「生活作文」の気楽な書き方 - 昨夜のアドバイスをもとに

コロナのおかげでどうなるのかと興味深く(失礼!)見ていたのだが、どうやら私の観測範囲では、学校の夏休みの宿題はいずれも例年に比べて少なくなっているようだ。そりゃそうだろうと思う。夏休みは短いし、その短い夏休みに補習を実施するところも少なくない。実質的に休めないのに、例年通りの課題を出すなんてむちゃは、さすがに人間としてできないのだろう。いいことだ。

特に私が評価したいのは、ドリル系の課題が大幅に減っていることだ。あんなもの、子どもたちの成長にとってロクに役に立たない。問題を解くことが役に立たないと言っているのではない。どうしたってやっつけ仕事にならざるを得ない「夏休みの宿題」としてやらせることが役に立たないと言いたいわけだ。ああいった練習問題は、じっくりと時間をかけて、あれこれ悩んで答えにたどり着いてこそ、思考力の訓練になる。それが心浮き立つ夏休みなんかにできるわけがなかろうと、そのぐらいのことを教師は考えもしない。

その一方で、作文や自由研究系の課題は例年に変わらず出題されていることが多い。自由提出になっていたり、課題の量が減らされている場合もあるが、それでも印象としてはドリル系よりも例年に近い。これはこれでOKなことだと思う。こういった課題は、教師が適切に指導してやりさえすれば、子どもの成長に役立つだろう。ま、指導が適切かどうかというのには疑問が残るけれど。

ちなみに、自由研究に関しては、子どもと侮れない素晴らしい研究が生まれることも現実にあるのだけれど、大多数の生徒にそれはあてはまらない。だから、ここで重要なのは研究のテーマではない。そうではなく、研究の内容をきっちりと伝えるレポートの書き方が評価対象になっている。それをしっかりと伝えることが教師の役割だ。テーマは使い古されたものやとるに足らないものでもかまわない。その目的、方法、結果、考察をきっちりとまとめあげることができれば評価は高い。いや、今日の話は作文の方だった。

 

昨日のことだ。オンラインで中学生と話していて、「夏休みの宿題はどう?」と尋ねたら、「生活作文に困ってます」とのことだった。「寝てる間と学校に行ってる間のこと以外なら何でもいいっていうんですけど、それ以外の時間に特に面白いことがあるわけでもないし、受験生だから勉強しかしてないし、書くことがないんです」とのこと。ああ、これは一言必要だなと思ったんで軽くアドバイスしたらずいぶん喜んでくれた。なので、それをシェアしておこうということ。たいした話ではない。

 

まず、作文では、「おもしろいことを書こう」とか、絶対に思わないことだ。そんんな面白いネタがそこらに転がっているわけはない。感動的な体験をする確率だって、ずいぶんと低いはずだ。珍しいこと、印象的な事件もそうそう起こるものではない。もちろん、そういう素材があるひとは、素直にそれを書けばいい。けれど、自由研究と同じで、ほとんどの人はそんなに恵まれていない。周囲を見渡せば、何の変哲もない、見飽きた日常ばかりだろう。

だから、発想を変える。できるだけつまらないことを書くことにする。つまらなければつまらないほどいい。たとえば、晩ごはんのおかず。茄子の田楽とか、麻婆豆腐とか、およそ代わり映えのしないものがそこにあるはずだ。それを書く。

ただし、「今晩のおかずは冷凍餃子でした」だけでは話にならない。だから、さらにもっと、つまらないことをつけ加えていく。その冷凍餃子はどこでだれが買ったのか、どのくらいの頻度で出るのか、具は多いのか少ないのか、ラー油をつけるのかつけないのか、家族のなかでだれがいちばん食べるのか、などなど、およそだれも知りたくないだろうどうでもいいことをどんどん書いていく。できるだけ、「こんなことは書いても仕方ない」と思えることを掘り出して書くようにする。そうすると、どんどん文字数は稼げる。

それでもうまく筆が進まないときには、できるだけネガティブなことを書く。人間、満足しているときはあまり言葉が出ないものだが、不平不満になるといくらでも出てくるものだ。「なんで毎日茄子ばっかり出るんだ」とか「田楽は嫌いだ。特にあの味噌の甘ったるいところが嫌だ」とか、文句を書き出したらけっこうな量が書ける。某匿名日記とか見たら、ネガティブな書き込みばかり見つかるはずだ。よくもまああんなに書けるよと感心する。人間は不平不満を原動力に生きているといってもいい。それを作文に応用する。

「それでも3枚もあるんですよ!」と、分量が気になるかもしれない。実際には、上記の作戦で3枚どころか10枚だって軽く書けるだろうけど、そうは思えないかもしれない。その場合は、あらかじめ、ワードリストを用意しておく。たとえば食事について書こうと思うのなら、まずは食卓を見渡して、「醤油、ごま、ふりかけ、ごはん、ポテサラ、ウィンナー、謎の珍味、私の嫌いな漬物、親のビール、箸、台ふきん……」みたいに、見えるものを列挙していく。テーマが別なら、たとえば窓の外に見えるものをリストにしたり、駅までの道の途中に見えるものをどんどん書き出していく。30個ぐらいの単語のリストが用意できれば無敵だ。その上で、話題に詰まったら、段落を変え、そのリストの単語を拾ってきて、書く。その単語の下に続けてまた、「つまらないこと」や「不平不満」を書き始めれば、そこからまたしばらくは続けていけるはずだ。

そんな急な話題転換は不自然ではないかと思うかもしれないが、読んでいる方からすれば案外と違和感はないものだ。どうしても気になるなら、最後の段落で回収する。「こんなこと、あんなことがありましたけれど、私は元気です」みたいに、最後のまとめですべてのエピソードに言及しておく。そうすれば、なんとなく「ああ、そういうことね」と意味もなく納得するのが人間なのだ。

 

どうだろう? 少なくとも私の生徒は、こんなアドバイスに納得してくれた。「それならできる」と思ってくれた。「つまらないこと」「不平不満」「ワードリスト」が、キーポイントだ。「なんなんだそれ?」と思うかもしれない。けれど、実は、これはもっと、もっともらしい言葉に置き換えることができる。

「生活者の多くは、ふだん自分の生活を意識していないが、見落としている日常の中に重要なことが隠されている。小さなことに着目すると、気がつかなかった発見がある。そして、そこに批判的な視点を持ち込むことで、日常の中に新たな展開を創り出すことができる。そのためには、目にするものを客観的に記録していくことが重要なのだ。」

こんなふうに書いたらどうだろう。私のアドバイスは、それほどアホっぽく見えなくなるはずだ。

とはいいながら、夏休みの宿題がアホっぽいという大前提はもうどうしようもない。だから、こういうのはサッサと片付けてしまうに限る。つまらないことで苦しむのは馬鹿らしい。教師は、生徒が苦しまないようにすることを最優先にすべきなんだと思うよ。