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シアワセの容相

あしたはこっちだ

学校はなんのために? - 不登校をめぐる見落とされがちな事情

学校は教育のため?

私は学校行かなくてもいいじゃない(いろんな意味で) と思っている。というのも、自分自身が高校時代にはほぼ完全に授業から精神的にエスケープしていたし(早い話が体育以外はほぼ完全に居眠りしてた)、自分の息子(中3)も天下に隠れのない不登校生だからだ。これで不登校をけしからんみたいなことを言ったら、矛盾に身がよじれて立ってさえいられないだろう。

とはいえ、子どもが生まれるまで、というよりも子どもが生まれてからだってしばらくは、そういうことを考えたことはなかった。目の前の子育てで目いっぱいで、将来この子が学校に行くとか、その学校がどういうところだとか、そういうことを考える余裕はなかった。けれど妻はちがった。彼女は彼女で、相当に学校に恨みがあったらしい。そういう場所に自分の息子を行かせることに抵抗があったようだ。そして、息子が3歳になってしばらくして、「学校をどうする?」という相談を持ちかけてきた。その日から、勉強の日々がはじまった。

類は友を呼ぶというのか、私の友人・知人には、けっこう不登校の子どもを育てているひと、オルタナティヴな教育を模索しているひとがいた。そういう人々に会って話を聞き、またいろんな本を読んで情報を仕入れた。フリースクールのようなところに見学にも行った。不登校であっても、オルタナティヴな学校やホームスクーリングなど、さまざまな選択肢があるのだということも知った。

そういう予備知識があった中で、最終的に息子をふつうの公立小学校に進学させようと決めたのは、まず第一には、子どもたち同士の関係性を重視したからだ。ホームスクーリングでは友だち関係が築けない。特別な学校に進めばそこでの友だちはできるだろうが、保育園を通じてせっかく数多くできた地元の友だちとは疎遠になる。たまたま素晴らしい保育園に通うことができたという事情が大きいのだけれど、そこでできた子ども同士の関係を尊重したいと思った。学校制度の意味は、そこで教えられている教科内容よりもむしろそこで培われる社会性にあるのではないかと、そんなふうに考えたわけだ。

ただ、これは理由の第一であるにしてもすべてではない。当初は自分でも意識していなかった。けれど、小学生の息子が保育園よりも早い時間に帰宅するようになって、改めて気づいた。親にとって、学校制度が何よりもありがたいのはその託児機能なのだと。

実際、働く女性にとっては、保育園から小学校に進む時期がいちばんのピンチなのだそうだ。それは同じ保育園から進学した子どもたちの家の人々と話していて実感した。私は結婚以後は(2年間を除き)ずっと自営業なので少々の無理は効く。たとえば学童保育からの下校のお迎えに出るとか(最初の1ヶ月はそうした)、PTAのクラス委員を引き受けるとか、仕事に差し支えないように実行することができた。けれど、ふつうに定時勤務が入っている保護者にそれはできない。特に恐怖は夏休みだ。ある程度は学童保育がカバーしてくれるとはいえ、完全ではない。6歳の子どもを家に放りっぱなしで職場にはりつかなければいけないプレッシャーに耐えかねて離職する人だっている。

私のような自営業でさえ、影響を受けないわけにはいかない。保育園は自営業でも就業と認めてくれるのだけれど、学童保育は自宅にいるかどうかが判断基準になるらしい。こっちはそんなことは知らないので当然のように利用していたのだが、ある日、それを理由に学童保育から追い出されることになった。長期休暇中、子どもが仕事場兼用の自宅にいたのでは、とても仕事にならない。「早く新学期が始まらないかなあ」と祈るようになって、ようやく気がついた。特に小学校低学年のあいだ、親にとって学校がありがたいのは何よりもその託児機能なのだと。

若衆宿と学校と

小学校も高学年までくれば安心だ。鍵を預けて留守番させることもできるし、なんなら食事を用意しておいて「6時を過ぎたら自分で食べておいて」みたいなことを言うこともできる。その頃から私の自営業も、以前からのデスクに縛り付けの翻訳業に、外回りの家庭教師が加わってのダブルワークになった。息子が休みのとき、仕事場の邪魔になるようなら「ちょっと外に遊びに行ってくれ」と追い出すこともできるようになったし、不在にするときには鍵っ子としてあとを任せることもできるようになった。そうなってくると、学校の託児機能の重要性は薄れてくる。

その一方で、託児機能とはややニュアンスがちがう「安全な居場所」としての学校がありがたくなってくる。小学校の4年生から5年生ぐらいの時期は、発達上、探検期なのだそうだ。自分の知らない場所をどんどん探検して回る。それができるだけの体力と知恵がついてきてるからそういう時期がくるのだとはいえ、親としてはやっぱり不安になる。放っておいたらどこまで行くかわからない。そんなときに、学校に行っている時間だけはふらふら遠出をしているはずがないという安心がある。

さらに、小学校6年生ぐらいから思春期に入る。ここから高校1年ぐらいまでのあいだの時期は、親子関係が大きく変わる。衝突が起こるのはふつうだ。そういう時期に、毎日決まった学校に行ってくれるのは本当にありがたい。家庭という社会単位と学校という社会単位のあいだを往復することで、子どもも親も正気を取り戻す。学校には、そういう役割もある。

息子は中学1年生のときに学校のやり方に腹を立ててフリースクールへと逃げこみ、身分的には不登校生になったのだが、多くの不登校生とちがって人間関係で学校に行けなくなったのではなかった。だから、フリースクールへは皆勤賞もので通っていた。ところが昨年のある時期、そんな息子にも人間関係の悩みができて、フリースクール不登校になるという二重の不登校生になってしまった1ヶ月余の期間が訪れた。このとき、既に身長が大人サイズになってきたいい若い者が自宅にゴロゴロしているのは、はっきりいって親である私にとっても鬱陶しかった。そして、本人も鬱陶しかったのだろう。耐えられなくなって再びフリースクールに行くようになった。「居場所」というものがこの年代の人々にとってそれほどまでに重要なのだということを、私は教えられた。

地方によってちがうが、思春期から思春期後期ぐらいの若者は、かつて若衆宿とか若者組と呼ばれる社会集団を形成していたそうだ。つまり、家庭の外側に居場所をつくっていたわけである。面倒だから、Wikipedia。ほんとは一次資料にあたりましょうね。

若者組 - Wikipedia

青年団 - Wikipedia

託児所としての機能が不要になってからも、思春期前期ぐらいまでは親は安心のために託児機能的な意味で学校を必要とする。それが一段落したら今度は、子離れのためにやはり学校を必要とするのだと思う。おそらくかつての農村では若者組や青年団がその役割を果たしていたのだろう。現代では中学から高校にかけての学校制度がその役割を担っているのではないだろうか。

不登校生への圧力は親の都合

学校は勉学の場であり、あるいは社会関係を学ぶ場である。不登校の問題は、通常、そういった文脈で語られる。不登校になれば教育機会が奪われるわけだから、その分の補習をしましょうというような話は前者、居場所をつくりましょうというような話は後者の考え方から出てくる。そして学校や教育委員会の公的な立場はあくまで「学校への復帰のために」であるのだけれど(少なくとも法制度上はそうなっているのだけれど)、それも上記の2つの学校の存在意義から説明されている。

けれど、実際には学校なんてたいしたことを教えていない。これは家庭教師のプライドにかけて断言する。本当に教科指導の内容だけを知識・技能として身につけるためだけなら、6年間の授業を半年に圧縮しても十分に足りる。さらに、社会関係を学ぶはずの場でいびつな社会関係に苦しむぐらいなら、むしろそれは有害であるとさえいえる。だから、勉学のためにも社会的成長のためにも、必ずしも学校は最適であるとは言い切れない。他の選択肢もあってかまわない。いろんな可能性を探ってみたらいいと思う。

しかし、親にとっての学校の存在意義は、実はそれだけではない。ホンネで包み隠さずにいえば、親としては子どもが学校に行ってくれるのがラクなのだ。自分自身が学校に対して疑問符をつけている私のようなひねくれ者でさえ、親としては息子にふつうに学校に行ってほしい。そうすることで、余分なトラブルを避けることができる。余分なことにエネルギーを奪われずに済む。キレイ事を抜いてしまえば、子どもは託児所に放り込みたいし、反抗的な若者はまとめてどっかで集まっていてほしい。

 

おそらく、不登校問題をややこしくしているひとつの要因は、実はこの親の都合なのだろうと思う。Webと端末の発達したこの時代、自学自習にはなんの問題もない。不登校生を特別視する風潮さえどうにかすれば、学校に行かなくても社会性を育んでいくことは十分に可能だ。だが、それでは親は困る。そのぐらいに、学校制度は社会・経済の現状と深く結びついている。しかし、子どもの問題を語るときに、そこがポイントとして議論されることはあまりないように思う。

私自身は、学校制度に懐疑的だ。自分が教育を受ける子どもだったら、もっと別な枠組みで多くのことを学びたいと思うだろう。だが、親の立場に立つとそれは急変する。考えてみれば「入学おめでとう」というあの言葉、「もうすぐ一年生だね」「中学は何部に入るの?」というようなわくわくするようなあの言葉たちも、ひょっとしたら親としての自分の無意識の策略の一部だったのかもしれない。人間の二重性のなんとも不可思議なことよ。

あーあ、だから大人はイヤだ。

 

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追記:なぜだかこの記事、Googleからのアクセスが多い。なんでだろうと思ったのだが、どうやらこの新年度直前の時期、「学校 なんのため」みたいな検索語でサーチしているひとが多いらしい。なるほどね。

だったら、この記事はご期待に添えなかったと思う。もしもそういうことなら、このブログのこっちの記事のほうが多分、多少は役に立つんじゃないかな? よかったらそっちに行って。

mazmot.hatenablog.com