保育園の仕事と経営者の仕事と

What business are you in?

私は「ガープの世界」以来のジョン・アーヴィングのファンなのだが、彼の作品群のなかで特に印象に残っているシーンがある。季節労働者の作業場でもあり宿所でもあるサイダーハウスでリンゴ酒の醸造中に、労働者のひとりであるジャックが吸い殻を果汁の中に投げ込む。それに気づいた労働者のボスのミスター・ローズが激怒する場面だ。いま手元に原書をもってきたが、探し出すのが面倒なので、映画版の方から引用しておく。

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意味深いのは「What business are you in?」というミスター・ローズのセリフだ。この文句で検索すると、「お仕事は何でしょうか?」という穏やかな翻訳が出てくるのだけれど、場面はもっと緊迫している。食品を扱っているという自覚がないジャックに対して、「自分の仕事がわかってんのか?」と問い詰めているわけだ。これに対してジャックはナイフを持ち出すが、あっさりとミスター・ローズの早業に服を切り裂かれてしまう。そしてミスター・ローズは捨て台詞を吐く。「オレの仕事はナイフ使いなんだぜ」と。

最初に読んだときには、この「I'm in the knife business!」の意味がよくわからなかった。単純に「ナイフのプロのオレに勝てるわけないだろ」程度の捨てゼリフだと思っていた。だが、いまになるとわかる。ミスター・ローズは、季節労働者のまとめ役として農場から期待されている(だから彼だけの特典も受けている)。つまり彼は他の季節労働者たちと同様にリンゴの収穫と加工という仕事を請け負っているわけだが、配下の労働者に対してはそれを管理するという業務を請け負っているわけでもある。そしてその管理の根本にある原理は暴力だ。荒っぽい季節労働者たちをまとめ上げるのは、ギャングも恐れをなすジャックナイフの神業だ。だからこそ、彼は「オレの仕事はナイフだぜ!」と啖呵を切ることができるわけだ。

作者は暴力を肯定しているわけではない。中絶問題や家庭内性暴力や障害者の問題や、その他さまざまな社会問題を盛り込みながらもエンターテイメントであるこの作品は、そんな安易なものではない。にしても、ここでは農場主の力の及ばない独立した権力構造がサイダーハウスに存在することとそれを尊重しなければ成り立たない農場経営とがはっきりと浮かび上がる。だが、それが効率的だからといって、社会はその内部に独立王国の存在を許すべきなのだろうか。サイダーハウスの掟に対してその外側の社会は干渉できないものなのだろうか。すべきではないのだろうか。それがこの作品のテーマであるように思える。

保育園の仕事と経営者の仕事 

保育園の仕事は子どもを健全に育てることだ。なんなら保育所保育指針という公文書を見てもらえればいい。そこには

保育を必要とする 子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする

と明記されている。だから、もしもミスター・ローズのような強面が保育所の職員に「What business are you in?」と尋ねたら、上記のように答えるのがいい。ナイフを持ち出されたくなければ。

けれど、保育園の経営者が同じ質問をされたら、もちろん場合によっては同じことを答えることになるのだが、場合によっては「職員の管理です」と答えるべきなのだろう。経営が経営者の仕事であり、経営の目的は事業を健全に継続させることだ。そこで重視されるのは収支の決算表であり、財務諸表だ。保育園のような公益的な法人の場合には、利益を出せばいいというものではない(過剰な利益は法律によって社会還元が義務付けられるので、どっちみち利益は出ない)。利益を出すのではなく、事業が持続可能であるようにお金を回すことだ。そのためには赤字であってはならないし、赤字を避けるためであっても各種引当金などの積金を怠ってはならない。保育園経営には、経営に対するそれなりのプロ意識がなければならない。

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保育士の待遇がひどいことが話題になっている。私は、基本的にはブラックな職場はさっさとやめるべきだと思う。だが、保育士のなり手がなくなって保育園が存在できないのも困る。保育士の待遇は改善されるべきだろう。ここで、これに関する議論は2つのレベルがあって、互いに相交わらないのだということに気づく。

まず、保育士の給与水準が絶対的に低いことだ。給与水準は公的に定められているので、それを上げなければ底上げはできない。これは政治的な議論になる。さまざまな立場からさまざまな意見があるだろう。そういう議論は大いにやってもらいたい。

それとはまったく別なレベルの問題がある。それは、個別の園の経営に関わるものだ。これに関しては、いくら政策的な議論をやっても解決しない。なぜなら個別の園の経営は個別の園に任されている。そこで経営者がどのような方針を取ろうが、法令の範囲内であればそこに触れることはできない。そして、そのなかで、上記に引用した増田記事のような過酷な労働問題が発生する。具体的には賃金を支払われない時間外労働だ。

もちろんこれは、「法令の範囲内」を越えているので、法令違反の労働をさせられた保育士はすぐにでも訴えるべきだし、それが面倒で逃げ出すというのもひとつの選択肢だと思う。タイムカードがあってもそれを有名無実化するような運用は、言い逃れのできない法令違反だ。そうやって実質賃金を切り下げるのは(もしも記事のとおりなら時給換算で賃金は半額にもなるだろう)あってはならないことだ。

保育園経営者の言い訳はほとんど想像できる。残業代を払おうと思っても規定の保育収入からでは払える原資がない。だから残業代は払えない。けれど、子どもたちの「健全な心身の発達」のためには、規定の時間内の労働だけでは絶対的に不足する。だからそこはお願いして自主的に子どもたちのために頑張ってもらうしかなかった、とかいうものだろう。

だが、そういった余分な時間の献身的な労働がなければ保育園は正常に運営できないものなのだろうか。ある部分はそうだ。だが、ほとんどの部分はそうではない。なぜなら、たったの一例でしかないけれど、そういった過剰な労働もなしに運営できている保育園をたまたま私は知っているからだ。そしておそらく、世の中にはその一例だけではないはずだ。一つの例は、一つの特殊事情の上にしか成り立たないと思う。だからそれを全てに当てはめろというつもりはない。けれど、なぜ他の園ではそれが当てはまらないのかの推測もできる。

その仕事は本当に必要? 

なぜその一つの例を知っているかといえば、それはたまたま私がその保育園の近所に住んでいて、息子もそこにお世話になって、そういう関係で地元代表としてちょっとした役を引き受けているからだ。守秘義務もあるのであんまり細かなことはいえないが、たまたま去年の財務諸表を見たらここ数十年、ずっと健全経営できていることがわかった。そして、近所にいるから保育士たちが何時に出勤して何時に帰っているのかはほぼ把握できる。遅番はちゃんと遅くに出てくるし(10時)、早番は早くに帰る(16時)。そして何よりも、保育内容が素晴らしい。子どもたちは実に元気に走り回っている。

もちろん、すべてが完璧というわけではない。子どもには子どもなりの悩みがあるだろうし、親から見ても「もうちょっとここはこうしてくれたらなあ」というのがあるのは知っている。他の園と比較して「あそこはやってくれるのに……」という文句もあるだろう。だが、それは本質ではない。子どもたちは健全に発育しているし、親の保育ニーズもある程度満たされている。それ以上を求めるなら、それは園の経営にではなく、法制度の変革に求めるしかないのだろう。そのぐらいに、この園は制度のなかで目一杯のことはしている。

なぜそれができるのか、書こうと思ったら、よく考えたら以前にこのブログで書いている。同じことを書くのも面倒なので、以下にリンクを貼り付ける。

mazmot.hatenablog.com

結論部分だけ抜いておくと、

ここにきてようやく、なぜあの幼稚園で、あれほど勉強熱心、仕事熱心な先生たちが毎日残業をして子どもたちのために尽くしながら、なぜあれほど子どもたちがしんどそうだったのか、理解できた。つまり、過去にやって「よかった」と評価されたこと、さらに他の園の実践の中から「これはよかった」と評価の高いことをできる限り導入し、そして、いったん導入して「よかった」と評価したものに関しては基本的に次年度以降もやる。「よかった」ことをやらない理由がない。去年よかったことなら今年もいいはずで、そうやっていいことがどんどん蓄積していけば子どもたちにとっても素晴らしい幼稚園生活になるはずと、無条件に考える。だから仕事はどんどん増える。そうであっても、子どもたちのことを思えば、がんばれる。そうやって実際に若い先生たちは頑張っていたのだろう。だが、それは結果として子どもたちの負担を増やしていた。

一方のこちらの方の保育園では、過去の成果は、知識・経験としては蓄積されているが、それを自動的にスケジュールに組み込むことはしない。やってもいいし、やらなくてもいい。ただ、「ここで必要だな」と思ったら、すばやく実施に移す。その機動力、瞬発力は感心する。それよりなにより、子どもたちのニーズを的確に把握する能力は、ほんと、プロだなあと思う。そして、子どもたちはその保育士たちの手助けに敏感に反応する。心の底から笑い、そして成長する。

肝心なことは、全ての職員が、自分たちの仕事を心得ていることなのだろう。自分たちの仕事は、「子どもの心身の健全な発達」であり、そのために必要なことはする。言葉をかえれば、必要でないことはしない。過去に「よかった」と言われていることでも、必要でなければしない。なぜならそれは過剰な労働を要求し、結果として子どもたちの心身の健全な発達に対してマイナス要因になるからだ。そのぐらいのことを一人ひとりが自覚し、なによりも経営者がわかっている。

残業代を払えないのは、どこも同じだ。だから払わずに働かせていいというものではない。払えないから定時で帰ってくれと依頼するのが、目的をきちんと理解した経営者だ(それでもその園ではやむを得ない残業の場合はきちんと残業代を支払っていたことが財務諸表から読みとれた)。「もっといい給料を払ってあげたいんですけどねえ」と愚痴る園長は、精一杯のことをやっているから愚痴る資格ができる。これ以上の報酬を払いたければ政治に動いてもらうしかない限界までやっているから、そういうことが言える。まずは経営のレベルでルールを守ってこそ、ルールに対して文句が言える。

サイダーハウス・ルールは燃やしても

個別の経営の中に、個別の内部だけで通用するルールをつくりだしてはいけない。サイダーハウスのルールは燃やされるべきだ。そうではなく、社会全体が合意したルールでもって、組織の内部も運営されねばならない。もしも賃金を支払わない残業が違法であるというのが社会全体の合意であるのなら、それに反するルールを組織内でつくってはいけない。そのためには、いったい自分の仕事はなんであるのかをしっかり理解しなければならない。

とはいいながら、そんなふうに小さな組織の独自性を縛っていくことは、硬直化にもつながっていく。近所の保育園で何がいちばんの負担になっているかというと、それは書類仕事だ。なぜ書類仕事が増えるのかというと、公的な法人に求められる透明性を確保するためだ。つまり、ルールに則っていることを確認するには、文書で残さねばならない。それはそれでわかるのだけれど、「こんな小さな組織にそれを求めてどうするよ」と思わなくもない。このあたり、ほんとうにむずかしいなあと思う。

 

とにもかくにも、どこもここもたいへんだとは思う。実際、じゃあその保育園が本当に全て理想通りにまわっているのかといえば、そうでないことを私は知っている。早朝に目覚めて暗いうちに庭に出たときに、「おはようございます」と園長に挨拶されたことが何度もある。彼はひとり、始発電車で通ってきているのだ。職員に過酷な労働をさせない代わり、自分自身が早朝の時間外労働をやっている(そして、園長が残っていたのでは帰りにくかろうと、いつも早番の時刻で帰るのだが、実際にはその半分ぐらいはそこから会議への出席であったりもする)。結局誰かが身を挺して犠牲にならなければ回らない世の中であったりする。

人間は、もう少し進歩する必要があるのだろうなあ。

 

 

 

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(どうでもいい追記)

ようやく、Cider House Rulesの問題の箇所を探し当てた。映画とはかなりちがう。ミスター・ローズは自分では手をくださず、例のセリフも自分では言っていない(彼の手下が言っている。ちなみにこのセリフは別の場面でミスター・ローズ自身も言う)。ミスター・ローズ自身は、主人公でこのシーンの傍観者であるホーマー・ウェルズをその場からそっと連れ出す。これはこれで迫力がある。登場人物の名前も違っていて、吸い殻を落としたのはジャックではなく、ジャックはそれを咎める役割。ま、ほんと、どうでもいいことだが。