決定プロセスと実行プロセスを同じ組織に委任してはならない

成長性の高い企業の特徴のひとつは、意思決定の権限が末端に委譲されていることだ。本当かどうかは知らないが、そういう指摘をときどき目にする。スピード感が何より重要な時代にあって、上層部の許可がなければ動けない企業は遅れをとる。現場の動きをいちばんよく知っているのは末端の担当者なのだから、そのレベルで決裁して差し支えない事柄については権限を移譲してしまう。権限の分散が営利企業においては重要なのだそうだ。

それはそうなんだろうと思う。それに比べれば、公的機関の動きや判断はイライラするぐらいに遅い。1980年代頃だったと思うが、「役所は民間企業に学ばなければいけない」みたいな風潮があったのも、ある面では理解できる。スピード感ということでいえば、とにかく公的機関は遅い。だが、社会経験を重ねてくると、それはそれでしかたのないことだと思えるようにもなってきた。官と民は、似ている部分もあるが、根本的に性質のちがうものだ。ケインズ以降、官が事業をして経済を回す部分が大きくなり、事業であるため民間と区別がつきにくくなった経緯はあるのだろうが、本来、公的な事業はあくまで公共の福祉のために行うのであって、営利企業とはスタンスがちがう。まして、公的機関が担う機能は事業だけではないのだから、そこは大きくちがうのが当然だ。利益を出さない民間企業は潰れればいいのだけれど、公共の福祉のために存在する公的機関が潰れてはいけない。そこだけとっても大きくちがう。

さらに、公的機関には、法律によって、通常の企業には与えられない権力が付与されていることが多い。たとえば水道事業だけれど、安全な水を利用できることは基本的人権であると考えることもできるのだから、それを供給することには権力性が付随する。水道事業者の都合で上水の提供を止めることができたら、それは恣意的な権力の行使になってしまう(だから水道に関しては電気やガスとちがって料金未払いで止められることがない)。あるいは道路の拡幅や新設でもそれによって住民の権利が制限されたり利害が偏ったりする場合があるのだから、「便利になればそれでいい」というものでもない。こういった権力の行使には慎重の上に慎重でなければならないし、調整のためにスピード感が犠牲になってもやむを得ないともいえるだろう。

公的機関の行うことには権力性が多かれ少なかれつきまとうことが多いのだが、そのなかでも制度上、はっきりと人権を制限する機能が与えられている機関が存在する。その最たるものが警察だ。警察は、公共の安全を守るため、一定の条件下で人権を侵害する権力を与えられている。たとえば逮捕や家宅捜索は、基本的人権を明らかに侵害している。このような権力を与えられた機関は、常に適切なコントロール下に置かれねばならない。だから、警察の権力行使には裁判所の令状が必須とされている。現行犯逮捕のような緊急時を除き、常に外部機関による決定がなければ動けないとされているのが、制度の設計になっている(それを迂回する「転び公妨」のような問題はまた別の話になるだろう)。

警察ほどはっきりしていないが、学校も人権を制限する権力を与えられている。義務教育という制度設計と社会の通念の上から、そうなってしまっている。学校長を責任者として学校・教員は、教育上必要と認められる指導を生徒・児童に対して行うことができる。たとえば、生理的欲求を満たすことは基本的人権であり、人間は、生まれながらにして必要に応じてトイレに行くことができる。ところが学校は、指導上の必要性からトイレに行く時間を休憩時間に制限した上で(そこまでなら便宜上わからないでもないのだけれど)、それ以外の時間にトイレに行くことに教師の許可を必要とすると定めている。私は家庭教師として生徒から「トイレに行っていいですか?」と言われるたびに「あかんと言うたらどうすんねん?」とツッコむのだけれど、現実には「教育上の指導」と称して許可を与えない教師だって学校にはいるらしい。まさに、現実として学校には生徒の人権を制限する権力が与えられているわけだ。

近頃よく話題になるブラック校則にしたところで、それがまかり通るのは学校に権力が与えられているからだ。義務教育ではない高校に関しては、「それが嫌なら学校をやめればいいじゃない」と、制度上はあくまで契約関係に基づく制限であって、無制限な権力の行使ではないということになっている。しかし、高校を中退することによる社会的な不利益は非常に大きく、高校を経由しない人生設計が困難である現状を考えれば、やはりここには義務教育に準じた権力構造があると言わざるを得ない(ただ、高校に関してはかつての大検から高検への制度変更など、そこを経由しない道筋が少しずつ認められるようになってきているとは感じている。それは別の話だ)。まして義務教育である中学校には、「そんな校則にはしたがえない」と感じたら基本的人権である教育を受ける権利が失われるわけで、「教育上の必要性」という名目は相当に強力な人権制限を伴う権力を制度として学校に与えているのだということがわかる。

 

そういった権力の存在を否定するアナーキーな発想もそれはそれで興味深いのだけれど、現実には警察も学校も必要だと感じられる私にとって、それではその権力の暴走をどう食い止めるのか、ということが重要になってくる。なぜなら、権力は必ず暴走するからだ。

これは、いまから70年近くも前に書かれた「パーキンソンの法則」という本にも書かれていることなのだけれど(私の書棚にもあったのだけれど、英語の勉強にちょうどいいからと高校生に貸し出してまだ戻ってきていない。したがって、正確な引用はできない)、あらゆる組織は組織であるが故に、組織の自己防衛と権力の拡大化を目指すようになる。これは人間の本性に組み込まれている志向のようで、例外はない。あるいは、例外が発生するような組織はすぐに消失してしまうため、世の中には自己防衛と権力の拡大を目指す組織しか残らなくなる。「パーキンソンの法則」は社会学者が書いたとはいえかなり通俗書であるのでわかりやすい分だけ大雑把なのだけれど、それだけにおおまかな話としてはその後数十年を経てもその正しさは失われていない。そして、組織の自己防衛と権力の拡大は、すなわち、暴走である。組織が置かれた本来の目的とは無関係な方向に組織が動きはじめる。

たとえば、学校。校則の多くは統制をとることを目的としている。統制をとることは、たしかに学校運営をやりやすくする。さまざまな問題の発生を防ぎ、失われるコストを最小限にとどめるだろう。しかし、学校の目的は子どもたちが健全に成長するように介入を行うことであって、学校の運営を効率的に行うことではない。たしかに本来の目的を達成するためには余分な問題が起こらないようにしたほうがいいのかもしれないが、多くの校則は必要以上に強権的であり、場合によっては子どもたちの成長に対して著しく有害であることだってある。それでもそれが「そういうもんだ」と判断されるのは、それが組織防衛にとって有益であるからにちがいない。つまり、本来の目的とは別な目的に向かっているのであり、権力の暴走である。

 

権力が必ず暴走するとき、そしてそれでも権力を何らかの公的機関に与えねばならないとき、人間は知恵として対立する機関に権力を与えてバランスをとることを選んできた。これが権力分立だ。典型的には立法、行政、司法の三権分立。これらの機関にはそれぞれ相当に強力な権力が与えられる。だからこそ、互いに牽制できるような独立性と監視機能が与えられたわけだ。それは中学校の社会科でも習う。

そして、権力分立とは厳密な意味ではちがうのかもしれないが、やはり権力機関には別の独立した組織が監視なり監督なりを行うようになっている。たとえば上記の警察に対する裁判所の令状発行がそうだ。また、制度としては、学校に対する教育委員会だ(残念なのは教育委員会が校長OB会みたいになって学校からの独立性が怪しいことではあるのだが、それもまた別の話だろう)。権力を与えられた組織が暴走しないためには、必ず別の権力組織が必要になる。

そして、近頃思うのは、この権力の分立、結局は決定機関と実行機関と監査機関を分けることではないかな、ということだ。つまり、何らかの権力の行使を行おうとするのであれば、その実行組織がまず必要だ。しかし、実行組織が意思決定すると、必ずその方向は組織防衛と権力拡大に向かう。したがって意思決定は別の機関が行わねばならない。その上でなお、決定された意志が正しく実行されたかどうかは、さらに独立した機関が監査しなければならない。これが国政に反映されたものが立法、行政、司法の三権分立ではなかろうか、ということだ。

そして、国政以外の公的機関にあてはめた場合、監査(というよりも最終的な行為の適法性の判断)は、そのまま司法に任せていいだろう。ここの部分で権力を二重にする必要はない。そして、ほとんどの公的機関は、決定機関と実行機関を兼ね備えている。これは、法令の枠内で「この部分は権限を認めますよ」と定めた範囲に関して、その機関の長に裁量権があり、その長が指揮する組織が実行を司るという意味である。たとえば学校であれば、校則を定めるのは校長であり、校則を実施するのは校長が指揮する教職員である、ということになる。これがまずいのだと思う。

 

学校の例だとわかりにくいので、もっとわかりやすい例を出そう。近頃、報道で悲惨な例を耳にする出入国在留管理局だ。入国管理局の業務は、なるほど、法令に則って行われている。しかし、実態としては裁判によらない自由権の侵害であり、憲法違反の虐待であり、人間の尊厳やときには生命にかかわるような拘束である。なぜ法治国家であるはずの日本においてそのようなことが起こり得るのかといえば、それは入管が組織防衛に走っているからだと理解するのがもっとも説明しやすいように思える。すなわち、入管の本来の目的は、日本への入国者を適切に管理することであろう。その際、法の想定を超えて入国してきた外国人に対しては、一律に違法として送還を行おうとする。送還が不能な場合に収容し、それが長期に渡っても何らそれ以上の対応ができない。なぜならそうやって杓子定規な対応をしている限り、組織としては安泰だからだ。組織防衛という自己目的の上からは最適解となる。そして、収容者に対する虐待も、それが収容施設の秩序を保つのであれば、組織にとっては最適解になる。それが、「入国者の適切な管理」にはまったくつながらないか、場合によってはその目的と大きく乖離するとしても、それが何らかの動機になるわけではない。

もしもここで、「送還するかどうか」「収容するかどうか」「収容を解くかどうか」といった判断を入管以外の機関が行うように制度を改めたらどうだろうか。単純に決定する場所が変わっただけで、同じ制度下では同じような決定が出ると考えてもかまわない。けれど、拮抗する権力関係は別な結果を生むだろう。たとえば、「杓子定規な対応はおかしい」と思っても自らが決定機関であったとしたらそれをいうことは組織防衛の原理に反する。それは言ってはならないことになる。けれど、別組織が意思決定をするのであれば、「杓子定規に収容しろと言われてもこっちの方はもう定員いっぱいですよ」と反論することが可能になる。むしろそういう反論は、組織防衛と拡大にプラスになるだろう。一方、収容者に対する虐待が批判されても内部に秩序を保つことに対する防衛原理が強ければそれは無視されるのだが、意思決定機関側が独立した権力としてそれを批判すれば無視できなくなる。このように、決定プロセスと実行プロセスの分立は、システムに大きな変更を加えなくとも、それだけで権力の暴走を防ぐことになるだろう。

 

もっといい例として、児童相談所の問題がある。というよりも、この「決定機関と実行機関が同一であることから問題が発生する」という気づきは、実は児童相談所のいくつかの事例からもたらされたものなのだ。児童相談所は虐待による被害を防ぐために、なくてはならないものである。けれど、児童相談所児童福祉施設の実際は、どちらかといえば過剰な組織防衛に走っているように感じられる。その一方で、ときどき報道されるように、「児相が機能していれば防げたのに」という事件が起こったりもする。「児相は余分なことばっかりやらかしやがって」という思いと「もっと児相にはしっかりしてもらわないと」というまったく対立する印象を受ける出来事の果てに、「どうも機能不全は決定機関と実行機関が同じだから、自分たちの組織の都合で目的を曲げてしまうことが自然発生するんじゃないか」と気がついた。

だから本当は、そういった考えに至った案件を書けばいいのだ。けれど、それぞれに対して私はそれほど深くかかわったわけでもないし、制度にそこまで詳しいわけでもない。さらに、実際の当事者たちのプライバシーもある。フェイクを入れて事実関係に誤解が発生してもいけない。いつか書ける日が来たらとは思うけど、当分は無理だなあと思う。

だから、本当は今回の記事のテーマである「決定プロセスと実行プロセスを同じ組織に委任してはならない」という発見は、常日頃思いながら、「書くことはないだろうな」と思ってきた。ただ、ここ数日来、そういう趣旨で書いたブックマーク・コメントにずいぶんと多くのはてなスターが集まったのを見て、未熟でも書いといたほうがいいかなと考えを改めた。

だから、この記事はどこか奥歯に物が挟まった言い方にもなったし、具体性を欠いた空論のようでもある。けれど、よく注意してみれば、決定プロセスと実行プロセスを同じ組織が担うことによって発生する問題は、いろいろなところで見られるはずだ。たとえば、生活保護申請の窓口業務がそうであったりする。制度設計上はどうであれ、窓口業務を担当する職員は権力性を持っている。そして、それが市役所という実行組織の中で決定プロセスにかかわると、組織防衛のために本来あるべきでない行為を行うようになる。

もちろん、ここで書いてきた「プロセスを分離すべきだ」という考えは、権力にまつわることについてのものである。冒頭でも書いたように、権力の絡まない場においては、決定プロセスと実行プロセスは現場で同時進行的に行えるほうがいい場合もある。あらゆるものを営利企業のプロセスになぞらえて考えるのが誤っているのだということは、改めて念を押しておきたい。