数学教育の意味と、残念なその現状について

学校で数学を学ぶのは、何のためなのだろうか。家庭教師として生徒と数学を始めるとき、だいたいは最初のうちにここを生徒に確認する。「何のために数学やるの?」。多くの生徒が「将来困るから」みたいなことを答えるので、「学校で習う数学を使うことなんてほとんどないよ。足し算、掛け算、引き算は、別ね。割り算は微妙かな。あとはふつう、使わない。連立方程式使って買い物する人は見たことないし、速さのグラフを書かなくても電車やバスに乗れる。確率の計算ができなくても天気予報はわかるし、図形の証明ができなくても日曜大工ぐらいできる。数学やらなくても、大人になって困ることなんか、ふつうはないよ。もちろん、数学が役に立つ仕事もある。家庭教師なんて仕事は、数学をわかってないとできない。君は将来、家庭教師になるの?」ぐらいのことは言って、その曖昧さをぶち壊しておく。

もちろん、数学を学んだことは役に立つ。だが、その役に立ち方は、見えないところに現れてくる。その見えない部分が重要なのだけれど、生徒にはそれがイメージできていない。イメージできていないから、なにをがんばればいいのか、どういうことがわかれば「数学がわかった」ことになるのかがわからない。だから、苦しむ。いや、テストの点数は、決して数学の理解を示しているんじゃないから。

数学を学ぶ理由は、私がつらつらと考察してもいいのだけれど、どちらかといえば数学が苦手なしがない家庭教師があれこれと考えなくったって、ちゃんと公の文書に記されている。学習指導要領だ。去年改訂になったばかりの最新版によると、それはこういうこと。

第1款 目 標
数学的な見方・考え方を働かせ,数学的活動を通して,数学的に考える資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

という部分は、中学、高校とも同じ。そして、「次のとおりの」の部分もほとんど同じなのだけれど、微妙なちがいがあるから、両方とも引用する。

(中学)

(1) 数量や図形などについての基礎的な概念や原理・法則などを理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
(2) 数学を活用して事象を論理的に考察する力,数量や図形などの性質を見いだし統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
(3) 数学的活動の楽しさや数学のよさを実感して粘り強く考え,数学を生活や学習に生かそうとする態度,問題解決の過程を振り返って評価・改善しようとする態度を養う。

(高校)

(1) 数学における基本的な概念や原理・法則を体系的に理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
(2) 数学を活用して事象を論理的に考察する力,事象の本質や他の事象との関係を認識し統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
(3) 数学のよさを認識し積極的に数学を活用しようとする態度,粘り強く考え数学的論拠に基づいて判断しようとする態度,問題解決の過程を振り返って考察を深めたり,評価・改善したりしようとする態度や創造性の基礎を養う。

読めばそのままなのだけれど、大雑把にまとめれば、(1)として数量で表現・処理する技能、(2)として論理的な考察力とその表現、(3)として数学的表現を活用する思考力を求めていると解釈できるだろう。つまり、「技能」的な部分は3つの目的のうちの1つに過ぎず、しかもその(1)の中身を見れば「原理・法則の理解」が半分を占めるので、「技能」は全体の6分の1程度しか占めていないことがわかる。つまり、数学を学ぶ目的は、本質的には「技能」ではない。

数学的な「技能」とはなにかと言えば、それはたとえば四則演算であったり、方程式を解く技術であったり、関数を座標や変化率で操作する技術であったりする。こういった技能は、残念ながら、ごく一部の専門職を除き、学校以降の人生で役立つことはほとんどない(かんたんな加減乗算は別として)。もしも数学の目的が技能の取得であるのなら、それは袋小路に過ぎない。無意味といってもいい。

技能を身につけることはたしかに目的のごく一部を占めはするが、実際にはより大きな目的は別にある。それは、「論理的に考えること」「数学的に表現すること」「数学的な思考方法を活用すること」である。そして、これら、技能ではない部分の素養を身につけることは、学校以降に役に立つ。ほとんどの仕事は論理的に考えて進めないと失敗する。仕事だけではない。日常生活でも、論理的に考えることによって破綻から逃れられるケースは少なくない。数字で表現したり、数字で表現されたものから情報を読み取ることも、多くの現場で必要になる。そして、これらに比べれば出番は少ないけれど、数学的な思考方法で問題が解決できる場面は、業務によってはけっこうあったりする。特にPCでかんたんなプログラミングでもしようかという場合には、こういった素養がものをいうだろう。

だから、数学の目的は、さらにギュッと要約してしまえば「論理的な思考力を身につけること」になる。論理的な思考力は数学でしか身につかないのかといえば、そうではない。国語教師に言わせれば、国語の問題は論理的思考で解くものだそうだ。社会科の入試問題なんかを見ていても、良問は暗記ではなく思考力を要求するようにできている。しかし、そういった人文系の学問は、どうしても曖昧な部分が多くなり、論理の積み上げにしても恣意的なところが入り込みがちになる。それに対して数学は、厳密なところまで論理の構成できちんと処理できる。文句のつけようがなく論理の正否が明らかになる。だからこそ、論理的思考力を身につけるための科目として、数学が教育課程に組み込まれている。このぐらいまでのところは、たとえ相手が中学生であっても、噛み砕いて授業の最初にわからせておく。

じゃあ、技能は無視していいのかというと、実はそうではない。なぜなら、論理の展開は数値計算をはじめとする演算処理を伴うのが通常で、その演算処理にエラーが出たら論理が破綻してしまうからだ。だから、たとえば四則演算の技能は「論理的思考力」を数学で展開する上では必須になる。指導要領に定められた数学の目標の中に「技能」が含まれるのは、このような理由からであろう。

 

では、実際に数学が教えられている中学、高校の現場では、指導要領に記載されたそのような目標に即した指導が行われているだろうか? 数学教師に尋ねれば、ほぼまちがいなく「そうだ」と答えるだろう。なぜなら、中学生活の最後にやってくる高校入試、高校生活の最後にやってくる大学入試では、指導要領の範囲を逸脱して出題しないという不文律がある。そういった入試で合格点をとるためには、指導要領に即した指導をしなければならない。教師であれば、それは強く意識しているはずだ。

しかし、実際にやっていることはどうなのだろう? それら教師の指導を受けている生徒たちを見る限り、学校の授業では「論理的思考力」など、ほとんど身につかないのが明らかだ。もちろん、中学・高校を通じて論理的思考力を発達させる生徒は多い。だが、それは、言っちゃわるいが、あんな授業にもかかわらず、自力で発達しているのだ。本来は発達を支援するための授業が、むしろ阻害要因になっていることのほうが多い。

それは、極端な技能偏重主義にある。どういうことかというと、本来は、論理的思考力を鍛えることによって解決すべき演習問題を、基本的に教師は考えさせない。考える時間を与えない。そりゃ、ほんの数分の余裕を与えることはあるかもしれないが、数学の問題なんて、本格的に悩み始めたら1時間、2時間といった単位で考え込むものだ。そのぐらい悩んだら、以後、すべての問題は解決する。それが数学的・論理的な思考力を鍛えるただひとつの方法だ。ただ、悩み続けるのは相当にしんどいので、教師はそれを支えてやらなければならない。個人によってプロセスの異なるそういった学習を、学校のような空間でやるのは無理だ。結果として、学校では演習問題の解法を覚えさせる。すなわち、思考力問題を技能として扱う。

このようにして、数学はさまざまな問題パターンの解法を集積したものに成り下がる。解法は、それをたどれば正解にたどり着くことができる。ただし、解法を忘れてしまえばそれまでだ。もしも正しい思考力が身についていさえすれば、解法なんて忘れてもすぐに復元できる。ちょうど、正しく学んだプログラマのようなもので、問題を与えられたら自力で解決することができる。私のような見様見真似のパソコンユーザーはといえば、マクロひとつ書くのにもウェブを検索し、当てはまりそうなスクリプトを見つけ、それを切り貼りして、野暮ったいものを仕上げるしかない。それはそれでひとつの技術であるのかもしれないが、そこに創造的な未来はない。数学を正しく学ぶことも同じだ。参考書の解法をコピペで書き写して暗記するだけでは、ほぼ意味はない。目の前の入学試験に必要な点数を確保するという以上の意味は。

 

こういった本質を離れてしまった数学教育の見本として、中学数学の証明問題を例にあげておこう。図形の証明問題は、典型的な論理学の学習だ。多くの人々にとって実用的な意味の小さい図形の性質ではあるが、それを利用することで、論理をどのように組み立てれば説得力をもつのかを生徒に学ばせるのがこの単元の目的である。仮定を出発点に、公理や定理を論拠にして結論に至る強固な道筋をつけていく。その道筋は、決して一通りではない。けれど、いくつもある正解の中に一定の規範を見つけることで、古代から広く認められてきた論理の展開方法を理解するわけである。

したがって、この単元では、何より重要なのはとにかく自力で書いてみることと、そこで書いた証明の過程を批判することである。「ここが論理的につながっていないよ」とか、「ここの根拠が弱い」とか、そういった批判がなければ、どのような手続きが批判に耐え得るのかを身をもって体験することができない。たとえば、中学2年の三角形の合同で、合同条件を「2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい」と根拠を書く場面があるのだけれど、これを初心者はよく「2つの辺とその間の角が等しい」と書く。学校ではこれを自動的にペケにする。あるいは、「『2つ』ではなく、『2組』と書きなさい。『それぞれ』は決して忘れないようにしましょう」と指導する。その理由をもしも質問されたら、「等しいというのだから2つのものが等しいはずで、それが2セットあることは『2つ』では表せません。『2組』になるはずです。『それぞれ』がなければ、1つの三角形の2つの辺が等しい(つまり二等辺三角形)と誤解されます」と、詳細に説明してくれる場合もあるだろう。けれど、そういう手順では、正しい論理感覚は身につかない。まして、ほとんどの学校では、採点が大変だからとか、公平性を欠くからとか、生徒の負担が大きすぎるからとか、あるいは県によっては「入試に出るのがその形式だから」というもっともらしい理由をつけて証明をスクラッチから書かせない。証明問題は、基本的に穴埋め形式となる。その穴埋めの根拠として「2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい」と書くときに、論理はそこに必要ない。必要なのは暗記であり、いかに正確に条文を再現できるかということでしかない。

クラッチから証明を書かせ、それを正当な根拠で批判するという面倒くさい手続きを踏んだとしても、それでとれる点数は変わらない。だから証明問題は丸暗記問題として生徒に受け取られ、その最も肝心な論理性はほとんど無視される。そしてその傾向は、高校数学になっても変わらない。なにしろ、多くの生徒の通過儀礼となっているセンター試験は、穴埋め問題の極北であるのだから。

 

ひどい例をあげ始めたらきりがない。だが、極端にひどい例は、教師の資質であるかもしれない。たとえば、どこからどこまで理にかなった解法をしているのに、「オレが教えた解き方じゃない!」と激怒してペケをつけた高校教師なんかは、おそらく多数派ではないのだろうと信じたい。それにしても、ローカルルールに過ぎない代数のエックスの書き方にこだわる教師とかには普通にお目にかかるし、独自の教材プリントをつくる熱心なのはいいのだけれどその中身が暗記項目リストみたいになっている教師とかもしょっちゅう遭遇する。そういう人々が生徒に送っているメッセージは、「数学とは形式を重んじることだ、正解に至る道筋を覚えることだ」というものだ。学習指導要領が「数学とは論理的に考えることである」と定義しているのはそれを読めばほぼ明らかなのに、そこで必要最小限に触れてある「技能」を最大限に押し戴く。これが数学教育の現状だ。

 

そして、そんな数学教育が続くのであれば、それは「本当に必要なの?」と疑問を呈されても不思議ではないだろう。もちろん、「数学教育の本質はそうではない。数学は論理的思考だ!」と擁護することはできる(私だって擁護したい)。けれど、現状の学校教育制度の中では、ほぼそれが不可能だ。それは、現場の教師がよく知っているはず。

なぜなら、まず、論理的思考の発達という個人の内面に付き合うためには、数十人を一度に相手にする講義形式に限界がある。それを補うために「宿題」の形で演習を課しても、生徒にとって宿題とは、「さっさと済ませてしまいたいもの」のトップでしかない。さっさと済ませるためには、考えていてはいけない。授業のノートを参照して、形を真似る、模範解答をなぞる、最後の手段は答えを丸写しする、それが効率的・効果的な宿題のやり方として、実際に推奨されさえする。量をこなすには、そのほうがいいからだ。なにしろ実際に出題される問題の予想があらかじめつくのだから、そういう問題に対処できるだけの思考力をつけるよりはむしろ、そういう問題の解法パターンを覚えさせるほうが短時間で得点力を上げるには効果的。

現実を考えたら、数学教育はいまのような形にならざるを得ない。それが現場の教師の本音ではないだろうか。たとえまちがっていることがわかっていても、そうせざるを得ない。まちがっていることは、家庭教師みたいな仕事をやっていればすぐわかる。時間と手数はかかるけれど、しっかり理解させ、しっかり考えさせるようにすれば、だいたい数学の成績は上がっていく。数学の教師が覚えさせようとしている公式や解法パターンをすべて無視しても、それを自分で見つけていけるようになる。もちろん、そういうやり方が通用しない生徒もいる。そこは、適性だろう。数学的な思考方法がどうしても性に合わない生徒もいる。家庭教師は、さすがに頭の構造までは変えられない。それでも、多くの生徒は、論理的に考える方法を受け入れることができる。それで成長していくことができる。

だから、数学教育は重要だ。学習指導要領で必須の扱いを受けているのも当然だ。けれど、現状の数学教育、学校教師がやむを得ず取り組んでいる数学のあり方がほぼ無意味だということも、明らかだ。無意味なことを生徒に強制するのは、無意味に無意味を重ねて害悪のレベルに達する。だから、現状の技能偏重主義の数学教育であるのなら、私は教育課程から外したってかまわないと思う。

人間は、教育によって成長する。ただし、ある程度は放っておいても成長する。これは、不登校でまったく学校に行っていなかった生徒を教えてみればよくわかる。学校に行っていない部分は、教科指導は一切受けていない。だから、その部分がわからない、知らないのは当然だ。ただ、たとえば中学1年生に教えるのと、中学1年生で学校に行くのをやめた中学3年生に教えるのとでは、同じことを教えても、理解力に格段の差がある。15歳の生徒は、なにも教えてもらわなくても、13歳の生徒よりもはっきりと成長していて、短時間で追いつくことができる。これは、学校に行っていない生徒だけではなく、授業についていくことができずに「落ちこぼれた」生徒、つまり、出席はしているけれども授業に参加していなかった生徒に関しても同じことがいえる。13歳のときに理解できなかった同じことを15歳なら理解できる。「ちゃんと授業を聞いてればよかったよ」と後悔する場合もあるが、13歳に戻ったらやっぱりわからないのかもしれない。年齢による成長というものは、確実に存在する。

だから、たとえ中学校の数学の成績が5段階評価の1や2だったような生徒でも、高校数学は改めて理解できる可能性がある。そこで大きく伸びるかもしれない。「論理的な思考力」は、どこからでも鍛えることができる。

しかし、高校ではこういった「落ちこぼれ」た生徒にどういう「数学」を教えるか? あるいは「Fラン」といいわれるような大学ではどう扱うか? 小学校の算数や中学数学の技能を教えるのである。その言い分は、「基礎ができていなければ、高校の数学なんてわかるはずはない」なのだけれど、高校数学の基礎ぐらい、どんなできのわるい生徒でも、その年齢に達していればたいていのところは3時間もやれば理解できる。そこから始めて何の問題もないのに、なぜかそれでは不十分だと思う。なぜなら、技能の伴わない理解は理解ではないという固定観念があり、そして、技能は反復練習でしか身につかないという思い込みがあるからだ。そこに、小学校の算数を高校生にさせるのは失礼だとか、そんな練習をさせられる高校生が数学をどういうものと捉えるだろうかとか、そういった発想はまったくない。

筆算ができなければ電卓を使えばいいのだ。技能として関数の操作ができなければ、WYSIWYGで操作できるアプリケーションを導入すればいいのだ。高校数学の要は、「数学を活用して事象を論理的に考察する力,事象の本質や他の事象との関係を認識し統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力」だと学習指導要領に書いてある。だったら、物理運動のような「事象」が数学的に表現でき、そして解析できるということを教えればいいのであって、そこにその操作や解析をするための技能が欠けていることを問題にすべきではない。数学的に表現するというのはなにも数式を書くことだけではなく、実際にプログラミングのブロックを組み合わせて入力と出力がきっちり対応することを示すのでもかまわない。工夫はいくらでもできるし、それを指導要領内から逸脱しないようにすることだってできる。

じゃあなぜそうしないのかといえば、中学数学は高校入試、高校数学は大学入試に縛られているからだ。そういった入試とは無関係な非進学校でさえ、入試を規範とする体系から抜け出すことはできない。高校数学がそういう世界になってしまっているときに、一人だけ別のことをやる勇気をもった教師はいないだろう。そして、「基礎が大事ですから」と、ほぼ無意味なドリルを繰り返し、生徒のモチベーションは底の底まで低下する。

 

だから、入試制度に縛られている現状の教育システム全体を変えない限り、教育課程に数学を必修にする意味はない。論理的な思考力は、技能に特化した数学よりはむしろ読書によって発達するだろう。本来は論理的な思考力を鍛えるために最も適している数学をそのように扱うことをしない、できないのだから、ここはもう言い訳はできない。「数学ぐらいはやっとけよ」と私だって思うが、延々とドリルを反復するような無意味なことは、百害あって一利なしだ。それが数学ならやめちまえ。

 

と、こんな記事を読んで思った。あんなひどい受験数学の中でも論理的な思考力を養うことができる人はいる。そういう特別な秀才には、そうでない人々の気持ちなんかわからいんだろうなと思いながら。

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