学校の要求仕様はどうなっている?

学校は変わらない

義務教育=学校に行かせること、という図式が、ようやく変わろうとしている。変わろうとしているけれど、まだいまのところは変わらない。いろいろあっても結局変わっていない。「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」のことである。

別添3 義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律(平成28年法律第105号):文部科学省

この法律、

(基本理念)

第三条 教育機会の確保等に関する施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない。
一 全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、学校における環境の確保が図られるようにすること。
不登校児童生徒が行う多様な学習活動の実情を踏まえ、個々の不登校児童生徒の状況に応じた必要な支援が行われるようにすること。
不登校児童生徒が安心して教育を十分に受けられるよう、学校における環境の整備が図られるようにすること。
四 義務教育の段階における普通教育に相当する教育を十分に受けていない者の意思を十分に尊重しつつ、その年齢又は国籍その他の置かれている事情にかかわりなく、その能力に応じた教育を受ける機会が確保されるようにするとともに、その者が、その教育を通じて、社会において自立的に生きる基礎を培い、豊かな人生を送ることができるよう、その教育水準の維持向上が図られるようにすること。
五 国、地方公共団体、教育機会の確保等に関する活動を行う民間の団体その他の関係者の相互の密接な連携の下に行われるようにすること。

と、一方で不登校の実情を追認し、その支援を行うことを求めることで、従来の「不登校は否定されるべきもの」という政策の方向性を変えるものになっている。その一方で第一項、第三項に学校の対応が明示されているように、「義務教育は学校で受けるべきもの」という前提はまったく変わっていない。これは第八条から第十三条までに「支援」が学校中心に行われることを定めてあることからも明らかだ。第三条の第五項に「民間の団体その他の関係者」という文言が入り、第十三条に「学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性」という表現が入ったことから「フリースクールが公認された」みたいに喜ぶ声もあるようだが、それはあたらないだろう。この法律そのものは、現状を大きく変えるものではない。

大きく変えるものではないけれど、変わろうとする方向性を示すものではある。たとえば、この流れの中で、文部科学省は「不登校は問題行動ではない」という通知を出したそうだ。

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ただ、上記記事によると、この通知はなぜか現場ではほとんど知られていないという。問題はそこにある。変わろうとするのになかなか変われない。学校の現場とは、どうもそういう場所らしい。

本丸は学校 

不登校業界関係者にこんなことを言うと激怒されそうだけれど、不登校は現代の教育問題の中ではごくごく小さな問題でしかない。だから、もっと大きな構図を改めずにそこだけどうにかしようとしても、かえってひどいことになる。例えば今回の「確保法」だけれど、これがもしもフリースクール関係者が期待していたような「学校以外での学びも義務教育とみなす」制度を含むものになっていたらどうなっていただろう。一気に学習塾・予備校業界から大量の参入があって、たちまちいま以上の荒廃がおとずれていただろう。実際、現状をほとんど変えずにただ方向だけを示した今回の法律であっても、それだけで十分に学習塾・予備校業界を呼び寄せる力があったようだ。新規に開校したフリースクールもどきの学習塾が不登校生を引き寄せるため、長く頑張ってきた従来からの子どもたちの居場所としてのフリースクールには生徒が集まりにくくなっているとも聞く(あくまで噂だけれど)。それが関係者が望んだことだとは、私にはとうてい思えない。

やはり、本丸は学校なのだと思う。学校がまともじゃないから、一部の子どもたちは不登校という形でそれに対応する。けれど、多くの子どもはまともじゃない学校に無理にも適応する。どっちの被害が大きいかといえば、それは後者だろう。逃げ出せた子どもたちは、まだ幸せだ。もちろんその先には茨の道が待っている。それでも、逃げ出せば多くの無意味さを経験せずに済むだろう。残った子どもたちはそうではない。

現状の学校でやっていることの多くは無意味だ。私は、家庭教師として毎年20人ばかりの子どもたちに接する中で強くそう感じる。全てが無意味だというつもりはない。ポジティブ変換をかけたら、どんな苦行でも意味あることになってしまうかもしれない(苦しみは忍耐力を培うとかね)。そこまでしなくとも、実際、有益な知識が多少は身につくかもしれないし、友人関係からは得るものも多いだろう。なにより、親としては子どもが学校に行ってくれていれば安心だ。学校は、たとえ現状のままでもそれなりに役には立っている。

だが、だからといって、多くの無意味さ、アホらしさが免罪されるとは思わない。そのバカバカしさは、いちいち挙げていけばたとえばなんで「記録タイマー」をアップグレードする?ことのようになってくるわけだけど、実に限りがない。「いったいなにがやりたいの?」と思ってしまう。

そこが問題なのだ。現状の教育のおかしなところは実は社会のおかしなところの反映であって、たとえば中学校教育が歪んでいるのは高校入試のせいだし、それがなぜそれほどの破壊力をもつのかといえばそれは大学入試のせいだし、それは結局就職から生涯賃金に影響するからで、そこから是正しなければ本当の意味での改革は生まれない。とはいえ、教育のために社会を変えるなどというのは本末転倒だ。教育が徐々に変わることで社会を変えることのほうが本筋だし、実現可能性が高い。それはきっとできるはずだし、実際、教育行政の本流であるはずの文部科学省が作成している学習指導要領を見ると、そういう方向性も見えてくる。ただ、別な方向性も読み取れてしまう。そして学校は変わらない。それは、「いったいなにがやりたいのか?」それが見えないからだ。

学校は何のためのもの? 

学校には、さまざまな目標、目的が期待されている。義務教育に限って考えてみても、まずは基礎的な学力をつけることが期待されているし、社会性を身につけること、健康な身体をつくることも同様に期待されている。親としては子どもを安全に預かってくれることを期待するし、やっぱり競争に打ち勝って少しでも安定した人生の可能性をつかむ訓練をして欲しいとさえ考えてしまう。そこまであからさまでなくとも、子どものもつポテンシャルを十分に引き出して、将来食うに困らないように育てて欲しいと思っている。

だが、それらの全てを学校に期待すべきなのだろうか? それは学校でなければできないことなのだろうか? それは学校のようなシステムで最もよくできることなのだろうか? そして、そのどこまでが公教育として公共のリソースを投入すべきものなのだろうか? 実は、そういった細かな要件が議論されたことは、あまりないのではなかろうか。

過去にはそういう議論もあったのかもしれない。たとえば義務教育草創期の明治時代には、学校教育の必要性のような議論も多少はあったようだ。あるいは戦争直後の学制改革時にも、そういう議論はあったようだ。けれど、実は学校というものは、「学校ってそういうもんじゃない」的な思い込みによって成立してきた部分が大きい。たとえば明治期には寺子屋や藩校のような儒学教育からの連続性が強調され、少なくとも民間レベルでは前近代からの師弟観が継承された。敗戦によって教育は大きく変わったが、その変化はどのように教えるのか、何を教えるのかのレベルでの変化であり、それ以前の学校という存在の根本に関する変化ではなかった。だから新制の学校のほとんどは旧制の学校を受け継いで成立し、形式や指導内容を変えただけで枠組みを変えなかった。学校を支える社会の「学校ってそういうもん」という観念は、基本的に変わらなかった。

しかし、多くの社会制度同様、学校も必要性があって生まれたものである。そして、その必要性は、時代とともに変化している。ニーズが変化するのだから、そのニーズを満たすための制度そのものも変化しなければならない。ところが、学校は驚くほど変わっていない。少なくとも日本では、私の知っているだけでも半世紀は本質的に変わっていない。おそらくその以前から、ほとんど変わっていない。

学校の歴史を遡る

 おもしろい本を見つけた。柳治男著の「<学級>の歴史学 」という10年ちょっと前の新書だ。もちろん本のほうが詳しいのだけれど、書評(こちら)やWeb上で公開されているいくつかの論文(たとえば「学級と官僚制の呪縛」や「農村社会の変化と地方教育行政組織の官僚制化」、「地域社会と学校の論理的媒介としての教育の分業化」、「教職志望学生の志望動機形成と事前制御の受容に関する研究」)あたりをみていると、だいたいの問題意識はわかる。暇な人は読んでみるといいと思う。あえて要約はしない。

氏によれば、現在のような学校の形、すなわち、教室があってそこに生徒が前を向いて並んで座る形式の学校は、産業革命進行中のイギリスで発生した、とのことだ。他の著者の他の論文とかも読み合わせてみるとドイツのような大陸系の集団教育理論とかの系統もあるようだが、日本への直接の影響ということでいえば、どうやら19世紀初頭に成立したモニトリアルシステムが形成した「教室」の伝統が大きいようだ。

そして、この「教室」という空間を利用して、日本の教育システムはできあがっている。すなわち、柳治男によれば、これは教育システムの中で「自明視された空間」である。特に日本では、「担任」が特定の生徒集団を統率する社会単位がこの空間に統合された。そして、その「学級」に対して、ありとあらゆる教育目標の達成が要求された。教師たちは、超人的な努力でそれを達成しようとしてきた。その中で生み出されたノウハウが、現実の学校を形づくっている。

しかしながら、「教室」というスタイル、多数の生徒集団に対して一斉授業を行う教育スタイルは、実は単純な最低限の技能を最も低コストで伝達することに特化して工夫された形態でしかない。産業革命進行期には一定の技能(識字、算術)をもった多数の労働者を確保する必要があったから、このスタイルには相応の合理性があった。労働者とともに一定水準の兵士を確保する必要のあった明治時代以降の日本においても、このようなスタイルは有効だっただろう。特に日本においては、底辺を切り捨てるのではなく、連帯責任と相互扶助をベースに学級が一体化して底上げを行う集団主義がこのスタイルに重ね合わされた。おそらくそれは連隊→大隊→中隊→小隊→分隊とピラミッド構造の集団を構成する軍隊の形式と整合性がいいこともあったのだろうし、伝統的な村落共同体から受け継いだ社会観に合致するためでもあったのだろう。

このあたりから、教室での一斉授業という指導形式とそこに期待される教育内容の不整合が生まれてくる。本来このスタイルは「クラス」別の授業を必要とする。「クラス」とは階級であり、つまりは一定の学力水準を満たしていることになる。そのためには能力を測定する「テスト」が必要となり、その試験に合格した者だけが同じ授業を共有する。ところが日本ではこれを年齢別に編成し、自動的に昇級することにしてしまった。また、識字や算術のような基礎技能だけでなく、より高度な思考や知識を必要とする学問領域、さらには人格形成に必要な素養までが学校教育に期待されるようになった。そして、そういったものが教室での一斉授業スタイルに適合しているかどうかの検討は行われず、学級は「自明のもの」とみなされ、新たな要求だけが次々とそこに投げ込まれた。そして、その不整合を埋め合わせるバッドノウハウが教育法として蓄積されてきた。それでも間に合わないところは、教師の献身的な過剰労働で埋め合わされてきた。

どうやら私たちが目にする学校は、そういう歴史をたどってきたものらしい。つまりは、本来設計されたのとは別用途に使われながら、だれもそれを疑問に思わないシステムだ(まるでエクセルみたいじゃないか!)。現在の学校教育にみられる歪みの多くは、どうもそこから発生しているのではなかろうか。

システムは要件定義から 

たまたまそこに使えそうなシステムがあったから、そこにどんどんニーズを投げ込んでいく。 それはツールの正しい使い方だろうか? 場合によってはそうだともいえる。特に大きな変化が起こるようなときには、見えない方向性に大きな投資をするよりは、とりあえず手近なものを「あるもの使い」で活用し、急場をしのぐことがあってもいい。既存のものに継ぎ接ぎをして、様子を見ることがあってもいい。

しかし、そこには思わぬ落とし穴がある。間に合せのシステムが、あたかもあるべき姿であるように誤解され、問題があっても手直しや機能の追加で対処すべきであると受け取られてしまう危険性だ。時代が進んであらかた要件が出揃った段階で素直に見れば、スクラッチからシステムを設計しなおしたほうがずっといいものができるとわかる。けれど、古いシステムに手直しと追加を重ね、バグにパッチを継ぎ当てて肥大化したシステムは、奇妙な権威を帯びている。その不具合のひとつひとつに、想定外の利害が絡んでしまう。せっかくうまく回っているものを弄るなという声が出る。うまくいってなんかいないのだけれど、システムが巨大化しすぎて目の前の局面しか見えなくなると、個別にはうまく動いているように見える。全体の効率が悪かろうと一部に軋みが集中しようと、それはシステムの本質的な問題ではないように思えてしまう。

学校というシステムで起こっているのは、そういうことではないのだろうか。多数の単純労働者を安価に養成するために設計された教室での一斉授業というスタイルが便利だったので、そこにさまざまなニーズを押し付けた。たとえば軍事教練がそれだ。教育現場の抵抗を受けながらも、日露戦争以降、政府は学校に軍事教練的要素をどんどん導入していった。たとえば道徳教育がそうだ。心の教育は、教壇の上から説教を垂れて行えるもんじゃないだろう。戦後の民主化教育だってそうだ。全員が同じ向きを向いて一人の選ばれた者がそれに対面するスタイルは、民主主義のトレーニングに最も不向きなものだ。理科教育だって、教室スタイルでは絶対に伝えられないものがある。ただ、教室スタイルで伝えやすい内容もあって、そのおかげで理科の教科の内容は著しく歪んでしまった。講義しやすい内容だけが理科の主要部分を占めるようになってしまい、そういうものが科学だと誤解されるようになってしまって長い。

この社会が学校という制度を利用するようになって長い時間がたった。そこに求めるものも、あらかたは出揃っている。そのすべてを満足させようと思ったらパッチだらけで肥大化した現状の学校システムを肯定せざるを得ないのかもしれないが、要求をすべて並べてみて、公教育としてどれが必須でどれがそうでないのかを検討することはできるだろう。

そういう作業をする時期ではないのだろうか。あらゆるものを現状の学校に還元してしまうような発想、冒頭にあげた「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」のような発想では、学校はやがて立ちいかなくなる。学校にはどのような機能があり、何が公教育の必須条件なのかを明らかにすることがまず重要だろう。それがあれば、その必須条件満たすためにどんな代替手段が用意できるのかを、感情論に走らずに議論できる。学校の機能が明確であれば、「それ以上のものを要求しないでください。それ以上が必要であれば、それは公教育以外のサービスを利用してください」と、学校側もはっきりといえるだろう。

たとえばクラブ活動。あれが公教育の機能として本当に重要なのだろうか。そういうものがあったらいい、あったらそれなりの価値があるというのは、否定はしない。しかしそれは、学校システムの中で、公的なリソースを費やしてまで追求すべきことなのだろうか。

 

ま、私としては、学校には最低限、託児機能があって欲しいとは思う。小学校レベルの算術と識字、読解力も欠かせないニーズだろう。こういう時代だから、最低限の情報処理や社会的スキルもそこに加えていい。そこから先は、ぜんぶ疑問符をつけて改めて検討してもいいぐらいに思う。

少なくとも、校則で縛ったり形式にはめこんだりして得られる社会的規律みたいなものは、学校システムからは排除して欲しい。そういうものは、本来の意味での教育じゃないんだからね。