「正しい勉強の仕方」なんてない - 幻は追いかけないこと

「勉強のやり方を教えてほしい」という需要が多いことに、家庭教師をやっていると気がつく。そこに至る状況はだいたい想像できる。

「なんで勉強しないの」
「やろうと思ってるんだけど」
「じゃあ、やりなさい」
「何からやったらいいのかわからない」
「まず宿題からやりなさい」
「それはやってる」
「ほかにやることあるでしょう」
「学校で言われたことはちゃんとやってる」
「それでこの成績なの? あなた、ほんとうに勉強のやり方がわかってないのね」

みたいな会話が親子であるんじゃなかろうか。「勉強のやり方を教えてほしい」は、生徒自身の口から語られることもあるし、家庭からの要望として聞くこともある。その真意は、「これだけ一生懸命勉強してるのに成績が上がらない。それはやり方がわるいからにちがいない」という感覚だろう。もちろんそればかりではない。子どもに向かって「勉強しろ」といっても「この子は何から手を付けていいかわからないんですよ」みたいな状況説明を受けることもある。そういう判断を下支えしているのは、「勉強には正しい手順があり、それが理解できていれば勉強はスムーズに進むはずだ」という信念だ。

わるいことに、この「勉強の仕方」は、営業の売り込み文句にもなってしまっている。そりゃそうだ。家庭の側にそういった需要があるときに、「それを解決します」と押し込めば、契約がとれる。だから、「ウチの先生はわからないところを教えてくれるだけじゃなくて、勉強の仕方から教えてくれます」みたいに宣伝する。このトークは「あなたのお子さんの成績が伸びないのは、頭が悪いからじゃなくて単純にやり方を知らないだけなんですよ」と、先方の自尊心をくすぐる効果もある。だから、ときには「勉強のやり方を教えてほしい」という要望は、本来それがあったというよりは、むしろそういうところからインプットされたものであったりもするだろう。子どもの側の感覚からは信じられないことかもしれないが、実際には親のすべてが子どもに勉強を強制したいと思っているわけではない。「勉強はそこそこにして、もっとのびのび育ってほしい」と思っている親だって、案外にすくなくはない。ただ、彼らも「でも最低限、成績は普通じゃないと」と思っている。ところが現実はそうではない。だから「勉強の仕方」で成績が伸びるのなら、そんなすばらしいことはない、と思うわけだ。

ストレートにこういう要望を受けると、実のところ、こちらとしては困ってしまう。こういう流れのなかで「勉強のやり方」という言葉でイメージされるようになったものが、あまりにも現実離れしてしまっているからだ。おまけに、そのイメージが実に多様で捕まえどころがない。小学生なんかはこの言葉で算数の解法パターンみたいなものをイメージしている場合もある。そうかと思えば、スケジュール管理のイメージでいる親もいる。中学生あたりだと、そもそも「勉強のやり方」が何を意味するのかのイメージすらない。そういう人々にとっては、「勉強のやり方」は、あらゆるマイナスを一気にプラスに変える魔法のようなものでしかない。そして、そんなものはこの世に存在しない。

もちろん、「誤った勉強方法」はあり得るし、それに対置される「正しい勉強方法」は想定できる。ただ、それはごく常識的なものにすぎない。なぜなら、もしもそういった方法があったとしたら、それが既にスタンダードになっているはずだからだ。学校の教師の仕事が仮に「勉強を教えること」であるとして*1、既知の「よりよい勉強の仕方」が存在するのであれば、何はさておいてそれを教えるはずだ。実際、学校の教師はノートのとり方であるとか定期テストの準備の仕方であるとか、割とていねいに教えている。なぜそれを知っているかといえば、「勉強のやり方がわからない」と言っている当の生徒に聞いたら詳しく教えてくれるからだ。つまり、既知の方法論はたいていの生徒は既に知っている。それでも「わからない」と言うのであれば、それは実際には魔法のような「勉強の仕方」が存在しないからであるにちがいない。

だから、私は「勉強のやり方を教えてほしい」というストレートな要望に対しては、なんとかそれを別の方向にそらせるように工夫する。「やり方以前の問題かもしれませんよ」とか「案外とやり方はわかっていてほかのところで躓いているのかもしれませんよ」とか、逃げを打つ。「実際に指導してみて様子を見ないとわかりませんねえ」と、これはあながち嘘でもないことを言ったりもする。基本的に親は成績しか見ないから*2、成績が上がれば文句が出ることもない。勝手に「ああ、勉強の仕方を教えてくれたんだなあ」と解釈してくれる。もちろん、私だって知らないそんな手法を教えたわけはない。そんなものがあったら、こっちが知りたいわ。

 

会社の名誉のために言っておくと、他の講師はもうちょっと真面目に対応している。「勉強のやり方を教えてほしい」という要望に対して、進捗管理の方法だとか付箋の付け方、アンダーラインの引き方、ノートのまとめ方、単語帳の作り方、推薦する参考書、問題集の使い方なんかをていねいに説明して対応する。いや、私だってそういうことをまったくしないわけではない。ただ、おそらくは、要望されている「勉強のやり方」と、そういった実務的なアドバイスは、たぶん大きくちがっている。だって、たしかにそういう実務的な方法論は多少の役に立つかもしれないが、それでもって成績が大きく伸びるようなことは、どう考えたってあり得ないからだ。たまに、「そういうコツを教えたら成績が上がってご家庭にも喜んでもらえました」みたいに報告する講師もいるが、さすがに成績評価をそこまで単純に捉えてるわけじゃなかろうと思う。どう考えても針小棒大だ。まあ、どこかで誇張を入れなければ話なんて成り立たない。それはこんなブログを書いていてさえ思うのだから。

ともかくも、「勉強のやり方を教えてほしい」と要望する生徒は、基本的には成績が伸びないか、下がっている生徒だ。順調に成績が上がり続けている生徒からは、そういう要望は出ない*3。成績が上がらない原因はさまざまだけれど、根本的には、そもそも「成績」という考え方が存在するからだといえなくはない。つまり、相対評価だろうが絶対評価だろうが、成績は数字として算出される。テストの点数なんてのは、端的に数字が出る。数字が出れば、比較が行われる。比較をすれば順位が出る。順位は相対的なものだ。だから、誰かの成績が上がれば誰かの成績が下がる。言いようによっては、世の中の半分の生徒は成績が下がっていると言っていいのだし、「今回、数学は上がったんですけど国語が悲惨で」みたいな話がしょっちゅうあることを思えば、ほとんどの生徒が何らかの「苦手教科」で成績を下げている。つまり、「成績」というシステムがあれば、必ず「成績が下がって」とか「伸び悩んで」という問題が発生するわけだ。そこに受験産業がつけこむ余地がある。そうやって私のような家庭教師が生活の糧を得るわけだから、世の中は無常。おっと話が逸れた。

極論はさておき、多くの生徒が問題を抱えているのは現実として間違いがない。そして多くの場合、「努力の方向がおかしいよ」というのは、見ていてもわかる。たとえば、これは真面目な生徒によくあるのだけれど、自分の得意分野の問題を大量に解いて時間を奪われている場合がある。方程式が得意な生徒が方程式の問題ばっかり解いて勉強した気分になっているとかね。いや、それ時間のムダでしょ、とこっちは思う。だって、もう既に全問正解することがわかりきってるのに、それをその上に練習してどうすんの。けれど、やってる側の心理としては、そういう問題をやってる限りは、答え合わせで大きな満足感が得られる。なにせ、全部マルがつく。疑問も出ないから作業としてはどんどん進む。こんなにたくさんの問題をやって全部正解し、自分はエラい!って自尊心、自己効力感が高まっていく。けど、点取りゲームの定石からいえばアホとしか言いようがない。3問続けて正解が出るようになったら、そのタイプの問題は当分は手を付けなくていい。正解がなかなか出ないタイプの問題を崩していけば自ずとテストの点数は上がる。そういった「間違った努力」をしている生徒は、確かにいる。けれど、それは「勉強のやり方がわからない」とは、ちょっとちがうだろう。指摘してやると、気まずい笑顔を浮かべて「ですよねえ」と返してくる。自分でもわかっているのだ。ただ、実行できないだけだ。あるいは、「勉強しなきゃ」と机の前に座るんだけれど、固まったようにそこから何もできないままに時間が過ぎてしまう生徒もいる。なんのことはない、私だってそうだったからわかる。「やり方がわからない」のではなく、単純に「できない」んだ。「やらなきゃいけない」とわかっても体が拒否するものを、どうしようもないだろう。こういうものを「やる気」だとか「やり方」だとか言ってたんでは、絶対に解決しない。「いや、じゃあ、それやらなくていいから」というところからスタートするしかない。そして、体が拒否しない別の学び方を探すことになるだろう。

そういった「うまくいかないポイント」をきちんと意識させ、ひとつひとつ解きほぐしていくのは家庭教師の仕事だ。だが、それはどう考えても「勉強のやり方」ではない。そういう概念でまとめてしまうにはあまりにも多様であり、あまりにも個別で、あまりにも細かい。「こうやってみたら」という提案と「やっぱりうまくいきません」みたいな反応、「だったらこうしてみるか」みたいな再提案が連続する試行錯誤のプロセスであって、方法論に落とし込めるものではない。

もちろん、一般論として、学習に対するアドバイスをすることはある。たとえばつい先日も、中学校に進学したばかりの生徒に、「学校の授業がいちばんたいせつなんで、どうやって居眠りせずに注意を持続するか」とか「提出物をテスト直前まで溜めてしまわないためにはどういう工夫をすればいいか」とか「教師は基本的に教えたがりなので、どうやってそれを利用するか」とか、そんなアドバイスをした。けれど、こんな通り一遍のアドバイスがそれなりに意味をもつのも、この生徒に対して2年間、それを受け入れる下地をつくってこれたからなのだ。そうでなければ同じ言葉は単にお説教になって、なんの効果ももたらさないだろう。だいたいが、この程度のことは学校の教師自身が最初に説明している。特別なことでもなんでもない。だから、ほとんどの生徒は知っている。わからないと信じている「勉強のやり方」とはまったく別次元のことだ。

だから、現実には「正しい勉強の仕方」なんて、この世には存在しないのだと考えたほうが、よっぽどスッキリする。そういうものがあると思うから、子どもたちは迷うのだ。自分自身がやっていることが間違っているからダメなのだと思い込む。あるいは、他の生徒はそれを知っているからうまくいくのだと思い込む。そんな思い込みが人生になにかプラスをもたらすだろうか。疎外感と自信の喪失につながるだけではないのだろうか。「やり方さえわかれば自分はトップにだってなれる」というのは、思春期にありがちな劣等感の裏返しとしての自己万能感でしかない。それは人をどこにも連れて行かない。

 

では、「勉強のやり方がわからない」と悩む生徒に、対応する方法はないのだろうか。ないと投げ出してしまったのでは、プロじゃない。対応の方法は状況によってさまざまでひと括りにはできないのだけれど、それはそれなりに対処する。そして、細かなことを抜きにすれば、ひとつのよくある対応策にまとめることだってできるだろう。それは、状況を客観的にみるよう、生徒に促すことだ。容易なことではないが、それができれば多くの生徒は「勉強のやり方」で悩まなくなる。

生徒の人生は生徒自身が主体なのだから、そこに客観性を持ち込むことは本来不可能である。しかし、主体でありながら、ときどき外側に視点を移してみることは不可能ではない。その方法として割と有効なのは、「遠くを見る」ことだ。物理的に遠くを見ることは姿勢を正し、目の緊張を和らげ、健康にさまざまな効果をもたらすのだそうだが、心理的にも「遠くを見る」ことはプラスの影響をもたらす。たとえば、1年後、5年後、10年後の自分を想像する。そういった遠くを見ることで、風景が俯瞰的に捉えられる。その風景のなかに自分を置けば、自ずと何が重要で何が取るに足らないことかが見えてくる。そうすれば、「いまなにをすべきか」がはっきりと見えてきて、迷いがなくなる。眼の前のことに一喜一憂する必要がないのだということがわかれば、長期的な取り組みが可能になる。そうすると、短期的なイベントに対応することも楽にできるようになる。

しかしまた、客観性だけでは人間は動けない。あまりにも客観的に過ぎると、極端な話、生きる意味さえ見えなくなる。人間は無数にいるのであって、そのなかで自分が自分である必要などないことに気づく。いわゆる人間疎外というやつだ。そこに落ち込まないためには、やはり人生を生きる主体としての主観が重要になる。主観とはつまり、動物的な感覚だ。欲望であったり喜びであったりする。そういった感情をたいせつにすることで、方向性が見えてくる。生きることに意味が生まれる。

だから私は、できる限り、生徒には「やりたいことをやりなさい」とアドバイスするようにしている。やりたいことを中心に大きな絵を描けば、そのなかでつじつまを合わせていくために「ここはこのぐらい、こんなことをやっといたほうがいいな」というのが見えてくる。そして、それは実行可能な計画に落とし込み、そして実行することもできる。

「いや、やりたいことをやれって言ったらゲームしかしないでしょ、こいつら」という意見だって、あると思う。そしてそれはたしかにそのとおりなのだ。けれど、思い返してみよう。「ほっといたらテレビばっかり見る」と言われた昭和の時代、「そんなふうに放任したら古典なんて誰も読まなくなる」と言われた時代を通じて、実際に読書量は減っただろうか。「ゲームボーイばっかりする」とか「Wiiかプレステしかやらん」と言われながらも、実際には若い人々の教養は全体としては上がってきたのではないだろうか。かつての劣等生だった私からみれば、現代の若い人たちは実際のところよく勉強しているし、いろんなことを知っている。好きなことばかりやっているようで、実はそれが教養を受け入れるベースをしっかりつくりあげているのではないかという気がしてならない。

 

結局のところ、「勉強のやり方」という括りの「勉強」が問題なのだろう。これは語源的に、「がんばる」「嫌なことを無理矢理にでもやる」という意味で使われてきたものが、明治期に「英語に勉強する」(英語学習をがんばる)、「漢学に勉強した」(古典を無理矢理にでも覚えた)みたいな用法を重ねるなかで「学習」の意味に転用されるようになったものだ。だが、そこには、やはり「やりたくもないことだけどしかたないからやるんだ」みたいな含意が、意識されなくとも残っている。そうではなく、人間はもともと、好奇心のカタマリだ。好奇心を満足させるためなら、多少の犠牲も厭わない。そうやって「学ぶ」ことは人間の本性をつくりあげ、なんならそれが基本的人権のひとつとして認められるようにさえなった。そういう経緯を思うなら、学習に方法論があるとしても、それは自分自身の欲求を満足させるためのものであって、自分自身で試行錯誤をし、あるいは自分から調べたり、具体的なアドバイスを求めたりして見出していくものにちがいない。だから私だって、漠然とした「勉強のやり方を教えてください」みたいな質問からは逃げるしかないけれど、もっと具体的な質問にはいろいろと具体的に提案することができる。そのときに、「じゃ、結局何が獲得目標なの」みたいなことは必ず確認するわけだし、そのためには最終的に「何がやりたいの」みたいなことを話すことになる。遠回りでも、そこから攻めなければ、前に進めないと思う。人間は、しょせん、欲にかられて動くもんだと、マズローもいってなかったか。やれやれ、煩悩から解脱なんて…

*1:これに関しては言葉尻の問題でもなく異議はあるのだけれど、一般の通念ではそうだろう

*2:親によっては、成績以前に「子どもの勉強する姿」を気にする場合もけっこうあるのだが、これは生徒に「なるべく親のいるところで宿題するようにしてください」と言うことでだいたいは解決する

*3:のではないかと想像する。というのは、そういう生徒が家庭教師を必要とすることは基本的にないので、実例に乏しいから

外国大学への進学を勧める理由とその対応 - 主に英語に関しての話

私立高校なんかでよくプログラムに組み込まれてる短期留学などの語学留学を除けば私の生徒で外国の学校へ進んだ人はいまのところいないのだけれど、遠からず出てきても不思議はないと思っている。先日も、体験授業だけ受けて結局契約には至らなかった医学部受験生がいたのだけれど、外国の医学部の選択肢を示したら飛びついてきた。そのぐらいに、外国の大学で学ぶことは特別なことでなくなってきている。ウチの息子も、コロナがなければバークレー音楽院ぐらい、行ってたかもしれない。息子といえば、彼の保育園時代の同級生がこないだ遊びに来て、フランスに料理人の修行に行くのだという。世界は狭くなった。家庭教師をやっていても進路のひとつとして外国の大学をあげる生徒も現れるようになったし、そうなる以前から私の方から外国の大学を考えてはどうかと提案することもあった。

なぜ国外に進学先を求めてはどうかと提案するのかといえば、ひとつには、日本の大学入学選別システムを回避するためだ。このブログで何度も書いてきているが、伝統的な学力テストによる大学入試の方法に対して私は否定的な見方をしている。繰り返しになるので詳細を省いてまとめると、それは「学力があればこの程度の問題は解けるはず」という設定に対して「問題が解ければ学力があると評価されるんですね」と解釈して「対策」をとることから発生する歪みだ。「AならばB」として設定されたものを「BならばA」と受け止めて対応することは正しいのだろうか。私はそれはちがうと思う。そういった「対策」を全員がとることで本質を離れた競争が発生し、それが本来は豊かであるべき高校生の生活に過剰な負担をかける。それは正しいことではない。だから、回避できるなら回避すべきだと思う。

実際、回避する方法は増えてきている。伝統的な受験勉強をしなくても大学に入る方法は整備されてきている。たとえば今年度は大学受験生の当たり年で3人の高校3年生が進学準備をしているのだけれど、そのうちの1名は早い段階から志望校を決めてそこの「総合型選抜」に照準を定めている。そのためには学校のカリキュラム内で研究発表を行っておく必要があって、高2ではそういうコースを選択し、校外でのプレゼンテーションも実施した。中学3年のときには英語が苦手で苦労したのだけれど、英語の実力を地道に積み上げてきて、どうにか出願基準を満たすところまで到達した。こういう方法をとれば、真正面からぶつかる学力テストの準備を回避できる。また、1名は志望校を絞り込むことで難易度の低い受験ができそうだ。ある程度は伝統的な受験勉強もしなければならないが、そこまでやりこまなくても彼なら通るだろう。こんなふうに、やりようによっては高校生活のすべてを受験勉強に潰されるようなしんどい受験生生活を回避できる時代になりつつある。そして、外国の大学への進学も、その方法のひとつになる。

もちろん、進学先による。トップクラスの学校に関しては日本でいうところの内申書に相当する高校からの推薦書が必要なようだし、志望書もかなり高度なものをしっかりした英文で書き上げねばならない。一方でコミュニティカレッジあたりだと入学手続きだけで入れたりする。その中間にはいろいろあるが、いずれにせよ、おおまかにいえば伝統的に外国の大学は日本の大学に比べて「入るのは簡単だが出るのは難しい」と言われている。入試で厳しく選別されない代わりに、授業についていくのがたいへんで、手を抜くとあっさりと落第する。実のところ、日本の大学もかつての温情的な単位認定が減ってきているのだけれど、やはり伝統的には「入るのは難しいが、いったん入ったら卒業は既定路線」である傾向は強い。だから、困難な受験勉強を避ける選択肢になり得るわけだ。早いうちに志望校を絞り込み、そのアドミッションポリシーを研究し、なんなら「どうやったら入学できますか」というのを直接大学に問い合わせて準備すれば、順当に進学ができるだろう。

 

ただし、それでめでたしめでたしではない。なぜなら、「入るのは簡単だが出るのは難しい」わけで、まず、授業にしっかりとついていかなければならない。そのためには、何をおいても英語力となる。というのは、アメリカ、イギリスなどの英語圏は当然として、その周辺でも多くの大学では英語で講義やゼミが行われることが多い。もちろん専門領域の基礎知識がしっかりしていることが重要だし、真面目に新たなことを学んでいくこともだいじなのだが、その前提として英語で理解できるだけの語学力がなければどうしようもない。

もちろん大学側も、入学時点でしっかり英語力があることはチェックする。これは実質書類だけで入学できるコミュニティカレッジのレベルでも同じで、TOEFL等のテストを受けて一定のレベルに達していることを証明しなければならない。それが整っていない場合には、大学入学前に語学学校で一定期間を過ごさねばならないわけで、留学期間がのびることになる。これは、費用の面でも、また卒業までの時間が長くかかるという意味でもあまり好ましいことではない。

そこで、家庭教師としてできることはといえば、早い段階から英語力を上げておくことだ。ということで、中学に入ったらすぐに英語には力を入れる。その際に、「将来、外国の大学に進学しても困らないぐらいにはしておきましょうよ」ということを言うことも多い。というのは、オンライン専任講師になって以後、各地の私立中高一貫校の生徒が増えている。それらの生徒の親は業界用語でいう「教育感度が高い」人々であるので、そういう話がふつうに通じるのだ。むしろ先方から先回りしてそういうことを言われる事例さえあって、時代の変化を感じている。

では、外国の大学で英語で授業を受けるのに、どの程度の英語力が必要か。それは、高ければ高いほどいいのだけれど、英検でいえば二級では少し不足、準1級あれば十分という感じかなと思っている。これは教員側の英語力や専攻にもよるので一概にはいえない。日本の大学であっても、教員の日本語がわかりにくい場合があったりする。学問上の達成と言葉で伝える力はそこまで強く相関しないのだから、これはしかたないだろう。概念を伝えるのにもって回った言い方をする必要はないのだから、本来なら英検二級程度の文法と語彙に準拠すれば十分だ。もちろん専門用語は別だけれど、それはどのみちそこから学ぶものだから問題ない。ただ、「二級では少し不足」というのは、現実にはそこまでしっかり噛み砕ける人のほうが少ないからだ。一方で準一級ぐらいだとオーバーキルという感じはする。まあ、だからといってそこまであってはならないことはない。むしろ、英語力は高ければ高いほどいい。あくまで最低限のレベルの話だ。そして、大学側の要求もそのあたりのレベルであるようだ。

現代の若い人の英語力は、昔に比べれば飛躍的に上がっている。英語教育の問題点は長年言われ続けているのだけれど、それに対して何の進歩もなかったのかといえば、それはあまりに教育業界に対して失礼だろう。私が家庭教師として教えはじめた10年前からだけでも生徒の英語の発音ははるかによくなっているし、読解力も上がっている。だから、ちょっとだけ英語に力を入れてやれば、高2が終わる頃まで(つまり進路を決めなければならない頃まで)に英検二級程度の実力まで上げておくことは、特別に優秀な生徒でなくてもふつうに可能だ。だから、多くの高校生に外国の大学への進学のチャンスがある。

 

とはいえ、実際にもしも彼らが外国の大学に進学したときのことを考えると、不安になる。というのは、自分自身の経験を振り返って、学校の授業では大きく欠けるものがあると思うからだ。それは、英語圏の教科書を読んでみればわかる。中学生程度の基本概念を表す言葉が、まるでわからないのだ。

私は、高校時代には英語が苦手だった。「英語のできない文系と数学のできない理系とどっちがマシか」と真剣に悩んで、結局工学部に進むことになった。その後も特別な英語の勉強なんかしなかったけれど、何を勘違いしたのか翻訳者になりたいと思って、25歳の年に最初の訳書の出版にこぎつけた。このあたりの話は長くなるので別の物語だけれど、ともかくもそういうふうに長いこと英語の実務をやっている。だから英語はできて当然だ。それが、何かのイベントだかなんだかで「海外の教科書」みたいなのを見たときにショックを受けた。知らない単語ばかりだったわけだ。考えてみたら当たり前な話で、だって私は外国の小学校にもハイスクールにも行っていない。そこの教科書に何が書かれてあるか知らないのは当然だ。けれど、それはその教科書で学んだ人々が当たり前のように知っている概念だ。理科だったら、「光合成」「膵臓」「偏西風」「抵抗」なんて用語は中学3年生なら誰でも知っている。社会なら「熱帯」「産業革命」「憲法」なんて言葉もそうだ。数学なら「代入」「放物線」「相似」、国語なら「名詞」「倒置法」「隠喩」なんて言葉は授業でふつうに出てくる。それを英語でなんというか、日本で高校3年生まで英語を6年(いまの指導要領なら8年)勉強しても知らずに済ませられるのだ。それに気がついたときには愕然とした。自分は、「1+1=2」でさえ、英語で表現できないのではないか!*1

もちろん、単語レベルの問題なので、こんなのはすぐに追いつくことができる。にしても、出発点で既に基礎知識が異なっているのはハンデだろう。これは、外国の大学に進学する場合にはもちろんだが、それ以外でもあてはまる。日本の大学でも英文で書かれたテキストや論文を読まねばならない機会は増えている。そういうときに、専門用語を辞書でひくのはしかたないとして、「屈折率」みたいな簡単な用語から全部辞書に頼らねばならないのではやっぱりしんどいのではないだろうか。いくらAI翻訳が発達しても、基本的なところはやっぱり素でわかったほうがずっと理解が早いにちがいない。

そこで、数年前から、一部の生徒には英語の教材として英語で記述された理科や社会の教科書を使うことをはじめた。やってみると、英語のレベルとしては英検二級程度の英語で書いてあるので、そのレベルを学ぶ生徒にはちょうどいい。その上、各教科の内容を英語で学ぶことで、日本語で学ぶ学校の授業との二本立てで理解が深まる。これは一石二鳥だなあと思っている。割とタイミングや教科の選択が難しいのだけれど、うまくはまると相当に生徒の力になる。日本の伝統的な大学入試の英語の長文でも、科学的な内容の文章が出されることがけっこうあるので、そういう場合にも単語力が役立つのだしね。

 

時代は変わるし、それにあわせて学問も変わる。そんななかで、受験産業だけは変わりにくい。これは、変わらないほうがラクに金儲けができるからでもある。同じ正解を繰り返し伝えてればいい伝統芸能的な世界では、宗匠はいつまでも権威でいられる。同じことだけやって、生徒にダメ出しし続けてればいいんだから。けれど、それでは世の中の役に立ち続けることはできない。一歩前に出続けることでしか、未来は開けていかないと思う。自戒を込めて、そう思う。さて、次はAIだと……

*1:もちろん数式で書けば理解してもらえるんだけど

「いつ、だれが」に関心がある自分と、ない自分

辻邦生の「安土往還記」を少し前に久しぶりに読み返した。中学生か高校生の頃に何度も読んで「スゲェわ」と感心して以来、十年ぐらいおきに読み返しているんじゃないかと思う。とりあえず手堅く楽しめる1冊として、自分の中ではリリーフエース的な位置づけといったらいいかもしれない。この話、もちろんフィクションではあるのだけれど、さまざまな歴史上の人物がまるでそこで息をしているかのように描かれている。「ああ、人間は意志の力でこんなふうに歴史を動かしてきたのだなあ」と、虚構であることを知りながら感心してしまうという寸法だ。

人間であるから、私はやっぱり人間に興味がある。人間がどんなふうに考え、どんな決意で行動したのかが、私の関心を惹きつける。歴史を振り返ると、「いつ、だれが」というのはとてつもなく大きな関心になる。そして、「もしもあのとき信長が暗殺されなかったら」とか、「もしも石田三成が…」みたいなことを考えてしまう。子どもの頃には、そういう空想を何時間も何時間も弄んだりもした。

けれどまた、学ぶにつれて、歴史は決して個人が動かせるものでもないことを知るようにもなっている。確かに信長は旧来の慣習を打ち壊していったかもしれないが、それは信長個人の思想や才能や性格による部分が確かにあったとしても、基本的にはそれを歓迎する社会がそこになければ花開かないものであったはずだ。家康が成功したのも、家康個人の策謀や人望といった個人的な資質はたしかにあっただろうが、何よりも地域的な大名支配を単位としながら経済的には全国を一律に統治する政府の存在を人々が求めなければあり得なかったことに違いない。言葉を換えれば、個人の存在がなければ細かなフレーバーは変わっていたはずだけれど、大きな流れは変わらなかったのではないかと言える。暗殺されずとも信長は失脚したのかもしれないし、あるいは単純に豊臣家の代わりに織田家が関白職についていてあとは大差ない世の中になっていたのかもしれない。細かな事績は書き換わるだろうけれど、ヨーロッパの市民革命・産業革命の時代に日本が東洋で独自の進化を遂げていった大きな流れは変わらないのかもしれない。

そういう立場からは、歴史上の人物の細かなことなんかよりも、それを支えていた社会がどういうあり方であったかの方に興味が惹かれることになる。歴史上の出来事については、その社会の動きを象徴するもの、社会の動きを把握する手がかりとなるものとして、重要視するようになる。そこに個人の生い立ちや決意や展望や思想を読み取ることは、半ば以上にどうでもいいことになってくる。

 

なんでこんなことを改めて書くのかといえば、黄金頭さんのこちらの記事を読んだから。このあたりの歴史は、非常に興味深い。

blog.tinect.jp

日本書紀が歴史上重要な書物であることは言うまでもないこととして、それがどのように成立したのか、内容がどのように当時の人々の思想を反映していたのかは、まだまだこれから解明されていかなければならないことだろう。そして、藤原不比等がそこに一役買ってるとかいう話は、ゾクゾクするほどおもしろい。小説だって書きたくなるだろうし、誰かが書いたのなら買って読みたくもなろうというものだ。そこに関わった個人が、どういう思惑で、どういう策略で、どういう行動でそれを形にしたのかは、想像するだけで楽しい。

しかしまた、現実には「日本書紀」のような書物は、個人の力だけでは成立しない。仮にそれが書かれることが可能であったとしても、それを受け入れ、長きに渡って教養の基本として学ばれる対象になるためには、それを必要とする人々のニーズが素地としてなければならない。そしてそういった社会のあり方、稲作農耕がこの諸島に根付いて、それが「くに」という姿をとってきた中で、さらに変化をしていく原動力が社会にあってこそ、そういった小さな思いつきや政策が説得力を持ち、人々の支持を受け、そして共通の神話として受け入れられていくわけだ。だから、いまの私は、どちらかといえば、「いつ、だれが」にはあまり興味はない。

「いつ、だれが」は、文学的な興味としては中心になる。坪内逍遥を持ち出すまでもなく、文学にはヒーロー、ヒロインが必要だ。私はそういうものを読者として好むし、いまだにそういうものを求めて小説を読む。その一方で、現実の歴史に対しては、もうそういう関心は持てなくなってしまった。関心は、個人に対してではなく、その集団に対して存在する。

 

歴史だけではない。現代という時代を捉えるときにも、同じことが言える。だから、政治家を個人として評価するような話には、どうしても乗れない。そりゃ、個人としては優れた人、尊敬すべき人も多いことだろう。だが、だからといってそれが社会のなかでどれほどの役割を果たすだろうと思うわけだ。そうではなく、社会はそれを支える物質的基盤とともに、もっと別のもので形作られている。そっちの方が、たまたま議員バッジをつけている誰かさんの個人的なことよりもずっと重要ではないかという気がするのだ。

とはいえ、人間であるから、私はやっぱり人間に関心がある。「社会」みたいな実体の存在しない概念相手には、酒だって飲めない。飲み明かすなら、やっぱり魅力的な個人を前にしている方がいい。もちろん、飲み明かすなんて体力は、もうとうになくなっているのだけれど。

民主主義って何かというのが、まず人によってちがうという話

細かい話をするといろいろと面倒なので、大雑把な話。

このあたりを読んで、「ああ、なるほど、そもそも民主主義ってものに対して考え方がまったくちがう人がいるんだなあ。それもけっこうな多数で」と思ったので、そのこと。

anond.hatelabo.jp

まあ、以前から生徒なんかにもいってることなんだけど、家庭教師としての私の立場から「民主主義ってなんですか」というのをごく大雑把にまとめると、「みんなで知恵を出し合って、みんなが納得する政策を決めていくこと」みたいになる。なぜなら、それが学習指導要領に通底している科学主義だからだ。科学主義そのものには、個人的にはいろいろ怪しいところもある気がしないではないのだけれど、現代の教育課程においては科学主義が採用されているし、究極の話が学校の成績は科学主義的な素養によって決まるのだから、自分の好みとかはさておいても、立場上はそこに立脚しなければどうしようもない。

なぜ科学主義からみた民主主義が上記のようになるのかといえば、それは、科学というものが相互批判を通じて真理に到達する過程であるからだ。この場合の真理というのは神様とかそいった絶対的なものではなく、単純に、人間が理性でもって「それはたしかにそうなるよね」と認めることが可能なものだ。もしもそれに納得しない人がいたら、その場合はさらに相互批判を通じて互いに納得のできる地平を切り開く。だから、科学というのは「真理に至る過程」であっても、真理そのものではない。過程であるから途上で意見の相違も発生するが、それは常に確実な証拠をもとにした議論によって解決されるべきものである。その過程を政治に投影したものが近代民主主義であって、なぜ議会政治が民主主義で重視されるのかといえば、それが議論*1の場であるからだ。こういうふうに見ていけば、なぜ科学主義による民主主義の理解が「みんなで知恵を出し合ってみんなが納得する政策を決めていくこと」であるのかがわかるだろう。

もちろん、政治は科学と折り合いが悪い。それは、同じ学問といっても人文系の学問がいまひとつ「真理」から遠いところでもたもたしていることと無関係ではないだろう。理数系では、納得がいこうがいくまいが、その理論でもって何らかの事実が実証され、そして場合によってはそれでもって新製品がつくられるようなことがあれば、それは認めざるを得ない。人文系ではなかなかそういうことが起こらない。政治においても、「これが正しい政策だ」というようなものはなかなか決められない。多くの人が「正しい」と思っても、「いや、それはちがう」という意見が絶えることはない(全会一致は民主主義の危機であるというような言説だってあるぐらいだ)。それをいつまでも議論を続けていたのでは時間が失われてしまうので、最終的には妥協の産物として多数決がとられることになる。徹底した議論のあとでは、多数の理性が示す方向が正しいとするのが最も合理的であるということなのだろう*2

 

根本的に異なった立場からの民主主義の理解がある。これは教育の場においては常に誤った理解であるとするのだけれど、現実にはむしろ多くの人の直観的な理解である。どういうものかといえば、政治とは権力闘争であるという理解だ。古来、人間は権力を手にするためにさまざまな闘争を行ってきた。しかし、暴力はいかん。暴力を避けるため、選挙をして多数を取ったものが有無を言わさず権力を握る制度を採用する。それが民主主義であるというものだ。

実際、明治以降の日本の政治史を講義していると、日本の議会政治がそういった「サル山のボス闘争」的なしくみで動いてきたことがよくわかる。多数派工作なんてのは、およそ「何が正しい政策であるか」みたいなことを考えていたのではできない。「誰にすり寄れば権力に近づけるか」でしかないし、その場合の政策は、「権力取ったらオレがやりたい政策」でしかない。正しいか正しくないかは自分の感覚だけで決める。それができる人間こそが政治家であるぐらいに思っているのだろう*3

これはマルクスも悪い。彼は、「資本家と話し合いなんかするだけムダ。根本的に立場がちがうのだから、彼らは彼らの立場でしかものが言えない。だったら多数派とって独裁しなきゃ解決しないじゃない」みたいに、本人の理論の根本である弁証法とまったく矛盾することを言っている(んじゃない? 個人の感想です。まあ、俗流にはそういう解釈が通ってると思う)。確かに議論を通じて真理に到達する道のりは遠いし、その無限の時間の間に無数の人々が苦しんでいくのは間違いないのだから、バッサリと「えい、や」と独裁したい気持ちはわからんでもない。でも、それがどうなるかは歴史が証明しているだろう。

しかし、そういった「権力奪取」的な発想から、多くの団体が自分たちの利益を求めて政治家を送るようになる。自分たちの送った議員が与党のなかで重要なポストを占めれば自分たちの要求が通るからだ。このようにして、議会は議論の場ではなくなり、単純に利益分配の場に成り下がる。それが民主主義の現実であって、学校で教えられる「政策議論の場」とはかけ離れたものとなる*4

 

しかし、現実がそうだからといって、「民主主義ってそういうもんですよ」と言ってしまうべきなのだろうか。ここで、「テロリストの言い分など聞いてはならない」の話に戻る。真理を追求する議論のためであるならば、たとえ犯罪者の意見であろうが、そこに理があれば議論の場に引っ張り出すべきだ。あらゆる人々の知恵を集めるのが民主主義であれば、そうならざるを得ない。処罰は処罰として厳正に行われるとして、人間の声を抹殺してはならない。それによってよりよい世の中がやってくるのであれば、それは犯罪行為とは切り離して考えられねばならない。これが理想の意味での民主主義的な考え方。

ところが、サル山の権力闘争的な発想の民主主義的な考え方ではそうはならない。なぜなら、多数派を取った者こそが政策を決めるのであって、そこに犯罪者が犯罪行為でもって意見をねじ込むことは絶対にあってはならない。それこそが民主主義の危機だ。暴力によって政治を変えることはあってはならない。犯罪者の言葉は黙殺されねばならないとなる。

 

この2つの「民主主義って何?」という考え方が交わることはないだろう*5。したがって、この問題に対しても、和解はない。罵り合いだけが続くと思うと、憂鬱だなあ。

そして、罵り合いになれば声の大きいほうが勝つという現実が…

*1:ただし、この「議論」に関してもまた、その捉え方が人によってちがう。科学主義の立場からは「エビデンスにもとづいた相互批判から弁証法的により高次の命題を導くこと」であるのだろうけれど、一般に教えられるのは「互いの主張を譲り合いましょう」みたいなことだから

*2:したがって、こういう立場からは、党議拘束とか「アホちゃうん」と見えることになる

*3:官僚が選挙に立候補し、有権者もそれを信頼して投票する心理は、そういうところからきているにちがいない

*4:議会だけでなく、有識者を集めた審議会や諮問委員会のようなものも、さまざまな意見を集約することだけを念頭にメンバーが集められ、メンバー同士の批判や討論は基本的に期待されていない。選ばれた有識者も、自分の主張を議事録に残すことが使命であると心得ているようだ

*5:仮に「理想はそうであるが現実はそうでない」というところまで合意が得られたとしても、そこから「現実がそうなんだから理想論はいうだけムダ」という立場と「現実がそうでも理想を目指して頑張ろうよ」という立場が生まれ、これらは相容れない。もちろん、最初っから「理想論はそもそも成立しない」みたいに否定にかかる人々とそうでない人々は相容れない

校正やってた頃の思い出

大学を途中で辞めてバイト生活をはじめてしばらくして、私が自分の仕事として選んだのは編集だった。もう40年も前のことだ。まだDTP以前の時代で、主流は写植だった。電算写植がそろそろ出てきていたけれどまだ虫眼鏡でドットが見えるぐらいの解像度で評判は悪かった。むしろ活字のほうがきれいだということで、実際、活版清刷り*1の仕事なんかもそこそこにあった。そんな時代のことだから、現代の常識とはちがう。もっというと、出版関係のオペレーションは出版社によってちがうし、業界によってもだいぶ常識がちがう。たとえば私のいた学参業界なんてのは著者と編集者の境界線が非常に曖昧だった。編集プロダクションは著者を起用する前提で原稿料と編集料の両方を請求するのだけれど、手練の編集者になると著者への依頼はせずに自分で原稿を書いてしまい、両方とも懐に入れるなんてことをやってた。出版社もちゃんとした原稿ができればそれでOKという、ちょっと他の業界の常識では考えられないようなことが通っていた。まあそんなぐらいだから、この昔話も一種の与太話と思って聞いてもらえればいい。

なんのことかといえば、「校閲は何をしているのか」の話題だ。

anond.hatelabo.jp

編集業をやっていた時代、私は「校閲」にかかわることはなかった*2。信じようが信じまいが、学参業界には「校閲」という概念がほぼなかった。数学の問題集とかは「あのプロダクション、信用できないからいっぺんゲラ見てもらえますか」みたいなのはあったけど、それは校閲というよりかなり程度の低い仕事だったし、こっちも校閲とは思っていなかった。

私は学参仕事が嫌いだったから、極小プロダクションである会社にいたあいだも、そして会社を辞めてフリーになってからは特に、できるだけ学参以外の仕事を優先するようにしていた。だから、学参業界以外の仕事もポツポツとはやってきた。最も嬉しいのは翻訳者としての仕事だったが、これは数えるほどしかなかった*3。主にもらえる仕事は校正だった。

校正と校閲はどうちがうのか。その説明のためには、その時代、私が関わっていたいくつかの出版社の業務フローの概略を見るのが手っ取り早いだろう。ちなみに、このフローは企画ごとにかなり変わる。大まかな話と思ってほしい。

まず、著者からの原稿を編集者が読む。「え? 執筆依頼とかは?」と思うかもしれないけれど、その界隈では既に出来上がった原稿から企画が出発することが多かった。著者の持ち込みであるとか、あるいはどこかの雑誌に連載されていたエッセイの単行本化であるとかだ。全集モノなんてのもあった。翻訳の場合は原書の持ち込みからスタートすることもあるのだけれど、実際の企画は訳者が翻訳原稿をあげてこないと始まらない。翻訳中の訳者は実は非常に不安定な立場で、出版社との契約は存在せず、ただ「原稿もってきてもらったら検討します」という口約束程度のことだった。だから、いい加減な原稿をあげたら「これじゃウチは出せません」と突っ返される危険もあったわけで、それなりに気合を入れて訳す必要があった*4。出版契約のことはいまもときどき話題になるが、原稿からスタートするあの界隈の感覚だと、出版契約が執筆よりもあとになるのは当たり前じゃないかという気になる。まあ、時代もちがうんだろう。

ともかくも、原稿があがってくると、原稿整理ということになる。これは2種類の意味がある。まずひとつは、原稿に変なところがないかのチェック。明らかな誤字・脱字は著者に断りも入れずに朱を入れるし、(私の感覚ではけしからんことなのだが)段落分けなんかも著者に無断で入れる。用語・用字の統一なんかもする。内容に疑義があれば、甚だしいものはこの段階で著者に質問し、場合によっては書き直させる。写植の時代には特にこの段階で直させておくのがいちばんの経費削減になった。写植はゲラでの訂正にコストがかかるからだ。後に電算写植、さらにDTPになると、「ここは初校で著者に直させよう」みたいな判断が増えていった。なにせ、いまとちがってほとんどが手書き原稿の時代だ。読みづらい原稿に朱を入れすぎるとわけわかんなくなる。ゲラで話したほうがわかりやすい*5

原稿整理のもうひとつの意味は、写植屋に渡すための指定作業だ。写植屋は、基本的には指示通りの文字を指示通りの体裁で印画紙に焼き付けるのが仕事だ*6。そのためには、写植を打てるような原稿にしておかねばならない。基本級数や行間の指定は1回やっておけばいいのだけれど、本文途中の書体変更やルビ指定、割注の指定とか、けっこうやることはある。そういうのが印刷入稿前の編集者の仕事。

次に写植屋からゲラとよばれる校正紙があがってくる。ここで校正の仕事になる。校正は、概ね3通出てくる。1通は著者に渡して著者校とする。ちなみに、著者校ではロクな赤字が入らない。なにせ著者は自信をもって原稿を入れてるわけだから、写植屋の打ち間違いのようなことでもなければ赤字を入れる動機がない。そして著者は編集のプロではないから、写植ミスはほとんど見落とす。なので、著者校に赤字はほとんどないものと思えばいい。もちろん例外はあって、初稿ゲラに原稿にはない文を挿入したり、原稿を大きく書き換えるような訂正を入れてくる著者もいる。こういうのは編集者泣かせだ。「推敲は原稿段階でやっといてくださいよ」とぷりぷり文句を言うことになる。

校正紙の1通は編集者が手元に置く。一応、編集者自身も読むのだが、原稿との突き合わせのような面倒なことはやりたくない。ここで3通目のゲラが使われる。私のようなフリーの編集者に「校正お願いしますね」と仕事が降ってくるわけだ。単価とか忘れたけど、安い仕事の場合、ページ500円なんてのもあったように思う。原稿とゲラを突き合わせて1文字ずつエラーがないかを読んでいく辛気臭い仕事だ。私がやっていたのはそういう仕事だ。

この「校正」という仕事、実は印刷屋の内部にもある。だから1回はそういう校正を通ってゲラが出ているわけだ。ちなみに印刷業界的には印刷屋がやる突き合わせが「校正」なのだけれど、出版業界的には印刷屋のやる校正は校正のうちに入っていない。「内校」といって、そこは写植作成プロセスの一部とみなしている。印刷業の人と話していてときどき噛み合わないことがあったのを覚えている。

編集側でやる校正は、ゲラとの突き合わせだけではない。だいたい標準的なプロセスとしては1回目は突き合わせをやり、2回目は原稿を脇に置いて読む。これを素読みという。素読みでは、原稿整理段階で見落とした誤字・脱字や用語・用字の統一漏れなんかをチェックする。そして、この段階ではじめて本の内容を読むことになる。「なるほど、こういうことを著者は言ってるんだな」みたいなことを、一読者として感じることになる。そして3回目も素読みだけれど、これは自分が入れた朱もふくめて、作品を批判的に読んでいくことになる。当然、内容がわからなければ、「ここは読んでもわかりません」とコメントを入れる。事実関係がちがうと思えば、その旨をコメントする。著者の思い違いがあると思ったら、遠慮せずにコメントする。

校正者としては、とにかく赤字やコメントは入れられる限り、入れる。遠慮はしない。なぜなら、遠慮する役割は校正者にではなく、編集者にあるからだ。編集者は、いろいろな事情で修正を見送ることがある。それはたとえば著者に対する力関係のような政治的なものである場合もあるし、「こんなに修正したら写植のなおしの請求で予算がぶっ飛ぶ」みたいなベタな配慮である場合もある*7。だが、そういう判断をするための素材としては、「最大限でこのぐらいの直しが入る可能性がありますよ」と指摘してやるのが校正の仕事だ。だからどんな権威の書いた作品であっても、自分がダメだと思ったらどんどんダメ出しをする。それは文字レベルの場合もあれば文法レベルの場合もある(ここは文章が長すぎる、みたいに)。いまの言い方だとファクトチェックにかかわる部分もあれば、言い回しがおかしいとか、この熟語はここでは使えないとか、そういったこともどんどんコメントとして書き込む。これだけやってページ500円とか……。

そうやって初稿戻しが終わると、やがて再校ゲラがあがってくる。これは基本的にはなおしがちゃんとなおっているかどうかのチェックだが、ここでも初校同様のコメントを入れることがある。まあ、たいていの場合は初校時にカタがついている。そして、校閲が入るのはたいていこの再校のゲラだ。そのプロセスの詳細は、外部の校正者である私にはわからない。たいていは、「○○さんに読んでもらったらOK出ました」とか「△△先生からあそこ、やっぱり訂正しろってことでしたね」みたいな話を編集者から聞いて、「ああ、校閲が入ったんだな」と思うぐらいだった。ちなみに編集者がわざわざ個人名をあげるぐらい(あるいは「詳しい人に読んでもらったら」みたいに、明らかに「お前ら校正者レベルの人じゃないんだよ」みたいにいうことから)、校閲担当者は文字レベルのチェックとは別に、内容に関してきっちりと批判的に訂正を入れられる権威者であるようだった。長いこと校正の仕事をしていれば、あるいはそういう権威側に出世することができたのかもしれない。けれど、私は結局、30代に入ってすぐにその世界を離れてしまった。

 

埒もない思い出話だが、最近は「校閲」もずいぶんと格が下がったものだなと思わなくもない。とはいえ、現実としては、長年の学識経験よりも、むしろネットでどこまで掘れるかの根気と技術がいい校閲の条件であるような時代でもある。もちろん、「校正」である私だって、疑問があれば1日図書館にこもるようなことだって、あの時代でもやった。けれど、図書館であれやこれやと調べるのと検索で原著論文を引っ張り出すのと、どっちが目的のものに直接たどり着く上で効率がいいかは論をまたない。けっこうな時代になったものだ。とはいえ、あの図書館の雰囲気、それはそれで楽しかったなあと…

 

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【追記】

そういえば、以前、こういう話も書いた。

mazmot.hatenablog.com

*1:活版の技術で文字を組むのだけれど、活版で直接印刷するのではなく、オフセット版の版下を活版で刷る技法

*2:皮肉なことに、いまは翻訳者として論文の校閲を依頼されることがある。正直、儲からない仕事なのでできるだけ避けているが、おもしろい部分もあるので、たまにやっている

*3:自分で売り込んだ最初の本のあと、共訳で2冊、単独の訳で1冊の本がこの時代の全てだった

*4:ちなみに私が訳した2冊めの本は、原書を持ち込んだ翻訳者がロクな仕事をしなかったので、翻訳を他に頼みますということでやってきた仕事だった

*5:こういうことが実質編集作業の後ズレ化を生み、それが営業の都合と干渉する中で、「校正・校閲は何やってんの?」というような書籍が店頭に並ぶことにつながっているのかもしれない

*6:だから気を利かせて誤字を訂正してくるような写植屋にはむかっ腹が立ったものだ。言われたとおりにやれよと。もちろん、原稿段階で誤字を訂正できなかった自分のせいではあるのだけれど

*7:もちろん、「校正のまつもとはこんなこと言ってるけど、それはあいつの読み方が悪い」みたいな判断もある。そこまで含めて、こっちは大げさにやっている

認知症のことはよく知らないけれど - 老母との日々

老母、その後

去年の春、生活のパターンを変えた。年老いた母親の体調が急速に低下したからだ。3年半ほど前に父親が死んで以来、母親の住む実家には週に1回ぐらいの割で顔を出していた。高齢であるし、コロナが流行していることもあったから。ちなみに、父親が死ぬ前には何人か実家の近くに訪問指導で家庭教師に行く生徒を抱えていた。これは父親が入院したタイミングで会社に頼んでそのあたりの生徒を入れてもらったものだ。そうすることで週に2回は仕事で実家付近に行くことになり、そのついでで入院周りの用事を片付けることができるようになった(交通費つきで)。父親が死んでもすぐに生徒が全員いなくなるわけではなく、週1回のペースはしばらくはそうやって維持された。生徒がいなくなって以後も、母親はまあ高齢でもあるし、週に1回ぐらいは顔を見にいくかなという感じだった。ときどき休ませてもらって、月に3回ぐらいになることが多かったようにも思う。顔を見て、買い物に行って、必要に応じて手伝い(たとえば高いところにあるものをとるとか、菜園を耕すとか)をして、日帰りしていた。たいした負担でもなかった。

それが、一昨年の11月だったか、母親は転倒して背骨を砕いた。年寄りにはよくあることらしく、背中が曲がっている年寄りはだいたいそういうことをやっているらしい。少し砕けただけなので日にち薬以外に特に治療法もなく、まあ安静にしておきなさいよ、というようなことだった。この時期には私も少しだけ買い物や通院で実家に行く回数が増えたと思う。ただ、この骨折そのものは、それほど深刻なものではなかった。

ようすがおかしくなったのは去年の3月頃だった。椅子から立ち上がるのに苦労する。床にこぼれたものを拭こうとして四つ這いになると、もう立ち上がれない。明らかに体力が落ちている。歩くのも不安定で、ヨタヨタとしている。この段階で、私は「ついに体力の限界が来たのか」と思った。高齢のために身体が弱り始めたのだと思った。いよいよこれは要介護かもしれない。だったら、まずは私が実家にいる時間を長くするしかない。実家で暮らすことを前提に、いろいろと身辺の準備をはじめた。このときに書いたのが、この記事だ。

mazmot.hatenablog.com

だが、動き始めるのが少し遅きに失した。医者に相談してからと思っていたのだが、定期的な通院日が4月の下旬に予定されている。そのときに相談してと思ったのがまちがいだった。年寄りだからといって、体調が変化していくときに、その変化のスピードを見くびってはならない。もう1ヶ月、せめて2週間でも早くに動いていればと後悔したのだけれど、通院予定日の数日前、実家に行ったら母親が完全に立てなくなっているのを見た。「これはヤバい」と、すぐに病院に行った(病院の玄関で車椅子を借りてそれに乗せた)。そしてそのまま(その個人病院ではなく規模の大きい総合病院を紹介されて)入院となった。

この段階で、私は長期戦を覚悟した。母親の入院は2週間ぐらいは続きそうだという。その間に自宅にある荷物を実家で生活できるだけ移して、自宅の方は長期不在の体制をとる。実家の方は介護生活に適するように整える。そのつもりでまず自分の荷物をまとめて移動した。コロナなので見舞いはできないが、慣れない入院で母親が苦労してはいけないので、できるだけ毎日看護ステーションを訪れては不足がないことを確認することにした。やれやれ、孝行息子だ。だが、案に相違して、母親は4日で退院になった。5月連休前のタイミングということもあったのだろう。連休中はどうせドクター不在だからということなのかもしれない。まずは、母親の回復が順調だったからだろう。

では、母親の不調は何だったのか。なんとそれは投薬ミスだった。骨折後、骨密度を測定して「これは骨粗鬆症の治療を始めたほうがいいでしょうね」と、外科の方でカルシウム剤を処方された。ところが、母親は、そうやって投与され、薬によって吸収を促進されたカルシウムから骨をつくるだけの代謝能力を持っていなかった。結果として血中カルシウム量が亢進し、高カルシウム血症となってしまった。それに付随して脱水症やら何やらと、トラブルが一気に押し寄せたのが真相だった*1

やってきた認知症

その骨粗鬆症対策の処方をはじめてからの4ヶ月で、落ち込んだのは体力だけではない。認知能力も急速に低下した。父親が入院した3年前には、認知能力にそれほどの不自由はなかった。物忘れはしょっちゅうしていたが、それは私が子どもの頃からそうだった。時代が時代なら、注意欠陥障害とでも診断されていたかもしれない。診断がおりない程度の軽微なものであったかもしれない。いずれにせよ、本人の日常生活に困らない程度のものであった(こっちは困ったが)。なので、「物忘れをするようになった」と母親が言うたびに、「むかしっからやんか」と言って笑い話にするのが常だった。それが、父親が死んだあとから徐々に「これはやっぱり加齢のせいやな」と、認知症的な特徴が目立つようになってきていた。かかりつけの医師もさりげなくそのあたりをモニタしてくれていたように思う。とはいえ、変化は緩やかだった。ところが、その入院までの4ヶ月で、明らかに認知機能が衰えた。短期記憶がもたなくなった。すぐに忘れる。

顛末がはっきりした退院後、薬害は恐ろしいなと、改めて思った。身体と脳と、どちらにもダメージがでかい。笑うのは、退院してきた直後、まだ足元がふらついているのを、「やっぱり入院なんかしたらダメやね」と何度も繰り返し言っていたこと。本人の感覚では、歩けなくなったのは入院してベッド生活を強制させられたから、ということになっている。「たった4日寝ただけでも、足腰って弱るんやねえ」と。ちゃうんやって。入院時点で車椅子やったやろ、と訂正するのだけれど、本人、そのあたりの記憶はない。記憶がないのではなく、改竄されている。いや、記憶の改竄は彼女の若い頃からの得意技で、我が家のお家芸、何なら私も遺伝的に受け継いでるぐらいなのだけれど、さすがに数日前の記憶まで創り変えてるのはどうなのよ。ああ、認知症

そこからしばらくは、基本を実家生活にし、週に1回、自宅に戻ることにした。たまには自分の布団で眠りたいから、1泊してまた実家に戻る。目を離すのが怖かったから、そういうふうにすれば自宅に2日帰っても、足掛けなら週の7日間すべて、母親から目を離さずに済む。そうやって実家にいて、そして、母親と毎日、近くのイオンに買い物に行くのが日課になった。それは、買い物が目当てというよりも、散歩のためだ。なるべく人の少ない早朝の時間帯に、ショッピングカートを押して食品売り場内を一周する。30分も歩くとすっかり疲れてしまい、その日の運動はおしまいということになる。はじめは足元が定まらず、だいぶ気を使った。ちょっとしたスロープでもカートを支えられずに転ぶ可能性がある。カートが走らないように押さえたり、母親の脇にそっと手を回したりと、安全にはだいぶと気をつけた。

1ヶ月ほどもすると、だいぶと足元がしっかりしてきた。そのあたりから、自宅の滞在時間をのばしていった。2泊するようになり、やがて3泊になった。夏の暑さが厳しくなると大阪に泊まるのは苦痛になって、なるべく泊まらないように、そのぶん往復の回数を増やした。秋からは、実家に2泊3日で1週間をまわす基本サイクルが定着した。週1で行っていた1年前から思えば負担増ではあるけれど、どちらかといえば自宅で自分のペースを取り戻せているので、まずはめでたしめでたしというところだ。

だが、体力は回復した一方で、認知機能は低下したままだ。私は別に認知症に詳しいわけでも何でもない。だから、医学的な診断基準でどのあたりから母親が認知症の分類に入ってきていたのかを判断することはできない。おそらく、現在の母親は認知症と診断されるだろう。3年前はそうではない。骨折前はどうだったか、それは確実なことは言えない。だいたいが、骨折事件にしたところで、「立ったまま靴下を履こうとしたら転んだ」と、ツッコミどころ満載のアクシデントだったわけだ。ふつう、80歳を超えたら、座って靴下を履くやろ、と思う。安全のためにはもっと慎重であっていい。それを軽視したのは、やっぱり認知機能の衰えじゃなかろうか。そのあたりで診断基準は満たしていたかもしれない。あるいはもっと前だったかもしれない。神のみぞ知る。

ともかくも、いったん衰えた認知機能は回復しないようだ。身体の諸機能が回復したのと対照的だ。いまでは骨折前と変わらないぐらいに身体は動く。年齢の割には敏捷で、バランスもいい。散歩には杖をつくけれど、それは「転ばぬ先の杖」的な意味で持っているだけに見える。退院直後にはあちこち掴まりながらしか動けなかったのが嘘のようだ。身体は回復するし、なんなら鍛えることだってできそうだ。だが、頭の方はそうはいかない。短期記憶のもたなさは、退院以後、改善しない。客観的に測定できるわけではないので断言はできないが、おそらく非常にゆっくりと、さらに低下を続けている。

そういう母親をまる4日間、単身で置いておくのはどうなのよと、自分でも思わなくもない。去年の秋からのサイクルでは、だいたい中4日で2泊、ときには1泊か日帰りで回している。2泊するとちょうど1週間だから都合がいいのだけれど、ときどき仕事の都合やお天気の都合で、サイクルをずらしながら調整している。4日を超えてひとり置くのは心配だ。だったらもっとサイクルを短くするか、実家の滞在時間を長くすればいいじゃないかという気もする。おそらくこの先、そういうことになるのだろう。だが、いまのところはこれでどうにかなっている。だったら、過剰サービスすることもない。

ストレスと、笑いと

薄情かもしれないが、あまり長くいっしょにいると、お互いの精神衛生によくない。頭ではわかっているのだけれど、やっぱりボケ老人といっしょにいると、イライラするのが避けられない。10分ぐらいの間に同じことを4回も尋ねられると、さすがに「さっき言うたやないの」と、埒もないことを言ってしまう。当人もよくわかっていて重要なことはメモに書くのだけれど、まず重要でないことでも何度も同じことをいう。「ミカン食べるか」「要らん」「ミカンどう」「べつにええよ」「そこにミカンあるで」「いまは要らん」「ミカンお食べ」あたりで、「さっきから要らんて言うとるやろ!」と、つい声が大きくなってしまう。これは私にとってストレスだ。私にとってだけではない。「私、なんで怒られたかは覚えてないんやけど、怒られたことだけは覚えてるねん」と、母親が言っていたことがある。短期の記憶がもたなくなっても、すべてが均等に忘れられるわけではない。どうやら、日常の通常運転に関する記憶は失われやすく、心配事に関する記憶は根強い。だから、「息子に怒鳴られる」(私は別に怒ってるとか喧嘩してるとかいうつもりはなくて、ただ声が大きくなるだけなのだけれど)という経験は自分のこの先に直接影響するから心配事として記憶にこびりつく。あるいは、「今日は○○ちゃんが来るんやけど、遅い」という言葉もよく聞くようになった。訪問者はだいたいは親戚なのだけれど、母親は(ここを話すと長くなるので端折るが)一世代下の親戚の女性に人望があって、いまでもたまにそういう人が訪問してくれる。それはいいのだけれど、カレンダーを見ると、数日先に、訪問の予定が母親の字できっちりと書き込んである。「今日とちゃうみたいやで」とそれを見せると不思議そうな顔で「私の字やねえ」と納得するのだが、しばらくすると「それにしても○○ちゃん、遅いねえ」となる。高齢者にとっては、日常と異なることは楽しみの面よりも不安の面が大きい。だから、訪問があるという事実は不安の対象として忘れないが、その日時のような具体的な事項はすぐに忘れる。結果、「遅いねえ」となる。

話が少しそれたが、ともかくも、母親と私、いっしょにいると、それぞれがそれぞれのストレスを受ける。重要なことはメモに書くとしても、まず、そのメモをどこかに忘れる。見つかると、今度は何のメモだったか忘れている。傍で見ているとイライラする。その私のイライラが、母親に伝染する。ストレスだ。だから、連続してあまり長期にいっしょにいないほうがいい。私の感覚だと、3日が限度だ。だから、2泊が基準になる。4日以上置くのは心配だからいまのサイクルになるが、もう少し弱ってきたら、まずはそっちを短くすることからかなあと思う。連泊を増やすのは、最後の手段だろう。

 

そうやって、誤魔化すように、なんとか自立してもらっているのだけれど、そうまでして自立を続けさせる意味があるのだろうか。これは兄とも話すのだけれど、意味があるとかないとかいう以前に、それ以外の選択がない。このあたり、私の両親がかなり特殊な人生を選んでいるせいだ。これも書くと長いので端折るのだけれど、現状にとって重要なことは、建物のことだ。まだ世の中がやたらと明るかった30年ほど前のこと、両親は渾身の力でいまの家を建てた。それも、母親にとっては「夢の家」ともいえる超カスタマイズされた建物だ。実際、その原案となる設計図は母親自身がひいた。それを設計士がまともな図面に起こしたのを、再三にわたってダメ出しをし、さらに建築中も現場に入り浸ってあれやこれやと大工に注文をつけた挙げ句に出来上がった家だ。つい先日も、「この家のことで、もっとこうしたらよかった、みたいなことはひとつもない」と、満足気に言っていた。母親の生活スタイルにぴったりと密着し、そのやりたいことがすべてそのまま実現できる環境になっている。母親の身体の延長のような家なのだ*2。あの家は母親と切り離して考えられないし、母親はあの家と切り離して考えられない。存在があの家と不可分に結びついている以上、たとえば施設に入れるとか、およそありえない話になってしまっている。

まあ、医療の世話になるのは別な話だから、いよいよ弱って入院とかいうことになれば、それはそれであり得るだろう。ただ、自立が難しくなって介護が必要になってきたら、自宅でその介護体制をとること以外、考えられない。幸か不幸か、それを支えるぐらいの金は父親が残している。訪問介護訪問看護、ヘルパーさんなんかを総動員して、あの家を母親専用の介護施設化することになるんだろう。ただその場合、やっぱり母親の精神的な支えとして、私がある程度、近くにいる必要はあると思う。さんざん親不孝を続けてきた末息子としては、そのぐらいのことはせねばならんだろうとは思っている。

そこに悲壮感はない。なぜなら、これがなかなかにおもしろいからだ。たしかに認知症の母親と暮らすのはストレスになる。それは先に書いたとおりだ。けれど、そのストレスは、ボケが私の方に向かってくるときだけだ。食べたくもないミカンを10分の間に5回も勧められるとか、わざわざ何が食べたいかを聞いてきておいて別のものを出してくるとか、ふつうに腹が立つ。けれど、自分の方角に向いてこない認知症は、ただ滑稽なだけだ。iPhoneをどっかにやったと大騒ぎをしてポケットから出てくるとか、無料で漫才を見ているようなもんだ。

そしてなによりも、母親はそれを笑い飛ばす個性をもっている。長年(おそらくは)注意欠陥障害を生きてきたツワモノだけある。眼の前にあるかぼちゃを「なんでこんなとこにあるんやろ」と不思議そうな顔をしている。「さっきイオンで買うたやん」と指摘すると、「不思議なことがあるもんやねえ。全然覚えてへんわ」と言う。そして、「年をとるっておもしろいねえ。こうやって不思議なことが毎日起こる。飽きへんわあ」と笑う。私もいっしょになって笑う。「安上がりでいくらでも楽しめて、こんなええことあらへんな」と。自分に向かってこないボケは、けっして嫌なものではない。ただし、当人がそこに嫌な感情をもたない限りにおいては、ということだ。ネガティブな感情は、いくらボケていても、心のどこかにまとわりつく。そしてそれは日々をつらいものにしていく。それさえなければ、忘れるのはとくにわるいことでもない。

いまを生きることの大切さ

ただ、忘れることがだんだんと不便になりつつあるのは事実だ。母親はよく「年をとると忙しいね。年をとったら暇で時間を持て余すんやろなと思ってたけど、こんな忙しいとは思いもよらなかった」みたいなことを言う。なぜ忙しいかといえば、忘れるからだ。母親が退院直後は私が飯をつくっていたのだけれど、身体の回復とともに母親がつくるようになった。ところがこれが時間がかかる。なぜかといえば、「じゃあ、晩御飯は魚でも焼きましょう。付け合せに大根なますでもつくるわ」となったとする。そして、魚の切り身と大根を台所に出してくる。1時間後に行ってみると、どちらもきれいに片付けられていて、「晩御飯、何する?」と聞いてくる母親がいる。「さっき、魚と大根って言ってたやん」というと、「そうやったね」となる。なぜいったん出した切り身と大根が消えているのかといえば、それを晩飯の用意にするために出したことを忘れて、「あ、こんなとこに出しといたらあかんわ」と、冷蔵庫にしまってしまうのだ。そのうえで、改めて、「そういえば晩御飯、なににするんやったっけ」と考え始める。もしもこの段階で私が来なければ(私は別の階でオンライン授業をしていたり、その他、雑用をしていることが多い。母親はだいたい昼間は台所にいる)、たとえば冷蔵庫から鶏肉を取り出して、玉ねぎを刻み始めたりしているだろう。その作業が連続していればいい。けれど、もしも間で少しでも他の用事が入るとする(たとえば洗濯物を入れるとか、ふつうに家事の間にはいろんな用事が挟まる)。すると、刻んだ玉ねぎをポリ袋にしまい、鶏肉を冷蔵庫にしまって、ほっと一息つく。そしてまた、「晩御飯、何つくろう」と考え始める。そりゃ、忙しいわ。

忘れるならメモをしたらいい。それは、私が言わなくても(言うけど)、母親自身が自覚している。だから、台所にはいっぱいメモが置いてある。そのメモを、母親は、「これ、なんやったっけ」と言いながら見る。たとえば晩御飯のメニューをメモしておく。けれど、それが今夜の晩御飯のつもりなのか、昨日の晩御飯のメモだったのか、あるいはテレビの料理番組で見たレシピのメモなのか、もう判別がつかなくなっている。よって、それをじっくり研究し、挙げ句の果てに解読を諦めて、流しの前に戻る。そしてまた、献立を思い出せずに、メモを探しに行く。それを繰り返す。ああ、忙しい。

いまのところ、まだ「忙しい」で済んでいる。そしてそれが「年をとってみないとわからないもんやねえ」と、新鮮な驚きにつながっている。喜びにさえなる。けれど、それがだんだんと「不便」に変わっていく。やがて、うまくいかないになり、生活に困難を覚えるようになるだろう。

けれど、そんな先のことは、考えてもしかたのないことだ。重要なのは、「いま」を母親が楽しんでいることなのだ。そのことで思い出すのは、以前訳した本のなかで、子どもの幸せについて書かれていた文章だ。子どもの幸福は、それが将来の人生に大きな影響を与えることから特に重要だとされている。子ども時代が不幸であれば、その後の人生にも大きなハンディキャップが加わることになる。だからこそ、子どもの幸福は重要だとされる。しかし、と、その文は力説していた。子ども時代は、それ自身が幸福な時間として重要なのではないだろうか、と。将来への影響とかを一切無視しても、子どもが幸せであることは、子ども本人にとって重要なのではないか。なぜなら、子どもは未来の大人であるだけでなく、子どもとして「いま」を生きている人なのだから。だとしたら、「いま」を生きるひとりの人間として、幸福であるべきではないのかと。

そして、その考え方は、年をとって認知が怪しくなってきた老人にも同じように適用できるだろう。老人に未来はないかもしれない。けれど、「どうせあとは墓に入るだけだから」と、「いま」が不幸であっていいものだろうか。「いま」が幸福であることが、どれほど人間にとって重要なことか。それは計り知れないのではないか。

だから、いま、この瞬間を楽しめるのであれば、認知症だって、それはそれでOKじゃないか。先のことを考えたってしかたがない。そりゃ、人間、いつかは死ぬんだ。けれど、おあいにくさま、いま、生きている。生きているあいだ、生きている人間として、最大限に楽しむことに、まだ来ない未来なんて、何の関係があるだろうか。

そして、認知の衰えてきた母親には、それなりに楽しみがある。認知が衰えてくると、新しい刺激に対する耐性が低くなる。だから、昔のようにあちこち旅行に行くのも億劫になるし、大勢のお客さんを迎えるのもしんどくなる。そのかわり、単調な毎日の中でも、昔のことを思い出すことができる。思い出を反芻し、そこに意味を付け加えていくことは、母親の毎日の大きな楽しみだ。そしてここに、彼女の得意技が色を添える。記憶の改竄は、その被害を受ける側に立つと本当に鬱陶しい。けれど、それが自分自身の思い出だけの世界なら、いくらでも都合よく改竄してくれてけっこうだ。このようにして、母親の昔の思い出は、どんどん美しくなっていく。「忙しい」毎日のなかで、ふとその美しい思い出に浸ることができれば、こんなに幸せなことはなかろう。たとえそのために、晩飯の献立が焼き魚から豚肉炒めに変わろうとも。

*1:外科医の方で血液のモニタをサボっていたのが悪い方に転んだ。訴訟もんだぞ、ここがアメリカなら

*2:だから彼女が死んだらどうしたらいいのか、誰にもわからない。あまりに特殊すぎて、引き取り手がないだろう。私だってあそこに住むのはイヤだ

「共同親権」の議論を思うにあたっての個人的経験

ブコメの言い訳

先日、こちらのツイートにくっつけたブックマーク・コメントに対して、たくさんの黄色い星を頂いた。ただ、短いコメントなので、けっこういろいろな受け取り方をされているのではないかと、あとになって思った。

猫さん on Twitter: "やばいやばい。前澤さんのシンママ向けマッチングアプリあれ予想以上にやばい。一般社団法人 日本シングルマザー支援協会って、、、わたしがだいぶ前から怪しんでた「離婚後共同親権運動してる妙な新設シンママ団体」だよ。しかも団体住所が離婚や不倫の公正証書作成を得意といってる行政書士事務所。"

「支援」というのは、「ひとり親でもちゃんと生きていけるように支援しよう」じゃなくて、「ひとり親状態をなくそう」という意味なんやね。そういう意味では、世界観は一貫してるわ。なるほど、時代錯誤

2023/02/01 11:41

b.hatena.ne.jp

自分で自分の書いたものに解説をつけるのはなんかおかしいような気もするのだけれど、誰かが解説してくれるわけでもないから、しかたない。これは「シングルマザー限定婚活アプリ」が公開1日で停止された件に関する流れなのだが、私はこの報道にあまり興味はなかった(とうの昔に婚活とか関係ない年齢になってるわけだから、興味がある方がおかしいわ)。ただ、どこかで「日本シングルマザー支援協会」という名称を見て、「奇妙だなあ」とは思っていた。だって、なんで婚活アプリと「シングルマザー支援」が結びつくの?

それがこのツイートをみて、「あ、そうか」と合点がいった。

私の理解として、シングルマザーに関連する問題は、確かに存在する。それはシングルマザーの生きにくさだ。2人親がスタンダードで設計された社会で一方が欠けていることは、さまざまな不都合を生む。具体的にはさまざまな不利益が報告されている。シングルマザーの平均年収は同年代の他の女性と比べて明らかに低く、それでいて出費は明らかに多い。子育てに費やさねばならない労力を考えれば、非常に不利な立場に立たされていることは明らかだ。これは問題だろう。だから行政は特にそこに支援を行うべきであるし、「支援」の名を冠した社団法人があっても不思議ではない。

ただ、不思議なのは、なぜシングルマザーの婚活が「支援」になるのかということだった。だが、それは問題の所在の目の付け方が違っていたわけだ。つまり、私はシングルマザーの困難が問題だと感じているわけなのだけれど、世の中にはシングルマザーの存在そのものが問題であると感じる人もいるわけだ。存在そのものといってしまうと語弊があるが、つまり、シングルマザーが生きづらいのであれば、結婚すればシングルマザーではなくなる、つまり問題は解決するではないかという発想だ。これには気づかなかった。そしてそういう世界観でみてみると、確かに婚活アプリはシングルマザーである状態を「解決」してくれるだろう。つまり、そういう世界観では、これは「支援」に相当する。なるほど。

シングルマザーではないのだけれど、ここで思い出す人がいる。私が大学をやめて数ヶ月ぶらぶらしていたあと、編集プロダクションでアルバイトを始め、やがてそこでフルタイムで働くようになっていく中で、知り合った人だ。社長の以前の部下で、よく仕事をサボって会社に遊びに来ていた。彼は、小学1年生と保育園児の2人の娘を抱えて、奥さんに先立たれたばかりだった。いろいろあって私は彼の子育てをごくわずかだけ手伝うことになったのだけれど、そのときに彼が愚痴のように話してくれたのは、その少し前に彼が1週間だけの「再婚」をした件だった。葬式が済むとしばらくして、親戚から再婚話がやってきた。独身男性1人で子育ては無理だろうから後妻さんをもらいなさい、ということなのだ。亡くなった奥さんを愛していた彼は全く乗り気ではなかったのだが、2人の娘の幸福のためにと、世話をされるままに結婚をすることにした。ろくろくに相手の顔もみないような見合いで、式などあげる余裕もなく、結婚という形になった。だが、あたりまえのようにうまくいかない。1週間でその結婚は破綻した。

こんな具合に、「独り身は具合が悪いから結婚しなさい」という人々が、昭和の昔にはごく当たり前にそこらにいた。いまではそういうことを言うのは親ぐらいだろうが、かつては親戚一同、何なら近所の人から職場の上司まで、「結婚しなさい」はふつうに言った。そういう価値観から見れば、「ひとり親」の困難は、「困難があるから支えてあげよう」ではなく、「困難があるならひとり親をやめればいい」となる。つまりは、上記の「婚活が支援になる」という発想と全く同じだ。私はそういうおせっかいな考え方が社会の主流から外れたことをいいことだと思っているから、いまだにそういう発想で支援事業をやってることに対して、素直に「昭和だなあ」と思った。「昭和」と書くとまたそれはそれでいろいろ別な意味も呼び込んでしまいそうなので、「時代錯誤」と書いたが、ま、似たようなもんだろう。

 

驚いたのは、これに対して、次のようなコメントを頂いたこと。

猫さん on Twitter: "やばいやばい。前澤さんのシンママ向けマッチングアプリあれ予想以上にやばい。一般社団法人 日本シングルマザー支援協会って、、、わたしがだいぶ前から怪しんでた「離婚後共同親権運動してる妙な新設シンママ団体」だよ。しかも団体住所が離婚や不倫の公正証書作成を得意といってる行政書士事務所。"

<a href="/mazmot/">id:mazmot</a> 父母ともに健在なのに、片方の親権を認めない事こそ、子供を親の所有物扱いする時代遅れの感性だと思うが。EUこそ時代遅れだというなら、止めはしないが。 <a href="https://gentosha-go.com/articles/-/28316" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://gentosha-go.com/articles/-/28316

2023/02/01 13:17

b.hatena.ne.jp

私は自分のコメントの中に「共同親権」の言葉はひとつも入れてない。そして、上記のように、別段共同親権のことを考えてコメントしたわけでもない。さすがにこれは言いがかりだろうと思った。けれど、よく考えてみたら元ツイートはこの「支援団体」を「離婚後共同親権運動してる妙な新設シンママ団体」と書いてる。だから、まあ文脈からいったらそっちの話と思われてもしかたなかったかなと、あとから思った。100文字のブコメではよくあることだ。

で、ここで話を終わっておいてもいいのだけれど、では私に「共同親権」に関して何ら思うことはないのかといえば、そうではない。そこまで書いておかないと、やっぱり後でややこしいかとも思う。ただ、この問題、国際標準であるとか政治の思惑であるとかそこに関わってくる人々の真意であるとか、いろいろややこしいことも多いので、旗幟鮮明にするのもはばかられる。なので、そこにまつわるいくつかの個人的な話をしておくにとどめておきたい。

「親権」の法的根拠

まず最初に、「親権」なる言葉を(小説以外で)初めて聞いたのは、10年近くも前になるか、友人が離婚した際だった。私は彼らの媒酌人も務めた間柄なので、いろいろ話も聞いた。最終的に家庭裁判所で決着をつけたのだけど、そのときに一人娘の親権についてのことも聞いた。

で、私の反応は「親権? そんなもの、ないやろ」というものだった。もちろん、これは間違いだ。あとになって調べたら、ちゃんと民法にひとつの章を割いて規定されている。ただ、私が「親権というのは俗な理解であって法律的根拠がない」と思い込んだのは、それが憲法に規定されていないからだ。基本的人権はすべて憲法に根拠がある。そして、憲法は中学・高校の社会科でしつこいぐらいに教える。そこに「親権」が規定されていない以上、そんなものはないのだと、私は思い込んでいた。もちろん、これは単なる勉強不足だ。

ただし、憲法にない権利が法令で定められているのは、たしかにおかしい。いや、おかしくはない。たとえばルールに則って生活ゴミを出すのは住民の権利だが、憲法のどこをみても「ゴミを出す権利」は書いていない。ただし、これは第二十五条第2項の「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」の規定にもとづいて成立している「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」の規定によって地方公共団体に課せられた責務の上に実現している。つまり、憲法に規定されていない権利は存在してもかまわないが、それは必ず憲法内にその根拠をもっていなければならない。

そうすると、親権の憲法上の根拠は何だろうか。実は憲法内に、未成年者に関する項目は1箇所しかない。それは第二十六条第2項の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」という部分だ。けれどまた、未成年が保護され、健全に育成されねばならないというのは、憲法以前の常識でもあるだろう。さらに、その権利の執行にあたっては制限がかかるのも常識的に判断できる。しかしその一方で、憲法内の基本的人権の規定は、年齢を制限していない。生まれた瞬間から人であり、国民である。すべての条文は生まれた瞬間から適用される。

このような前提のもとに規定されているのが、民法の「親権」であろう。したがって民法には、親権について「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」と規定されている。つまり、人権をもった未成年者に対して、その権利が制限される部分を代弁し、そこで失われる利益が生じないようにはからう義務を負うというのが、まず第一義的な親権の意味だ。そういう意味では、「権」というよりも、「義務」といったほうがいい。日本語をふつうに読む限り、この規定はそう読める。ただし、子どもの権利を代理することはその代理者としての権利の行使を意味する。すなわち、この義務には、権利としての側面も伴う。よって、「親権」という言葉には、それなりの合理性がある。

いずれにせよ、「子の利益のために」行うものが親権であるから、それが毫でも子の利益を損なうときには、その権利は合理的根拠を失う。親権とはそういうものであるから、なんだか私のような部外者から見れば、それを巡って争いが起こるなんて、実に不思議にしか見えなかった。争ってまで取りに行くもんかよ、それ。

「ひとり親」を卒業して

まあ、世の中はわからないもので、「離婚なんて他人事」と思っていたその頃、突然、妻が別れると言い出した。いろいろと思い当たるところはあるので、「そんなん、さみしいやん」といった感情論以上の反論はできなかった。このあたりのことを詳しく書いたらおもしろいのだろうけど、さすがにまだまだ笑い飛ばせるほどには傷は癒えていない。話し合いの結果、お互いそれがベストでしょうということになって、妻は時間距離にして1時間ほど離れた街に引っ越した。あとには私と息子が残された。

だから私はそれ以来、「ひとり親」の当事者であったわけだ。実際のところ、10年間、息子の面倒を見てきて最終的にどうにか自立してくれて、ホッとしている。もっとも10年がずっと子育てでしんどかったわけではない。高校の3年間は寮だった。もしもコロナがなければ、もっと早くに私のサポートは不要になっていただろう。コロナ対策で高校のときにも大学に通うことになってからでも、車での送迎や在宅での生活で手がかかることが多かった。けれど、それは小中学校時代の手のかかりように比べたらたいしたことではない。だんだんと楽になって、そして去年の秋からは月に1回顔を合わせればいいぐらいの関係になった。子育ては完了したといっていい。

そのしんどかった小中学生の時代でさえ、私が孤立無援だったかといえばそうではない。私と妻の結婚生活は終わったにせよ、妻は私を息子の父親と認めていたし、私は妻を息子の母親として頼りにしていたからだ。だから私が仕事で忙しいときには、妻に頼んで飯を食わせてやってもらうこともできた。息子の学校の行事(不登校になってからはフリースクール関係のあれやこれや)も妻が進んでやってくれた。衣替えの時期には衣類の不足を買いに息子を連れ歩いてくれるのも妻だった。そういう折には、私は日常の家事の中で少し息をつくことができた。

息子にとって、決して理想的な両親ではなかったと思う。けれど、お互いやれることをやった。それは認めてくれている。そしてその過程で、「親権」というものを意識したことは、私には一度もない。確かに、彼には居住の自由はなかった。それは親の住所に限定されていた。そういう意味では、私は彼の権利を制限していた。あるいは、彼の財産権も制限されていた。お年玉を溜め込んでいた貯金を「使うな」といったのは私だ。けれど、どのみち、彼には特に欲しい物もなかった。欲しいものがあれば自分の貯金を使わずともある程度は手に入れる手段をもっていた。進学に関しても、確かに干渉はした。しかしそれは、物理的に可能な範囲と選択肢を示しただけだった。それはこちらが制限しているというよりも、世間的にもその程度が限界だからだ。もしもそれを突破したければ、自分で頑張るがいい。それは人権とは別の次元の話だ。

妻との間でも、「親権」を巡って揉めることはなかった。どこにそんな問題が発生する余地があっただろう。子どもがどうやれば幸せに過ごせるのか、それが核心にあるときに、話し合って解決できない問題はない。複数の選択肢があるときに、私と妻の考え方が異なることは、なかったとはいえない。けれど、選ぶのは私でも妻でもなく、息子自身だった。そんなときに、私と妻の間で何を争うというのだろう。

 

家族には、さまざまな形態がある。夫婦を中心にその子どもで構成された家族、即ち核家族が現代のスタンダードではある。けれど、夫婦が夫婦としての機能をやめてしまっても、子どもを中心に据えるなら、やっぱり同じメンバーで家族の機能は維持できる。家族の機能の重要なひとつは再生産だ。この言葉も変な人の変な使い方で奇妙な色がついてしまったが、ブルデューまで戻ってみれば、再生産機能はやっぱり家族の基本機能のひとつだということは否定できまい。そして、再生産の過程では、生み出されてくるものが最も重要だ。だからこそ、子どもが主体になるのであり、親はそのサポートに回るのが本来だ。そう考えるときに、「親権」は権利だろうか? 義務だろうか? どちらでもない。それは単純にめぐり合わせであり、担うべき役割であり、それがうまく担えないときには降りてしまってもかまわないものではないだろうか。降りたほうが子どもの幸せを確保できるのなら、降りてもいい。ただしそうやってサポートが手薄になる子どもには、社会が別の種類のサポートを差し伸べねばならないだろう。

共同親権」の議論に、違和感を覚えるのは、このあたりの感覚の違いなのだ。親が子どもにあえないのがさみしいとか、そんなことは子どもの幸せとは無関係だろう。さみしいといえば、私は妻と離れるのがさみしかった。けど、さみしさを超えてでも離れたほうがいい場合だってある。「親権」を行使して親が決められることなんて、ごく僅かだ。もしもそれが僅かだと思えないのなら、それは既に越権行為に踏み出しているのだと思ったほうがいい。親権は、年齢によって制限された子どもの権利を親が代理して執行するに過ぎない。その代理が正常に行われている限り、親権が意識されることなどないだろう。

 

とはいえ、家族の様相は、形態以上に多様だ。世の中には、また別種の考え方で成り立っている家族もあるだろう。それはそれ。他人のライフスタイルまで口を挟むまい。だから私は、「共同親権」議論には、距離をとる。もちろん、国際標準なら、齟齬のないようにあわせてったらいい。けど、それは専門家、政治家に任せておけばいい。何も正義を振りかざす必要はなかろう。我々はただ、子どもを愛すればいい。