書くだけなら、犯罪の手口を書いても罪には問えない(ふつうは)

死んだ祖母が私が子どものころに「世のなかに覚えておいてわるいことは何もないよ」と言っていたのを、いまでもその口調とともに思い出す。「泥棒だけは覚えたらあかん」とも言っていたのだが、この「泥棒を覚える」は知識の類ではなく、慣用表現で「悪事を習慣化する」という意味だから、祖母の意図としては「知識に関しては制限を設けるな」ということだったのだと思う。というのも、この話をしてくれた時期、私は将来のビジョンも何もなく、ただ手当り次第に本に読みふけっていた。昭和の私小説からコンクリートの打設方法まで、古代史からソビエト製の通俗科学書まで、ノージャンルで目につくものを片っ端から読んでいた。そして不安になった。いったい自分は何をやってんだろうと思った。そういうときに、そんな私の内心の焦りを的確に見抜いて「泥棒のほかは覚えてわるいことなんて何もないよ」と言ってくれた祖母の言葉は、私の心に深く刺さった。

実際のところ、この時期の乱読が実用的に後の役に立ったことはほぼない。系統立たない知識は何の力にもならないし、だいたいがほとんどのことは忘れてしまう。それでも1冊の本からは相応のことを学べるし、学んだことは目に見えない形で自分自身をつくっていく。だから、スポーツ選手がオフシーズンに走り込みや筋トレをするような意味で、若い頃の読書は重要なのだと思う。そして、そこに制限をかけないこともまた、意味あることなのだと思う。

 

そういうことを前提にして、情報を供給する側に制限がかけられるべきであるのかどうかということが議論の対象になるだろう。結論はもう出ていて、制限は基本的には一切かけられるべきではない。それは憲法にも書き込まれた言論の自由だ。およそ、人間の思念の中で生まれた情報は、それを公表すること自体には一切制限をかけられてはならない。ただし、だからといって何を言ってもいいということにはならない。他者に損害を与える言説は、言論の自由とは別次元で処罰の対象になる。名誉毀損著作権の侵害に特に注意すべきだということは、近頃の学校の教科書にも書いてあったりする。プライバシーの権利や肖像権なんていうのにも、もちろん配慮が必要だ。性的表現を含む著作物に関しては、かつてはそれが「公序良俗」を乱すものとして言論の自由とは別な立場から制限を加えられるべきという論が強かったが、近年ではそれが他者の尊厳を侵すもの、加害性があるものという観点から制限が加えられるべきという論に変わってきているように思う。ともかくも、大前提は「言論の自由」であり、それが他の人権を侵害する際にそちら側から制限が加えられるという大枠は、現在の法体系ができてから変化していないと言っていいだろう。

なんでこんな話をするかというと、こちらの話題に関して、「それは〈書いたこと〉が処罰対象になってはいかんよな」と思ったからだ。

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恋愛感情を利用し男性から現金をだまし取る “パパ活の詐欺マニュアル”を作成・販売か 25歳女を逮捕 1万円から3万円程度で販売 | TBS NEWS DIG

いや、逮捕されたことそのものは、あり得るなと思う。今後裁判でどうなるかはわからないけれど、犯罪性はあると思う。ただ、その「マニュアル」を書いたことそのものは、公表の手段さえまちがえなければ、「言論の自由」で十分に保護されたのではないかと思うわけだ。

これに関して思い出したのは、「腹腹時計」と「完全自殺マニュアル」だ。かつて編集の端くれで飯を食っていたとはいえそれは業界のいちばん端っこの学習参考書業界だったから、実は編集者にとっては基本の基本であるこれらの書籍の経緯については私はよく知らない。ただ、「腹腹時計」に関しては、こちらを見る限り、出版そのものに関しては(それが地下出版であったこともあって)ほぼ争われず、基本的には爆破の実行犯かどうかということが争われている。むしろ、被告側が出版を「幇助」であると主張していることのほうが奇異にうつるぐらいで、「爆破物の製作が可能になる文書を作成・配布した」ことが犯罪行為かどうかが争われた様子はない。また、「完全自殺マニュアル」は「それが自殺志願者の実行を容易にする」と批判を浴びながらも、出版そのものが司法の問題になったことはない。

つまり、犯罪や自殺のような社会的に問題のある行為の具体的な実行方法を記載した文書・図画を出版することそのものには、犯罪性はないというのがどうもここまでの流れのようなのだ。そりゃそうだろう。爆薬をつくる方法は化学の教科書に書いてあるし(高校化学程度だとちょっとしんどいが、大学の教科書は容易に入手できる)、人間がどうやったら死ぬのかも医学の教科書をみれば理解できる。そしてこれらの学問にかかわる書物を禁止したり検閲したりするわけにはいかない。いや、学問は特別でしょうと線を引くことも危険だし、合理的ではない。すべての知は等しく価値があるものであって、そこに何らかの基準を設けることは人間の活動を歪めてしまう。それに、たとえばシリンダー錠の破り方を書いた本のように明らかに犯罪者に有用な情報を与えるような書物であったとしても、それは同時に防御する方にも情報を与えるのであって、広く周知するだけの意味はある。どのみち犯罪者は何らかの方法でその情報を入手しているのだ。だったら広く公知にしておくほうがいい。特に近年のインターネットを巡る犯罪に関しては、こういう考え方が納得できるのではないだろうか。

 

というふうに論を進めてくると、「パパ活で高齢男性を騙す方法」にしたところで、それを書き、公表することそのものを犯罪行為にはできないし、また、犯罪とすべきではないという考えに至る。だが、もちろん私は上述のように、今回はつかまった側がマズいことをやったなと思う。もちろん、主な容疑である詐欺に関しては、これは疑う余地もなく犯罪だ。だが、「マニュアル」を書いて公表する行為に関しても、たしかにそれが「幇助」であると言われても反論しづらいところがある。それは、情報の非対称性だ。

どういうことかというと、このケースでは、情報を1〜3万円で販売していたというところだ。販売形態がマズい。なぜかといえば、それだけの投資をして情報を買おうというのは、よっぽどの物好き以外は明らかにその投資をそこに書かれてある情報で取り返そうと考える人物であるからだ。つまり、詐欺を実行することを考えている人物だ。そういう人物に具体的な実行方法を指示する文書を渡したら、それは幇助と言われても文句はいえないだろう。

もしも、この価格がもっと安く、300円とか、せめて1000円だったらどうだろう。それは単純に興味から買う人にも手が出る価格帯であり、そうなると幇助という性格は薄れる。もしもひとこと、「これを真似してはいけませんよ」みたいなお座なりなことわり書きでも入れておいたら、それはもう、幇助での立件は不可能になるだろう。場合によっては、「こうやって詐欺の手口を広めることで被害を未然に防ぐのに貢献しています」と強弁することだってできる。クリアファイルに入れるとかじゃなく、書店に並ぶような本になっていれば、もう絶対に司法は文句はいえない。まあ、出版社が噛むとなったら、そこはちゃんと編集が手を入れて訴えられないような辻褄を合わせるだろうしね。

結局は、加害側と被害側に情報の非対称性が生じることが問題なんだと思う。その非対称性は、究極には価格設定だ。加害側は3万円を高いと思わないが、潜在的な被害の予防のために3万円を払う人はいない。結局のところ、情報は加害側だけに回る。価格設定は、販売側の意図を雄弁に物語る。そこがおそらく、裁判では争点になるのではないだろうか。

 

この件、「情報商材屋がつかまった」みたいによろこぶのは早とちりだろう。情報商材は、それ自体が詐欺だ。今回の情報は、情報そのものは正しかった。ただし、その正しい情報通りにやれば詐欺になる。それは、本来は情報を受け取って詐欺を実行した者の罪であって、情報を提供した側の罪ではない。しかし、今回は、情報の提供がその実行を促すような設定になっていた。それがマズかったのだ。変なところで欲をかいてはいけない。