心が不調でチャンスがつかめるか

「子どもの貧困とライフチャンス」の第7章は、第6章にひきつづいて健康の問題だ。そのなかでもとくに、メンタルヘルスにかんする問題をあつかっている。貧困下に暮らす子どもたちはメンタルをやられる。それがライフチャンスに影響しないわけはないだろう。だったらまずは貧困をどうにかしないといけないんじゃないのかと、ほかの章でもくりかえされた論法で話がすすむ。

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一般的な健康ととくに分けて章立てされているのは、心の不調が外見上わかりにくいからだろう。ときには怠惰であることや協調性がないことなど態度を改めれば解決するとおもわれたり、反抗的であることや粗暴であることなど周囲の指導で矯正可能であるとおもわれたりする。実際には、すくなくともその一部は健康の問題であり、医療をふくめた専門家の介入がなければ解決しないものである。ときにはそれは本人の変化だけでなく、周囲の合理的な配慮と対応によってのみ解決可能であったりする。つまり、心の健康は一般的な健康以上に社会的な問題である。心の不調は、本人の幸福だけでなく、周囲にたいする影響もおおきい。貧困問題にとりくむことで当事者のQOLが改善すれば、周囲のQOLもそれに応じて改善する。貧困対策によって改善するのであれば、それは社会政策として比較的安価で確実なものとなるのだろう。

心の健康は身体の健康と同様、生得的な要因と、環境的な要因の双方の影響をうける。貧困は環境的な要因のなかでもおおきな位置をしめる。貧困の影響としてこの章でまず指摘されるのは、周産期の母親にたいするものと、生育の過程でうけるもの、とくに貧弱な住居の影響だ。「仮住まいはとくにダメージが大きい。家族が安心できず、空間あたりの人数が多くて騒音もひどいことが多いからであり、そのせいで睡眠の質が下がり、結果として行動も不良に陥る…、外部空間への安全なアクセスが提供されることもめったになく、結果として運動へのアクセスが制限される」として、そういった影響によって「子どもたちのメンタルヘルス問題が3倍増となる」と、居住空間の影響をあげている。

それでも、生得的な要因のほうが重要ではないかというかんがえもあるだろう。だが、「生得的な要素が大きい部分を占めるとされているメンタルヘルスに関しても、貧困との強い関係を示す証拠が存在する」という。「子どものウェルビーイングはより平等で豊かな国ほどよい」というグラフが掲載されている。所得の不平等が大きいければ大きいほど、子どものウェルビーイングは低い。つまり、環境的な要因はやはり心の健康におおきな影響をあたえている。ちなみに、このグラフで、ひとつだけ、所得の不平等が小さいのに子どものウェルビーイングが小さいハズレ値をしめす国がある。日本だ。

貧困がどのように心の健康に影響をあたえるのか、ひとつには単純に物理的な欠乏である。住居の影響は上にのべたとおりだが、栄養、運動、睡眠なども貧困によってそこなわれがちなものであり、それらが心の健康にかかわってくるのはどこかで聞いた話だ。しかし、「興味深いことに、メンタルヘルスに関する影響については、周産期の栄養ほどには、出産後の栄養摂取は重要ではない。むしろ子どもたちがもっとも必要とするのは他者との交流である」とあるように、実は心理的な欠乏のほうが影響がおおきい。そして、貧困は心理的な充足をおおきくそこなう。だいたいが、物質的な面だけでいえば、現代のイギリス(そして日本)はそこまでおいこまれていない。「メンタルヘルスの不良に関係するのは物質的な貧困そのものではなく、資源の分配の極端な不平等のなかで底辺にいるという経験なのだ」。相対的貧困の概念は、「そんなこといっても現代の貧困生活は100年前のそれと比べてずっと豊かじゃないか。日本の貧困層はより貧しい国の貧困層よりもずっと豊かじゃないか」といった言説で批判される。けれど、分配の不平等は、実質的にひとを圧迫し、心理的においつめる。貧困は、それが相対的なものであっても(あるいはそれゆえに)、心理的な欠乏をうみだす。それは、豊かさのなかにありながらも物質的に欠乏するというねじれた現実をうみだす。

まず、貧困は親の時間をうばう。低賃金であればひとは長時間はたらかざるをえないのだし、両親のどちらかが家庭で育児に専念するわけにもいかない。非正規の雇用は勤務時間も不規則になりがちで、子どもと顔をあわせる時間がうしなわれる。さらに、経済的な貧しさは、さまざまな問題につながる。(身体的・心理的・性的)虐待、暴力、両親の離別過程の摩擦、親の収監、親のメンタルヘルス悪化などは、「貧困下に暮らす子どもたちだけが経験するものではないが、貧困下の子どもたちのほうがこういった経験にさらされる可能性が高い」。さらに、いじめは子どものメンタルヘルスを悪化させるのだけれど、「いじめは低所得の家庭の子どもに起こりやすい」。

どんな問題がおころうと、人間にはそれをのりこえていく力がある。とくに子どもは強靭だ。若竹のようなしなやかさがある。けれど、こういった「回復する力」を身につけるためには、家庭内で「いっしょに活動してともに時間を過ごすこと、運動、良質の睡眠、食卓をともにすること、いじめがないことなど」が必要になる。そしてこういったことは、貧困によってうしなわれる。心理的な欠乏からの悪影響をのがれるために必要な「回復する力」は、貧困がつづくかぎり、容易に涵養されないしくみになっている。

子どもの心の健康を確保することが社会にとって重要であることは、イギリスでは行政にもしっかり認識されているようで、各種サービスが受けられる制度がととのっている。この制度そのものの問題点も指摘されているが、支援を受けられるのはけっこうなことだ。とはいえ、「逆境をくぐり抜けてきた子どもたちが小ぎれいれに分類されてサービスを受けるとは考えにくい」という指摘にははっとさせられた。「貧困家庭では予約どおりに受診すること、書面による問い合わせに回答すること、継続的に利用することがむずかしくなる」。連絡のとれない子どもを受診対象からはずしてしまえば、いくらかたちのうえでは支援をうけられることになっていても、実際にそれはとどかない。「日々の収支にともなう緊張、転居の頻度が高いこと、交通費、言語的な困難、親の仕事が不規則で低賃金、不安定であれば休みをとるのに苦労することなどはすべて、貧困家庭がサービスを継続的に利用することを困難にする」。そもそも努力が不可能な状態になって支援をもとめているひとに、支援をうけるための努力を要求するような制度は、案外におおい。「そんなもの努力のうちにはいらないだろう」とおもうような一見ちいさな障害物が、実際には支援へのうごきをおおきくはばむことがある。

そしてここでも、学校が「不平等の発生源」となる。学校にはカウンセラーがいるし、心の不調をうったえる生徒には支援が用意される。それはすばらしいことだとして、それがほんとうに必要なところにしっかりととどくかといえば、案外とそうでもない。その心の不調が不安や悲しみというかたちで表現されれば、それはたしかに支援の対象になる。ところが、心の不調が怒りとして表現された場合、その生徒は支援の対象ではなく、処罰の対象となってしまう。怒りはおおくの場合、ものの破壊や対人的なトラブルに発展するからだ。そして「貧困下の子どもがメンタルヘルスに困難をかかえているとき、後者の表現をとることが多い。このため、貧困家庭の子どもたちに対する排除が進行してしまう」。本来はもっとも支援を必要とする人びとが支援をうけられず、ほかにもオプションがある経済的にめぐまれた人びとに優先的に支援がまわってしまうしくみが、ここにもあるわけだ。

そしてこれが「ライフチャンス」にとって大問題になる。まず、「メンタルヘルス問題の経験は、子ども時代の経験全般を損なう」。つまり、幸福な子ども時代への「チャンス」を下げる。さらに、「子ども時代のメンタルヘルス障害は成人してからのメンタルヘルスに関連していく」。「メンタルヘルス障害をかかえた子どもたちは、成人してから精神疾患を発症する比率が3倍高くなる」。「愛着障害は幼児期の虐待やネグレクトと関連し…、成長してからの人格障害や障害をつうじての困難につながる」。「メンタルヘルス問題をかかえた人は、身体的な健康問題も引き起こしやすく、さらに、その診断や治療の質が低くなる」。暴力被害にもあいやすいが、ここにはジェンダーによる非対称性も存在する。結局、「慢性的なメンタル疾患のなかで生きることは、ライフチャンスに相当な因果関係を及ぼす」わけだ。

金がないからといって、それだけでひとは精神を病むわけではない。貧しくとも健全な心をもったひとはいくらでもいるだろう。それはありあまるほど金をもっていながら心に問題をかかえた人よりもずっと多いはずだ。だから、個別のケースについて経済的な困難とメンタルの不調をただちにむすびつけるのは穏当ではない。そうではなく、社会をみるときは統計だ。統計的に相対的な貧困が心の不調の発生率と相関するのであれば、そこに因果があるかどうかをみきわめなければならない。そして因果があるのであれば、社会のしくみを調整することで、そこにはたらきかけることができる。若いころ、「社会学は政策科学である」という話を聞いてどうにも納得できなかったのだけれど、そういうふうにかんがえれば、たしかにそういう一面はあるのだなあと、ようやくおもえるようになってきた。

 

(次回につづく)