおもわざるをえない。東京でおこっていることは、まさにこれと相似だ。裕福な家庭の子どもが私立校に集中することで、公立校の社会構成をいびつなものにしている。その結果、公立校の価値がおとしめられ、さらにおおくの生徒が親の経済のゆるす範囲で私立校に流出する。私立校の学費はなにもそんなに極端に高いものばかりではないが、受験のためには塾や家庭教師への投資が必要になるから、親の経済力にたいする選別圧力はおおきい。裕福な(といっても「富裕層」というほどではない)家庭の子どもとそうではない家庭の子どもは、べつべつの学校で学ぶことになる。こういったいびつな社会構成は(教えるがわ、管理するがわには都合がいいだろうし、そこにいかせる個人にとってもメリットはあるのだろうが)、長い目でみて社会に有益なものにはとてもおもえない。

どうやら学者たちも、学校の現状をそのままでいいとはおもっていないようだ。学校はときには、子どもたちの成長を阻害する。たとえば、単純にお金がないために学校行事への参加や学用品の準備が整わないことや親がイベントに参加できないことなどを、学校教職員が「教育熱心でない」と解釈するような事態もおこる。そういった誤解によって生徒を色分けすることで、生徒の教育に不利益をあたえるようなことを平気でやる。そういう指摘をつうじて、学校がかわらねばならないことを本章では示唆しているように、私なんかには読めてしまう。

教育を経由する貧困の再生産の連環をたちきるには、その連環から脱出する「チャンス」にうまく乗っかれるように補助することではなく、その連環の不具合をなおしていくことのほうが重要なようだ。ひとつには根本の原因である貧困への対策であり、もうひとつは制度と学校のあり方の是正だろう。そういうことなら、私は納得できるんだ。

 

(次回につづく)