生きにくさは社会的な文脈で変わる - 「忘れ物」は特異な概念かも

前回、忘れ物のことを書いたら、かなり多くのひとが読んでくれたようだ。特に私同様に忘れ物で苦労したひとからのコメントが多かったのは心強かった。それと同時に、私から見たら筋違いと思われるようなコメントも、それなりにいろいろ考えさせてくれるヒントになったので、ありがたかった。それらはまた先々のネタに使い回させていただくかもしれない(たとえば私は前回の文中で「叱る」と「叱責」を同じ概念の単なる言い換えとして使ったのだけど、この2つを別概念として使い分けている人がいると知ることができたのは非常に刺激的だった)

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この記事は仕事の隙間時間の1時間弱で書いたので(「所要時間20分」みたいな神業は私にはできない)、かなり中途半端だった。そういうこともあって、最後の締めくくりに「じゃあどうすればいいのか、みたいなことまで書きたかった」と書いたのだけれど、実際には「こうすればいい」銀の銃弾があるわけではない。特に、個人の側の対応としては、よく言われる「忘れ物対策」的なもの以上の妙案はないだろう。

ただ、問題は個人的なレベルだけのことではない。これはだいぶ以前に貧困問題と絡めて書いたのだけれど、人間の抱える問題は多くの場合社会的な現象として現れる。社会的な現象に対しては、社会的な対策が可能になる。たとえば制度の設置や変更・改良などの政策的な対応であったり、あるいは社会的な規範・意識に働きかけることであったりする。重要なことは、社会的な現象は常に統計的にしか把握できないということであり、統計であるから、個別の事例に降りていけば必ず相反する事例が存在するということである。そして社会的な現象は基本的には個別の事例の積み重ねからしか見えてこないのだから、ここで泥沼のような議論が発生することになる。社会レベルの話に個人レベルでの対策みたいなものがまぎれこんでくる。たとえば「貧乏だとかいうけど、無駄遣いを抑えたらもっと少ないお金でも十分に暮らせるじゃない」みたいな議論だ。そして多くの場合、その個別の解決策は一定の正しさをもっているから、厄介なのだ。社会的な現象の解決策として個人的なレベルの対策を持ち出すのは、それは本質的にすれ違いを生むだけだ。

社会的なレベルの話は、個人的なレベルの個別の話と切り分けて語らなければならない。そして両者はときには矛盾するように見える。けれど、レベルが違うのだから、しかたない。たとえば、貧困問題に関しては、私は基本的に社会保障制度を拡充して誰もが気軽に利用できるようにすべきだと思っているが、その一方で個人レベルではそういう制度なんかに頼らなくてもごくわずかの現金で生きていく方法に関心があるし、なんならそういう貧乏生活マニュアルみたいなものを書ける自信さえある。そういう「貧しくても元気」みたいな生き方は、「だから自助!」みたいなところに容易に結びついてしまう。そうじゃなくて、ここは切り分けてほしいのだ。社会的な視点は統計の視点である一方で、個人的なレベルは唯一無二の特殊なものだ。同じ人間を対象にしていても、その発想は両極にある。

「忘れ物」に話を戻せば、それで個人が困るのは、あくまで個人のレベルの話だ。その対策は基本的には個人レベルで行う「忘れ物対策」であり、たとえばカバンに必要なもの一式を入れておいて常にそのカバンを携行するとか、メモを玄関扉に貼り付ける習慣をつけるとか、もうあちこちで言われていることになる。それはそれで重要だし、いくつかは私も実践して、多少マシになった。ちなみに、そういうので困っている個人に対して「ちゃんとしなければ困るだろう」とか言って働きかけるのは大きなお世話であって、ましてそれを叱ることで治せると思うのは現実を全く見ない行動だ。それでなくても本人は困っていてどうにかしたいと思っているのだ。それをさらに責めてどうなるよ、と、そのあたりのことをいいたくて、前回のエントリを書いたわけだ。

その一方で、「忘れ物をされると迷惑だ」「他の人が困るだろう」という視点は、個人のレベルのものではない。人間が複数いるときに限って発生する問題は社会の問題であり、社会の問題については社会的な対応が必要になる。その問題の解決を「お前が忘れるからだ」と個人のレベルに押し付けるのは誤っている。ちょうど貧困問題を「個人の努力が足りないからだ」と捉えるのに似ている。そういうところにフォーカスしても解決には至らない。そうではなく、貧困問題の場合は「一定の比率の貧困が発生するとして、それが人々の幸福を妨げないためにはどうすればいいのか」とか、「社会全体で貧困の発生率を下げるためにはどうすればいいのか」といった視点で考えなければならない。そして、忘れ物の場合は、「忘れ物するひとがいたとして、それでも全体が困らないようなありかたにはできないのか」とか、「忘れ物の発生率を下げるために社会としてできることはないのか」といった観点でなければならないだろう。前回記事のさらに大元となっていた小学校校長の取り組みは、まさに前者にあたる。そういう意味でこれは評価に値する取り組みだと思うし、「そんなことしたら当事者の子どもが将来社会に出たとき困るだろう」という否定的な意見には、「その社会を変えたらいいんじゃないの」としか返せないと思う。社会はそうやって進歩してきたのだと思うのだし。

で、ようやくここからが本論になる(前置きが長い!)。忘れ物が多いことが問題であるとして、そして学校での問題行動の多くが「障害」として分類され、その枠組みで対応されるようになってきた流れの中で、これが注意欠陥/多動性障害(ADHD)のひとつの特徴として捉えられるようになってきた、という認識が私にはあった。だから、前回のエントリを書いたあと、「こりゃ、続きを書くにはそのあたりのことをもうちょっと調べておかんといかんなあ」と思った。特に、「個人的な一例だけでよくそんなことが言えるな」的な反応に対しては、「いや、引用する時間がなかったけど、ADHDへの対応として叱ることは明確に否定されてるんだよ」と根拠を示す必要があると思った。なので、まずは調べようと、基礎的な文献を探し始めた。まだ手をつけたばかりの段階なのでその結果までは今回は書けないのだけれど、その途中で、奇妙なことに気がついた。それは、日本語で書かれたものと英語で書かれたものの違いだ。つまり、日本語の一般的な解説では、ADHDの特徴として「忘れ物」がほとんど必ず言及されている。ところが英語ではそうではない。全く言及されていないわけではないが、その頻度は明らかに少ない。この不一致に、「え? なんで?」と思った。そして考え込んだ。

だいたいが、英語に「忘れ物」に相当する単語はない。もちろんその概念を英語で表すことはできる。ただし、それはかなりまだるっこしい表現になる。たとえば、(授業で必要なものについて)「忘れ物をする」は forget to bring materials to class などと表現できるのだけれど、じゃあ「忘れ物をする」を forget to bring とイコールでつなげるのかというと、かなり無理がある。まして、その名詞型の「忘れ物」を forgetting to bring などと置き換えれるかといえば、そりゃどうしたって無理だろうということになる。

じゃあ、英語で「忘れ物」の概念をどのようにADHDと結びつけているのかなと思ってみてみたら、そもそもが診断基準の方には「忘れ物」が入っていない。近いところで「なくす」というのと「忘れる」というのはあり、

often loses things necessary for tasks and activities (toys, school assignments, pencils, books, or tools)
(例えば、おもちゃ、学校の宿題、鉛筆、本、道具など)課題や活動に必要なものをしばしばなくす。

is often forgetful in daily activities
しばしば毎日の活動を忘れてしまう。

DSM IV TR)

と定義されているらしい。これを日本人的に解釈すると「あ、これは忘れ物のことだな」となるだろう。けれど、よくよく注意してほしい。英語圏の社会で注目されているのは、「モノ」に対しては「なくす」という行動であり、「忘れる」という行動の対象になっているのは「毎日の活動」だということだ。もちろん現象としては私たち日本人が「忘れ物」と呼んでいるのは「授業がはじまったときに宿題や鉛筆や教科書が出てこないこと」であり、その原因のかなりの部分が「忘れ物がないかどうかをチェックするという毎日の活動を忘れること」なのだから、この2つの行為は日本人にとっては「忘れ物」と表現するのが最もふさわしい。しかし、もしも英語圏のひとにとってそうなのだったら、これは英語でもそうなっているはずだろう。ところが2つの行為に分けられているということは、それぞれが別々の現象として彼らには現れているわけであり、そこには「忘れ物」で括られる問題は存在しないのではないかと考えられる。

そんなバカなと思うかもしれないが、「忘れ物」のような問題は社会的な問題であることを思い出してほしい。社会的な問題は、ある現象が存在することだけではなく、その現象が社会にとって「問題である」と捉えられることによってはじめて出現する。そりゃ、英語圏にだって我々の概念でいうところの「忘れ物」はたくさんあるだろう。ひょっとしたら日本以上にひどいかもしれない。しかし、彼らはそれを「忘れ物」としては問題化しない。たとえば授業で使うコンパスを誰かが持ってこなかったとしよう。日本ならこれは典型的に「忘れ物」の問題だ。しかし、英語圏ではこれは「必要なものを失くした」とか「しばしば指示に従えず、学業、用事、または職場での義務をやり遂げることができない(反抗的な行動または指示を理解できないためではなく)」と、別の問題として認識されている可能性が高い。

つまり、同じ現象に対して、別な枠組みで問題化されている可能性が高いのではないかと思うわけだ。「どっちにしても問題なんじゃないか」と言ってしまえばそうなのだけれど、問題の枠組みが異なれば、当然、対処の枠組みも異なってくる。社会的な対応も変わってくる。それによって、困難を抱えた当事者の生きやすさ、生きにくさも変わってくるのではないか。少なくとも、「忘れ物」という概念がない世界では、その頻度がクラストップである不名誉とか、そんなものは存在しないのではなかろうか。もちろん、その代わりに他の不名誉があるかもしれないのだけれど。

それにしても、私たちは学校という枠組みがつくりあげた概念に縛られた社会に生きているのではないかと思う。「忘れ物」もそうだ。現実の社会では、同じような不注意をしても、学用品の持参を忘れたことによって発生するような被害が起こらないケースだって数多い。たとえば私は家庭教師として生徒宅を訪問するときに、よく忘れ物をする。けれど、「今日は◯◯を持ってくるのを忘れたので別のことをやりますね」と進めるので、何一つ困らない。まあ、モノを届けるだけの用事のときにそれを忘れたら話にならないとしても、たいていの用事はひとつやふたつモノがなくてもつつがなく進めることができて特別に問題になることがない。特にこのインターネットの時代、資料を忘れたらPCを開いて探し出せばいいのだし、PCさえ忘れたらスマホもあれば、なんなら出先で端末を借りることだってできる。学校の教師が警告するほどには(そして多くの親が心配するほどには)忘れ物は社会的に問題にならない。

「忘れ物」だけではない。学校が「社会に出たら役に立つから」と生徒に(おそらくは心からの温情として)与えようとする枠組みの多くは、実は時代遅れになっている。このブログでもたびたび文句を言っている「目的や結果はどうであれとにかくがんばっている姿勢だけを評価する」こともそうだ。そんな概念を植え付けるから、他人の足を引っ張ることだけにがんばってるひとが周囲から高い評価を受けるようなわけのわからないことが起こったりするのだ。「秩序を守ること」もそうだ。本当の意味での秩序は尊重されるべきなのかもしれないが、外見を揃えることだけに力点が置かれた学校式のやり方は、結局は多様性の排除にしかつながらない。

文句をいい出したらきりがない。とにもかくにも、重要なことは、社会的に問題を捉えるとき、その概念の立て方は重要であるということだ。そして、無意識に「そんなもの常識だろう」と思って概念化したことは、案外と思考を縛ることになる。それが生きにくさにつながっていないか、日々、再点検しながら進むしかないんだろうな、とか思う。