シアワセの容相

あしたはこっちだ

人は、人の能力を正しく測定できるのだろうか?

ある人に何かの能力があるかどうかを知るには、実際にそのタスクをやってもらうのがいちばんだ。たとえば、ある人がお茶を点てることができるかどうかを知りたければ、お点前をお願いすればいい。よどみない動作で美味しいお茶をいれてくれたら、素人目にも、「ああ、この人はお茶ができるのだな」とわかる。茶道の目的がWikipediaにあるように)「人をもてなす際に現れる心の美しさ」にあるのであれば、実際にもてなしてもらって、その動きを観察すればいい。美しい心は自ずとかたちになってあらわれるものだから。

けれど、茶道の達人であれば、そこまでの必要もないらしい。茶室を横切るその歩き方を見るだけで、しっかりとした茶の心得があるかどうかがわかるそうだ。きちんと茶道を学んだ人は、畳の上の歩き方からしてはっきりとちがう。そういう細部をゆるがせにしない気配りが、自然に身についているものらしい。

さて、ここで、多くの人々を対象に、茶道の心得があるかどうかを検査しなければならない事情が発生したとする。たとえば茶道の能力によって国家から一定の年金が支給されるようになったとでもしようか。こういう制度がもしも実現したら、人々はこぞって茶道を学ぼうとするだろう。受験者も殺到するにちがいない。

けれど、残念なことにお茶の道は時間のかかるものだ。師匠について何年も、細かなことをひとつひとつ身につけていかなければならない。その一方で、試験を実施する側もたいへんだ。お茶の実力の判定のためにいちいち茶席を設けなければいけないとなると、けっこうなコストがかかる。どちらの側にも、いろいろと問題が発生する。

ただ、お茶の能力は歩き方だけで判定できる。だとしたら、能力判定のためにお点前させる必要はない。受験者を師範の前で歩かせればいいということになる。試験が歩き方だけでいいとなったら、「じゃあ歩き方だけ練習すればいいじゃない」と考える不届き者が出るのはあたりまえだろう。そして、お茶を極めた結果として美しい歩き方ができる人と、歩き方だけを集中的に練習してそれを身につけた人と、おそらく判別はできない。もしも判別できるとしたら、その細かなちがいを分析して、さらにそこを訓練することで対応ができる。茶道の実力が歩き方だけで判定されるようになったら、ほとんどの人が「お茶の練習とは歩き方の練習である」と受け止めるようになるだろう。そこに何の不都合もない。

けれど、もしも本当に茶道の能力を評価したいのなら、それはちょっとおかしい。では、どうするか。たとえば歩き方の練習だけ積んだ人には、袱紗がさばけない。ならば袱紗のさばき方も試験項目にい入れればいい。いや、茶道はやっぱりお茶をいれてこそだろう。茶筅の使い方もチェックしなければならない。こうやって項目が追加されれば、それぞれの項目について受験者は一生懸命練習するようになるだろう。全てのチェック項目にパスすれば、その人は茶道を極めているといえるはず。そうだろうか?

一般に、「AならばB」であることは、必ずしも「BならばA」であることを意味しない。「茶道の心得がある人はきちんと歩ける」が正しいとしても、「きちんと歩ける人は茶道の心得がある」とはいえない。ただし、普通なら、後者も実用的に正しいといって問題ないのだろう。つまり、他人に茶道の心得があると錯覚させることを目的として歩き方を練習するやつなんて、ふつうであればいないからだ。これは、「歩き方」を「歩き方と袱紗の扱いと茶筅の扱いと…」と項目を増やしても同じこと。むしろ、項目を増やせば、常識的には逆はほぼ正しいといえるはず。

ただし、ここにそうやって人を欺くことが何らかの利益につながるような事情が発生すると、一気に話は変わる。これらのチェック項目さえクリアすればお金がもらえるのだとなれば、人はその項目の一つ一つについて最低限のコストで最大の効果を出すような投資をしてくるものだ。「茶道の心得があるからできるはずのこと」が、「茶道の心得があることを示すためにできなければならないこと」として習得されるようになる。たとえそのようにして習得される技術が基本的にチートであって、茶道そのものではないとしても。

むしろ、そういったことをする人々にとっては「茶道を学ぶこと」と「茶道の試験に合格するための練習をすること」の区別がそもそもつかないだろう。なぜなら、「歩き方ができ、袱紗が捌け、茶筅が正しく扱え…」といった項目ができれば公に「茶道の心得がある」と認定されるときに、それらの個別の練習をすることが茶道を学ぶことでないわけはないではないか。そうではない、というのは、お茶の師範であれば誰だって思うことだろう。けれど、「いや、歩き方さえ見ればお茶をやってるかどうかはすぐにわかります」と主張したのは師範自身であり、その言葉に間違いはないはずだ。さすがにそれではまずいと思っても、「じゃあ、歩き方も袱紗のさばき方も何もかも全部完璧だったらいいじゃないですか」と言われたら、言葉の返しようもない。たとえそれが「BならばA」でもって「AならばB」を担保しようとする無茶ぶりであることが明らかであっても、反論はできなくなってしまう。

これがいま、学校教育で起こっていることだ。学校教育の目的は、ごく大雑把に言ってしまえば批判的思考力やコミュニケーション能力、情報収集・処理能力を身につけることである。これは私が言ってるんじゃなくて、文部科学省が出している学習指導要領に書いてある(要約のしかたが大雑把すぎるのは私のせいだけれど)。そして、随所で行われる学力試験(考査、テスト、その他いろいろな名前で呼ばれる)は、「そういった能力が身についていたらこのぐらいは解けるはず」という観点から、問題を作成し、出題するものだ。つまり、授業を中心とする日常の学習活動の中での目標の達成度を把握するために実施されるのが試験である。そして、日常の学習活動は、常に教育の目的である現代社会に必須の能力の獲得のために行われるはずのものだ。ところが、いったん試験によって評価するという風習が定着してしまうと、「試験で高得点をとる」ことが「学習活動の達成」とイコールであるという誤解が生まれる。つまり、「AならばB」であるはずのものが、「BならばA」として解釈される。結果、「学習活動」はすなわち「試験対策」と同義になり、試験に出そうな問題を繰り返し練習することが「勉強」であると受け止められるようになる。こうやって、最終的には入試をゴールにおいた現代の教育システムができあがる。

私は何も、「試験のための勉強は誤っている」と、一義的に断罪するものではない。なぜなら、もしも何かをすることで明らかに利益が得られることがわかっているときに「それはちがう」とダメを出す権利など、誰にもないからだ。ゴミのような練習問題を繰り返し解くことで試験で高得点が得られ、高得点が得られることで難関校に合格が決まり、それによって最終的に生涯年収が数千万円から数億円ちがってくるようなときに、「それは本末転倒だから」とストップをかける権利は、少なくとも教師には、ない。たとえチートであっても、そこをくぐり抜けていくことで人生を築き上げていくことを私たちは何ら非難できない。

もちろん、個人的には基礎的な能力を上げていくことでほとんどの試験問題は解けるようになるものだと信じているし、最終的にはそちらのほうが早道で、より高いところまで到達できる方法だと思っている。だから自分の生徒にはなるべくそういう教え方をしているのだけれど、その一方で目の前にテストがぶら下がったときには、やっぱり(特に進学のための受験を前にした時期には)チートである点取りゲームを率先して指導する。だいいちが、「試験対策こそ勉強」というわけのわからない信念のもとに長年培われた教育体系の中では、ある程度それに合わせたこともやっておかないと、生徒が著しい不利益を被ってしまう。だから、私だって付き合い程度に試験対策はやるし、その程度なら大きな害悪もないのかとさえ思う。ときには、そういった圧倒的な誤解の中で本来の目的である批判的思考力やコミュニケーション能力をどうやってつけさせるかという課題こそが、プロとしての自分のセールスポイントであるとさえ思ったりもする。

つまり、現状は原則論からいえば問題だが、現実論からいえばしかたないといえる。あるいは、教育の内側だけの議論では変えられない問題だから、内側の議論をしても始まらないと思う。これは、試験によって人間を評価する社会システムのもつ問題であり、学校を序列化のための道具として利用してきた産業社会全体の問題だから、そこを含めた議論をしなければ解決への糸口は見えない。そこを無視して教育の中身だけで話をしても、「学力評価にはどんな方法が適切なのか」みたいなところにしか落ち着かない。ところが、「試験対策」が効かないタイプの試験にさえ対策しようとするのが業界のならいだ。序列化が前提になっているとき、その方法を変えても結局行き着くところは同じ。

私が問題にしたいのは、そういった現実があることは重々承知の上で、なお、「学力=試験の成績」つまり、「AならばB」として設計されたものを「BならばA」の研究に使って何の疑問ももたない教育研究の世界のことだ。「学力試験」の成績を「学力」として扱って平気な研究のことだ。そういうものが存在する、というよりも、学力に関する研究にはほとんどそういうものしか存在しないことを最近知って愕然とした。それって、科学的じゃないから。

科学的な研究では、実験が重んじられる。実験結果は、統計処理されて議論の根幹となる。なるほど、特に近年の教育関係の研究は、そのあたり、きっちりできているように見える。けれど、その実験結果としての学力試験の得点は、どのような意味をもった数字なのだろうか。

ほとんどの学力試験において、生徒はそれぞれ高得点を目指す。これは、小学校の高学年から中学生ぐらいにかけては特に顕著になる。なぜなら、高得点をとることが彼らの利益につながるからだ。この「利益」とは、、たいていの場合、保護者からの承認が得られるであるとか、クラス内での地位が確保できるとか、何らかの方向付けをされた価値観が満たされることによる快感であるとか、およそ学習活動の目的とは無関係なものであることが多いのだが、それはそれでかまわない。ともかくも、多くの生徒が「よい点を取ろう」と努力をすることが、現実の学力試験においてはふつうに発生する。

ところで、たとえば糖尿病に関連して何らかの薬品の効果を実証しようとしている研究があるとしよう。当然、ランダムに被験者を選び、無作為抽出によって投与群と対照群を分け、一方に薬品を与え、他方には偽薬を与える。さて、この被験者に対して、「これから糖尿病の実験をしますから、頑張って糖尿病を治しましょう」と告げることは、実験をよりよいものにするだろうか。実験結果の数値、たとえば血糖値の数値目標を設定し、そこに近づけるために患者に頑張らせることは正しいだろうか。7日おきに血糖値を測定すると決めたとき、「水曜日は測定日だから、火曜日には腹八分でお願いします」みたいに患者にお願いすることは正しいことだろうか。

もちろん、そういうことをやってもきちんと比較ができるように、対照群を用意してあるわけだけれど、それでもやっぱり、「よい結果を出すために普段とちがうことをする」というのはタンパリングであって、実験結果の信頼性を落とすことになる。仮に一部の被験者が試験薬以外の薬品を使用したとしたら、その人々は統計から外すべきだろう。科学的な試験の基本は、調べたい条件以外の部分にはできるだけ触らないようにすることである。

ところが、「学力」を測定する試験では、あらかじめよい点数が取れるような「対策」を実施することが常識になっている。その時点で既にこれは科学的なデータとしてはかなり有効性が下がっていると言わざるを得ないだろう。それも、その「対策」が、目先の点数を上げるため以上の意味をもたないようなものでしかなく、かつ、それを実施することで実際に点数が大きく変化してしまうとき、何らかの働きかけ(たとえばある教材を使用した理科実験の手法)が生徒の理解(理解度が高まればテストの点数が上がるものとしてテストが設計されている)を高めたかどうかなど、どうして試験の点数から判別できようか。そういった効果は、「テスト勉強」の前に埋没してしまうのが明らかだというのに。

正しい測定というのは、案外とむずかしい。特に、測定の対象が人間である場合には、かなりむずかしい。それでも、その困難を超える方法を科学は編み出してきた。

だが、測定の結果が人間の利害に直結するとき、すなわち社会的な力関係を規定してしまうとき、測定される人間はありとあらゆる方法を使ってその測定の裏をかこうとする。試験があれば、必ず対策をしようとする。その対策をすることが正しいことであるとさえ信じ込んでしまう。結果として、測定結果は全く信用できないものとなる。

だから、世にあふれた「○○学習法」みたいなのは、およそ科学的な根拠をもたないものとなる。それでも私は、やっぱり何らかの方法で、人間の批判的思考力やコミュニケーション力、情報処理の力を高めることができるのではないかと思っている。だって、それが仕事なのだから。そして、科学的な根拠があればなあと思う。思うのだけれど、それを正しく測定する方法は見つからない。だって、テストやったら、みんながんばってしまうんだもんなあ。