目標、努力、成功、成長について(その2) - 同じ言葉を使っていても

前回、「目標、努力、成功、成長について」という記事を書いた。

mazmot.hatenablog.com

これはもともと、はてなを代表するブロガーのひとり、シロクマ先生のブログに感じた違和感が出発点になっている。

p-shirokuma.hatenadiary.com

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違和感というのは、物柔らかな口調であるから普通に読んでいたら気にならないのだけれど、シロクマ先生が成功することに価値を見出しているのがどちらのエントリにも強く現れていたことだ。いや、そりゃ、人間は幸福であるべきだし、幸福な状態を入手することを成功だと定義するのであれば、成功は喜ぶべきことであるにちがいない。けれど、記事中では、「アタリ」の例とされているのが大学進学であったり、「点の成功」の例とされているのが「大学入試。就職。結婚」であったりと、「成功」は「社会的により上位にあるとされるものへの上昇」として描かれている。一般に、「社会」を語るときには、それがどんな「社会集団」であるのかを定めておかなければならない。この文脈ではそれは日本社会ということになるのだろうけれど、シロクマ先生の見ている日本社会と、私の感じている日本社会は、どうも微妙にズレている。それが違和感の発生源だろう。

確かに、私たちは有名大学に進学した人、有名企業でバリバリ仕事をしてる人、そこで出世の階段を登っていく人、あるいはベンチャーを立ち上げて経営者として活躍している人、ときには素晴らしい配偶者を得て幸福な家庭を築いている人を「成功した人」として羨む。自分もそんなふうになれたらいいだろうなと夢想することもある。けれど、重要なことは、そんな成功をつかめる人はごく僅かである、という事実だ。ごく僅かであってもそうありたいということで、たしかにそれに向かって努力する人々は成功する人々の数よりはずっと多い。けれど、もっとその外側に、そういうものを成功であると認めた上で、はなからそれは自分とは無関係な世界のことであるとして、特にそれを目指そうとか、それに向かって努力しようとか、そういうことを考えない人もまた、多いのではないだろうか。むしろ、そっちのほうが多数派なのではないだろうか。

そういう多数派であっても、それぞれなりの小さな成功はある。たとえば東京の私立大学への進学は、東大や京大といった国際的にも名前の通った大学への進学を成功と捉える人々にとってはとてもとても成功のうちには入らないだろうが、別の人々にとっては十分な成功といえるだろう。全国的Fランク大学として高名な某芸術大学に通っている私の息子にしたところで、半数ほどの卒業生が進学しない彼の高校では「大学行けていいね」の部類になる。それぞれの身分にはそれぞれの身分なりの成功があり、それは上の身分の人々の失敗と実質的に同じである、みたいなことはあるのかもしれない。ああ階層社会。

昭和的な言い方をすれば、係長になった人は課長を羨み、課長は部長になるまでそれを成功と認めない。部長は取締役にならねば敗者だし、取締役は社長にのぼりつめたいと願う。けれど、圧倒的多数は万年平社員で、何なら失業して職安に行ったり、土方になったりする。ま、令和の現代にそういうモノサシは古すぎるだろうが、成功を社会的な上昇と結びつける限り、そこには絶対的な安住の地はない。成功はどこまでも逃げ去るものであり、捕まえようとしても捕まらない青い鳥に過ぎない。

もちろん、それを回避する方法はある。目標を明確にしておくことだ。たとえば、「医者になりたい」というのを明確な目標にすれば、国家試験に合格した段階ではっきりとそれは「成功」と認められる。「医者になって人の命を救いたい」というような漠然とした目標には安易に成功は確認できないかもしれないが、それでも、診断がピタリとハマり、治療が功を奏した瞬間には、成功を感じてもかまわないだろう。物事が曖昧なのは測定基準がはっきりしないからであり、測定基準をはっきりさせればそこは明確になる。目標は、成功のいい測定基準になる。

そして、目標が定まれば、そこに対する具体的な努力が可能になる。およそ、目標を定めない努力は精神論にしかならない。それは、目標を定めない上昇志向と同じで、人を終わりのない泥沼に陥しいれる。そういう側面からも、目標設定は大切だ。そして、目標に向かっての努力の達成度から、人は成長の度合いをはかることができるだろう。

けれど、ここで繰り返すなら、それは多数派には当てはまらないのではないか。なぜなら、努力に見合う絶対的な成功の価値が、「下に」いくほどだんだんと低下していくからだ。トップクラスで競っている人々にとってはそうではなかろう。成功は莫大な見返りをもたらすのだし、なんなら成功が得られなくとも、見返りは大きい。たとえば東大をトップクラスで卒業という目標を達成できなかった東大生でも、世間からみればそりゃ優秀な企業への就職が可能だろう。目標を立て、そのために着実に行った努力には、たとえ目標達成の成功が得られなくとも、それなりの価値がある。司法試験を目指して猛勉強して結局合格しなかった人でも、大企業の法務部という一般人から見たら羨むべき安定職への可能性がある。成功には価値があるし、成功が得られなくても努力によって得られるものは大きい。ところが、もっと「下の」クラスになると、どうだろう。たとえばそこそこ名の通った私立大学への入学は、多くの「偏差値が真ん中あたり」の高校生にとっては目標になり得る。けれど、もしもその目標が得られたとしても、そういった大学に通うことによって得られるメリットはそれほど大きくない。まあ、大学の価値なんてそれぞれだけれど、たとえば就職先でいえば有名私大を出ても非正規雇用がやっとなんてのは近年ではザラにある。それでも生涯賃金を見たら大卒のほうが多少は有利なのかもしれないが、それが「努力」の成果として得られたものだと思ったら、なんだか哀しくなる程度のものでしかないのではなかろうか。また、大学合格を目指して努力したけれど成功しなかった場合、その努力に対する報いはほとんどないのではないか。受験勉強としての英語や数学が多少できたところで、それが大学入試以外のどこで役に立つというのだろう。結局は骨折り損のくたびれ儲けではないか。

だから、シロクマ先生が「努力はみんなするけど、努力ガチャを引ける回数がちがう」とか、「点の成功より線の成功」とか、あるいは直近では「性淘汰圧」とかいうときに、なんか違和感が拭えない。いや、そうやって努力を当然とする価値観とか、成功があって当然みたいな考え方とか、異性の選択によって生殖機会の回数が定まるとか、それはそれぞれに正しいのだろうけれど、「それって一般化できるのか?」と思ってしまう。そういう価値観や思考方法や原理が当然とされる社会は、確かにある。受験業界なら「最低でも関関同立か関東ならMARCHぐらい、順当にいけば旧帝大ぐらいがあたりまえでしょ」みたいな世界に住んでいる人々の集団では、おそらくそれはあてはまる。医者や弁護士を輩出するような進学校の内部では、そんな価値観や原理が支配的であっても不思議はない。けれど、私の仕事は、そういう生徒ばかりを相手にしているのではない。高校卒業のために単位を揃えるのに四苦八苦している生徒に、「努力は報われる」みたいな価値観で接しても、すれちがうだけだ。部活が楽しくて仕方ない生徒に、「幸福になるためには目的意識がなければなりません」みたいに説教したって、空回りする。だって彼女は既に幸福なのだから。

 

人間は多様であって、すべてに通用する原理・原則は、なかなか見つけにくい。とりあえず私は、「うまいものを食ってよく寝ること」が人を幸せにするという原則はだいたい大丈夫だろうと思っているけれど、それすら絶対的なものとはいえないと感じることもある。目標、努力、成功についても、それが当てはまる人に関しては、それは割と有効なモデルだし、よくできているとは思う。けれど、それが当てはまらない人々の存在を、最近特によく感じている。そして、まだまだ修行が足らんなあと反省したりもする。

それでも、私がたぶん、人間に関してだいたいは当てはまるんじゃないかと思う原則は、ないわけではない。たとえば、「人は成長する」。これは、長い目で見たときに、たいてい当てはまるように思う。たとえどれほど家庭教師がヘボだろうが、生徒はそれにもかかわらず成長する。それを信頼していれば、たいていのことは乗り越えられるように思う。たとえ、努力や成功がなくても、「成長したなあ」と感じることは多い。もちろんそれは、客観的な指標なんかない感傷に過ぎないのかもしれないけれど…