目標、努力、成功、成長について - 流れ去る時間と円環する時間

家庭教師として生徒を教え始めたときに、最初に確認するのは「なんのために勉強するんですか」ということだ。もともと私は勉強が大嫌いだし(ちなみにざっと9割の生徒が「嫌いだ」と答えているからここでは多数派だと思う)、嫌いなことをあえてするのであればそれには必ず理由があるはずだと思うからだ。好きなことをするのに理由はいらない。嫌いなことをあえてするには、そのための理由がなければおかしい。理由がわかれば、その理由に沿って指導ができる。これが顧客満足度をあげるもっとも確実な方法だ。売りたいものを売るんじゃなくて、客が望むものを売るのがサービス業の基本(まあ、優秀なビジネスマンにとってはそうではないのだろうけれど)。

勉強をする理由としてあがってくるのはさまざまであり、個別だ。ひとりひとりちがっている。もちろん、表面的な理由(「大人になって困るから」とか「将来のため」みたいなの)は理由になってないから徹底的に潰しておく。観念的なお題目は要らない。こっちはもっと具体性がほしいわけだ。「親がうるさいから」というのは十分に具体的だが、こういう外部からの圧力はやっぱり理由にはならない。もしもそれが唯一の理由だというなら、私はクビを切られるのを覚悟で親と話し合うだろう。いまだそれで辞めさせられたことはない。

具体的に理由をどんどん詰めていくと、半数ぐらいの生徒は「将来の目標」を出してくる。実は、このタイプの生徒は教師にとって非常にラクなのだ。なぜなら具体的な目標があったら、それに到達すべき経路が明らかになり、そこに至るまでのマイルストーンも置くことができる。ひとつひとつ確認していけば、なんなら次のテストの目標点まで割り出せて、こんなやりやすいことはない。ま、実際には「将来の目標」なんて成長の途中でコロコロ変わるから、最初に描いた筋書き通りに進むことはめったにない。とはいえ、そういうのを便宜的にでも置いておけば、なすべきことが自ずと明らかになる。無意味な「やる気」なんて引っ張り出さなくてよろしい。

しかし半数ぐらいの生徒には、これは当てはまらない。ただ、それでも無理矢理にそういうスタイルに当てはめてしまう場合もある。たとえば「何になりたいかわからない」という生徒に、「じゃあ、10年後、20年後にどんな自分でいたいか想像できますか」と尋ねたら、「ときどき美味しいものを食べて、旅行に行けるような暮らしをしている」と答えた生徒がいた。ならば、そのイメージ通りの未来を実現するためにはどんなことが必要でしょうというところから、「じゃ、大学行って給料がいい会社に就職するみたいな感じですか」と、目標っぽいものを設定した場合なんかがそうだ。つまり、意識されない動機をとりあえずは目標モデルに落とし込んだわけだ。そういうのまで含めれば、6、7割ぐらいは目標モデルにもっていける。けれど、どう工夫してもこのモデルがしっくりこない生徒は少なくない。

その中でも、割と少数派だけれど家庭教師にとってやりやすいタイプの生徒は、「好きだから」タイプだ。「なんで勉強するんですか」という問いに、いきなり数学の問題がうまく解けたときの快感だとか、歴史の魅力だとかを語りだす連中だ。注意しないといけないのは、こういう生徒の中には頭が良すぎて「模範的にはそう答えるべきだ」と理解した上でその筋書きに沿ってセリフを並べている生徒が混じっていることだ。まあ、そのぐらいに自分を客観的に操作できるなら、それはそれでたいしたものだ。ホンネで勉強の魅力を語る生徒と同じくらいにはやりやすい。これらの生徒は、表面的には「勉強は嫌いですね」みたいに言っても、そこまで忌避してるわけではないから、放っておいてもやるべきことはやってくれる。手間がかからない。ただ、どちらにせよ、こういう生徒は多くない。

けれど、そこまで意識的ではないけれど、学ぶことの魅力に気づいている生徒は案外といる。これはある意味当たり前のことで、人間はもともと新しい情報を貪欲に取り込む性質を本能に組み込むことで発展してきた生物でもあるわけだ。それらの生徒は、自分自身の知的好奇心と学校の授業で強調される技能訓練とのギャップの前で、勉強が嫌いになっている。人間の記憶なんていい加減なものだから忘れるのは当たり前なのに、「教えたことは必ず覚えているべきだ」とする教師の姿勢から、退屈な反復が「勉強」の中心に来て、わくわくする新しい知識に触れることがどんどんとぼやけてしまっている。そういう不条理があるのだということさえわかれば。実際にはこのタイプの生徒も「好きだから」のグループに入れられるだろう。あまりうるさいことを言わずに知的満足をもたらす餌だけ与えていけば、着実に伸びる。家庭教師の役割は、テストの点数に一喜一憂する親をどうやってごまかすか、みたいなところに絞られてくる。

そして最後に、どうしても「なんで勉強するのか」に反応できない一群の生徒がいる。多数派ではないのだが、確実にいる。どういうふうに尋ねてみても、動機が不明。かといって親や学校からの強い圧力に屈しているわけでもない。「嫌だな」と思いながらも、どうにかこなしていくことで日常がまわり、その日常が続くことに何らかの意義を見出しているのかもしれない。そのあたりの行動原理が言語化されていない。だから、私もよくわからない。けれど、なんとなく共感する。私もたぶん、子どもの頃に「なんで勉強するのか」を質問されたら、同じように答えに詰まってしまっていただろうから。

 

ともかくも、大別すれば生徒には目標をもって勉強に取り組む生徒と、目標はないけれど勉強に取り組む生徒の2種類がいることになる。もちろん人間がきっちり2種類に分類できるわけはなく(いや、阪神ファンとそれ以外とか、できるといえばできるのだが)、その間にはグラデーションがある。目標があるといえばあるけれど、実は目標をもてと言われたからなんか適当に言ってみただけみたいな生徒も実際には少なくないように見える。上記のように教師からすれば目標をもっている生徒は指導しやすい。おそらくそれが理由なのだろう、21世紀の子どもたちは、小学生の頃からことあるごとに将来の目標を学校で尋ねられる。もちろん、「大きくなったら何になる?」は昔から大人が子どもに尋ねる定番で、「男の子は大将、女の子は看護婦」の戦時中から「末は博士か大臣か」の立身出世主義の高度成長期にかけても普通の質問だった。けれど、その時代の「何になる?」は「目標」みたいな具体的なものでなく、「夢はでっかく」と、現実味がないほうが称賛された。「ノーベル賞」とかね。小学校6年生のときの同級生で「サラリーマンになりたい」と言ってたやつは、興ざめなこと言うな的な目で教師から見られていた。なにせ、21世紀には宇宙に飛び出して銀色のレオタードを着るのだみたいに思われてた時代だ。現実主義は嫌われていた。ところがその21世紀の子どもたちは、同じような答えをしたら、もっと現実的にと言われるだろう。「サラリーマン(とはもはや言わないだろうが)にもいろいろな職種がありますよ。まず技術職ですか、営業職ですか。どんな分野に興味がありますか」と、事細かに具体化される。なぜなら、具体的な将来の夢は目標に置き換えやすく、目標ができれば指導がしやすいからだ。だから、いまの子どもは将来の目標について聞かれることに慣れていて、中学3年生ぐらいだとこっちが驚くほどかっちりした人生プランをもっていたりもする。

そういう子どもたちの中には、本当にしっかりしたひともいるのだろう。人生三周目ぐらいに知恵のある子どもだっている。けれど、教師に言われたからというだけで「目標」を設定する生徒もいる。そして、いくら教師がはたらきかけてもそれがピンとこない生徒もいる。その中には、それでも好きだから学ぶという生徒が、やはりその強度はグラデーションではあるのだけれど、確かに含まれる。けれど、特別に目標があるわけでもないし、また特に好奇心が強いわけでもないし、それでもまあ、そこそこに勉強はやるんだという生徒が、確かに存在する。そのあり方もやっぱり一様ではなく、さまざまな形がある。ただ、そういう生徒と話していると、私自身の理屈の根拠である「嫌いなことをするんだったら必ず理由があるはずだ」という問題の立て方が現実を反映していないのかもしれないという気もしてくる。以下、話をわかりやすくするために、一方の極に「目標タイプ」、もう一方の極に「動機なしタイプ」を置くことにしよう。

 

「目標タイプ」には、努力がよく似合う。努力の方向性が定めやすいし、努力の結果がはっきりと目に見えるからだ。到達すべきところが明確であれば、そこまでのマイルストーンもはっきりする。努力は常に成果と照らし合わせることで持続される。そして、努力が着実に実を結べば成功が手に入る。それは志望校への入学であるかもしれないし、正社員としての就職であるかもしれない。あるいは職場での達成であるかもしれない。そして、そういった努力と成果のサイクルを回していくことで、着実にそのひとは成長していくだろう。

その一方で、「動機なしタイプ」には、努力という概念がそぐわない。そりゃ、そういうひとでもがんばるときにはがんばる。ときにはとてつもない集中力を発揮してくれたりもする。けれど、目標のないがんばりは一過性のものにならざるを得ない。継続的な努力へとは、なかなか昇華できない。それでも、いろいろやってれば、なんだかんだで成功が訪れるかもしれない。けれど、そういった成功は、それを狙って準備してきたものではない。本人にとっては、気がついたら転がり込んできたラッキーのように感じられるだろう。周囲が成功だと讃えても、ピンとこない顔をしている。そりゃ嬉しいのだけれど、「よくがんばったね」なんて言われたら、居心地が悪い。謙遜でもなんでもなく、「たまたまですよ」と返すしかないだろう。

どちらがいいとかわるいとかいう話ではない。だいたいが、この2つの「タイプ」そのものが仮想的に置いたものであって、必ずしもそれが当てはまる話ばかりでもない。じゃあなぜこんな2つの「タイプ」を持ち出したのかといえば、それが、人間の時間の観念とどこか対応するのではないかと思いついたからだ。

ずいぶん古い読書で得た知識なのでもう出典も定かではないのだけれど(調べたら案外と簡単にわかることなのかもしれないけれど)、近代西欧的な時間の観念は、直線的なものなのだそうだ。すなわち、時間とは一方向に流れ去る量であり、いったん流れ去った時間は二度と戻ってこない。そういうふうに言われれば、確かに時間とはそういうものかもしれないなあと思う。覆水盆にかえらずだし、こぼれたミルクの上で泣いてもしかたない。人生にやり直しはない。

その一方で、人類の歴史の中では西欧近代的な時間の観念は特異的なものであると、その書物には記されていた。もともと人類は、円環する時間の中を生きていた。円環する時間とは、繰り返し繰り返し、同じことが起こる時間の流れだ。たとえば、冬が来れば必ず春が来る。苗を植え、収穫の秋を迎えれば、きっと来年も同じように実りの秋はくる。これが円環する時間だ。繰り返しは1年の単位で起こるばかりではない。朝が来れば太陽が昇り、日が暮れたとしても、また必ず東に曙光がさす。あるいは、ひとは生まれて死ぬかもしれないが、死ぬ人がいれば必ず生まれてくる人がいる。物事は必ず繰り返すのであって、どこかに始まりがあるわけでも終わりがあるわけでもない。こっちにしても、そういうものだと言われればそうなのかなあと思う。人類学の教えるところでは(といっても最新の知見は知らない。出所がもう何十年も前の本だから)、ほとんどの人類はそういった時間の観念のもとに生きてきた。

そして、もしもそうであるのなら、目標を定めて、それに向かって努力し、そして成功を収めるという一連のモデルは、西欧近代化とともに生まれたのではないかという気がしてくる。流れ去る時間に最もうまく対応するためには、先まで見通した計画を立てて行動する必要がある。つまりは目標を立て、その実現に向けて努力する。成功は、一方向に進む時間の中で、努力の集積として実現する。「目標タイプ」は、直線的な時間の流れと相性がいい。

もちろん、円環する時間であっても、目標は立てられるだろう。たとえば秋の豊作は、たとえ実りの秋が毎年くるとしても、やはり毎年同じように切実な願いであるはずだ。秋の豊作を目標として、春の田起こしに精を出すのは、「目標があっての努力」と捉えることができるかもしれない。けれど、そのときに、秋の豊作は「成功」ととらえられるだろうか。円環する時間の中で、たとえば豊作の願いは状況がどうだろうが個人がどうだろうが、毎年繰り返し起こる事象であり、豊作をもたらすための努力である農作業も毎年繰り返し起こる。結果として豊作が現実になることもあれば、天候その他の事情で不作になることもある。同じように豊作を願い、同じように努力しても、結果は年によって違う。そんなとき、豊作は、「努力の成果」としての成功としてとらえられるだろうか。

円環する時間の中では、サイクルを越えて目標を立てることができないし、そしてサイクルの中で立てる目標は次のサイクルの中でも目標になるわけだから、それに対する努力も同じことの反復になる。そこに特別な何かはないのだし、特別なことがないのに結果が少しずつ変化するのであれば、それはもう「運・不運」のレベルだろう。このような時間を生きる人にとって、「成功」という概念は、いまひとつ理解しにくいにちがいない。「努力」さえ、なにか「目標」があるから行うのではなく、毎年の循環の中で繰り返し行うことに位置づけられる。春の田起こしは秋の豊作を願って行うのかもしれないが、なぜそうするのかと言われれば「毎年やってるから」というのが最もしっくりする感覚になるだろう。

こういった時間の観念のもとに生きていると、「なんのために」をいちいち考えなくなる。考えなくてもやるべきことをやっていれば世界は回る。そういう信頼感のもとに、人は日々の行動を営む。そうやって生きてきた流れの上に立って子どもたちに「なんのために勉強するんですか?」という問いを発したときの反応を受け止めれば、どこか納得できるような気もする。そんなことは考えなくても、むかしから子どもは学校に行くもんだし、学校に行けば勉強はするもんだ。あるいは親は子どもに勉強しろというもんだし、子どもはいやいやでも勉強するもんだ。むかしからそうやって世の中は回ってきてるんだし、理由なんてのはあとからくっついてくるもんだ。意識してそう考えているのではなく、感覚的に、そんなふうにとらえて生きている子どもたちは案外と少なくないのだろう。これが「動機なしタイプ」として現れるのかもしれない。

 

古い小説を読んでいると、よく東京の立身出世主義と田舎の因循姑息が対比的に描かれている。都会での競争に疲弊した登場人物が故郷に戻ってホッとするのも束の間、どこまでも進歩のない農村の感性に嫌気が差してまた大都市へと舞い戻る、みたいな筋書きは、誰のどの作品というのでもなく、実にありふれていたように思う。明治維新以後、日本人は西欧的な時間の流れを受け入れていった。けれど連綿と受け継がれてきた円環する時間の感覚が基底を形作っている。個人の中にある感覚の不調和が小説に描かれているのだと思えばわかりやすい。そして、ここで1人の個人が2つの時間の観念を同時に内在化させているように、実は一方向に流れる時間の観念と円環する時間の観念は、決して「西欧文化東洋文化」のような対立ではないのかもしれない。

私たちは、もともと、過ぎ去る時間と繰り返す時間の両方の感覚をもって生きている。たとえば方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして…」は、流れ去る時間と繰り返す時間の両方の感覚がなければ味わえないように思う。芭蕉奥の細道の書き出し、「月日は百代の過客にて…」も、一方向に流れる時間というものを明示的に表現しているといえるだろう。伝統的な日本人の感覚の中にも、一方向に進み戻ってこない時間の感覚は確かに存在する。ヨーロッパ世界において、近代以前には円環する時間の観念が主流であったと言われるが、その時代に流れ去る時間の概念がなかったわけでもなかろう。一方向に進み戻ってこない時間の観念は、もともと目立たなくともあったものが、近代化の中でことさらに強調されるようになったのだと考えればいいのだろう。そして、そういう観念で時間を捉えるひとも、身体のどこかには円環する時間の観念も併せ持っているにちがいない。

 

なんでこんなことを考えるのかといえば、ひとつには最近、年老いた母と過ごす時間が増えていることが関係しているのかもしれない。一方向に流れる時間で人生を見ると、老齢は惨めだ。なぜなら、目標は既に達成されてしまった。あるいは、達成不可能という現実が確定してしまった。先に待っているのは死でしかない。ここからどんな目標を立て、どんな努力をして、どんな成功があるというのだろう。もちろん、近代は年齢を問わず、目標モデルを当てはめる。看護学の本を訳していたときに知って驚いたのだが、近年は「成長」を少年期や青年期にだけ当てはめるのではなく、壮年期や老年期にも当てはめる考え方が広まっているのだそうだ。つまり、「成長」というモデルはそのままに、それを「未熟な状態から一人前の状態になること」だけではなく、もっと拡張していこうという考え方だ。成長とは、年齢の変化に応じて自分自身を変えていくことだ。たとえば高齢者にとっての成長とは、日々衰えていく身体能力を受け入れ、それに順応してなおかつその能力を十分に活かして充実した生活を送れるように適応していくことだ。たとえば脳梗塞で入院し、快癒した高齢者にとっては、失った能力を少しでも回復し、あるいは失った能力の代替になる能力を開発することが目標になり、そのための日々のリハビリが努力となり、成功をつかむ道程においてそのひとは成長する。これが近代の求める高齢者の生き方だ。

それはそれで、納得のできるものでもある。実際、そういう言い方で鼓舞される高齢者もいる。数年前に亡くなった私の父親なんかもそんなふうだった。できなくなっていくことの中でそれでもひとつの目標を定め、そこへのマイルストーンをおいてそれをクリアしていくために努力を重ねる。マラソンランナーならではのその姿勢は、看護チームからも称賛されていた。そして実際、そういった病院生活で、父は人間としても成長していったと思う。そういう姿を思い浮かべると、人生のどんなステージにあっても「目標モデル」はありなのかなと思えてくる。

けれど、その一方で、もうひとり、私にとって忘れられない老人がいる。丹波の田舎に暮らしていたとき、近所に住んでいた農夫だ。区としては隣だったので日頃顔を合わせることはそれほど多くなかったのだけれど、山の奥にある住まいから里に出る途中に私の家があったので、ちょくちょくと立ち寄ってくれていた。しばらく顔を見ないなと思っていると、またひょっこりと来てくれて、入院していたと言う。もういいのですかと聞いたら、いや、ブドウの剪定の講習があるから途中で1回帰ってきたんだとのこと。そのときは、そうですか、おだいじに、みたいなことを言ったのだけれど、たまたまそのとき家にいた友人と、後で顔を見合わせてしまった。

この老農、その頃でもう80歳ぐらいだったように思う。腰も曲がっていて、60代が若手と呼ばれる田舎の基準でみても年寄りの部類に入る人だった。農業に関してはベテラン中のベテランで、素人である私たちが見たら信じられないような立派な作物をつくる。その人が、いまさらながらにブドウの剪定を習うというのである。何を習うというのか。人に教えるというならともかく、新たに学ぶことなんかないだろう。だいたいが、数年前に植えたというブドウ園にしたところで、彼が生きているうちに盛期を迎えるとは思えない。いや、そうなるのかもしれない。いったい何歳まで生きるつもりだよ、と。

私はこの話を、「人間、いくつになっても学ぶことをやめてはならない」とか、「向上心は人を若々しくさせる」みたいな教訓として使ってきたのだけれど、なんとなく、「それはちょっとピントを外しているかもなあ」という感覚ももつようになってきた。たぶん、かの老農は、そんな感覚で剪定の講習を受けたのではない。地域で推進してるブドウを植えたし、普及所が講習をやるというし、そういうときの講習は受けるもんだ、みたいな感覚だろう。そのときに、一方向に流れ去る時間の中に自分がいるという意識はない。ブドウの樹が成熟する頃に自分がどうなっているかなどと、考えても仕方のないことは考えない。そういうことは、実際にそのときになってみればわかることだ。それよりも重要なことは、以前牛がいたときに草をはやしていた斜面が空いてるし、それを放っておくわけにいかないから何かを植えることだったのだし、そのときに奨励されているブドウはひとつの選択肢として正しかったのだろうし、果樹の剪定のことはだいたいわかってるといっても普及センターでこの品種に合わせた講習をやるというのなら受けるべきなんだろうし、とにかくこの状況で自分がやらねばならないことをやることだ。それをやっていれば世の中は回っていくのだし、世の中が回っていれば自分がどうなろうが、それですべてうまくいく。仮に自分が倒れたとしても、誰かがあとを引き継いで、やっぱりやるべきことをやっていけば、それでいいのだ。だからこそ、自分はこの瞬間に、自分がやるべきことをやる。そんな感覚だったのではないだろうか。

実際、彼の農場は実に見事だった。1町近い山の中の田んぼをほとんど手植えでつくりまわしていたのだが、豊作の秋にいくら穂が重くなっても倒れる気配もなかった。手植えなのは大苗の健苗が田植え機にかからないからで、なぜそんな大苗にするのかといえば、昔からそうやってきて、それでうまくいっているから変える必要を感じないからだった。機械を拒否するわけではなく、稲刈りには古いバインダーを使っていた。有機農業関係者が比較的目立つ地域だったが、主義主張に関心はなく、牛がいるから堆肥を田畑に入れる、農協に出すより儲かるから自分で販売までやるというスタンスで何十年も生きてきたのだということだった。

私はその後、子どもが生まれる前に10キロほど離れた地方都市の郊外に引っ越した。息子が生まれたとき、それを聞いてこの老農は自転車に乗って峠を越えてわざわざうちまで祝いに駆けつけてくれた。私はとても嬉しかった。それから一年ほどたって、時雨気味のある日、妻が彼を見かけたという。曲がった背中で子ども用の自転車に乗って夕暮れの中を走っていった。翌日、その老人の訃報が届いた。不思議な出来事だった。妻が見たのは錯覚だったのだろうか。田んぼで倒れて亡くなったのだそうだ。

話が少し逸れたが、あの尊敬すべき老農夫は、円環する時間を生きていたのだなあと思う。壮年期に野菜の行商に使っていたがっしりした荷台の自転車を取り回すだけの体力がなくなると、成人した息子が納屋に放置していた子ども用の自転車を自分用に使うようになった。それは、彼にとって「できなくなったことを別の手段でできるようになる」という成長モデルで説明するよりも、「去年までと同じことを今年もできるように工夫する」という繰り返す時間のモデルで説明するほうがピッタリくるような気がする。来年も、再来年も同じことを繰り返す前提で、それでも同じことができなくなれば、それに応じて工夫する。その工夫によって、また新たなサイクルが生まれ、そしてそれが続いていく。変化はあるし、その変化の最大のものは老いであり、この世からの退場である。けれど、自分が消えていくあとからあとから、新たな命が生まれて、また新たなサイクルを始める。それは単純に寿ぐべきことだ。

葬儀の家の庭に起こされた焚き火の火にあたりながら(このときの火の粉で上着にできた焼け焦げがいまも残っている)、大往生とはこういう人生をいうのだろうと私は思っていた。そういう人生の片隅にごくわずかだけでも関わることができて、私も幸せだと思った。その祝福を受けた息子の人生も、きっと幸せなものになるだろうと確信した。センチメンタル。

 

嫌いな勉強をするのにはきっとなにか動機があるはずだ。それを目的とか目標とかいって引っ張り出せる「目標タイプ」と、どうしてもそれが出てこない「動機なしタイプ」と、実際にはその両者が同時に一人の人間の中にいるような気がする。それは、人間が直線的に進んで始まりと終わりがある時間の感覚と、始まりも終わりもなくただ循環を繰り返す時間の感覚の両方を備えているからなのだろう。その感覚の強弱は、個人によって異なっている。同じ人でも、状況によって異なった感覚が優先するだろう。だから、多数派の生徒は家庭教師が無理矢理に目標設定するのについてくることができる。家庭教師としてはそのほうがラクだから、可能であれば目標は設定しておきたい。けれど、それがピンとこない「動機なしタイプ」にどう対応すればいいのか、これはなかなかに難しい。

それは、私の中にそういった時間の感覚がないからではない。そうではなく、現代の学問をベースにした学習指導要領に準拠した教育課程が、やっぱり近代西欧的な直線的な時間の感覚に馴染みがいいからなのだろう。目標を立てることは、個人的な営為である学問を一般化し、場合によっては公共のものにすることだ。個人の営為の社会化といってもいい。資本主義社会のもとでは、個人の欲求の達成は社会化され、社会の発展に結実するとされる。目標を立ててそれを実現することは、まさにそういうことだ。

その一方で、循環する時間の中で行う学問は、どこまでいっても個人的なものだ。個人的な営みを支えるのは、ひとつには喜びだろう。一面に青々と活着した田んぼの苗を眺めるとき、「ああ、美しいな」と思う。納屋に積まれた米の袋の山を見て「今年も大丈夫」と安心する。椎茸を売りに回って、空になった荷物の代わりに膨らんだ財布を確認して「儲かったな」とほくそ笑む。あの老農はそういう喜びを日々に積み重ねていたに違いない。それは個人的なものであって、とるに足らないつまらないものにも見える。けれど、その積み重ねでもって、毎日が、毎年が、そしていくつもの人生が繰り返され、天下が成り立っている。そういう意味で、これもまた、個人と社会のかかわり方のひとつであるともいえる。「動機なしタイプ」を支えるのは、そういった小さな喜びを大切にすることであるのかもしれない。そして、そういった喜びを積み重ねることで、確かにひとは成長する。それは目標モデルのいう成長とは異なるような気がするが、やっぱり成長と呼べる何かが起こるような気がする。

だとしたら、そういう生徒に向き合うときには、「小さな喜び」が感じられるような指導にしなければならないのだろう。会社のミーティングで他の講師の話を聞くと、たとえば「できたらシールを貼ってあげる」とか「褒める」とかいったテクニックで子どもを「やる気にさせる」みたいな話がよく出てくる。私はけっこうそういうのに懐疑的で「子ども騙しだ」とか「何様だよ」みたいに内心批判してきたのだけれど、ひょっとしたらそういうやり方は、生徒の中に小さな喜びをつくり出す工夫なのかもしれない。

そんなことをしなくても、授業そのものが面白ければ、それは喜びになる。そのはずだ。何のためにやってるとか、それで何が得られたとか、そんなことはわからないけれど、単純に家庭教師の時間が楽しみになる。そういう授業はあり得る。それができることが、生徒の中に小さな喜びをつくり出す本来ではないのだろうか。

ただ、それがホントにできるのかと言われれば、うん、私の授業、そこまでのエンターテインメントにはできないよなあとも思う。同じ時間を過ごすのに、90分の映画を1本見るのと同じだけの楽しみを与えられる授業であればなあと、これは実際に生徒に向かってもいう。でも難しい。難しいけれど、それができればなあと切に願う。そのためには、努力も必要だし、まだまだ成長せねばならない。結局のところ、それが私の「目標」だったりと…