合理的に見える話は案外と危険

世の中、ちょっと考えればウソだとわかることにころっと騙される人が多い。いや、私もけっこう騙される方で、子どもの頃にはあの有名な「消防署の方から来ました」に騙されて、親の留守中に消火器を買わされてしまった経験もあるぐらいだ。「一万円」と言われて「いま五千円しかありません」と答えたら「それでいい」と言われた時点で、おかしいと思うべきだったよな。そんな間抜けな私だからこそ、他の人には「理屈が通っているかよく考えたほうがいいよ」と忠告したりもする。数年前、仮想通貨に投資しようかどうかと悩んでいた友人に、「資産がノーリスクで数百倍にもなるうまい話が転がってるわけないじゃないか。やめとけやめとけ」と、非常に理にかなったアドバイスもした。ま、その結果がどうなったかというのは、世間の人は皆知っている。さいわい、友人から恨み言を言われたことはないが、あのとき煽っておいたら飯の一杯もおごってもらえたかもと思ったら残念だ。

ともかくも、ちょっと考えて理屈に合わないものは、どこかがおかしい。騙されてしまうかもしれない。万病に効く系の健康食品がおかしいのは、互いに拮抗する健康効果もあるはずなのに、そんな都合よく全てが良くなるなんてのは理屈に合わないからだ。景気対策ばかりいう政策が信用ならないのは、景気がよくなって暮らしがよくなったという経験をいまだに私がしたことがないからだ。どう考えても理屈に合わないものは、確かにどこかがおかしい。

では、理屈にあっているように見える話なら、信用できるのだろうか。その通りだと言いたくなる。けれど、一見理屈にあっているような話こそ、実は危ない。確かに本当である場合もあるかもしれないが、実はそうではない場合だってあり得る。それを実感させてくれるブログ記事があったので、その話。

d.hatena.ne.jp

 

この記事によると、読売新聞や毎日新聞の記事で、「親の経済格差による学力差は小学校4年あたりから顕在化する」というような内容の報道があったらしい。ちなみに毎日新聞の記事によると、

経済的に苦しく、生活保護などを受ける世帯の子どもは、そうでない世帯の子と比べて国語や算数の学力の平均偏差値が低くなる傾向があり、特に小学4年生ごろから学力の格差が広がるとの研究結果を日本財団がまとめた。大阪府箕面市の調査を基に分析した。

日本財団は「基礎の応用が小4ごろから必要になる。貧困家庭の子は幼い頃から勉強や規則的な生活習慣を身につけにくく、学力格差の拡大を招いている」と指摘し、低学年への支援を訴える。

https://mainichi.jp/articles/20171230/ddn/041/040/019000c

となっている。いわゆる「貧困の再生産」というやつである。この報道があったらしい年末はバタバタしていたので私は見逃していたのだけれど、もしも読んでいたら、「なるほど、そういうことなのか」ぐらいは思ったかもしれない。

ところが、前記のブログ記事によると、もともとの箕面市の調査結果からは、このような結論は導けない。まず、データの誤差範囲を調べると、一見明瞭に見える差異も、実は有意なものではないとわかる。さらに、データの選定に関して、特定の結論につながりやすいものだけをあえてピックアップしているのではないかという疑いがある。加えて、地域的特性の影響や、調査そのもの手法の問題など、いまひとつすっきりしない点が複数ある。要約としてはずいぶん雑だけれど、私はそんなふうに読み取った。まあ、私のいい加減さを確認したければ元記事を読んでいただければと思う。

 

ということで、この件に関して私が付け加えることは何もないのだけれど、思うのは、「ああ、これって、意識さえしていない常識に騙されたんだなあ」ってこと。そして、それをおそらく見抜けなかったであろう私は、ちょっと恥ずかしいなあってこと。どういうことか。

まず、「貧困家庭とそうでない家庭の学力差が小学校4年あたりから広がる」という言説、少しでも小学校から中学校の教育内容を知っている人には、いかにももっともらしく感じられるはずだ。なぜなら、小学校3年あたりまでは、学校でたいしたことは学ばない。小学生自身にとってはたとえば計算問題の答えが合わないとか漢字が覚えられないとか、それぞれなりの苦難はあるかもしれないが、学習項目毎の達成課題という面からみたら、それらはまったく些細なことでしかない。つまり、生徒本人の主観的な感覚にかかわらず、どっちにしても学習格差はほとんど発生しない。ところが小学校4年生あたりから、学習内容が急速に増えていく。それに伴って、学習格差が発生する。つまり、所得格差とはとりあえず無関係にも、学習格差は小学校4年生以降のものだといってかまわない。そして、多くの人の無意識的な常識として、「成績は勉強量に比例する」という感覚がある。成績がわるいのは勉強しないからで、成績がいいのは勉強したからだ。成績を上げるためには勉強する環境を整えればいいし、そのためには学習塾に行かせるか家庭教師でもつけるのが手っ取り早い。そして、そういった教育に対する投資は、貧困家庭には困難だろう。結果、この時期から学習格差が開いていくのは当然なのではないか。多くの人にはそう感じられるのだろう。

そして、昨今よく聞く「貧困の再生産」論がある。特に、教育は、貧困の再生産に重要な因子だといわれる。だとしたら、なるほど、その萌芽が小学4年生にあるというのはいかにもありそうじゃないか。どこからどう見ても合理的な話だ。そして、このような報道が、疑われることもなく流通する。

 

しかし、私は家庭教師という職業柄、そういった学習格差の発生メカニズムがウソであることを知っている。知っているはずだ。まず、成績は勉強量によって一意的に上がるものではない。勉強している生徒よりも勉強なんかしていない生徒のほうが成績が高いことなんて珍しくもない。さらに、学習塾や家庭教師に対する投資は、決して費用対効果が高くないことも知ってる。同じ投資をするのであれば、もっと別のことをやったほうがいい。そして、貧困の再生産に果たす教育の役割が、決してテストの点数に表現される部分だけに依存しているのではないことも知っている。例えばそれは進学先の選択肢の制限であったり、進学後の学費の問題であったりと、直接的に経済的な要因が働きかける部分が大きいことを知っている。

だから、こういう報道がどこかおかしいことをすぐに見抜けなければならないはずだった。けれど、おそらくこのブログ記事を読まなければ見抜けなかっただろう。それは、私自身が、意識の上では、「受験産業なんて役に立たない、学校の成績なんて見かけだけのものだ」ということを知っていて、それをことあるごとに力説していてさえ、無意識の中では世間の一般常識と同じレベルの「塾にカネをかけたら成績が上がる」式の概念を共有していたからにちがいない。これはちょっと、どうみても恥ずかしいだろう。

 

そして、なぜ当初の報道のような「学力差は10歳から」みたいな研究結果が生まれたのかと考えると、ちょっと空恐ろしくなる。研究者自身には、おそらく世論をどこかに誘導してやろうというような意図はない。けれど、その無意識の中には、「塾に行かせれば成績があがる」というような学習観が存在する。だから、子どもたちが学習塾通いを始める小学4年生付近から学力差が広がることを示唆するような傾向がデータの中にちらっとでも見えたときに、そこに焦点を当ててしまう。

そして、結果として非常に合理的、論理的に見える「学力差は10歳から」といいう結論が導かれる。この結論は、同じ信念を共有している現代社会に広く受け入れられる。そして、その信念を強化する方向に働く。「やっぱり無理してでも塾に行かせなきゃ」とか、「貧困家庭を救うために無料塾が必要だ」とか、なんだか救いようのない方向にどんどんと教育を歪めていく。

私たちは、合理的に世界を見て、合理的な選択をしていると思いこんでいる。しかし、その論理性は、ときには誤った信念の反映でしかない。ことにそういった信念が広く共有されているときには、それを互いにキャッチボールすることで、あたかも存在しないものが実在するように錯覚してしまう。人間社会とは、そういうものであるらしい。

 

だから、批判精神を忘れないことは非常に重要だし、異端になることを恐れてはいけない。そして、自分自身が批判精神をうっかりどこかに置き忘れてしまったときに、それを思い出させてくれる人に感謝することを忘れてはならない。

ありがとう!