翻訳の思い出

自分名義の翻訳書が何冊かあるので「翻訳者」を名乗ってもバチは当たらないと思うのだけれど、経済的な寄与でいったら私の生涯の収入に翻訳からの印税や翻訳料が占める割合はそれほど多くない。いろいろな半端仕事を継ぎ接ぎしながら生きてきた、そのパッチワークでちょっと色のちがう柄が翻訳だという程度のことだ。なかには潰れた企画やムダ働きになった仕事もあったけれど、それらのおかげで多少は英語に詳しくなれたのだから文句はいえない。実際、翻訳で初めてお金をもらった頃の私の英語力は情けないほど低かった。仕事をしながら覚えてきたわけで、だからあまり自慢できるようなものではない。

私にとっての最初の翻訳本が出版されたのは1985年の3月のことで、まあなんとも古い話になってしまう。なぜたいして英語のことも知らない若造に翻訳ができたのかというのは、それはそれでちょっとおもしろい話だが、やたらと長くなるのでここに書くようなことではなかろう(実際、20年ほど前にその話を書いたら、1冊の本になってしまった)。重要なのは、どうやって駆け出しの私の訳文がなんとか書店に並べられるぐらいのものに仕上がったのか、ということだ。それは、ひとえに編集を担当してくださったOさんのおかげだ。いやフルネームできちんと書いてもいいんだけど、感謝の気持を伝えるには、こんなブログでは足りないから、とりあえず頭文字にしておく。

なにせ、インターネット以前の時代の話だから、初めて会うまで、お互いのことは何も知らない。Oさんは「手紙の字が乱れてるから相当なおじいさんかと思いましたよ」と笑っていたが、生まれついて字が汚いだけのことで、ほんと恥ずかしい。ちなみに、字が汚かったから当時発売されたばかりのワープロ専用機にいち早く飛びついて、このときの原稿は16×16ドットのドットインパクトプリンタで打ち出したものだった。そんなタイプ原稿が物珍しいような時代だった。当然、印刷も写真植字であり、いまのコンピュータ化されたものとは世界がちがう。ただ、大手印刷会社が電算写植というシステムを大々的に売り込み始めていた頃で、少しだけは現代に近づいていた時代でもあった。

私はなにしろ世間知らずだった。若くて経験がないのだから、しかたない。ただ、世間知らずであるほど、そのことを隠そうとするものだ。いまの私なら知らないことは平気で知らないと言えるのだけれど、二十代の頃の私にはそれができなかった。だからまるで出版界のことを知り尽くしたベテランのような顔をしてOさんと話し始めた。もちろんOさんは瞬間でその見栄を見破っていた。そしてきっと、厄介な若者を引き受けちまったもんだと思ったに違いない。

そこから編集会議で正式に企画が通り、私の方も手直しした原稿を入稿して、初校が出た。編集者の仕事を見せつけられたのはこのときだ。なんとOさんは、びっしりと付箋が貼られた校正紙を持って打ち合わせのための喫茶店(たぶんルノワール)に現れたのだ。そこから3時間ぐらいもかかったのではないかと思う。たかだか百数十ページの小説の翻訳にあたっての問題点を、延々と追及された。「ここはどうしてこんなふうに訳したんですか?」「この表現はまずいと思いますね」「ここって、意味がわかんないですよ」「もうちょっとどうにかなりませんかね」「原文のここ、抜けてませんか?」といった具合に、駆け出しの私は針の筵の気分だった。もちろん半分ぐらいは自分なりの正当な根拠を示すことができた。けれど、半分くらいはやっぱりまずかった。そして根拠のある部分でも、「でも、読者としてはここはわかんないですよ」と、改良を求められた。途中で、「そこまでよくわかってんだったら、Oさんが翻訳したらいいじゃないですか」という言葉が出そうになった。

後になって私自身が農業関係の編集をやるようになってよくわかったのだけれど、編集者は専門家である必要はない。専門家はあくまで著者であり、編集者はそのスパーリングパートナーだ。スパーリングパートナーだとかバッティングピッチャーは、決して一流のプレーヤーである必要はない。相手を打ち負かすのが仕事ではなく、相手の能力を引き出すのが仕事だ。そしてその仕事は、専門家の仕事とは全く質が異なるものだ。Oさんは、実にその仕事に長けていた。私はプロの編集者の仕事に圧倒されるばかりだった。

同じような凄さは、私の3冊めの翻訳本を担当した別の出版社のNさんにも感じた。おしゃれな街のおしゃれな会社に勤めていたNさんはおしゃれなキャリアウーマンであったけれど、仕事の徹底ぶりはすばらしいものだった。私がどう調べても出てこなかった単語を「それ、原著の誤植でしょ」と、一刀両断に解決したのが印象に残っている。

 

むかしの編集者がすべてそうだったのかどうかは知らない。私の出会った翻訳書を扱う編集者は、皆、原文の一行たりともゆるがせにしない厳しさをもっていた。ただ、それでは翻訳書が原著の完全な再現ということになるかというと、特段にそういうわけでもなかった。たとえば、原著にある「まえがき」を割愛するとか、原著の膨大な参考文献リストを「どうせこういうのは日本では手に入らないのだから」と削除するとか、そういった作業はふつうにやっていたように思う。このあたりは現代でも変わらない。うまくいけばこの夏には久しぶりに私の名前で翻訳書が上梓されるのだけれど(とはいえ、監訳者は私ではない)、その担当編集者も昔気質の人のようだ(直に会ったことがないまま何年も仕事が続くのはいかにも現代的だ)。そしてやっぱり同じように、ツキモノ(本文以外の部分をそんなふうに呼ぶ)に関してはあまり原著にこだわらず、むしろ読者にとっての利便性を考えている。

原稿を商品としての書籍に仕上げるのが編集者の仕事なのだから、このあたりは頷ける。商品としてはまず本文が正確であることは欠かせないが、読者の理解のためには大鉈を振るってもかまわない。出版とはそういうものだと思う。文化的な背景も基礎的な知識も大きくちがう場所に移植するときに、せっかくの作品が枯れてしまわないように配慮するのは当然なのだろう。

それにしても、文章が基本的に情報である以上、情報が失われたり曲げられたりしてならないのは当然だ。そういうことを思うのも、こんな話を最近聞いたからだ。

原文を省略する翻訳は、あってもいい。しかしそういった訳は抄訳と呼ばれる。抄訳であっても、読者がそういうものだと了解して読むのであれば、それはそれで意味はある。ただ、それを知らされないで原文がそのようになっていると思い込んで読むのでは、そうはいかない。それは誤解を広めるだろう。

もちろん、こういった意図的もしくは意図的でない脱落は、洋の東西を問わずむかしからあった。 たとえば、源氏物語をヨーロッパに紹介したことで名高いアーサー・ウェイリーのThe Tale of Genjiは「葵」までしか訳していないし、それどころか途中、どう考えても1ページ分が脱落していることを後の訳者であるサイデンスティッカーが指摘している。彼の説ではある朝、ウェイリーが朝食に食べていたトーストのジャムがページにくっついてしまったのではないかというのだけれど、東洋のマイナーな言語で書かれた本の翻訳ではさすがに編集者も気づかなかったのだろう。また思い出すのは(現物に当たれないのが残念なのだけれど)、1970年代の「リーダーズ・ダイジェスト」誌に掲載されていたアメリカの読書家のエッセイだ。ヨーロッパの小説の翻訳を取り寄せたらいちばん好きな部分がカットされていたと書店に手紙を書き、そこから交流が始まる、みたいなストーリーだったように思う。してみると、かつては「翻訳」と銘打ちながら実は抄訳に過ぎないものが数多く出回っていたのだろう。そういえば、「アラビアンナイト」の翻訳も底本が不明でかなり怪しいものだという話もある。もともとは翻訳なんてその程度の扱いを受けてきたのかもしれない。その程度であっても、珍奇なものを紹介する意味はあったのだろう。

とはいえ、世の中はインターネットの時代だ。世界が狭くなっていて、情報は豊富に手に入る。そういう時代に不正確なことをやっていては通用しない。特にそれが誤解を生みやすい文脈に置かれたものであれば、なおのことだ。このあたりは自戒も込めて、よくかみしめておきたい。