待ちぼうけ

1時間余の暇ができたから会って話をしましょうと約束をしていたのに、その人は現れない。場所をまちがえたことに気がついたのは、もう次の予定が入っている直前だった。あわてて連絡をとったけれど、その時点ではもう会えないことがはっきりしてしまっていた。しかたない。約束はあきらめた。

こんな待ちぼうけ、むかしはよくあったものだ。いまのようにモバイル通信手段が発達していない時代、待ち合わせは高度な技術だった。だからよく失敗もした。約束をしていて会えないことはザラだった。待ち合わせに「5分前」に行くことが常識であったのも、失敗を避けるためにそれが必要だったからだ。それでも思わぬ電車の遅れやらなにやらで相手が約束の時刻に現れないことはふつうだった。だから人々の許容度も高く、30分ぐらい待っていても、それで関係が破綻してしまうようなことはなかった。さすがに寝坊して1時間も待たせたような相手には腹も立ったが、そういう場合はさっさと帰ってしまってもそれはそれで許容されるようなところがあった。次の予定があるなら、伝言板に謎のようなメッセージを残して立ち去ることもできた。

駅の伝言板さえ見なくなって久しい現代では、そうはいかない。遅れるのならLINEなりSMSメッセージを入れておくのが当然だし、そうなると、「ああ、遅れるのだな。だったらこういうふうに対応しよう」と、待つ方の行動が変わる。便利な世の中だけれど、少々窮屈でもある。来ぬ人の事情をあれこれと想像しながら待つことは、たしかに気の揉めることではあるが、それなりに意味のあることでもあったなあと思う。無駄に過ごす時間は余裕でもあり、その時間にいろいろな気付きや発見もある。そういった余裕を失って久しい。

昨日、私が待っていた相手は、現代を生きる若い人だ。だからスマホをはじめとする電子機器もちゃんと使いこなす。けれど、どこか時代からずれたところがある。メッセージを送っても返事が来るまで時間がかかる。けっしてこちらのメッセージを無視することはない。必ず返事はくれる。まるで文通するような気の長い周期でやり取りが成立する。若いころ、便箋や封筒をえらんで切手を買いに行った頃のような気持ちにもなる。

そういう感覚を覚えさせてくれるのが気に入って、私はその人を自分のあるプロジェクトに巻き込んだ。だから、ときどき会う。プロジェクトそのものもどこか曖昧さのあるものだから、打ち合わせともちょっとちがう。そういう部分もあるが、もう少しゆるい。ゆるい雰囲気のなかでなんだかよくわからないけれど、プロジェクトはゆっくりと進みはじめている。私はそれを成功させたい。せっかちな性格だから気持ちは焦る。けれど、それを押し止めるように、ゆったりとしたペースでしか前に進まない。そういうペースをつくってくれる人、相棒として、こういう人が必要だったのだなあと、思ったりもする。

昨日、会えなかったのは残念だった。私がまちがった場所で待ち時間をつぶすために仕事をしていた時間、その人は正しい場所でわけもわからず待ち続けてくれていたのだろう。古い時代の人間である私には、待つことに対する耐性がある。2時間や3時間、待ちぼうけを食らうことは若い頃には普通にあった。どうってことはない。現代の若い人にとっては耐えられないことだろう。1時間近く、どんな気持ちで待ち続けていたのだろうと想像すると、申し訳なくなる。しかしまた、現代の時間の流れとはどこかちがう時間の流れのなかで生きている人でもある。待つ時間を意義あるものに変えてくれたかもしれないとも思う。待つことで生まれる心の動きを、しっかりとここからの養分として蓄えてくれたかもしれない。

そうであってほしいと願う。