住む場所の問題 - 生きることの基礎として

長く生きてきたおかげで、いろんな場所に住んできた。豪邸からアパートまで、ひととおりの暮らしはわかる。いちばんせまかったのは公称6畳、天井を見上げたらベニヤ板が3枚半という便所共用の中野のアパートだった。いちばん惨めったらしかったのは、田んぼの真ん中にある作業場併設の飯場みたいな小屋に住んだ半年ほどで、あそこでフロッピーディスクにぜんぶカビをはやしてしまった。事務所の床にころがって仮眠したこともあれば、ホームレスさながらに深夜のゴミ置き場で新聞紙にくるまって寒さをしのいだこともある。いまは一戸建てでストーブに薪をくべながら優雅な生活をさせてもらっているが、結婚してからでも田舎の古民家、地方都市の棟割長屋、都市郊外の高層アパートと転々とした。子育てに住居がどれほど重要かも実感してきた。

だから、「子どもの貧困とライフチャンス」の第8章で住居の問題が語られていても、「そりゃそうだろう」とおもうばかりだった。どんなところに住むのかは、子どもの成長におおきく影響する。そして、「どんなところ」といったときには、住居そのものの物理的な特性と、その住居が存在する環境と、その両方がからんでくる。さらにはそこでの暮らしかたも重要だろう。この章では住居のなかでどのように暮らすかについては語られていない。それがいかに子どもの育ちにとってたいせつでも、そこはあまりに個人的なことであり、社会学がどうこういうことではないということなのかもしれない。

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物理的な住まいそのものの問題では、まず、その有無が重要だろう。安定した住居がないとき、その状態をホームレスという。ちなみに、英語のhomeは「かえるべき場所」というイメージがいちばんまちがいがない(だから、野球ではランナーがかえってくる場所をホームベースというのだし)。イギリスの政策では住居に困っている困窮者には政府が一時的居住施設をあてがうことになっているのだが、そういうところはあくまで一時的にそこにいるだけなので、homeではない。つまり、野宿者のほかカフェや親類や友人の家を転々としているせまい意味でのホームレスにくわえて、一時的居住施設に入居しているひとも、「かえるべき場所」をもたいないので広い意味ではホームレスである。

つぎに、住居の質がある。せまかったり破損していたり、湿気ていたり暑すぎたり寒すぎたりという問題だ。本書ではとりあげられていないが、シックハウスの問題も無視できないだろう。化学物質だけでなく、ダニや蚊などの害にさらされることもQOLを下げる。住設備にかんしては贅沢をいいだしたらきりはないが、あまりに老朽化しているものや時代おくれなものは、やはり子どもの成長に影響するだろう。

物理的な住居と関連しながらも独立した因子としてはたらくのが、家賃や住宅ローンの返済だ。家賃はその住居の地理的な位置とも関係する。だから、家賃の高い物件がそのまま質の高い家であるとはかぎらない。東京の家賃の高さは有名だが、本書によればロンドンも相当なようだ。
そして居住地域だ。どんな環境が子育てにいいのかは、個人の感覚であり、指向性だ。ただ、その個人的な選択の集積として貧困家庭が特定地域に集中するようになると、そこに負の連鎖が発生する。好ましいことではない。

 

さて、本章の内容にうつる。まずホームレスだが、これは地域によってずいぶんちがうとはいえ、2003年をピークに減少をつづけている。それはけっこうなことなのだけれど、たとえばイングランドでは0.25%の世帯がホームレスと、けっしてすくなくない。おまけに「これら世帯の4分の3には扶養の子どももしくは妊婦がいる」。子育て世代のほうが住居にこまる割合が高いのだ。一時的居住施設に入居しているひとは上記の数字よりおおいのだけれど、そちらもやはり8割近くが子どももしくは妊婦のいる世帯だとのことだ。そのおおくがロンドン在住ということは、大都市でなければ若いひとの仕事は容易にみつからず、かといって大都市の家賃がたかく、ちょっとした困難ですぐに支払不能におちいってしまう脆弱な立場にたたされていることをあらわしているのだろう。「イギリスの若い人は高齢の人に比べて3倍もホームレスに陥りやすい」。たいへんだ。

そういう状況でよく子どもをもとうとおもえるな、ともかんじるが、しかし、経済状況がわるいからと子どもはおろか結婚もかんがえられないようなどこかの国の若者の状況と、とりあえず家庭をもつところまではたどりつけるイギリスの若者の状況と、どっちがより未来にとってマシなのかと視点をかえると、他人事ではない気持ちにさせられる。

それでもようやく住居を確保できたとして、それが生活の質をあげてくれるとは一概にいえない。イギリスの住宅の2割は「保健上の基準、安全上の基準の未達、メンテナンス不備、旧式設備、温度管理などの問題がある」のだし、「とくに民間賃貸部門では全体の3分の1が不適切される」とのことだ。賃貸物件には公的賃貸住宅と民間賃貸住宅があるわけだが、とくに民間賃貸の質が低く、それでいて家賃が高い。けれど、公的賃貸住宅への入居は容易ではないので、子育て世帯は民間賃貸住宅を利用する傾向がある。「扶養対象となる子どもがいる家庭のうち36パーセントが民間賃貸住宅に居住している」。それもあってか、「貧困下に暮らす子どもたちが…深刻なほど補修が行き届かない家や、過密状態の家に暮らすことになる確率が相当に高い」。

質の低い住居が子どもの成長に悪影響をあたえることは容易に想像できるのだけれど、「子どものウェルビーイングやライフチャンスに対する質の低い住居の影響を因果関係として取り出すのはむずかしい」。というのも、質の低い住居は貧困とむすびつきやすく、貧困はべつの経路をとおって子どもの成長に影響するからだ。だから、質の低い住居に暮らす子どものいくつかの指標が低かったとして、それが住居の影響なのか、それとも貧困の影響であるのか、判定ができない。それでも、たとえば成績や健康などの指標で、あきらかな相関はみられる。寒さ、湿気、カビ、ダニなどの健康への影響、学習スペースの欠如による成績低下、プライバシーを保てないことによる心理的影響などは、因果の経路を推定しやすいものだろう。

それにしても、イギリスの家賃は高い。公的賃貸住宅では収入の31パーセント、民間賃貸住宅では収入の43パーセントが家賃に消えている。これは補助金を差し引いた額で、補助金なしならそれぞれ42パーセントと52パーセントになる。収入の半分が家賃に消える計算だ。一方の住宅ローンの支払いは収入の19パーセントとのことで、これはもともとあった格差をさらに拡大する方向にはたらいているのだろう。「子どもがいる人の27パーセントが住宅ローンや家賃の支払いが心配で光熱費や被服費を減らしたと答えている」とのことだから、住居費はかなり生活を圧迫する。

日本では北海道が「灯油の値段が上がると死ぬ」といわれるほど冬期の燃料費がかかるのだけれど、イギリスには「エネルギー貧困」という概念があるらしい。それに該当する世帯が全体の2割ほどもある。さらに、「子どもたちの10パーセントが家が湿気ていて黴臭いと述べており、28パーセントが家が寒すぎると考えている」そうだ。

住居費の負担が大きいことは、とくに収入の低い世帯では、親の労働時間の過剰につながりやすい。結果として、子どもと過ごす時間が減り、必要な目配りもとどかない。その影響は以前までの記事でふれたとおりだ。

貧困家庭が特定の地域に偏りやすい傾向は、統計的にあきらかになっている。それは、民間賃貸住宅のほうが環境問題をかかえやすい傾向と関係があるのかもしれない。「貧困生活を送る世帯は、環境問題のある地域の率が高い」し、「子どものいる世帯は、子どものいない世帯に比べて、わずかではあるが、最も問題の多い地域に住む率が高い」上に、「ひとり親は最も問題の多い地域に住む率がはるかに高く」なっている。このようにして貧困家庭のおおい地域がうまれれば、それが学校に問題をひきおこし、貧困の再生産につながる。そのようすもまた、以前にふれたことだ。

家庭教師という仕事をしてきた関係で、私は自分が住んできた家のほかにも、子どもが育つ住居を数おおくみてきた。そのなかでかんじるのは、やはり新式の家は子どもにとって快適なのだな、ということだ。もちろん、高気密の家でエアコンを必要以上にかけてかえって不快をかんじるような子ども部屋とか、家はあたらしいのだけれど掃除がいきとどかなくて息がつまりそうなケースとか、高層階で地上に出るまで時間がかかりすぎる住まいとか、一概にはいえない。けれど、伝統家屋の座敷はやっぱり寒くて、こたつをいれてくれていてもなかなか勉強に集中できなかったりする。あるいは築50年たつような古いビルにあった子ども部屋は、西日がさすのにエアコンもなくて、一気に体力を消耗した。狭いアパートで子ども部屋もなくちゃぶ台を片づけて勉強したときも、すぐとなりでちいさな弟がテレビをみているわきで教えなければいけなかったときも、これでは成績があがらないのも無理はないとおもってしまった。もちろん、どんな逆境でもくふうとがんばりでのりきるひとはいるのだし、そういった経験こそが成長の糧になったというひともすくなくはないだろう。成績があがらないことを住居のせいにしてはならない。だが、そうおもうたびにまた、山に登っていた若いころをおもいだすのだ。

大学山岳部は、きびしいところだ。山登りをはじめたばかりの初心者を、ほんの1、2年前までその初心者だった先輩が引率していくのだから、厳格すぎるぐらいに厳格でないと危ないというのはわかる。装備も安全がわをとり、だから荷物はおもかった。その重荷のなかにかならずセーター(まだ現代のようないい素材がない時代には天然素材のセーターが最後のトリデだった)が1枚、厳重に包装されてはいっていた。非常時に身につけるためのものだ。また、風雪をふせぐヤッケも同様に厳重に包装されていた。これらの衣類、なかなか出番がない。非常用セーターなんか、私は1回もつかったことがない。ヤッケでさえ、めったに出さない。1年生が「寒いから」とセーターを出そうとしたら、たちまち先輩からしかられる。「風が出てきたからヤッケをきますか」ときいたら、「いまヤッケなんかきて汗をかいたら稜線に出たときに寒さで死ぬぞ」とおどされる。防寒着は基本的にかつぐものであり、きるものではなかった。そういうふうに育てられたから、私も鬼の先輩になったときには、1年生にやかましくそういいつづけた。

ところが、おなじ大学山岳部でも、学校によって文化がちがう。ある大学の山岳部と合同でのぼっていたとき、そっちの1年生は最初っから分厚い防寒着をきている。うちのような貧乏学生ばかりのクラブでなかったこともあるだろうが、当時出はじめたばかりの機能性繊維のジャケットだったりする。「あんなものきてあるいたら、汗をかいてバテるだけじゃない」と、こっちはこっちの常識でおもうのだけれど、たしかにあせはかいているけれど、そこまでの差は出ない。そして、だんだん寒くなってくる。こっちはいつもの調子でガマンしている。そうやってきたえるんだ、ぐらいの気持ちでいる。「こんなところで厚着するなんて軟弱な」ぐらいにおもっている。そして稜線をまえに、「もうよかろう」とヤッケをとりだすのだけれど、実はその時点ですっかり身体が冷えている。そこから先、うごきがいいのは実は最初っからジャケットをきていた連中で、「軟弱な」とそれを冷ややかにみていたこっちのほうはもう寒さにやられている。

そのときになって、うかつな私もようやく気がついた。根性だとか鍛錬だとか、そんなことにこだわるのはバカげている。たしかにすこしはきたえられるかもしれない。けれど、最終的に結果を出すのは軟弱といわれても文明の利器を活用する連中なんだ。登山みたいな「生きのこったら勝ち」式のゲームをやってる以上、つかえるものはどんどんつかえばいい。人生もおなじで、ラクをすることに恥じてはならない。質素な暮らしもエコライフも、趣味でやるぶんにはかまわないけれど、最終的に勝ちのこるのはつかえるものを活用したほうだ。だから、若いひとが「あまやかされてる」とか「贅沢だ」とかいうふうにみえるたびに自分をいましめてきた。そうやってラクをしたほうがしあわせなら、それを選択すればいい。しあわせに育ったひとは、長じてしあわせな世の中をつくるだろう。

もしもせまい家やさむい子ども部屋、じめじめしたアパートや身体がかゆくなるような建材の住居からぬけ出すことができるなら、絶対にそのほうがいい。そういう場所が人間をきたえる場合があるかもしれないが、ダメにする場合だってある。確率論的にいえば、後者のほうがさけるべきだろう。だから、子どもたちにはできるだけ快適な住居をあたえたいし、もしもそれが経済的な理由でできないのなら、それが可能になるような社会制度をかんがえなければいけないのだとおもう。本章では、イギリス政府にたいして民間賃貸住宅部門に対する制度改正や公的賃貸住宅の増設、補助金の改正などを提言している。しかし、もしも収入の不足が理由であるのなら、結局はすべてのひとに適正な収入を確保すること、つまりは貧困対策がもっとも早道ではないのだろうか。

家賃がはらえるなら、だれが粗悪な物件に住みたいとおもうだろう。それは単純に、いのちをすりへらすだけなのだから。

 

(次回につづく)