宿題を自明とする教育方法は正しいのだろうか - 「宿題論」はなかなか進まない

「宿題論」という名前のファイルがデスクトップに置いてある。プロパティを確認すると書き始めたのはちょうど2年ほどまえになる。プロットも考え、初めの方を原稿用紙換算で10枚ほど書いたところで、止まっている。書き始め時点ではそういう構想でもなかったのだけれど、その後、これは家庭教師の手引書の第二弾の1つの章を構成するものとして私の中では位置づけられている。最初の本を書いてからもうずいぶんになるから、そろそろ次を書きたいと思って準備をしてきた。これはその一環だ。

ただ、なかなか書けない。言い訳はいろいろあるが、いまだに進んでいない。なに、そのうち書けると思う。そして、しっかりした論はそっちで書くつもりだ。中身は、一般に「宿題」として出されるものの欠点を論って、最終的に「それならばどんなふうにしてどんな内容の宿題を出すのが有効なのか」というところにもっていこうと思っている。なにせこれは、家庭教師のためのマニュアルなのだから。

 

だから宿題の話はそっちで全てになるはずなのだけれど、それ以前のところでどうにもすっきりしないので、今回はその話。そもそも、宿題を出すことが当然というのは、何が根拠になっているのだろうか、ということだ。

一応、学習指導要領に、それっぽいことがないわけではない。明確に「宿題」という言葉はないのだけれど、家庭学習の重要性が説かれており、解釈のしようによっては、「家庭学習を有効なものとするために教師は宿題を出すのだ」と強弁できないこともないようにはなっている。このあたりから攻めていきたい気持ちはあってそれなりの論拠もつくっているのだけれど、そもそもそういう解釈を許容するのは、社会全体に「だって、授業をしたら宿題は出すもんでしょう」という暗黙の前提が共有されているからだ。だから、本当は「なんでそんな前提が存在するのか」ということに遡らなければここは見えてこない。そして、それは家庭教師の技術書の守備範囲をこえるだろう。

私の感覚では、宿題というのは一種の残業だ。よく「学生の仕事は勉強です!」みたいな説教をする教師がいるが、もしもそうだとしたら、授業時間が正規の労働時間であり、それ以外の拘束時間は時間外労働となるだろう。そして、多くの業界で一定の残業を見込むことが雇用の前提になっているとはいえ、本来従業員の員数は残業をせずに業務を終えられることを基準に算出すべきであって、最初っから残業しなければ業務が回らないような職場はブラックの烙印を押されたって仕方ないだろう。そう思えば、授業に自動的に宿題がくっついてくるのはおかしいのではないか、ということになる。

それに対して、「勉強は仕事ではない!」と怒りだす教師もいるだろう。二重規範のような気もするが、必ずしも「学生の仕事は勉強」という主張と同じ教師が言ってるとはかぎらない。そして重要なことは、教師がどう理屈をつけようと、それを受け入れる社会常識がある、ということだ。なぜ宿題は特別視されるのだろうか。

プロの教師であれば、授業時間内に生徒に伝えるべきことはきっちり伝えるだけの技量をもっているべきではないのだろうか。授業時間外の生徒の努力をあてにしなければ教科指導が行えないのは指導力不足ではないのだろうか。私はどうしてもそう思ってしまう。

もちろん、子どもの成長にとって、学校が全てではない。家庭での学び、放課後の学びは子どもを大きく成長させる。むしろ、授業時間以上に成長させる。だが、それは宿題のような与えられた課題によらなければできないものなのだろうか。小学生であれば遊びを通じてさまざまな思考方法を子どもは身につけていく。家事の手伝いによっても、多くのことを学習する(料理が成績を向上させる可能性については以前にも書いた)。読書は目に見える成績だけでなく「非認知的能力」を向上させるとも言われるし、伝統的に悪口を言われてきたテレビやマンガ、さらにはゲームやWebの閲覧でさえ、子どもの成長にはそれなりの寄与をしてきたといえる。だって、「テレビばっかり」「マンガしか読まない」「ゲーム中毒」「ネット廃人」と子ども時代に罵られてきた人たちが、大人になって現にこの世の中を動かしているのだから。

そして、そういった学びは、宿題によって妨げられる。なぜなら宿題は子どもの時間を奪い、エネルギーを消耗させる。さらにわるいことに、多くの場合、親子関係を悪化させる。なぜなら、親はかならず「宿題やったか」の一言を子どもに投げかけるからだ。やりたくもない宿題でもやらねばならないというプレッシャーのなかにいる子どもに、この言葉が与える影響の大きさは格好の研究課題だと思うのだけれど、その悪影響をはっきりと評価した話をあまり聞いた記憶がない。

 

なぜ、宿題が自明視されるのだろうか? 息子の小学校のときの担任は、「これは先生と君たちの約束だ。宿題が問題ではなく、約束を果たさないことが問題なのだ」と言っていたそうだが(息子はその言葉に感銘を受けたようではあるが)、そんなもの、ただの論点のすり替えにすぎない。なぜ一方的に出される宿題を「約束」として強要できるのか、そこが問題だ。

確かに、孔子が言うように、「学びて思はざれば則ち罔し」であって、学習したことは振り返ることによってようやくその意味が明らかになってくる。しかし、振り返ることは、宿題を通じて可能であろうか。学校の授業の内容を反芻しようとするとき、何ら課題は必要ない。必要なのはただ思い巡らせる時間だ。実際、私は子どものころ、よく授業の内容を思い返しながら通学路を歩いていた。あれは自分をよく成長させてくれたなと思う。小学校から高校・大学まで、徒歩(後には自転車)でいずれも片道30分ぐらいかかる距離だったから、空想に費やす時間は十分にあった。だから、私は宿題を全くしない子どもであったにもかかわらず、必要なだけの復習をしていたのだともいえる。

ただし、全ての授業をそうやって復習できていたかというと、そうではない。人間、楽しいことだけを思い出していたいのだ。だから、面白かった授業、印象に残った教師の話ばかりを考えていた。そのせいで、数学や英語の成績はひどかった。授業がおもしろくなかったからだ。数学や英語がおもしろいと思えるようになったのはもっとずっと後で、授業とは無関係に自分で好きなだけやることができるようになってからだ。人間の成長とはそういうものだと思う。

生徒の成長をコントロールできると思って教師が宿題を出すのは、むしろ成長の阻害要因になるのではないか。そして、生徒を本当に成長させたければ、まずは生徒が身を乗り出すような授業をしなければならないのではないか。生徒の印象に残る授業、生徒が興味をもつ授業は、放っておいても生徒のなかで発酵する。生徒が思い返して、「罔し」に陥らないようにしてくれる。そして生徒は成長してくはずだ。

 

けれど、教師はデフォルトで宿題を出し、社会はそれを当然のものとして受け止める。私のような残業論に対しては、そもそも授業時間の合計は一般社会人の労働時間にくらべたらずっと短いのだから、宿題込みでようやくそれと等しいのだという論も成り立つ。ただ、この論理はそろそろ限界に来ているのではないかと、私は感じている。というのは、基礎教育の話ではなく、大学生の勉強時間が伸びているという話を聞いて、「そうだよねえ」と思ったからだ。

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私は大学生は教えていない。元の教え子の何人かは大学に入ってからも連絡をくれるし、息子もこの春から大学生になったし、まあ少しぐらいは最近の大学生の様子も見聞きしている。大学で教えている人からの話も聞くことがある。あと、この程度のことは言っても守秘義務違反にはならないと思うのだけれど、十数年前から7、8年前ぐらいまでの期間、大学の教育管理システムを開発している会社の仕事を少しだけやっていた。なので、どのようにして最近の学生を管理するシステムが発展してきたのかには少しだけ詳しい。

そういう知識を動員して大学生の勉強時間の推移を追いかけてみると、明らかにICTが教務管理や授業に組み込まれてきたあたりから学生の勉強にかける時間が増加してきているように見えてくる。そして、それはそうだろうと思う。私がかかわっていたシステムは、いかに学生を効率よく勉強に駆り立てるかをセールスポイントにしていたからだ。それは競合各社のシステムも同じだ。授業前の資料配布や事前アンケート、授業中の抜き打ちのアンケートや小テスト、授業後のレポート提出機能や質問機能、資料の共有機能など、「ああ、たしかにこれやったら学生は勉強するな」と実感させられるものばかりだった。当時はその機能を使いこなしている教員は少数だったようだが、ベンダーの側もどんどんUIを進化させていた。そりゃ、使いやすくなれば使うだろう。そして、学生はどんどん勉強に駆り立てられる。

学生の本分が勉強であることを思えば、それはそれで批判すべきことでもなんでもないだろう。けれど、たとえば授業前に「反転学習」で動画の閲覧を求め、授業中は居眠りや内職ができないほどに各種機能を活用し、授業後には8時間以内のレポートを求め、さらには生徒同士のコラボレーションや相互批判を推奨するというようなことを標準化するとどうなるか。90分の授業に最低でも60分、下手をすると120分ぐらいはプラスアルファの時間を費やさねばならなくなる。昔もいまも大学生が卒業までに必要とする単位数は特に変化がないので、大学生が受ける授業時間数は時代が変わっても大差ない。90分授業が4コマ、5コマとはいる日もある一方で、2コマぐらいしか授業のない日もある。3コマの日だと授業時間数はたかだか4時間半だ。けれど、ここに上記の時間を入れると7時間半になる。ほぼ8時間労働に相当するといってもいい。もしも「学生の仕事が勉強」であるのなら、だ。つまり、「学生は遊んでばっかり」というのは、管理が緩やかで仮にレポートの課題が出てもサボり放題だった昔には真実であったかもしれないが、ICTの導入によって管理が厳しくなった現代においては(たとえばレポートの未提出は厳格に減点されるし、締切は秒単位で厳守になる)まったくあてはまらない。

ただ、上記のブログに引用された大学生協の調査データをみると、授業時間外の大学生の勉強時間は1日あたり60分程度であり、私の推計よりもかなり少ない。おそらく、ひとつにはうまい具合にサボっているのだろうし、ひとつには教員の側がそこまでシビアに授業管理システムを活用していないのだろう。

いや、それにしても1日の平均学習時間が5時間程度なのはやっぱり仕事に比べたら遥かに少ないのではないかとも思えるかもしれない。ただ、この統計は特に休日を除外しているようにも見えないから、週に直せば35時間であり、もしも週休2日で当てはめれば1日7時間の労働となり、休憩の1時間を労働時間に含めるのであればちょうど8時間労働に相当する。つまり、現状、大学生は社会通念上十分な時間を学習に当てているわけで、それは遊んでばかりいたかつての大学生のイメージとは程遠い。

こういった学習時間の伸びは、制度の強化とそれを支える教育管理システムの進化によるところが大きい。私が学生のころは、学生の側からみても首を傾げたくなるような成績評価が多かった。たとえば私は大学1年のときに一般教養として芸術学なる授業を受けたのだけれど、最初の数回で教師が何をいいたいのだかさっぱり理解できず、脱落した。試験だけは受けたけれどまず単位が取れるとは思わなかったのに、「良」の成績がついた。同様のことは専門科目でもあり、たとえば線形数学はまるで理解できなかったけれど単位がもらえた。あえて文句を言うつもりもなかったけど、絶対におかしいと思った。そういったいい加減な成績評価は、現代では許容されていない。出席、レポート、試験など、客観的な基準できっちりとスコアを出し、それに準拠してしか単位は出せなくなっている。かつては「そんなこといっても無理じゃない」と言い逃れができたのが、システムが整備されることで「こうやったらできますよ」と具体的にソリューションが提示される。なんなら教務課からサポートや研修が提供される。「現実は不可能」という言い訳はていねいに潰される。管理は強化され、最終的には、学生は真面目にならざるをえない。

真面目であることそのものはいいのだ。けれど、もしもこういったシステムをシステムベンダーが理想とするような方法で活用しはじめると、上記のように学生は1日に7時間どころか、日によっては10時間とか11時間机にかじりつかねばならなくなる。労働であれば1週の残業時間は15時間が上限だから、本当に真面目に勉強すれば過労死ラインを超えることにもなりかねない。現実はまだまだそこまでいっていないが、流れはそうなっている。ICTを忌避してきた高齢の教授たちが引退していき、システムに従順に従うことを受け入れる教員がその後を埋めていけば、学生たちの学習時間がブラック企業並みになっていくのは、システムの設計を見ていれば避けられない運命のように思える。

そこまで真面目にやれるものではない。ということで、どうなるかといえば、学生は適当にサボるわけだ。けれど、昔のように代返(これも死語か。「サボってる人の代理で出席の返事をすること」)を頼んだり教師の情に訴えるような方法では、現代の洗練されたシステムは乗り越えられない。ではどうするかといえば、レポートは適当に検索してコピペをする。「本当はしっかりしたレポートを書きたいけれど、時間がないから適当なものを出した」というのは、実際に大学生が口にする言葉だ。コピペのレポートなんて無意味を通り越して害悪でしかないけれど、学生の生活時間を侵食するような制度設計のもとでは、そういった劣化が起こるのは当たり前ではないか。

 

重要なことは、こういった管理システムの進歩は、徐々に大学から高校、高校から義務教育の世界へとひろまりつつあることだ。「勉強は善」という考え方からは当然、「しっかりと勉強させるためのシステム」は歓迎されこそすれ、何ら否定されるものではない。しかし、そこで無視されるのは、子どもたちの時間が有限であるという事実、そして、成長のためには緩やかな時間、枠組みにとらわれずに思考をひろげていく時間が必要であるという事実だ。

宿題がそれを阻害すると言ったら、多くの教師が目を剥くだろう。宿題なんてほんのわずかの時間だけがんばれば終わるじゃないかと、自分の出している宿題の量を実証的に持ち出してくるかもしれない。だが、中学生や高校生をみてきて、現実に、彼らがどれだけ宿題に苦しんでいるかをみていると、「わかっちゃいない」と思う。たしかに、ひとりの教師が出す宿題の量は大したものではない。1日の授業の復習にせいぜい30分もかからないだろう。だが、中高生は毎日6時間の授業を受ける。体育のように宿題のない授業もあるから、平均4教科の宿題が毎日出るとしよう。各教科30分かかるとしたら合計2時間にものぼる。2時間の残業が標準化するような企業は、やっぱり人を壊すのではなかろうか。

そして、ここでも「手ぬき」が起こる。真面目に取り組めば1時間、2時間とかかる宿題を、サラッとやってしまう生徒も多い。そして、そういう「要領のいい生徒」のかなりの部分は、成績が伸びない。あたりまえの話で、自分で考えもせず、手先を動かすだけでこなす宿題が教科の理解に寄与するわけはない。教師は、「真面目にこれだけの課題をやったら成績が伸びないわけはない」と考えて宿題を出すのだろうが(せめてそうあってほしい)、「真面目にやったら」という前提が可能かどうかをあんまり考えていないのではないか。そこをどうにかするのが「がんばりだ」「学生の本分だ」と主張するばかりでは、まるで説得力がないことに気づかないのではないか。

 

こういう構造を支えているのが、「だって宿題はあたりまえでしょう」と考える世間の常識なのだ。なぜ、時間外労働が当然とされるのだろう。人生は学びの連続だし、子どもは特に多くのことを学んでいかねばならない。じゃあ、そのために宿題が有効だという根拠はどこにあるのだろう。そもそも、生徒の時間を支配することに関して、教師は何の権限があるのだろう。

こんな疑問を抱えながら、それでも私も遠慮がちに宿題を出す。業務規程にそれが組み込まれている以上、逃げられない。いや、必要のない宿題は有害でしかないし、効果的に宿題を出すのは本当にむずかしいんだと、経験をかさねるごとに思うのだけれど、なかなかこういう主張に耳を傾けてくれる人は多くない。ほんと、「常識」ほど怖いものはないよ。