「主義」という語のややこしさについて - まとまらない雑感

-ismと「主義」

量としてはたいしたことはなくなったとはいえ、いまだに翻訳の仕事をあたえてくれるクライアントがいる。AIの時代にこれはなかなかありがたいことだ。いずれはくると予測していた「翻訳はマシンの方が使いやすい」時代が、現に到来しつつある。そんななかで翻訳者として生き延びていくのは、相当にむずかしい。

AI翻訳のほうが信頼できるような時代に、人間が翻訳をする意味はどこにあるのだろうか。ま、いろいろ考えることができるかもしれないが、ひとつには、「途中がみえる」ということではないかと思う。ひとつの語を訳出するときに、AIは「なぜその語を選んだのか」を説明してくれない。人間にはそれができる。その説明は、特に求められなければ記録しておくことも報告することもない。ただ、そういう論理的な説明根拠があるからこそ、全体を通したときに整合性のとれる翻訳ができるのだし、場合によってはアクロバティックな訳文をつくりあげることもできる。このあたりはまだAIには追いついてこれない領域ではなかろうか(そのうちに追いついてくるかもしれないが)。

機械翻訳は、かつては辞書式に行われていた。それだけではとんでもない訳文ができあがることが(特に日本語のような非ヨーロッパ言語とヨーロッパ言語の間のような大きく異なる言語間では)多発する。そこで、共起表現に着目する改良が行われてきたが、それでもまだ「機械翻訳の文章を読むと頭が痛くなる」時代が長く続いた。現代のAIは、そういった単語レベルの対応を捨てて、「いかにもありそうな訳文」を(表現はわるいが)捏造する。それは実際に人間の翻訳者が頭の中でやっていることに近いわけで、それだけにいい訳文が生まれる。ときには下手な翻訳者が訳した文なんか足元にも及ばないほどの精度の高い翻訳をする。単語レベルの対応にかかずらっていたのでは、そういった質の高い翻訳はできない。とはいえ、単語レベルの変換をAI翻訳が無視しているわけではないし、人間の翻訳者だって単語レベルで悩むことがないわけではない。というよりも、悩みの多くはそこだ。そして、そこを悩めることがむしろ、AIではなく人間が選択される理由でもあるのではないかという気もする。

 

と、前置きが長くなったが、書きたいことは「主義」という翻訳語についてである。ちなみに漢語としての「主義」はあまり古いものでなく、どうも唐代に仏典の注釈で用いられるようになって以後のもののようで、そのまま「主な意味」とか「導き」「理論」「(仏教の)教義」のような意味で用いられることが多かったようである。ま、私は漢籍を含めて中国語をほぼ知らないので、このあたりは間違っているかもしれない。正確なところは詳しい人に聞いたほうがいい。

この「主義」、現代では「-ism」の訳語として広く用いられている。たとえばsocialismは社会主義だし、capitalismは資本主義だ。個人主義はindividualismだし、全体主義はtotalitarianismだ。ただ、この-ism、辞書を引いてみるとけっして単一の「主義」という概念に収まらない。

-ism

1   a : act : practice : process
  b : manner of action or behavior characteristic of a (specified) person or thing
  c : prejudice or discrimination on the basis of a (specified) attribute
2   a : state : condition : property
  b : abnormal state or condition resulting from excess of a (specified) thing
   or marked by resemblance to (such) a person or thing
3   a : doctrine : theory : religion
  b : adherence to a system or a class of principles
4     : characteristic or peculiar feature or trait

-ism Definition & Meaning - Merriam-Webster

とある。小分類まで加えると、8種類あるわけだ。このうち、「主義」があてはまるのは3−bだけであって、他は「主義」とやるとちょっとおかしい。たとえば1-aで例にあがっているcriticismは「批評」だし、bのanimalismは「動物愛護」、cのsexismは「性差別」だ。2-aのbarbarianismは「蛮行」だし、bのalcoholismを「飲酒主義」と訳す人はいないだろう。3-aのBhuddismは「仏教主義」ではないし、4のcolloquialismは「会話体」ぐらいになる。つまり、-ismはそのまま「主義」と訳すべきではないし、また実際に、そのように一律に訳されてきているわけでもない。

ところが、「これはどう考えても主義じゃなかろう」という-ismが「主義」で訳されていることがある。去年の後半は貧困関係の本を訳していた。そのときに、これに出くわした。racismだ。これは、上記の辞書にもはっきりと1−cの用例としてあげられている。つまり、明らかに「人種差別」の意味だ。けれど、どういうわけかこれに対しては「人種主義」という訳語が定着している。「レイシスト!」というのはしょっちゅう聞く罵り言葉なのだが、「人種主義者」という訳語が、ふつうに本を読んでいても出てくる。辞書的には誤りなのだけれど、その誤りが定着してしまっているから、もうそれで通じてしまう。これはちょっとマズいんじゃないかと思った。

もうひとつの「主義」:-cracy

実は、「主義」と訳されるのは-ismだけではない。民主主義、官僚主義などは-ismではない。それぞれdemocracy、bureaucracyとなる。辞書によれば、

-cracy
1 : form of government
2 : social or political class (as of powerful persons)
3 : theory of social organization

-cracy Definition & Meaning - Merriam-Webster

とあって、やはり3種類あるのだけれど、これは-ismほどに差がはっきりとしていない。それでも1は「国家」、2は「階級」みたいな訳語が当たることが多いようで、「主義」は3に相当する。ただ、3に関しては、たとえば例としてあがっていたtechnocracyを「テクノクラシー」とカタカナで訳出するなど、「主義」を避ける場合も多いようだ。民主主義も「デモクラシー」と書く場合も多いし、「メリトクラシー」なんて日本語がすぐに思いつかなかったりもする。

-ismと-cracyは、英語的にははっきりとちがう。確かに-ismの3-bと-cracyの3はよく似ている。ただ、-cracyの方ははっきりと社会組織に関する理論であるとしているのに対し、-ismの方はそういう縛りはなく、「原理体系に従うこと」となる。したがって、-ism系の「主義」と-cracy系の「主義」は、枠組みが異なっている。

そう思うと、たとえば私たちはうっかりと「民主主義 - 社会主義」みたいに言ってしまうのだけれど、これは-cracyと-ismの組になるので、対義語としておかしい。どちらも-ismで揃えるなら「資本主義 - 社会主義」というのが正しいし、-cracyで揃えるなら「民主主義 - 独裁制」あるいは「民主主義 - 官僚主義」ということになるだろう。「主義」という言葉に引っ張られて異質なものを対比するのは、まったく無意味というわけではないけれど、ときに本質を見失う。

重商主義重農主義

なんで近ごろこんなことを思っているのかというと、ひとつには去年の翻訳仕事で拾ったネタにふくまれていたからではあるけれど、もうひとつはすこしまえ、マイケル・サンデルの解説書を読んだことが関係している。いろいろとおもしろい内容ではあったのだけれど、やっぱり「正義」の出処がどうもいまひとつピンとこなかった。このあたりはまた詳しく書こうと思うのだけれど、やっぱりサンデルは哲学の人であって、社会学の人ではないのだな、というのが率直な感想。おそらく社会にとっては正義は存在するのだろうけれど、それをそのまま個人にあてはめてしまうわけにはいかない。そこのところの切り分けと関連づけがうまくいっていないような気がした。ともかくも、社会にとっての正義は、結局は生物としての人間集団の存在ということであって、それは生物学、それも物理学や化学にもとづいた現代の生物学に基礎を置くべきものではないのかなあと思った。そして思い出したのがフィジオクラシーだ。

フィジオクラシーphysiocracyは、通常、重農主義と訳される。これがいろいろ問題含みなのはあちこちに書いてあるから見てもらえればいいのだけれど、少なくともこの単語中には「農」の含意はない。なぜそんなことを気にするのかといえば、かつて私は日本語の文字通りの意味としての「重農」主義者たちと行動をともにしていたことがあるからだ。実のところ、あらゆる経済、というよりも人間の存在の基礎に農耕をはじめとする第一次産業があるというあまりに明らかな事実が往々にして無視されるのに憤りを感じることは、未だに変わっていない。結局のところ、人間は農業が生産する食料の総和が支える以上の数には増えられないのだし、その上に成り立つ経済は単純に食料の分配構造の問題でしかない。もちろん、こんな単純化をすればたちまち非難の嵐を呼び込むことになるわけだが、少なくとも農業の側からみれば、世の中はそのぐらいに単純だ。そこから世の中を見ていこうよというのが日本版の「重農」主義であるわけなのだけれど、実際のところ、これはケネーの唱えた「重農主義」とされるフィジオクラシーとはいささか異なる。

これは、言葉をみればよりはっきりするわけだ。なぜなら、世界史の教科書なんかでは、「重農主義」はコルベールらの「重商主義」との対比で取り上げられる。この重商主義は、英語ではmercantilismだ。つまり、本来は-cracyであるフィジオクラシーを-ismである重商主義と対になる概念であるかのように翻訳したのがおかしいわけだ。もちろん、歴史的に、ケネーらの思想を継承する人々とコルベールらの思想が対立したという事実は、あるのだろう。だが、その対立の軸上にフィジオクラシーを「重農主義」として理解することは誤りを含んでいる。だって同じ「主義」という翻訳語を使っていても、もともとの言葉がちがうのだから。

-ismは、「この原理体系に従う」という「主義主張」である。これに対して-cracyは、社会集団(伝統的には国家)が「こういう原理で成り立っている、成り立つべきだ」という「主義主張」になるだろう。そういう意味では、それぞれが主張する「正義」に関して、すこし意味合いが異なってくる。-ismのほうが曖昧な分だけ包摂する範囲が広いともいえるが、社会集団をより意識した概念が-cracyということになるだろう。

これが、社会集団と正義の関連を考えはじめたときにフィジオクラシーを思い出した理由だ。サンデルはコミュニタリアン共同体主義者)だと書いてあったが、コミュニティというのは社会集団であって、社会学の対象になる。社会学でも正義は問題になるのであって、それは昨年末に訳していた貧困に関する本でも書かれていた。たとえばロールズの引用があったりした(ちなみにその中にあったgoodは「善」のはずなのだが、監訳者の校訂で「財」に変更されていた。いや、それは複数形のときの意味だからって指摘しといたんだけどなあ)。正義はやはり、社会を考えるときに重要な概念になる。そういうことをつらつらと考えていて、自然法則と社会集団としての正義の関連に気がついた。そういうことを過去に言ってた人がいないかなあと思い巡らせて、歴史の教科書に出てくるケネーのことを思い出したという順序だ。そういや、フィジオクラシーについて、そういう説明があったよなあと。

たとえば、「事物の固有の運動として、ケネーが他の論考で挙げる例は、自然界の天体の運行、物体の衝突の法則すなわちケネーの理解した限りでの運動量保存則、七大要素が司る生物の仕組みなどがある。それらが、それぞれ自然な運動によって秩序を形成するように、行政もまた同様な自然運動に任せればよいだろう。ここでのケネーの確信を支えているのは、自然界の秩序と同じ秩序が社会にも存在するという前提である。」(解釈理論からみたケネーの政治経済思想, 1990, 森岡邦康)のような説明を読むと、フィジオクラシーの発想が、自然法則の中の社会法則という捉え方をしているのがわかる。そこを単純なアナロジーでもって説明することの危険性や誤りは古くから指摘されてきたし、また失敗の実例も多い。しかし、人間が生物であるという事実、生物の生存は物理化学的な存在に還元されるという現代科学の立場からは、少なくともその集団である人間社会のいくらかの原理は導かれ得るのではなかろうか。啓蒙思想の時代の科学の理解から現代の科学の理解は相当に変化している。その変化に立って、改めてそういうふうに考えてみたらどうなのだろうか。

 

ここから先の考察は、まだまだ材料が足りてないので、もしもちゃんと勉強できたなら、もう少し先に書くことになると思う。ただ、ひとついえることは、社会にとって仮に「正義」が存在するとしても、それは結局は個人一人ひとりの正義を束縛するものにはなり得ないということだ。個人の存在は社会を基盤としている以上、社会に束縛されるけれど、それでも個人は究極的には自由である。だから、個人の正義は、その人が自分自身で設定して構わない。人間はそのぐらいに自由である。たとえその自由がその人を孤独な場所に連れて行こうとも。

解釈すること

「一を聞いて十を知る」という言葉がある。利発さを表す言葉であり、私の兄などはよくそんなふうに褒められていた。子どもの頃のことだ。私の方はといえば「あんたは何遍言ってもわからん」と呆れられる方で、利発さとは程遠かったのだが、だが、そこは遺伝、同じような性質は備えていたように思う。

どういうことか。「一を聞いて十を知る」というのは、つまり、一の情報から正確に事象を解釈し、十に至る未知の事象を正確に予測することだ。つまり、そこにはかならず解釈がともなう。事象を解釈するというのは、つまりそこに何らかの法則性を認め、その法則性に基づいて「一」の事象が説明できることを把握することだ。法則性がわかるから、それを「二」以下の事象に当てはめることができ、そして法則の理解が正しければそれが正しい結果を示すことになる。優等生であった兄はそういう「正しい解釈」をきっちりと自分のものにしていた。一方の私は、割と短絡的に「あ、そういうことだからこうなるんだ」と表面的な関連だけを見て、理解した気になる。事象を解釈するプロセスは同じなのだけれど、そこが甘いから、誤った法則性を見つけてしまう。さらにわるいのは、そういったショートカットに自己満足してしまう。結果、「何遍言ってもわからない」と、「一を聞いて十を知る」から遠く離れた評価を受けることになってしまうわけだ。

なぜ遺伝と思うかといえば、年老いた母親を見ていて、そういう誤った解釈が頻発するのを感じているからだ。それも加齢のせいというよりは「そういえば、この人は昔っからそうだったよなあ」という思いを新たにする。振り返って、自分の中にもそういうのがあることに気がつく。ああ、親子は似るもんだなあと思う。DNAとか環境要因とかそういった科学的な話は抜きにして、「遺伝だよなあ」と思う。

具体的なエピソードでいこう。2週間ほど前、母親はメガネを失くした。昔っからモノを失くすのは得意技で、そのことはまあ、「らしい」といえばそれまでだ。どうせどこかから出てくるだろうと大きく構えていたのだが、1週間が過ぎてもどこにも見当たらない。突拍子もないところ(たとえば生ゴミの中だとか畳まれた洗濯物の間とか)から出てくるのはふつうなので、まあそういうことなんだろうと思っていたが、しかし、メガネがないのは不自由する。いや、実際のところ、そこまで読書家でもないし米寿にもなって事務仕事もないもんだから、実務的にはたいして不自由しない。ただ、認知症で忘れっぽい人がメガネを失くすとどうなるか。
「あれ? メガネしてくるの忘れた」
「メガネは失くしたやんか」
「そうやったね。さがそうか」
となって、探索が始まる。いや、同じ探索はもうここまで何十回もやっている。たまたま失くした前日には兄夫妻が来ていて記念写真を撮っているから、まずはiPhoneからその写真を探し出す。写真を撮ったことはちゃんと覚えているのだ。そして、そこでメガネをかけていることを確認して、「このあとは出かけてないから、絶対に家の中にあるはずやね」と、どこまでもまっとうな推論を働かせる。そこから家の中をさがし始めるわけだが、上述のように、この携帯の写真を確認するからのサイクル、1日に何回も繰り返しているわけだ。それをやったことを忘れているから、何度も同じことをする。これは見ていて痛々しいだけでなく、ウロウロするだけで一日が終わることになって、実害があると言ってもいいだろう。

それを防ぐためには、事態を一歩前に進めるしかない。そのために、先週、眼鏡屋に行った。「もうちょっと探せばきっと出てくるから」と、たぶんそこは正しいことを言う母親を「いや、これはマジナイの一種やで。だいたいが、探しものなんてのは諦めたときに出てくるって、歌にもあるやろ。諦めたことをはっきり宣言するために、メガネを買うんやで。たぶん、買ったとたんに出てくるから」と、わけのわからない説得をして、眼鏡屋にひっぱっていった。それでも渋る母親を、「予備やんか。いつものが出てきても、今回みたいにちょっと失くなることはこれから先もあるやろ。そのときに予備があったら便利やん」と、無茶苦茶な理屈で説得し、店員の加勢も得て、ようやくのことで1つ、老眼鏡を注文した。明日には仕上がる予定だから、明後日に取りに行くことになっている。

前置きが長くなったが、ここからが本題だ。一昨日のこと、いつものように母親を訪問すると、メガネを前に、暗い顔をしている。
「あの眼鏡屋には騙された。あんな店はあかん」
と、ぷりぷりと怒っている。わけがわからない。そこでいろいろ事情を尋ねてみると、下記のような流れだったと判明した。
「メガネがないので不自由する」
    ↓
「古い眼鏡をさがして出してくる」
    ↓
「眼鏡が合わない」
    ↓
「眼鏡屋に行ったことを思い出す」
    ↓
「この合わない眼鏡は眼鏡屋で買ったものだと誤認する」
    ↓
「あの眼鏡屋はあかん!」

つまり、すべてを忘れるのではなく、またすべてに無能なのでもない。不自由だという現状認識はできる。それに対応しようとして知恵を絞り、使っていない古い眼鏡があることを思い出すのも堅実だ。古いメガネが合わないのは、加齢によって視力が変わってるんだから、もうどうしようもない現実だ。そして、消失することが多い新たな記憶である先週の眼鏡屋訪問も、ここではしっかり覚えている。つまり、ここまでの経過におかしなことはひとつもない。高齢者にしては上出来だろう。ただ、そこで、目の前にある事実、「ここにあるメガネは度が合っていない」と「先週眼鏡屋に行った」を独自に解釈する。そして、「メガネが合わないのは、眼鏡屋の責任だ」という結論に達する。「一」の事実から、誤った結論が導かれてしまう。そして、「あの眼鏡屋はあかんからイオンの眼鏡屋に連れてってくれ」という見当はずれの要望が出てくる。いや、先週注文したメガネ、まだ工場やから。

 

限定された情報から誤った解釈をするというのは、実に母親らしい。今回は加齢によって記憶力が落ちているから、その誤った道筋がこちらから見てよくわかった。だが、思い起こしてみれば、若いころから彼女はそういうことをずっとやってきていた。そのたびに「いったいこのひとは何をやってくれるんや!」と腹を立てていたのだけれど、こうやって改めて振り返ってみると、実はそれは利発さと紙一重の、「限られた情報から世界を解釈する」というプロセスが発動していただけなのだなあということがわかる。

たとえば、母はいつも、私が絶対に着たくない服ばかり買ってくるひとだった。それは、私が着ている服を見ての行動なのだ。私は、嫌いな服から優先して着る。嫌なものはさっさと着潰してしまいたいからだ。けれど、母は、「ああ、この子はこの服ばっかり着るから好きなんやな」と解釈して、同じような服を買ってくる。勘弁してくれよと思うのだけれど、やがてそういう服ばかりになると、もうそういう系統を着るしかなくなってしまう。

ある意味、母は非常に気のつくひとであるわけなのだ。ごく些細な情報にも敏感に反応して、それを手持ちの他の情報と組み合わせる。そして解釈をし、そこに法則性を見出す。残念なのは、その法則性が往々にして誤っていることだ。誤っていても、本人の中では辻褄が合っている。辻褄が合っているから、世界に対して、自信満々でいられる。そういう自信が、幸福な人生をつくりあげてきたのだろうと思う。

 

振り返ってみると、私も中学生ぐらいの頃にはそんな自信を感じることもあった。世界のすべてが自分が学校で学んだ法則性に当てはめて理解できるような気がしていた。全能感といってもいい。やがて学ぶほどに自分が知らない世界が無限に広がっていることを知るようになり、不安がそれにとってかわった。だが、何かを勉強すると、「お、これであれも、これも、うまく説明できるじゃないか」と思ってしまうクセは、いまだに抜けない。そしてその瞬間だけは、あの中学生の頃の全能感を一瞬だけ思い出す。もちろん現実世界はそんなたやすいものではない。やっぱりそれでは説明できないこともいくらでもあって、振り出しに戻る。「世界には知らないことばっかりだなあ」と、すぐにいつもの無力感の基底状態に落ち込んでいく。それでもやっぱり、新たな情報がやってくると、それをなんとかして解釈しようとする。

もしも中学生の頃の自分にタイムマシンかなんかで出会うことができたら、「おまえはなんでもわかってると思ってるようやけど、それはたとえていえば座標上の2点を知っていてその間を直線でつないですべての値がわかると思いこんでいるようなもんなんやで。実際には2点の間はグニャグニャの曲線かもしれないし、折れ線でつながってるかもしれないし、なんならつながりが切れてるかもしれない。そういことも思わずに定規で一本の線を引いて得意になるんちゃうで」と警告するだろう。だが、まったく同じことが、おそらくいまの自分にもいえる。何かを見つけたような気になって、得意げにブログなんか書くけれど、たぶん、もっとわかっているところから見たら、ぜんぜん、ここもあそこも抜けている穴だらけのお話にちがいあるまい。

けれど、それがわかっていても、どうしようもない。もっと高いところから見たら、私なんて、無限に失くしたメガネを探し続ける存在でしかないんだろう。けれど、それが無意味だとは、少なくとも私自身のレベルからでは思えない。せんもなく同じことを繰り返すだけでも、そうやってしか進めない存在もある。ちなみにメガネは、母親の家庭菜園から見つかった。なんでピーマンの枝に引っかかっていたのか、永遠の謎だ。

息子が不登校になったときの思い出

学校は行っといたほうがいい。これはもう大前提だ。その上で、実際には学校なんてそこまでのもんでもない。だから、命がけで行くようなもんじゃない。しんどかったら行かなければいい。新学期のこの時期、こどもの自殺が有意に増える。死ぬくらいなら休めばいいし、何なら不登校になったっていい。私の息子は中1の夏休み明けに不登校になった。それでもおかげさまで二十歳になったいまも元気に生きている。

ただし、彼は絶賛無職アルバイト中で、世間的にいう安定した人生への道からは大きく外れている。たぶん、外れっぱなしのままでいくんだろう。だから、一般には学校に行っといたほうがいいのはまちがいない。命、とまでは言わなくとも、健康(心の健康も含め)に大きく被害が出ない範囲であれば、まあガマンして行っといたほうがいい。

もちろん、いったん路線を外れても復帰する道はある。実際、私がこれまで教えた生徒でも、半年不登校やってましたとか1年不登校やってましたとかいう事情で家庭教師を選んだケースはけっこうある。不登校真っ最中の生徒だっていた。ただ、彼らのほとんどは中3生で、高校受験をしっかり乗り越えて高校から普通の人生に復帰していった。そういう道筋もある。

息子の場合は、フリースクールの2年半ですっかり独自路線に突き進んでしまったから、いまさら戻ることもできず、高校もかなり特殊なところに進んでどんどんと落ちこぼれのエリートコースを歩むことになった。まあ、そこは結果論だ。それなりに楽しい人生であるようだから、そこはよしとしよう。人生、楽しいのがいちばんだという価値観だって、あってかまわない。とりあえず今日書きたいのは、息子が不登校になった顛末だ。特に書き立てるようなケースでもないから、単なる思い出話と思ってほしい。

 

中1の夏休み、息子はひたすらダラダラと過ごした。基本的に体力のないやつだし、小学校の高学年頃から朝が起きられなくなっていたから、寝ている時間が長い。まあどうやって過ごそうが本人の好きにすればいいし、中学校に入って選んだ吹奏楽部で楽しくやっていたから、その反動で疲労も溜まっていただろう。長い人生、ダラダラ過ごす夏があってもいい。というか、中1の夏休み以外のどこにそんな機会があるんだ?

ただ、夏休みの宿題だけは、もう早いうちから「やっておけよ」と口うるさく言ってきた。夏休みの宿題なんて、特に中学1年生の夏休みの宿題なんて、その後の成長に対してはほとんどどうでもいい程度の意味しかない。あんなもの、やってもやらなくても、学校の学習内容の理解にはほとんど影響しない。ただし、やらなかったら相当に面倒なトラブルになる。それは経験則的にわかっていた。だから、単純にトラブルを避けるために、夏休みの宿題はやっておかねばならない。それも、ギリギリでとりかかったら地獄を見るだけなんで、早い段階からやっておくべきだ。これはもう家庭教師という商売上、絶対に忘れてはならない基本中の基本だ。

だから、息子には「宿題やったか」を連日のように言った。ただし、そこで商売として、家庭教師として言うのとは違った難しさがある。なぜなら、私自身が小学校から高校までの12年間を通してほぼ宿題の提出がゼロだったという実績があるからだ。それは、息子もちゃんと知っている。なので、その私が単純に「宿題をやれ」というのは説得力がない。

なので、そこはていねいに歴史の流れから説明せねばならなかった。私が子どもの頃は1学級45人、1学年10クラスというようなマンモス校が普通にあって、教師の目が行き届かなかった。また、学校もそこまで教師に管理を求めていなかった。だから、夏休みの宿題をやっていかなくても、体育祭が終わる頃にはだいたいウヤムヤにできた。けれど、その後の教育に対する社会の考え方の変化やら「学力」に対する考え方の変化の中で、クラスの人数は減り、小学校では副担任制がとられるようになり、教員には生徒に対する「サポート」が求められるようになった。その「サポート」は、現実には管理主義と結びついている。だから、自分一人が他の生徒と違ったことをして通すことが難しくなっている。宿題に対する考え方も変わってきている。だいたいがいまの教員は、ほぼ全員が宿題を当たり前だと捉えるような学校を通過してきているから、そこに疑いをもつなんてことはしない。彼らにとって宿題をしないことは犯罪行為に等しく映るはずだ。そういうところで、宿題をしないというのは本当にヤバい。ヤバいことになりたくなければ、とにかく形だけで構わんから宿題をしてくれと、そういう順序で説得するしかなかった。だが、そういう論理で中学生を説得するのは無理がある。

ふつうなら、説得しなくったってやるんだろう。なんで息子にそれができないのか。理屈ではわからないが、感覚的にはものすごくわかる。私の息子なんだ。私自身、「なんでおまえは宿題をやらないんだ」と言われたら、答えられなかっただろう。けれど、できないものはできない。やろうとしても、できないものはできないのだ。自分自身の身体性として、宿題はできなかった。理屈では説明できない。だから、息子が宿題をできないのも、理屈では理解できないけれど、私にはわかってしまう。これは厄介だ。

結局のところ、夏休みが終わる日になっても、宿題はできていなかった。それでも息子は私よりは遥かに上等の人間だ。なんとか間に合わせようと最後の数日は頑張っていた。いくつかの教科は提出できる状態になっていたと思う。ただ、完璧ではなかった。完璧には程遠かった。

そして、新学期が始まった。近頃の夏休みは、短いことが多い。9月1日を待たず、8月の最終週にはもう登校ということになる。そして、そこが宿題の提出期限だ。息子は宿題を提出できなかった。そして放課後に居残りさせられ、担任に一対一で説教された(ということは、彼以外の生徒は全員宿題が提出できたのだろう。家庭教師として生徒を教えている感覚からいえば、それはいかにもありそうなことだ。いまの生徒は信じられないほど真面目に事を運ぶ)。その説教の中で、息子は担任から部活の禁止を申し渡された。宿題の耳を揃えて提出するまで、部活に行ってはならない。それが担任が彼に与えた処罰だった。

息子は激怒した(メロスではない)。帰宅して、「もう学校をやめる」と宣言した。いや、キミの言うことは筋が通らない、キミは吹奏楽の部活に行きたいんやろ、学校をやめたら部活に行かれへんようになるやんか、と、私は筋道立てて説得したのだが、「けど、どっちみち部活がでけへんのやったら同じことやん。禁止やって言われたんやから」と反論する。いや、宿題だしたら済む話やんかと思うのだけれど、それがどれほど難しいか、私はよく知っている。遅れてでも出せるぐらいなら、私だって中学時代、宿題を出していただろう。できないものはできない。ヘンな性格を遺伝させてしまったよと思うが、ここは張本人として同情するしかない。

いずれにせよ、私は仕事に出なければならない。家庭教師という仕事、生徒が在宅している時間帯が仕事時間帯だ。息子が帰宅しているということは、私の仕事時間帯だということを意味する。しかたないので、別居している妻にメッセージを送って、あとを任せた。とはいえ、どうしたらいいのか、私にもさっぱりわからない。押し付けられた彼女もかわいそうだ。

ところが、彼女は実に息子のことをよく知っていた。「あんた、それやったらフリースクールに行き。調べたあるから、いまから連絡するわ」と、早手回しに段取りをつけたのだ。なんでも、「あの中学じゃ長くはもたないと思ってた」らしい。母親の勘はおそろしい。

そして翌日、息子は学校を休み、午後から母親とフリースクールの見学に行った。そして、そこが気に入ってしまった。私としても、これ以上、学校とトラブルを続けるよりは、とりあえず緊急避難したほうがよかろうと思った。だが、緊急避難が平穏に進むだろうか。私は担任の顔を思い浮かべた。体育の教師で、熱血漢だ。これはちょっとヤバい。まあフリースクールにまで押しかけて修羅場を演じることはなかろう。だが、生憎なことにフリースクールはまだ夏休み中で、「1週間後に来てください」と言われている。その間は自宅待機だ。そこを平穏に放置してくれるだろうか。面倒が降り掛かってくるのが目に見えるようだった。

そこで私は、北海道に住む兄に電話をした。「ちょっと亡命者を預かってくれんか」。こういうときに兄弟は話が早い。二つ返事でOKがくると、私は翌朝、息子を車に乗せて敦賀港に向かった。そこからフェリーに乗せてしまえば、もう追っ手はかからない。「水を渡れば追手をまける」と、トム・ソーヤだったかどこかに書いてなかったか。

そして翌日、私は学校に電話して、担任との面談を取り付けた。穏便に事を済ますには、なによりも情報の共有だ。予想通り、担任は息子と話をするのが先だ、連れてこいという感じの対応だったが、残念ながら彼はもう亡命している。向こうもある意味プロだから、生徒に罪悪感を抱かせてコントロールする技術にはたけているだろう。そういう対応に引っかかるような息子じゃないから、それが状況を悪化させるのは目に見えている。なので、同席させずに担任と私で交渉したかった。だが担任からは、「ルールを守るのがだいじです」みたいな頭の硬い繰り言しか聞けなかったので、「こりゃだめだ」と思った。息子は単純に吹奏楽部に参加したいだけなのに、宿題を盾にとってそれを阻む。宿題提出以外の条件で部活への参加を認められないのかと思ったが、交渉の糸口はつかめない。これでは学校に戻れそうにない。北海道に亡命中に学校が考えを変えてくれればという望みは消えた。

ということで、彼は晴れて不登校生となったわけだ。単純に宿題が提出できずに部活を禁止されたというだけの事情だから、身体的な理由(主に起立性調節障害)や人間関係(主にいじめ)などによって不登校になった他のフリースクールの生徒とはちがって、皆勤賞がもらえるくらいに熱心にフリースクールに通った。いわばフリースクールの優等生になってしまったから、そこから抜けることもできず、結局は、「落ちこぼれのエリートコース」に進むことになってしまったわけだ。

 

何のオチもない思い出話だった。その後のこともいろいろあるのだけれど、とりあえずこのぐらいにしておこう。さ、仕事、仕事。

書くだけなら、犯罪の手口を書いても罪には問えない(ふつうは)

死んだ祖母が私が子どものころに「世のなかに覚えておいてわるいことは何もないよ」と言っていたのを、いまでもその口調とともに思い出す。「泥棒だけは覚えたらあかん」とも言っていたのだが、この「泥棒を覚える」は知識の類ではなく、慣用表現で「悪事を習慣化する」という意味だから、祖母の意図としては「知識に関しては制限を設けるな」ということだったのだと思う。というのも、この話をしてくれた時期、私は将来のビジョンも何もなく、ただ手当り次第に本に読みふけっていた。昭和の私小説からコンクリートの打設方法まで、古代史からソビエト製の通俗科学書まで、ノージャンルで目につくものを片っ端から読んでいた。そして不安になった。いったい自分は何をやってんだろうと思った。そういうときに、そんな私の内心の焦りを的確に見抜いて「泥棒のほかは覚えてわるいことなんて何もないよ」と言ってくれた祖母の言葉は、私の心に深く刺さった。

実際のところ、この時期の乱読が実用的に後の役に立ったことはほぼない。系統立たない知識は何の力にもならないし、だいたいがほとんどのことは忘れてしまう。それでも1冊の本からは相応のことを学べるし、学んだことは目に見えない形で自分自身をつくっていく。だから、スポーツ選手がオフシーズンに走り込みや筋トレをするような意味で、若い頃の読書は重要なのだと思う。そして、そこに制限をかけないこともまた、意味あることなのだと思う。

 

そういうことを前提にして、情報を供給する側に制限がかけられるべきであるのかどうかということが議論の対象になるだろう。結論はもう出ていて、制限は基本的には一切かけられるべきではない。それは憲法にも書き込まれた言論の自由だ。およそ、人間の思念の中で生まれた情報は、それを公表すること自体には一切制限をかけられてはならない。ただし、だからといって何を言ってもいいということにはならない。他者に損害を与える言説は、言論の自由とは別次元で処罰の対象になる。名誉毀損著作権の侵害に特に注意すべきだということは、近頃の学校の教科書にも書いてあったりする。プライバシーの権利や肖像権なんていうのにも、もちろん配慮が必要だ。性的表現を含む著作物に関しては、かつてはそれが「公序良俗」を乱すものとして言論の自由とは別な立場から制限を加えられるべきという論が強かったが、近年ではそれが他者の尊厳を侵すもの、加害性があるものという観点から制限が加えられるべきという論に変わってきているように思う。ともかくも、大前提は「言論の自由」であり、それが他の人権を侵害する際にそちら側から制限が加えられるという大枠は、現在の法体系ができてから変化していないと言っていいだろう。

なんでこんな話をするかというと、こちらの話題に関して、「それは〈書いたこと〉が処罰対象になってはいかんよな」と思ったからだ。

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恋愛感情を利用し男性から現金をだまし取る “パパ活の詐欺マニュアル”を作成・販売か 25歳女を逮捕 1万円から3万円程度で販売 | TBS NEWS DIG

いや、逮捕されたことそのものは、あり得るなと思う。今後裁判でどうなるかはわからないけれど、犯罪性はあると思う。ただ、その「マニュアル」を書いたことそのものは、公表の手段さえまちがえなければ、「言論の自由」で十分に保護されたのではないかと思うわけだ。

これに関して思い出したのは、「腹腹時計」と「完全自殺マニュアル」だ。かつて編集の端くれで飯を食っていたとはいえそれは業界のいちばん端っこの学習参考書業界だったから、実は編集者にとっては基本の基本であるこれらの書籍の経緯については私はよく知らない。ただ、「腹腹時計」に関しては、こちらを見る限り、出版そのものに関しては(それが地下出版であったこともあって)ほぼ争われず、基本的には爆破の実行犯かどうかということが争われている。むしろ、被告側が出版を「幇助」であると主張していることのほうが奇異にうつるぐらいで、「爆破物の製作が可能になる文書を作成・配布した」ことが犯罪行為かどうかが争われた様子はない。また、「完全自殺マニュアル」は「それが自殺志願者の実行を容易にする」と批判を浴びながらも、出版そのものが司法の問題になったことはない。

つまり、犯罪や自殺のような社会的に問題のある行為の具体的な実行方法を記載した文書・図画を出版することそのものには、犯罪性はないというのがどうもここまでの流れのようなのだ。そりゃそうだろう。爆薬をつくる方法は化学の教科書に書いてあるし(高校化学程度だとちょっとしんどいが、大学の教科書は容易に入手できる)、人間がどうやったら死ぬのかも医学の教科書をみれば理解できる。そしてこれらの学問にかかわる書物を禁止したり検閲したりするわけにはいかない。いや、学問は特別でしょうと線を引くことも危険だし、合理的ではない。すべての知は等しく価値があるものであって、そこに何らかの基準を設けることは人間の活動を歪めてしまう。それに、たとえばシリンダー錠の破り方を書いた本のように明らかに犯罪者に有用な情報を与えるような書物であったとしても、それは同時に防御する方にも情報を与えるのであって、広く周知するだけの意味はある。どのみち犯罪者は何らかの方法でその情報を入手しているのだ。だったら広く公知にしておくほうがいい。特に近年のインターネットを巡る犯罪に関しては、こういう考え方が納得できるのではないだろうか。

 

というふうに論を進めてくると、「パパ活で高齢男性を騙す方法」にしたところで、それを書き、公表することそのものを犯罪行為にはできないし、また、犯罪とすべきではないという考えに至る。だが、もちろん私は上述のように、今回はつかまった側がマズいことをやったなと思う。もちろん、主な容疑である詐欺に関しては、これは疑う余地もなく犯罪だ。だが、「マニュアル」を書いて公表する行為に関しても、たしかにそれが「幇助」であると言われても反論しづらいところがある。それは、情報の非対称性だ。

どういうことかというと、このケースでは、情報を1〜3万円で販売していたというところだ。販売形態がマズい。なぜかといえば、それだけの投資をして情報を買おうというのは、よっぽどの物好き以外は明らかにその投資をそこに書かれてある情報で取り返そうと考える人物であるからだ。つまり、詐欺を実行することを考えている人物だ。そういう人物に具体的な実行方法を指示する文書を渡したら、それは幇助と言われても文句はいえないだろう。

もしも、この価格がもっと安く、300円とか、せめて1000円だったらどうだろう。それは単純に興味から買う人にも手が出る価格帯であり、そうなると幇助という性格は薄れる。もしもひとこと、「これを真似してはいけませんよ」みたいなお座なりなことわり書きでも入れておいたら、それはもう、幇助での立件は不可能になるだろう。場合によっては、「こうやって詐欺の手口を広めることで被害を未然に防ぐのに貢献しています」と強弁することだってできる。クリアファイルに入れるとかじゃなく、書店に並ぶような本になっていれば、もう絶対に司法は文句はいえない。まあ、出版社が噛むとなったら、そこはちゃんと編集が手を入れて訴えられないような辻褄を合わせるだろうしね。

結局は、加害側と被害側に情報の非対称性が生じることが問題なんだと思う。その非対称性は、究極には価格設定だ。加害側は3万円を高いと思わないが、潜在的な被害の予防のために3万円を払う人はいない。結局のところ、情報は加害側だけに回る。価格設定は、販売側の意図を雄弁に物語る。そこがおそらく、裁判では争点になるのではないだろうか。

 

この件、「情報商材屋がつかまった」みたいによろこぶのは早とちりだろう。情報商材は、それ自体が詐欺だ。今回の情報は、情報そのものは正しかった。ただし、その正しい情報通りにやれば詐欺になる。それは、本来は情報を受け取って詐欺を実行した者の罪であって、情報を提供した側の罪ではない。しかし、今回は、情報の提供がその実行を促すような設定になっていた。それがマズかったのだ。変なところで欲をかいてはいけない。

テレビを見ないとどうなるか? - 特に大きな影響はないかな?

私はテレビを見ない子どもだった。私の息子もそうだ。単に特殊な事例ではあるのだけれど、2例そろってるから、報告の資格はあるのではなかろうか。テレビを見なかったからといって、それで子どもが不幸になるわけではない。逆に優秀になるわけでもない。すこし変わった人生にはなるかもしれないが、たいしたことではない。

正確にいえば、私も息子も、まったくテレビを見なかったわけではない。私は小学3年生までは、当時の標準でふつうにテレビを見ていた。当時の標準というのも定めにくいのだが、1960年代に白黒テレビの普及が一段落し、カラーテレビがぼちぼちと普及をはじめた頃だ。番組でいえば鉄腕アトムウルトラマンが終わり、ウルトラセブンが終わって、タイガーマスクの放送が始まった頃だ。私はこういった番組をそれなりにしっかり見ていた。「それなりに」というのは、現代のようにスケジュール管理がしっかりしている時代じゃないし録画機能もないから、見逃し回はけっこうあった。そういう時代ならではの再放送もけっこうあったが、同じ回を2回見ることのほうが多く、うまい具合にそれで見逃し回が埋まるようなことはあまりなかったような気がする。

子ども向け番組以外については、クレイジーキャッツゲバゲバ90分とかドリフターズの8時だよ全員集合なんかは、子ども心にはおもしろいと思ったが、親がいまいち好きではなく、野球が始まるとすぐにチャンネル変更された。たぶん上方の笑いとツボがちがいすぎたんだろう。子どもとしては野球なんか興味がないから、いくらテレビがついていてもそれを見ることはない。結局、テレビを見るのは夕方のお子様アワーの1時間ぐらいというのがふつうだったように思う。それはどこの家庭でもそんなものだったのではなかろうか。

それが急変したのは、忘れもしないタイガーマスクの放送が始まってしばらくしてのことだった。小学4年生の初夏だったと思うから、まだ放送開始からいくらもたっていないころだろう。タイガーマスクの裏番組が何だったのかもう覚えていないが、とにかく私はタイガーマスクをひどく楽しみにしていた。ところが1歳上の兄が、別の番組を見たがった。その結果、兄弟喧嘩が始まり、茶の間はプロレスリングの様相を呈した。そこで母親がブチ切れた。
「あんたら、二人とも、以後、テレビは一切禁止!」
これは絶対だった。私も兄も、これを単なる脅しだと受け取ったのだが、翌日になっても翌々日になっても禁止は解けなかった。翌週のタイガーマスクを見ることができず、さらに翌々週とテレビがつけられない日が続いて、ついに私も兄も諦めた。母は本気だ。以後、私の生活からテレビは失われた。そこから現在に至るまで、テレビを習慣的に見る生活はついに私に戻ることはなかった。

 

それでなにか不都合があったか? なかった。よく「学校でテレビの話題についていけないでしょう」と言われるのだが、これは案外とそうでもなかった。いくつか要因があるだろうが、ひとつには私の中にそれまでの蓄積があったからだ。やがてウルトラマンが帰ってきて、タロウが出てきたりしたのだが、私はそれらの新しいウルトラマンシリーズを「幼稚だ」「お子様向けだ」と批判することができた。社会派のウルトラマン、メカが超絶素晴らしいウルトラセブンを踏まえれば、その批判もあながち(当時としては)的を外したものではなかっただろう。いや、新しいウルトラマンシリーズがそういう方向に進んでいることはどうやって知ったのだと思うかもしれないが、当時の小学生向け雑誌にはそういう情報はちゃんと載っていた。情報チャネルはテレビだけではない。また、私がもともと「変わった子」で通っていて、子どもたちの大きな輪の中にはもともと入っていなかったことも影響している。そんな私にも庇護するような兄貴肌の友人やなんでも許してくれる長い付き合いの友人はいた。そういう友達は、私がテレビを見ないのを知っていたから、最新の番組がどうなっているかを事細かに説明してくれた。テレビを見ていないからこそ、テレビの話題を真剣に聞くことができたわけだ。そして、テレビを見る機会は絶無というわけでもなく、親戚の家に行ったときとか友達の家にいる間に、チラチラと見ることはできた。ただ、番組ひとつをまるまる見ることはめったになかったと思う。私は奇妙な性格で、「せっかく友達が(あるいは従兄弟が)いるのにテレビなんか見ていられない」みたいな感覚をもっていた。近くにいる他者の存在に落ち着かないところは、いかにもスペクトラムな個性だ。なので、テレビは断片から情報を吸収するものとして私の中で位置づけられることになった。おもしろいことに、だからこそ断片的な場面が印象的で、番組全体は知らないのに、その場面についてやたらと語ることができたりもした。それも、テレビの話題で困らなかったひとつの要因だろう。

 

さて、息子の方だが、彼は最初からテレビに関しては疎遠な環境に育った。私は上記のようにテレビと無縁の人生を歩んでいたし、妻も常習的にテレビを見るひとではなかったからだ。妻の場合は、テレビを見ないというよりも、「バラエティなんか見るよりは自分の好みの映画をレンタルで見たい、好きなゲームをしていたい」という選好の結果としてテレビを習慣的に見なくてもOKになったという方がいいだろう。だから、私が日常的にテレビをつけないのに対して別段、おかしいとも思わなかったようだ。結果として、新婚家庭は「テレビは特別に見たい番組があるときだけつけるもの」というスタイルになった。息子はそこに生まれたわけで、「常にテレビがついている」家庭とはスタート時点でちがっていた。

ただ、彼も小さなうちは人並みにテレビは見ていた。それは放送を見ていたのではなく、録画の再生を見ていたわけだ。親としてもべつに自分たちが見るわけでもないバラエティやドラマを子どものために見せる理由はないわけで、といっていつでも小さなお子様向けの番組をやっているわけもないから、いきおいレンタルビデオ屋でアンパンマンやらディズニーやらジブリやらを借りてきて見せることになる。テレビの放映時間に自分たちの生活リズムを合わせる必要がないので、NHKのお子様向け番組でさえ、借りてきたビデオで見せることになる。だから息子はほとんどの子ども向け番組をリアルタイムでは見ていなかった。

小学校に入ったあたりからだろうか、いくつかの番組については、リアルタイムで見るようになった。それは学校に通う生活がどこの家庭にも同じような生活パターンを強いるからかもしれない。夕方に帰宅して、友達と遊び、夕食になってホッとする時間帯に小学生向けの番組が用意されている。子どもは早い時刻に寝床に追いやられるから、それまでの自由時間にテレビ視聴というのは、多くの家庭のパターンなのだろう。いくつかのアニメやドキュメンタリー番組が1週間の繰り返しのリズムに組み込まれ、息子はごくあたりまえのテレビ環境に育つことになった。もしもちがいがあるとすれば、親が大人向けのテレビ番組を見ないので、そういうものを目にすることがなかったことぐらいだろう。だが、いずれにせよ、小学校低学年の子どもはそういうものに興味を示さない。

その彼の平穏なテレビ生活に転機が訪れたのは、奇しくもやはり小学4年生のときだ。このとき、(まだあんまりシラフで語りたくはないのだけれど)夫婦間のなんやかやがあって、妻が出ていくことになった。私は単身、息子の面倒を見ることになったわけだけれど、たいした収入があるわけでなく、ほんと、カツカツで精一杯の毎日だった。出費は1円でも抑えたい。そんなときに、テレビの受信料が払えるか、という問題が発生する。ちょっと話題が逸れるのだが、テレビの受信料は奇妙な建付けになっていて、受信料は世帯単位で発生する。私はもともと独身時代にテレビを持っていなかったから、堂々と受信料は免れてきた。一方の妻は、独身時代もテレビを持ち続けてきている。結婚後、私は妻に寄生する形でテレビの視聴の権利をもっていたことになるが、妻が出ていくと、その権利も失うことになる。新たに受信料契約をするかどうかということになるわけだ。この金のないときに?

ということで、私はテレビの視聴の権利を失った。権利がないのだからと、インターネット越しのテレビ回線の契約を解除した(この地域では、その契約がないと番組受信ができない)。以後、テレビ受像機はあるけれど、それは受信不可能の単なる大画面モニタに成り下がった。NHKが来ても、「これは受像機の設置に当たらない」ことは確認済みだ。こうして日々の生活に苦しい中での余分な出費は免れたわけだが、迷惑を被ったのは小学4年生の息子だ。それまで楽しみにしていたテレビ番組を見れなくなった。

もちろん、事前に彼とも話していた。「テレビは映らなくなるけれど、キミが望むだけのビデオを借りてやる。それでええな」と。彼はこの交換条件に納得した。リアルタイムでなくても見ることができるのは幼児期に経験済みだし、それで何の問題もないと思ったわけだろう。

実際に彼がどうこの事態を受け止めたのかは、本人でないからわからない。けれど、いまの子どもは、テレビだけが話題の中心ではない。むしろ、ゲームだ。そして、ゲームに関しては、彼はWiiの利用券を持っていた。また、途中からはマイクラ使いになった。これらには当初は制限がかかっていたが、いつの間にかそれを破ってしまっていた。PCやスマホはそれぞれ他の多くの子どもよりははやい時期から(こちらの都合で)使うようになっていたし、そういう意味では「情報が遅い」ということで他の子どもたちに取り残されることもなかったのではなかろうか。

ただ、バラエティを見ないことで、最新流行のギャグやら流行のJ−Popなんかには疎くなる。だが、これに関しては、もう小学校低学年のあいだから、彼には落語という確固とした趣味があり、ビートルズというアイドルが存在した。落語のおかげで彼は常に自分自身がクラスの「おもしろいやつ」であり、ビートルズや(小学生時代にずっと在籍した)合唱団のおかげで音楽的にも充足していた。だから、最新流行に振り回されずにそれなりのプレゼンスを保つことができたのではないかと思う。

息子のテレビなし生活は、高校生のときに寮に入ることで終わりを迎えた。寮の食堂にはテレビがあって、夜の一時、寮生たちがそこで団欒する。忙しい学校だったのでダラダラ長時間見ていた様子はないが、そこで世間に追いついたのではなかろうか。そのあたりからこっちは、もう親の知らない世界だ。

 

テレビを見ないことで、いくらかの時間が生まれる。私も息子も、その時間を読書に当てた。私の場合はその読書はその後も長く私を支えてくれてきたが、息子はどうなのだろう。近頃はほとんど読んでいない様子だ。ただ、ネットの情報に触れるときに、それを批判的に取り込んでいく姿には、やっぱり読書で培われた素養が効いているのかなという気がする。だが、そこまでテレビ断ちの影響だと言ったら言いすぎかもしれない。結論としては、テレビを見ても見なくても、子どもの成長にはたいした影響はないのだということだ。少なくとも、この2つの事例からは、そういえるような気がする。

 

思った以上にまとまらなかった。ただ、雑多な思い出として、ここに残しておこう。

己を知るということ - 自己認識と思い込みのはざまで

「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」は孫子の兵法以来、経験則としてあらゆる勝負事の基本とされてきた。敵(彼)を知ることは、困難ではあっても、一定の限界内では客観的に判断可能だ。これは通俗ビジネス書などではたとえば顧客情報や市場分析のような文脈で語られる。それらの情報は必要な程度には入手可能だし、あるいは入手できないときにはその不可能性自体が判断上の有力な情報となる。「役員構成もわからないような会社は怪しい」みたいなふうにね。その一方で、己を知ることは難しい。もちろん、表面的な情報であれば敵よりも自分のほうがよくわかる。ところが、それがどのくらいの価値があるのか、みたいなことになると、案外に頼りにならない。「このぐらいの実力はあるだろう」と踏んでいたものが、実際にはまったく役立たず、みたいなことはふつうに起こる。だから私も、家庭教師として生徒に説教するときには、「己を知る」ことの重要性をことさらに強調する。
「何がわかってて何がわかってないのかがわかったら半分勝ちや。そこをぐちゃぐちゃにしてなんぼドリルを解いたところで意味はない。まず、どこを攻めればええのかを考えることからスタートや」
みたいなことも言うし、あるいは
「集中力がないとかいうのは弱点の分析として弱い。なんで気が散るのかをもっとよく考えてみぃや。物事には原因があるんや。原因を潰さんことにはどうしようもないで」
みたいなことも言うことがある。自分自身がどこで困っているのか、自分自身の問題の根っこはどこにあるのかを、しっかり意識できている生徒は多くない。

「だから生徒に任せたらあかんのや」とか「教師がひっぱってやらないかん」みたいなふうには、しかしながら思わない。意識がそこに向いていないだけで、実際には本人でなければわからないことは多い。そういった情報を全体の中に位置づけ、正しく解釈することさえできれば、生徒本人は本人の状況に関するもっとも優れた専門家になり得る。家庭教師はそれを助けるのが仕事だ。

「ある人の状況に関するもっとも優れた専門家はその当人である」という考え方に初めて触れたのは看護学関連の本を翻訳していた15年ほど前のことだ。医療の現場をわれわれシロウトがみると看護師はまるで医師の手伝いをする存在であるかのような誤解をしてしまうのだが、実際には医学と看護学は出発点になる思想が大きくちがう。いずれも自然科学を基礎としているという点では同じなのだけれど、医学が人間の健康を客観的に捉えようとするのに対し、看護学では患者の主観もあわせて重視する。これは医療が「cure=治療」を目的とするのに対して看護は「care=ケア」を目的とするからだと説明される。たしかに患者は健康を損なっているからこそ問題を抱えているわけで、医療によって健康を回復すれば問題は解決するだろう。けれど、その問題は客観的な病変によってのみ存在するのではなく、患者の主観的な痛みであるとか違和感であるとかの不調の感覚によっても存在する。極端な場合、医師が「検査の結果は全てOKですね。あなたは健康です」と宣言しても、患者の主観では「そうはいっても現に痛いんだから」みたいなことだってあり得る。ふつうに、ある。そして、患者が不調を訴える限り、それは看護の対象になる。つまり、主観を無視して看護学は成り立たない。そして、医学的な観点からの客観情報がそれを完全に捉えられない以上、患者本人が自分自身の健康に関する「もっとも優れた専門家」になり得るわけである。

ただし、これは患者が主観で主張することをすべてそのまま受け入れろということではない。患者の主観は、患者にとっての事実であり、まずはそれが出発点になる。主観的事実を事実として受け入れるためには、いったん患者の主観を枠組みとして採用しなければならない。しかし、その枠組みのなかで看護師は患者の提示した事実に対して専門家として合理的、批判的な考察を進めなければならない。枠組みは患者の提示したものであっても、そのなかで看護師としての専門性を発揮する。このように患者だけでなく看護師が共同して問題にとりくむことで、問題の解決への道筋ができる。互いの知見を尊重するそういった作業を通じることによってはじめて患者は自らについての「専門家」になり得るわけだ。

同様の主張、「当事者こそがもっとも重要な専門家である」という考え方は、社会学の方でも重視されるようになっている。昨年、翻訳に携わった貧困に関する書籍では、貧困研究、貧困政策に当事者の「声」を反映させることの重要性が繰り返し説かれていた。これは貧困が本質的に差別問題であるとの理解に立脚している。差別問題で生じるもっとも大きな被害は当事者の痛みである。これは看護学の扱う問題が患者の苦痛であるのとある意味で共通している。だから、当事者の主観から問題の枠組みを立てなければならないという共通の発想につながる。だがここでも、当事者の主張のすべてがそのまま受け入れられるべきかといえば、それはそうではない。専門家は、別な立場からの専門家との共同作業によって、はじめてその専門性を力に変えることができる。したがって、現場で支援に当たる人々や研究者、政策立案者なども当然のように専門家として問題の解決に参加しなければならない。そんななかでなぜ当事者が「もっとも重要な専門家」として扱われねばならないかといえば、それは過去に、むしろその存在をほとんど無視されてきたからだといえるだろう。

 

とまあ、なんでこんなことを書き始めたかというと、なんのことはない、年老いた母親の愚痴を書きたいだけのことだったりする。ここしばらくこのブログで何度も書いてきているのだけれど、私の父親が死んでから、母は単身の生活を続けている。徐々に体力が落ち、短期記憶ももたなくなって、一般的な診断基準では認知症と判定されるのは確実な程度にボケてきている。まあ、年齢相応ということだろう*1。それでも、「ああ言えばこう言う」能力に関しては、さすが歴戦の大阪のオバハンだけあって、いっこうに衰えていない。かなわない。

以前にも書いたように、母はおよそ1年前に短期間の入院をした。それは床から立ち上がるのに困難をきたすほどに体力が急激に低下したからだ。あわてて医者に連れて行って、結局は投薬ミスによる高カルシウム血症であることが判明して入院となった。そういうわけなのだが、その状況の母の主観的解釈が、腹立たしいことこの上ない。退院したときからの主張は一貫していて、

  • なぜ自分が入院したのか、まったく理解できない。自分はずっと健康だった。
  • 退院後、歩行が困難でリハビリ的な運動をしなければならなかったことは事実だ。だが、その原因は入院させられてベッドの上で動けなかったことだ。

となっている。これは退院直後から、1年たったいまでも変わらない。もちろん、事実はそうではない。現に入院前、床の上で這いつくばって1時間前から立てずにいる母を発見したことも事実だし、靴下を履こうとして30分間も苦闘しているとか、椅子から立つのに手を貸してほしいと頼まれたことだとか、危なかった状況の事例には事欠かない。そういった事実を列挙して(そのたびに母は「おぼえてない」というのだけれど)、歩けなくなったのは入院したせいではなく、歩けなくなったから入院したのだということを説明する。そしてそのたびに、「へえ、そうやったん」と、一応の納得は得るのだ。

腹立たしいのはそこからだ、なにせ短期記憶がもたない。したがって、そうやって事実に納得したことをすぐに忘れる。だいたいが、1年前に入院したことも、ふだん自分から思い出すこともない。なにかの話のついでに「年とってるんやから気をつけないかんで。油断したらまた去年みたいに入院することになるで」みたいなことを言うたびに、「私、入院したっけ」から始まり、そして、「そういえばそんなこともあったね」から、上記の「自分は理由もなく入院させられて、その結果として歩けなくなった」という主張を繰り返すことになる。いや、そうじゃないんだという話をまた繰り返さねばならなくなる。

それにはもう慣れた。問題は、2週間ほど前に遡る。定例の主治医への通院で、主治医がやはり年に1回は行う血液検査の結果を見て、「どうも膵臓にトラブルがあるような気がする。CT撮りましょ」と言った。そしてスキャンの結果、「ウチのCTだとよくわからないけど、膵臓と十二指腸をつないでる主膵管が圧迫されてる可能性がある。癌かもしれない。いっぺん専門病院に行って検査してもらい」と言った。あーあ、癌かよ、と私は思った。低空飛行なりにせっかく安定してきた母の毎日が、これでダメになるかもと、がっかりした。ま、癌じゃない可能性もある。なんにせよ、検査しなきゃわからない。大病院への紹介状をもらって、2週間後に予約を入れてもらった。もしも癌だとしても年齢が年齢だけに摘出手術はなかろう。にしても、何らかの入院は避けられないかもしれない。一連の説明は母もしっかりと聞き、医師の説明もそれなりにちゃんと理解して、精密検査に向かうことも了解した。

それが数日たったときから、「なんで病院に行かないといけないのか、わからない。やめとこか」みたいなことを言うようになった。「私、どこも痛くないし、困ったことはなにもない。物忘れがひどいことぐらいやけど、その検査とちがうやろ。痛くもないのに医者に行くのはおかしい」と主張するわけだ。いや、痛くなってからでは遅い。主膵管が閉塞したら、腹痛どころでは済まなくなる。そうなる前に手を打たなければいけないのだと主張するのだが、「でも、私の体は私がいちばんよく知ってる。咳が出るから肺のことだというんならわかるけど、お腹に関しては調子ええよ」と、譲らない。いや、自覚症状が出る前、検査で怪しいとなったときに対処したほうがずっと軽くてすむんだと医学的には順当なことで説得しても、あまり納得した様子はない。納得しないまでも不承不承にそうなのか程度の反応は示してくれるのだが、やがてそれも忘れて、「病院の予約、キャンセルしょうか」と言ってくる。これには参った。

何度かそういうやり取りが繰り返され、そして、昨日、ようやくその専門病院に行った。場合によっては検査入院を申し渡されるかと思ったのだけれど、その場ですぐに造影CT検査ができることになり、あちこちと連れ回され、待たされた挙げ句に、それでもありがたいことに、即日、診断が出た。癌はない。その他、炎症などの特別な異常はない。確かに血液検査の特定の値は異常値を示しているのだけれど、その原因として憂慮すべきような大きな異常は見つからない。だから、以後もモニタを続ける程度でよかろう、とのこと。つまりは無罪放免だ。これ以上に喜ばしい結果はない、シロ。

 

息子として、結果に対しては心から嬉しい。それはまちがいない。だが、腹が立つのはそれを受けての母の反応だ。
「1日ひっぱりまわされてたいへんやったけど、これで安心できたんやから、ほんまにうれしいわ」
という私の言葉に対し、
「安心したやろね。自分の体やないからわかれへんかったやろからねえ」
と、母は私のために、喜んだのだ。いや、そうちゃうやろ!

つまり、母の感覚としては、自分の体に異常がないことは、最初からちゃんとわかっていた。なぜなら自分のことは自分がいちばんよく知っているからだ。けれど、息子が検査の数値を見て心配している。だったらがんばって検査も受けてあげましょう。その結果、自分が健康なことが証明されて、息子は安心した。息子を安心させることができて、自分は嬉しい、ということなのだ。

ええい、自分が健康だったことが嬉しくないんかい! こっちとしてはそう思う。だが、母にとってはそれはいまさら証明するまでもない自明のことであり、専門病院に来たのも息子を納得させられなかったからで、可愛い息子のわがままに付き合ってやったぐらいの感覚なのだ。なんともはや。

 

看護学にせよ、社会学にせよ、当事者の主観が重要であるという主張には、たしかに説得力がある。「自身に関するもっとも優れた専門家」というとらえ方で開けてくる地平もあるだろう。それはそれ、これはこれ。母の「自分のことは自分がいちばんよく知っている」という感覚は、客観性をまったく欠いた独善にすぎない。ただ、悔しいのは、その独善で突っ走ってきて、ここまでどうにか生き延びてこれたことだ。勝てば官軍、生き残ったものがチャンピオンだ。ああ、生存者バイアスを否定することは、論理にはできないのだなあ…

*1:ただ、「年齢相応」は、一概にはいえない。数日前に母と同じ年齢で20年前とまったく記憶力、判断力などに衰えを見せない方に再会した。嬉しい驚きだったが、そういうこともあるから、何が「年齢相応」なのかはほんとうにわからない。

無目的な行動と合目的的な行動と - まとまらない雑感

山登りらしい山登りをやめてから20年以上になる。ピッケルだとかクライミング用のロープだとか山靴だとかは、結婚したときに捨てた。命を危険にさらすことができる立場ではなくなったと覚悟を決めたからだ。ただ、実質的にはその数年前からそういった道具類を使うことは絶えてなくなっていた。時間がなかったからでもあるし、大学山岳部が衰退してそちらから合宿に参加を求められることもなくなったからでもある。ある意味、ちょうどいいときにやめていたのかもしれない。というのは、おそらく、体力的には山登りをやめる直前の30代なかばまでの頃がピークだったからだ。

実際、あの頃は、いま思えばバケモノ並みに体力があった。条件のいい残雪期とはいえ白馬岳から唐松岳鹿島槍ヶ岳を経て扇沢までの40km、高低差9千メートルぐらいはある行程を山スキーを履いて2泊3日で走破したのなんか、ちょっとアタマおかしいんちゃうかと冷静になれば思う。あるいは合宿参加のときのこと、新雪が積もるとパーティーの先頭はペースが落ちるので全力で飛ばして疲れたら交替するのを繰り返す(そうすることで後続は通常より遅いペースながら前進することができる)のだが、私が先頭になるとなぜだか後続がついてこれないという異常事態が発生したりもした。ペース狂ってリーダーは苦労しただろうな。

いまではそんなムチャはできない。興味深いのは、ムチャをやりたいとも思わなくなっていることだ。若い頃には、地図を睨んでは「この雪渓とこの雪渓をつないで滑降したらこっちに抜けられる」みたいなことを思いついたら「よし、行ってやるぞ」と気もちが盛り上がったものだ。それが、そういうことを絶えて思わなくなった。欲というものは、その人の器量に応じて発生するものらしい。欲がなければ「登れなくて残念」とも思わない。奇妙なもので、「あんなしんどい思いをして、よう山なんか登るわ」と、他人事のように思うようになる。「危険やからやめとけ」と、昔の自分が聞いたらとげんなりしてしまうような言葉を口にしそうにもなる。人間とはかくも勝手なもの。

総合的な体力は、おそらく多くの人が30代半ばまでにピークを迎えるのだろう。野球選手なんかを見ていても、どうもそんな感じがする。もちろん、筋力であるとか、個別の能力はそれからでも鍛えることはできる。私だって、たぶん、腕の筋肉だけなら、毎年、ストーブ用の薪を切ったり割ったりしているいまのほうが若い頃よりも上だろう。だが、たとえば同じだけ筋力を使ったとして、その後の回復の度合いがまったくちがう。若い頃なら「あー、疲れた」とそのまま眠って翌朝にはすっかり元気になっていたものが、いまでは筋肉をほぐして十分なケアをしても、回復に数日かかったりする。人間も生物である以上、身体的な能力に加齢による衰えが生じるのは、避けがたい。

頭脳も身体の一部分である以上、やはり年齢とともに衰える。高齢の母親を見ていると、やっぱり新しいことを覚える能力はずいぶんと衰えるものだなと思う。その一方で、瞬発力というか、「ああ言えばこう言う」能力はいっこう衰えてくれず、憎たらしいことこの上ない。過去の記憶が薄れることもないし、なんならそれを自分に都合のいいように改変する創造的な能力も相変わらず衰えていない。むしろ磨きがかかってるんじゃないかと思うぐらいだ。筋力と同じで、総合的にみれば若い頃ほどの能力はないのかもしれないが、個別には年老いても伸ばせる部分もあるのかもしれない。

そもそも、頭脳の「能力」とはどういうものだろうかということでもある。頭脳をコンピュータにたとえるとすれば、(インターフェイスの部分はおそらくまた別の能力ということになると思うので)、主に情報処理と情報の貯蔵が脳の能力を表すことになるのだろう。処理速度そのものは、まちがいなく若い頃のほうが速い。暗算のスピードでは、いまの私は中学生にだって負ける。ただ、情報処理というのは、既存の情報を参照し、照合し、判断していく過程でもある。つまり、そういった処理の道筋が必要になる。それを既にプログラムとして所有しているかどうかが、けっこう情報処理の過程では重要だ。「コンピュータ、ソフトなければただの箱」というわけだ。いくらCPUが高速だろうがGPUが利用できるようになっていようが、足し算だけなら電卓と変わらない。そしてプログラムは、いったん形成されれば記憶領域にインストールされる。つまり、情報の貯蔵を司る記憶のほうが重要になってくる。

記憶領域の処理能力は、記憶可能な情報量のほか、読み込みや書き込みの能力、情報のエラー訂正の能力などに依存するだろう。このうち、書き込みの能力は、やはり明らかに若いほうが優秀だ。携帯電話の普及前、私は主な連絡先の電話番号はだいたい暗記していた。語呂合わせで覚えるのが得意だったし、なんなら数回かければ指先がダイヤルの感覚を覚えているような気さえした。100件ぐらいは暗記していたのだが、そんな力は、いまはない。その一方で情報を記憶領域から読み込む能力はそれほど変わっていない気がする。いまだに何十年も前のことを思い出せるのは私の特技だ。また、記憶可能な情報量の総量はそれほど変わらなくても、圧縮するプログラムを備えるようになるので、全体としては情報量の蓄積は大きくなるような気がしている。情報量が多いとエラー訂正の精度も高まるだろう。ということで、記憶領域に関しては、どうも年齢とともに低下する能力よりも、上昇する能力のほうが大きいような気がしている。

実際、家庭教師として生徒に教えていると、「若い頃はアホやったなあ」と痛感することが多い。「こっちのことも知ってたし、あっちも知ってたのに、その関連になんで気づかんかったんやろ」と呆れることもけっこうある。たとえば、昨夜も生徒に頼まれて世界史の講義をしたのだけれど、アッカド人がセム語族であったとかいう部分で「そういや、高校生の頃に、『なんでそんなことがわかんねん』と思ったことがあったなあ」と思い出したりもした。なんのことはない、それは粘土板に残された楔形文字が解読されているからわかっているので不思議でもなんでもない(教科書を読めばその程度のことは類推できるようになっている)。けれど、高校生の私にはそれが思いつかず、「学者が適当にええかげんなことを言うとるんやろ」ぐらいに思っていた。2つの情報を結びつけて類推するプロセスは、そういう思考過程を何度も重ねることでやがて頭の中のプログラムとして機能するようになる。人生を重ねるなかでそういったプログラムを大量にインストールしていくので、大人はやっぱりそれなりに知恵が回るようになっているわけだ。

だから、昔の自分のことを思い出すと「アホやったなあ」と思う。これは知識のことばかりではない。若い頃、他の人に対してどれほど想像力のない応対をしたかとか、赤面するしかない。「あんなアホなことをせんかったらよかったのに」と思うことは十や二十ではきかない。歌の文句ではないが、後悔ばかりの人生だ。差別的な言動も数しれない。そう思えば、いまの若い人たちは価値観がアップデートされていて、尊敬する。その分だけ生きにくさもあるとは思うが、老後になってからの後悔の記憶は少ないほうがいい。それだけ人生が豊かになるだろう。

 

ただ、だからといって、いまの私が、将来さらに、自分自身をアップデートすることを望んでいるのかといえば、特別にそういう欲求は感じない。これもまた、おもしろいことだなあと思う。たしかに、過去の自分よりは現在の自分のほうがいい。少なくとも、体力とかお肌のハリだとか、そういった純粋に身体的なものを除外すれば、自分自身は年齢とともにアップデートだけでなくアップグレードもされていると感じる。いまさらWindows XPを使いたい人なんかいないように、愚かな若い頃に戻りたいとは思わない。もちろん、若さには能力以外の魅力がある。それは可能性というやつで、だからこそ企業に雇ってもらえたり、あるいはパートナーが見つかったりもするわけだ。年齢を重ねると未来の可能性は限定されるので、そういったアドバンテージはなくなる。だから、そういう部分では若さを羨ましく思うことはある。けれど、こと自分自身の能力というところだけなら、いまのほうがずっといい。ではあるのに、「じゃあ、将来はもっとよくなる可能性があるんだから、それに向けて努力しよう」とは思わない。未来の自分のためになにか勉強しようとか、そういうことはほぼ思わない。

「自分を成長させるために頑張ろう」みたいな感覚は、私にはない。過去にもなかったし、いまもない。これはもう、そういう個性なのだというしかないのだろうけれど、どうやら私は時間軸に沿った努力というものができない。もちろん、頭ではわかる。わかるからこそ、生徒にも「目標」や「マイルストーン」を意識させ、それに向かった計画の重要性を説く。なんならそういう計画を自分でも立てて、それに沿って指導を進めたりもする。それは、将棋の駒を進めるのと同じだ。ゲームの感覚といってもいい。けれど、人生はゲームではない。いくら「I want you!」と歌おうが、人生はゲーム感覚では進められない。私にとってはそうなのだ。私にとって人生(life)とは日々の食事であったりそのための買い物であったりそれを支える仕事であったり睡眠であったり、つまりは生活(life)であり日常(life)である。そこには目標もなければ戦略もない。

若い頃はそうでもなかったかもしれない。少なくとも、中学生、高校生の頃には人生になにか目標があるべきではないかと考えていたフシがある。目標という言葉ではなく、「人生の意味」みたいな言葉で考えていたような気もする。「人はなんで生きるのか」みたいなことを、飽きもせず考えていた。何年も考えてようやくたどり着いた結論は、「生きてみなければわからないよな」だった。そこで自動的にそこから先を生きることが決まった。もしもあの頃に「人が生きるのにはこういう意味があるのだ」みたいな結論が出ていたら、もうそれで満足して、生きるのをやめていたかもしれないとも思う。どうだろう。まあ、よくわからない。ともかく「やってみたらわかるかもしれない」程度の「体験人生」ぐらいのつもりで生きているうちに、いつの間にか「人生の意味」みたいなものはどうでもよくなった。そんなものは後付けでいくらでも考えられる。とりあえずは目の前の生活をまわすことのほうがたいせつに思えてきた。とくに40代に入ったばかりで息子が生まれて、それどころではなくなった。とりあえず預かったこの赤ん坊がひとり立ちするまで、自分の毎日の最優先事項はその成長を見守ることだろうと思ったからだ。そして、ひょっとしたら自分の親もそういうつもりで自分を育ててくれたのかもしれないと思い至った。もしもそうやって、次の世代を育てることがもっとも重要なことであるのなら、「人生の意味」なんて、個人のレベルのものではないということになる。「種の保存」みたいなね。それはかなり気色悪いので、やっぱりそこに何らかの意味付けをすることそのものが間違っているのではないかという気がだんだんにしてきた。そして、そのうちにもう本当にどうでもよくなった。しんどいこともあれば楽しいこともある。泣いて笑って、それで毎日が過ぎていけばいいではないかと、吉本新喜劇のような世界が目の前に開けていった。

 

そんな生活の中でも、もちろん、欲はある。たとえば、「ギターがうまくなりたいなあ」というのは、中学生で初めてギターを手にしたとき以来の長く抱いてきた欲だ。仕事が忙しくてギターどころではない数年を過ごしたこともあれば、生活に追われて「いつの間に錆びついた糸」にさえ気づけない時期もあった。けれど、そのたびに、6本の弦に戻ってきた。おもしろいのは、そうやってブランクがあって、久しぶりに弾いてみたときには指がぜんぜん動かなくて「だめだこりゃ」と思うのに、十日も弾いていると「あれ? 前よりうまくなってないか?」と感じることだ。うまくなっているかどうかはともかく、以前とは別の展開が弾けるようになっている。以前には思いつかなかったフレーズが出てくる。そうやって以前にぶつかっていた壁を乗り越える。

たしかに、若い頃のように器用に指は動かない。けれど、確実に「自分が納得できる音」は出せるようになってきている。長いこと続けていればこそだろう。続けるために欲は必要だったけれど、それは目標とかゴールとかに落とし込めるようなものではない。もちろんそういう欲を「プロ」とか「メジャーデビュー」みたいな目標に落とし込む人もいる。実際、若い頃にはそういう人たちとセッションすることもあった。けれど、私は「プロになりたいか」と言われても「そりゃ、お金もらえるなら嬉しいけど、でも、今の自分の腕じゃお金もらえるだけの演奏はできないよねえ」みたいに思うばかりだった。「じゃ、練習してうまくなったら」みたいに目標設定してやればよかったのかもしれないが、そんなことしなくても毎日時間の許す限りはギター弾いてるんだし、それでこの程度の腕前なんだからなあ、みたいな感覚が抜けなかった。だから、プロ志向の連中よりは、「とりあえず演奏がキマったら楽しいよね、いい音源ができたら嬉しいよね」みたいな感じのバンドでやっていた。レコード出せれば凄いかもしれないけど、そんな遠いことは実際には意識できなかった。

目標があった人々は、その後どうなったのだろう。目標が達成できないとわかったとき、どうしただろうか。あるいは目標が達成できたらどうなっただろうか。多くの人が音楽をやめてしまったのではないだろうか。目標とかゴールとか、あるいはそれに向けての努力とか積み上げとか、そういうのは人間を前に進ませてくれるし、効率的に歩ませてくれる。けれど、それはまた、人生の有限性にもつながってしまう。限界を見せてくれる。戦術的に考えたら1日が24時間では足らなくなるかもしれない。けれど、地球の自転速度は変えられない。目標達成のためのマイルストーンは、達成できなければ目標の変更か作戦の見直し、ときには撤退を要求する。それはシビアに現実を突きつける。合理的な行動を要求する。

合理主義は、効率的、能率的に物事を進める上ではこの上なく役に立つ。その一方で、日々の暮らし、「なんとなく」とか「いつものことだから」とか「楽しいから」「義理人情で」みたいな日常は、合理主義と相性がわるい。忙しさに紛れて長く手も触れなかった楽器に手を伸ばすのは、合理的な行動ではない。そんなふうに何度も中断し、何度も再開するようなプレイでは、何かの目標を達成することは決してできない。けれどまた、そういった非合理的な行動は、人を思いもかけないところに連れていく。「え? こんな音が出るの?」みたいな驚きが自分の指先から生まれたりもする。そういった予想のできない展開は、人生を豊かにしてくれる。

 

老子の「無用の用」ではないが、どうも世の中には「無目的の合目的性」みたいなものがあるような気がする。生物の生存戦略と形質を学ぶと、その合目的的な身体構造に驚かされる。しかし、進化論の教えるところでは、その合目的的な形質は、決して目的を定めた合理的手法によって達成されたものではない。あるいは、ブルデューの著作で再発見される芸術についての言及があったと記憶しているが、およそ本人の自己満足以外の何の目的もなしに創作された作品群が、ある文脈に置かれたときにまるである種の芸術的な主張の先駆作品であるかのように位置づけられることがある。こういうのも、無目的の合目的性であるだろう。

人生を振り返ったときに、「すべてのことは定められていた」とか、「真っ直ぐに一本の道を歩いてきた」「何一つムダなことはなかった」と感じられることがあるだろう。たとえば有名なスティーブ・ジョブズスタンフォード大学卒業式スピーチでは、ジョブスが大学からのドロップアウトを決めたあとカリグラフィーの授業を受けたことが後にMacのフォント表現に役立ったことが述べられている。まるで運命が導いたような出来事だ。ただ、大学で鬱屈していたジョブスが将来の夢のためにカリグラフィーを学んだとはとうてい考えられない。実際、スピーチでジョブスは単にそれが「魅惑的だった」からで「自分の人生になにか実用的な役に立つわけはない」と思っていたことを述べている。そういった無目的の行動が、結果として合理的で最適化されたステップでは達成できない製品を生み出した。まさに、無目的の合目的性だろう。

 

目標のない人生、行きあたりばったりの人生では、人はたいしたことを達成できない。けれど同時に、目標や作戦に縛られた人生は、その合理性が連れて行ってくれる場所にしか人を運ばない。おそらく望ましい人生は、合理性と非合理性のバランスをとること、感覚で選択をしながらも、いったん選択した行動の先に目標を見つけ、そこに向けて合理的な行動積み上げていくことによって成立するのだろう。私のようにふらふらと、非合理的なことばっかりに手を出す人生は、どうせたいしたことにはならない。生徒に指導するときには、私はいつもそんなことを念頭に置いている。

ただ、自分のことになると、なかなかそうはいかない。行きあたりばったりの人生、わかちゃいても、やめられない。合理的に考えたらどう転んでもありえない選択ばかりする。だって、その先にどんな風景が開けているのか、おもうだけでわくわくするからだ。もちろん、何ごとかが起こる前に野垂れ死にする可能性だってある。というか、そっちのほうがありそうなことだ。けれど、それもまた人生。