教師の仕事は「教える」ことではない - 情報提供者としての自覚

ひょんなことから始めた家庭教師の仕事も、けっこう長くなった。やってて面白いなあと思うのは、これが全力投球を要求されるからだ。子どもだましの古臭い知識を適当に教えとけばいいとか、あるいは生徒が問題を解く監督だけしときゃいいとか、いや、たしかにそういうレベルの家庭教師だって世の中にはいるだろう。だが、それでは生計を立てていくことはできない。小遣い稼ぎぐらいなら何とかなるかもしれないが、一人前の仕事にはならない。

たとえばそういうやり方が、保育園児に通用するだろうか? 保育園児にはその発達段階に応じた読み聞かせや概念把握のトレーニングなどのスキルが必要になる。そのやり方が小学校低学年児に通用するかといえばそうではない。5年生には5年生の、6年生には6年生の方法があるし、中学生でも学年によってやることは全部ちがう。英語なら最初のうちは音読ばっかりで喉が枯れるほどだし、入試前になったらそれはそれで別種の反復練習がある。高校生ぐらいになると、生徒ごとにやることが大幅にちがう。

そして、家庭教師は原則としてどんな教科でも扱う。数学でも英語でも理科でも社会でも国語でも、必要と要請があればさらにそこからはみ出してでも教える。だから、実に多様な知識と、それを組み合わせていくスキルが必要になる。そして、それがうまく働けば、単一の教科を専門とする学校教師を超えていくことができる。そのあたりは以前、別の場所でも書いた。

suzurandai.weebly.com

そんなふうに常に自分の知識・技量のギリギリのところで勝負してると、ほんとに自分はモノを知らないのだなあと痛感する。だから、いまのWebの時代はありがたい。英語の発音の微妙な違いは非ネイティブである私が発音してみせるよりWeb上の辞書にあたればいい。知らないことをその場で調べることは滅多にないが、帰ってから勉強し直すことは珍しいことではない。あやふやだった知識を補強しておけば、似たような状況に陥ったときにもっときちんとしゃべることができる。

 

そういうふうに常に自分自身が知識のアップデートを続けていると、伝統的な「教える」というスタイルがとれなくなってくる。「ここはこうなっていますよ」みたいな言い方をしたら、それがちがっていることに気づいたときに格好がつかないからだ。たとえば、最近よく目にするようになったsingular theyのような用例が現れたら、「単数はheかshe、ここはtheyは使えませんよ」みたいなことがウソを教えたことになってしまう。

mazmot.hatenablog.com

自分の知識が完全ではないことを前提に生徒に接すると、「教える」という態度が消える。その代わり、自分の知っている情報を提供し、そしてそれをきっかけに一緒に考えるという姿勢に変わってくる。「一緒に考える」というとキレイ事のように聞こえるだろうが(私だって自分がこういう立場になる前は教師がそんなこと言ったら「ウソつけ」と思った)、けっこうほんとに考える。自分自身の理解を無条件で信じるつもりはないから、それもいったん保留して、自分が提供した情報と生徒の知識からどんな結論が導かれるのかと考える。その上で、もしも自分の理解と別な結論が出るようなら、それは考察の道筋がおかしいか、考察するための前提となる情報が不足しているわけだ。たいていは後者だから、そこから自分が何を伝え漏らしたのかがわかる。そうやって学習を進めていく。

だから、教師の仕事は「教える」ことではないのだと思う。学問は基本的には合理的な思考の積み重ねで成り立っている。思考の出発点になる情報を提供し、思考の過程を助ければ、それで十分だ。理屈の上では、そういうことになる。

 

だが、理屈通りにはいかないことが実際には数多くある。それは、慣習だ。合理性だけで成り立っているような学問の世界だが、実際には「昔からそうやっているから」という慣習で決まっていることが少なくない。

たとえば、座標軸を描くとき、なぜ右側を正、左側を負とするのか。なぜ縦軸をy軸、横軸をx軸とするのか。それについての合理的な説明はない。強いていうなら、統一しておいたほうがわかりやすいからだ。それだけのことでしかない。昔からそうやってるから、それに倣っておけば混乱が生じない。だからこれは、「こうしなさい」と「教える」のが適当なことになってしまう。

だが、慣習というのはえてしていい加減なものだ。それをこのブログ記事を読んで改めて感じた。

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この記事の話題の中心は、数学で用いられるエックスとカイの書き方をめぐるものだ。そして、どのような場面でエックスを使い、どのような場面でカイを使うかとか、エックスとカイをどのように描き分けるかとかいうようなことは、慣習でしかない。慣習でしかないからこそ、教師は偉そうに教えてしまう。けれど、それって本当に「教える」ことが正しいのだろうか?

まず、そもそも論で言えば、エックスとカイは同じ文字だ。ルーツが同じで別々の国で用いられるようになったものだから、中国の簡体と繁体のような違いと思っても、当たらずとも遠からずだろう。同じ文字だけど、外見がちがう。判別がつく程度に外見が違うから、それぞれ別の場面で使われる。

ただし、この「判別がつく」というのは、活字の上での話だ。実際に人々が日常的に使うレベルでは、基本的にこの2つの文字は判別がつかないだろう。どっちもペケでしかないのだから。

こういう「活字でしか区別がつかない」ような記号の使い分けを、実は数学は伝統的に利用してきている。もっとも幅広く使われている伝統は、「変数はイタリック体で表しますよ」というものだ。これは基本的に万国共通の慣習。

ただ、ここで注意して欲しいのは、「イタリック体」は活字(フォント)の分類であって、「筆記体cursive)」ではないということだ(正確に言うと、イタリック体は筆記体の一部の流派の文字を元にデザインされているので、無関係ではない)。だから、手書き原稿の段階では、実はイタリック体と正体(日本の印刷業界ではローマンと呼んでいるが、これが実は正確ではないことは編集業者の豆として昔から知られている)の区別は本来はつかない。しかし、印刷したときに変数をイタリック体にしたほうがわかりやすいから、印刷ではイタリックを使うように指定する。指定は簡単で、伝統的には青鉛筆(日本だと赤ペン)で下線を引く。すると植字工はイタリックの活字を拾う、というのがかつての印刷工程の約束だった。

印刷物でそのように表現するということが先にあって、じゃあ手書きの数式でもそれがわかったほうがいいじゃないかという発想が生まれる。少なくとも日本人にはそのほうが自然だった。なぜって、日本人は、似たような形の文字を無数に扱ってきた民族だからね。「人」と「入」なんて、図形的にはほとんど同じなのに、微妙な書き方で区別して何の不自由もない。カタカナの「ロ」とか「ニ」を漢字の「口」「二」と書き分ける。そういう人々だから、当然のようにイタリックとローマンも書き分けようとする。

そして、その伝統の上に、英語のアルファベットとギリシア文字も書き分けようとする。しかし、エックスとカイなんて、本来は無理なものだ。印刷工程できちんと指定しておけば、本来はそれでいい。

 

ではあるけれど、確かに書き分けができれば、それはそれで便利だ。日本人でなくてもそう思う。ということで、英語圏でもやっぱりよく似たアルファベットとギリシア文字は数式を書く際には書き分けるべきだという考え方もあるようだ。ただ、そのやり方は日本式のものとずいぶんちがう。たとえば、こんなサイトが検索に引っかかる。

Tips for mathematical handwriting

これを見ると、まずエックスとカケルを区別するには、エックスの左の入るところを曲線にするというコツがあるとする。ちなみに、エックスはふつうに二本の線をクロスさせるのであって、決して日本の数学教師が好んで教えるような)(式ではない。そして、カイの方は、右下がりの線よりも右上がりの線を長く書くことで区別しろと言っている。

 

つまり、日本の数学の教師が偉そうに「教え」ていることなど、しょせんはローカルルールでしかない。もちろん、ローカルルールは否定されるべきだなどというつもりはない。英語圏には英語圏のローカルルールがあるわけだし、それ以外の国にもそれぞれのローカルルールがあるだろう。それで誰も困らないのは、国境を超えて流通する論文は基本的に印刷されたものであり(もちろん現代ではPDFだろうが)、そこではローカルルールから生成された正しいフォントが使用されているからだ。正しいフォントの使用で表現されたものは、万国共通だ。

だから、最終的には「わかればいい」レベルの話でしかない。「わかればいい」レベルの話なら、絶対的な正しさはなくて、いくつかの解が並立することが可能だ。印刷業界でも、同じ作業を表現するのに複数の流派があったものだ。それで別に困りはしない。

結局のところ、教師に許されるのは、あるローカルルールが存在しているという情報と、場合によってはそれが発生した根拠を伝えることでしかないのだと思う。その情報にもとづいてどう行動するのかは生徒の合理的な判断によるべきだ。実際、エックスとカイの両方を使うようになったら生徒は嫌でも書き分けをするようになるのだし、その際に、ローカルルールはいい参照項目になる。そういった情報を提供することには価値がある。そういった価値のある情報伝達者を教師は目指すべきだ。

 

しかしまあ、「先生」なんて呼ばれて持ち上げられると、つい「正しいこと」を「教え」たくなってしまうのが人情なのだろう。それがどれほど危険なことか、どれほど恥ずかしいことなのかを、教師と呼ばれる人々はきちんと自覚しておいたほうがいいよ、うん。

 

自戒を込めて。