漢文を教える意味はあるのか? - そりゃあるんだろうけど…

別にウラをとったわけでもない単なる与太話なのだが、中学の教科書に漢文が載っている理由は、詩吟協会(なんてものがあるのかどうか知らないが)の陰謀ではないかとずっと思っている。詩吟というのは漢詩を独特の節回しをつけて読むもので、幕末ぐらいから流行したらしいから、それほど古いものでもない。ただ、漢文が読めなければ当然詩吟もないわけで、詩吟人口の確保には、漢文教育が欠かせない。どうせ詩吟なんてやるのは国語教師あがりぐらいに決まってるので、そういう点からもよく自己完結している。と、まあ悪口はこのぐらいにしておこう。

ただ、どう考えても中学生に漢文を教える意味がわからない。確かに、日本の文化は古代中国から流れ込んできた大量の文物を消化することによって成立した。古典を読む際に漢籍の素養が欠かせないのはもちろん、現代の日常的な語句にまで、中国由来の表現が無数に登場する。中国語の文献を日本独自の方法で読解する手法として発達した「漢文」は、日本文化を理解する上で非常に重要である。漢文の研究が途切れたら非常に貴重なものが失われるわけだし、それは歴史や文学の研究に大きな困難を引き起こすだろう。だから、決して漢文はおろそかにしてはいけない。

ただ、だからといって、研究者でもない中学生にそれを教える意味があるのだろうか。考えてみてほしい。たとえば聖書は、英語の血肉となっている。英語の本には聖書の知識なしにその表現を正確に理解できない箇所はいくらでもある。けれど、中学校でも高校でも聖書は教えない。シェイクスピアもそうだ。英文にはシェイクスピアの引用、シェイクスピアへの参照は無数にある。けれど、(高校なら教科書によっては扱うものもあるが)シェイクスピアを教えることは学校ではしない。基礎教育であれば、それで十分だ。そういう味わいのあるところは、大学の専門教育でやればいい。大学でそういう分野の研究がなくなったら問題だろうが、高校までの教育でそんなことを無理矢理に詰め込む必要はない。

同様に、漢籍の素養も、大学での研究が正常に行われていれば十分だ。もしもそれでは基礎が不足するというのなら、文系の高校生には漢文を選択できるようにしておけばいい。現在のように古文A、Bと不可分に漢文をセットする必要は、おそらくない。(あるとすれば詩吟業界の振興ぐらいか)

なんといっても、漢文の方法論、外国語を無理やりに日本語にしてしまう強引さは、歴史的事情を差っ引いたらおよそ学問の方法としてふさわしくない。語学教育全体を見渡してみれば、ああいう発想の解釈が通用し始めたらろくでもないことになるのは理解できるだろう。

 

もちろん、熟語(特に四字熟語)の成立など、漢文の知識から得られる日本語の理解は小さくない。けれど、それは返り点の打ち方とか、あるいは古代の詩歌の日本ローカルの解釈とか、果ては儒教の基礎知識とかを教えなくても、ごくふつうの解説文で補うことはできるだろう。もちろん、漢文をブラックボックス化する必要まではないので、そういうものが存在したことぐらいまでは歴史として教えてもいい。

けれど、そうなったら、教材の選択があれでいいのだろうかということになってくる。漢籍の解釈は、仏典の研究で広く用いられていたはずだ。ところが、教材は唐代の詩人と儒教聖典が中心になっている。つまり、実際に日本の歴史の中で用いられてきた場面とかなりずれている。

だから私は、「詩吟協会の陰謀だろう」と、あり得ない邪推をするわけだ。だって、詩吟では漢詩を使うわけだし、幕末に詩吟をやっていた壮士連中というのはだいたいが朱子学の徒の成れの果てだ。そういう流れの学問が存在してもいいし、必要なのだろうとも思う。だが、基礎教育の場では、それはちょっとどうなのかなあと思う。それって一部の人々を妙に優遇しているだけのような気がする。

中学生に漢文を教えるたんびに思うこと、こんなツイートを見て思い出したので書いた。ま、元ツイートの発言意図とは全然無関係なことなのだと思うんだけど。失礼!