なぜ「全部譲ってようやく対等」なのか

この記事

anond.hatelabo.jp

結婚・同居すんなら「絶対に譲れないこと以外は相手の希望に沿うように譲れ。それも無言でそうしろ」

 

に対してつけたブックマーク・コメント

結婚・同居すんなら「絶対に譲れないこと以外は相手の希望に沿うように譲れ。それも無言でそうしろ」

そやねん。対等だと思って対等のつもりで話し合いとかしてたら、実はこっちの方ばっかり押し付けてることになってたという結果になる。なので、ぜんぶ譲るつもりでようやく対等。向こうも我慢してる。

2023/01/23 15:19

b.hatena.ne.jp

が賛同を集めているようなので、蛇足で書いておく。ごく当たり前のことなので、言うまでもないのだけれど、案外と独り身のときには気づかないもので。ちなみに、もちろんこれは多くのケースにあてはまるというだけで、最終的には「ひとによる」。同じひとでも相手によるし、なんなら状況にもよる。お金に余裕があるか、カツカツの生活か、それにどちらがどの程度適応しているか、などによるので、実際には程度の問題だったりもする。とはいえ、

「全部譲ったつもりで、ようやく対等」

というのは、不思議でもなんでもない。なぜなら、いくらいっしょに生活することになっても他人は他人だし、人間、自分のことはよくわかるけれど、他人のことはわからないのがふつうだからだ。読心術とかエスパーとか、そういうのでもない限りは、人の心は読めない。それが大前提。

で、文化の異なる2人の人間が、あるいは共通する文化背景があってもそれぞれ好みであるとか人生に求めるものであるとかが微妙にズレている2人の人間がいっしょに生活するとする。すると、行動に噛み合わないところが当然のように出てくるだろう。そのとき、どうするか。

いちいちそこで行動にストップをかけて、「ねえ、どっちの方法がいい?」なんて話し合うやつはいない。次から次へと起こってくる日常の違和感に、ひとつひとつそんなことをしていたら、身がもたないのだ。だいたいが、そんなことに引っかかっているようなら最初からいっしょに生活なんかはしない。むしろ、そういった違和感を新鮮に感じるぐらいが、ひとの世の常だ。「へえ、そういうふうにするんだ!」という発見にさえなる。はるかむかし、まだウチの母親がそれほど年老いてもいなかった頃、同級生がウチに来て、「キミのお母さん、もしも私がやったらウチの母親に叱られるようなことばっかりやってるね」と言ってた。そうやっても生きていける、むしろ楽しく生きていけるということが彼女には新鮮な驚きだったようだ。もしも彼女と私がいっしょに暮らすことになっていたとしたら(現実にはそれはさまざまな紆余曲折のうえで実現しなかったのだが)、彼女はそういった自分にとって違和感のある新しい習慣のかなりの部分を喜んで受け入れていただろう。

そして重要なことは、その際に、私が間違いなくそれに気づかなかっただろうということだ。つまり、私にとってみれば米を申し訳程度にしか研がないのも、大根の皮をむかないのも、味見と称して台所で立ったまま食べることも、椅子に座って皿洗いをするのも、それがふつうだと思っていることだった(いまではだいぶとその異常性がわかる)。もしも彼女がそれまで身につけてきたやり方を捨てて新しいものを採用するとしたら、それは確かにある部分では「そっちのほうが楽だし」というのがあるかもしれないが、やっぱりかなりの部分で「相手に合わせよう」という感覚でもあるだろう。それは私にはわからない。ここで、不均衡が発生する。先方には「私の方が譲歩した」という感覚があるのに、こっちには「譲ってもらった」という感覚はない。つまり、まったく対等ではない。

その一方で、たとえばバスタオルを毎日洗う習慣が彼女にあったとしよう(実際にはいっしょに暮らすことはなかったのでそれは知らないが、たぶんそうだと思える根拠ぐらいはある)。私の方は「え、そんなことするの!」と思っても、洗濯するのが自分の役割でなかったら、別に異議申し立てまではしないだろう。その代わり、「まあ、洗剤や水はもったいないよなあ。けど、ここは譲るか」という気持ちが残る。ところが彼女の方には「譲歩された」という気持ちはない。むしろ、「私が洗濯してやらなければこの人はバスタオル1枚洗わない」という感覚が残るだろう。つまり、まったく対等ではない。

自分のことはよく見えるけれど、相手のことは基本的にわからない。だから、自分がふつうに暮らしているだけでなにひとつ相手に譲歩を求めていないときは、たいていの場合、相手が大幅に譲歩しているのだと思ったほうがいい。逆に、自分が100%譲歩している状態でも、相手はこちらが譲歩していることにまったく気づいていない。だからこそ、その状態でようやく交渉が可能になる。

「向こうも譲歩してくれているけれど、こっちも譲歩しているよな」という認識では、たいていの場合は、先方から見ると「自分ばっかり譲歩している」というようにしか見えない。なので、そこから交渉するのは横暴に映るだろう。もちろんこれは、明示的な取り決めがない事柄についてのことだ。たいていの事柄については、無言でどちらかが譲歩している。だから、自分に譲歩している自覚がない事柄はすべて相手が譲歩していると思ったほうがいいのだし、生活のなかには「こんなことを気にしてたの!」みたいなことも数多くある。たとえばキャベツの切り方ひとつとっても、自分が当たり前だと思っていることが、相手にとってはストレスだということがありうる。それが見えない以上、見えている部分に関しては、100%譲歩でちょうど釣り合いが取れる。

そのうえで、「これだけは取り決めておきたい」ということだけ、ようやく交渉のテーブルに乗る。その際でも、常に、自分が譲歩していることには目をつぶり、自分が気がついていないけどおそらく相手が譲歩しているのだろうということに関して気をつけて話すべきだ。そうでなければ、交渉は対等ではない。対等に話すためには、状況がまったく対等には見えていないということを前提にしなければならない。

 

そこまでしてなんで他人といっしょに暮らさなければいけないのかと、思うこともあるだろう。けれど、やっぱりそれは、そのほうが楽しいからだ。それは、やがてひとりになってみればわかる。ひとりの気楽さは、ひとりのしんどさでもあるわけで……