私は道に迷わない - だからアブナイ奴、という話

山岳部の連中は、案外とよく道に迷う。昔のことで、GPS使うのが一般化したいまのことは知らない。笑い話のようではあるが、反省会とか行くとアプローチで道まちがえたとか、下山の道に迷ったとか、割とよく聞いた。自分自身でも、しょっちゅう道を踏みまちがえてた。理由は簡単で、山岳部の連中は基本的には地形を読む。地形を見て、地図を確認し、自分の現在位置を把握して、方向を決める。だから、登山道のないバリエーションルートであるとか、あるいは登山道が雪に閉ざされてしまう冬山とか、そういうところでも安全に行動できる。ルートの選択は「あっちの斜面は雪崩れそうだ」とか「あそこの尾根に取り付いたら上部の処理がヤバいな」とか、そういった判断で行われるのであって、そっちに登山道があるかどうかとか、そういったことからはほぼ独立している。その判断をまちがえたら命にかかわるから、等高線の読み方みたいなことは徹底的に叩き込まれる。実際の地形と地図を何度も見比べ、立体が図上にどのように表現されているのかの対応を地道に学んでいく。だから、よっぽどのことがないと高山ではルートをまちがえないし、仮にまちがえたとしてもそれにきっちり対応できるだけの心の準備と装備は整えている。そういう意味では、山岳部の連中は道に迷わない。

ところが、低山ではそのセンスが通用しない。なぜなら、樹林帯の低山は、基本的には人為的に開かれた道によって通行可能なルートが定まっているからだ。道を歩くときに、ひとは地形を気にしない。地形的にいったら「このあたりは登らなきゃおかしいのになあ」と思っても、道がそちらになければ道に従うしかない。そしてたいていの場合、道は何らかの都合で合理的につけられている。もちろんおおまかには、「だいたいはこの尾根を行くんだな」みたいに把握しているわけだけれど、ときに登山道は尾根の腹をまいていたりする。「あれ?」と思っても、しばらくするとまた道は尾根の上に戻る。だから、あまり疑問を持たずに道にくっついていくのが正解だし、なんなら道標や踏み跡に注意して、「正しい道」を外れないように進むことが重要になる。ところが、山岳部の連中ときたら、ついついそこで高山の感覚を生半可に出してしまう。「生半可に」というのは、確かにきっちりと地形図を読んでおけば、まちがえないのだ。けれど、登山道がある樹林帯では、どうしてもそのあたりの判断が大雑把になる。「ここはずっと尾根筋だよね」と思っていると、主尾根をはずれていく分岐を見落として、地形上は尾根筋が続いているように見える獣道に突っ込んでしまう。本当はそこで支尾根に踏み換えて道は続くのだけれど、そういう細かいところを見落としてしまう。結果、しばらく進んで、突然あるはずのないピークに出て、わけがわからなくなる。続いている道だと思ったものはそこで消え、どっちも急傾斜の高台で、ようやく道をまちがえたことに気がつく。

山岳部の連中のタチのわるいのは(一般的に、ではないと思う。私の知ってる何十年も前の連中だ)、そこで強行突破してしまうだけの体力と装備をもっていることだ。いや、ちょっと戻ればいいだけなのだ。けれど、そこでおもむろに地形図とコンパスを取り出して、「ちょっと外れてしまったけど、こっちの方向にこの斜面をトラバったら支尾根の方に出れるはず」みたいな、雪山だったら正しいかもしれない、絶対にまちがった判断をやってしまう。そして、行ってしまう。おい、戻れよ。戻ったほうが早いよと、第三者的な立場からはいえるのだけれど、そこを強行してしまう。そして、どう考えてもヤバいザレ場を突破したりして、行っちまう。

ただ、低山をなめてはいけないのは、それが通用しない場面もある、というよりも本当なら通用しない場面のほうが多いからだ。だいたいからして日本の山はV字谷みたいに言われるが、むしろ小文字の「r」ぐらいに思ったほうがいい。谷筋に向かうと急速に傾斜が増すのが普通だ。だからうっかり下っていくと、思いがけない急斜面やガレ場、ときには崖に行き当たる。いったん谷底まで行ったらいいのかといえば、日本の沢筋には滝やゴルジュ帯があったりする。昭和からこっちは谷沿いの林道なんかも開発されてたりするのだけれど、それは少し高いところを高まいていたりして、谷底からでは存在が見えなかったり、あるいは無理にそこまで登ろうとすると、また崖に阻まれたりする。突破するのにロープ持ち出して懸垂下降したり、おい、目的を果たして気楽なはずの下山中にそんなことするのかよと、そんな事態にもなりかねない。

あるいは、低山で案外にやっかいなのが人里近くなってから道を外れてしまったときだ。自然の崖なら弱点をつくなり最悪ロープワークまで繰り出して突破する山岳部の連中も、まさか道路の擁壁のコンクリートの懸崖をそうやって通過するわけにはいかない。「この沢筋を下れば道路に出られるはず」と思って下っていったら両岸をコンクリート護岸で固められていて、にっちもさっちもいかなくなることだってある。私有地の柵にぶち当たって、柵が切れるまで延々と密な藪と格闘しなければならないこともある。身体的なダメージでいえば、これは相当にでかい。

ふつう、そこで道に迷わないだろうとか、道に迷ったことがわかった時点で引き返せばいいのにとか、冷静になれば思う。けれど、どうにか突破できるだけの体力と根性と装備をもって行動してると、「えい、いってしまえ」となってしまう。そういうことを繰り返しているといつか死ぬぞと思いながらも、本人に「迷った」という感覚がないから、前に進んでしまう。

 

そう、一般人が「道に迷った」と感じる場面で、ある人々は「おや、やっかいごとがおこった」ぐらいにしか思わないのだ。「ある人々」なんて言わなくていい。どうやら私はそういう性格だ。ふつう、「あ、ヤバいな」と思ったとき、ひとは引き返す。私は突っ込んでしまう。客観的に見ればアホなことで、場合によっては道徳的にアウトなことであっても、行ってしまう。いや、山の話ばかりではない(ちなみに低山でそういうアホなことをしてしまったのは、家から歩いて出かけた六甲の山で10年ばかり前にやらかしたのが最後だ)。仕事でも生活でも、「そこでやめとけよ」とずっと後になって冷静になったら思うようなことでも、「なんとかなる」と突っ込んでしまう。

こういう人生で、よく生き延びてこられたなと、自分ながら呆れる。けれど、突っ込んでは窮地に陥ってなんとか脱出するのを繰り返す。おそらく、そういうスリルを味わってしまうと、それが人生の刺激になってしまうんだろう。何だ薬物中毒と同じじゃないか。アブナイ奴じゃないかと、我が事ながら思ってしまう。

命までは取られなかった。けれど、その過程で、迷惑をかけたひとはずいぶんいる。それはいまでも痛い。だから、せめてこのぐらい生きてきたんだから、残りの人生、他人に迷惑をかけることは避けるようにしていきたい。とは思いながら、やっぱりやっちまうんだろうなとも思う。中学生のとき、葛城山で、道に迷って、それでもなんとか突破できたあの体験が道を踏みまちがえた最初だったのだろう。あそこに戻れるなら…