歴史の本を書いた - 身の程知らずではあっても

家庭教師は基本的にナンデモ屋だから、生徒が必要とするものはなんでも扱う。小学校の算数から高校数学まで教えるし、国語だったら平仮名の練習から漢文の解釈まで、英語だったらABCから英検1級まで、どんな教科でもどんな難易度でもやる。もちろん数学Ⅲとか漢文の正確な解釈、英検1級レベルの単語とか、正直、「教える」なんてレベルに自分がいないことは十分にわかっている。ただ、家庭教師の仕事は生徒が学ぶのを助けることだ。教えられなくてもアシストはできる。それで十分に存在価値がある。自分では細かいところまでわからなくても大まかな方向性をヒントとして示すこともできるし、周辺の知識を提供して理解を助けることもできる。いまはWebで調べるのも簡単だから、生徒が悩んでいるあいだに先回りして語源や発音を調べておくこともできる。どういうふうにアシストすれば生徒がうまく伸びるのかを考えるのが仕事だといってもいい(だからむずかしいのは高等学校の生徒よりもむしろ小学生だったりする。その話は長くなるので、別途機会があれば)。

理科や社会科も同様に小学校から高校まで、あらゆる学年を相手にする。ただ、このあたりは広範な知識が必要になるので、多くの場合、教科書を一緒に読みながら解説することになる。だいたいが、私は未だにオリオン座以外の星座を見分けられないし、PH試験紙の色の変化もわかっていない。歴史だったら大仏がいつ建立されたのかもモンゴルがいつ攻めてきたのかも、西暦何年と正確には言えない。そういう個別の事実を暗記するのが実はひどく苦手で、覚えているのは語呂合わせが有名な「794ウグイス平安京」と「894に戻す遣唐使」のほかは、キリがいい1600年の関ヶ原合戦ぐらいなものだ(「1192つくる」は最近は流行らないらしいので、4つしか覚えていないうちの1つが失われて残念だ)。ともかくも、そういう細かい正確性は教科書に任せてしまう。

といっても、教科書を読むだけなら家庭教師は要らないわけで、そこはそれなりに、いろいろと解説を加える。暗記もできないような者が何を解説するんだとツッコまれそうだが、そこは亀の甲より年の功、けっこう長く生きてきたおかげで世の中のことをいろいろみてきているから、話をひろげたり膨らませたりすることはできる。理科で登場する炭酸水素ナトリウムは山菜のアク抜き、ミョウバンはナスの漬物の色出しに使えるなんて、若いひとは案外と知らないものだ。昔はホウ酸水で目を洗うなんて野蛮なことをしてたんだよと、現代では溶解度の実験以外でお目にかからないホウ酸のことを喋ったりもできる。原理の理解にも得点力アップにも役には立たないのだけれど、そういう余分なことが案外と強固な基盤をつくってくれたりもする。正体不明の白い粉よりは、多少なりとも素性がわかっている方が覚えやすいものなのかもしれない。歴史だってそうで「惣」なんて聞き慣れない用語を単体で覚えるよりは、「お惣菜」の説明から入ったほうが印象が深かろう。俵物を解説するときに、沖縄料理のクーブイリチーに触れれば興味も増すはずだ。

歴史は小学校6年と中学で学び、選択によっては高校でも学ぶ。史実が2通りも3通りもあるわけではないから同じ歴史を学ぶのだけれど、力点はそれぞれちがう。小学校の歴史が人物本位になっているのは、そのほうがとっつきやすいからだろう。もちろん、歴史は偉人伝ではない。そこは教科書はちゃんとわかっていて、人物が出てきてもユニークなエピソードはあまりとりあげられず、その人物が象徴する時代の動きに焦点があたるように工夫されている。たとえば聖徳太子は、十七条憲法を通じての内政の制度化や遣隋使を通じての国際関係を語る文脈で用いられている。源氏なら武勇伝の義経よりも幕府を開いた頼朝に注目する。

中学の社会科になると、登場人物が増える反面、人物描写はどんどんと少なくなる。歴史の教師のなかにはそれを補うようにいろんなエピソードをどんどんと追加する達人もいて、それはそれでけっこう生徒の興味を引っ張り、歴史への関心を高めていく。だが、歴史で重要なのは断片ではなく変化だ。土地の利用と課税が律令制からどのように変化していったのかとか、仏教の受容がどのようにはじまってやがて日本独特の宗教へと変容していったのかとか、貨幣の利用がどのように広がっていったのかとか、そういった流れをつかむことができれば、暗記が苦手でも歴史は楽しむことができるようになる。ひとりひとりの顔を見ることもだいじなのかもしれないが、社会科は群れとしての人間を観察する学問だ。だから私は、歴史に関しては教科書を読みながら、特に変化に注意を促す講義をする。「以前と何が変わったのか」が教科書にはっきりと書いていない場合には、ページを戻らせて図を比較させたりもする。写真や絵に描かれた人びとの服装や行動の共通するところ、相違するところを指摘したりもする。

ただし、そういう講義ができる機会はかぎられている。家庭教師はつねに全体を見渡してもっとも効率的に目標を達成する方法を考える。理科や社会科は本来暗記教科ではないのだけれど、それを暗記教科として力技でこなしてしまう生徒は少なくないし、そうやってどうにか得点が維持できている生徒に「いや、それは本筋じゃないから」と介入するのは(学年トップを狙うとかよっぽどの事情でもない限りは)得策ではない。たいていの場合は数学や英語、ときには国語の補強のほうが全体のバランスから言えば重要で、主要なリソースはそちらに割くことになる。社会科の補強に比較的時間が取りやすいのは学校の授業がはじまる前の春休みから4月にかけてだけれど、1回か2回で進められるのはよくて奈良時代平安時代半ばぐらいまでなので、中途半端な感覚は否めない。あるいは「江戸時代が苦手なんですよ」みたいにいわれてそこを集中講義しても、前後のつながりが不十分に感じてしまう。だいたいがなんで将軍が威張ってるんだ?

この春、中学受験を控えた小学6年生を2人教えている。いずれも4年生、5年生から準備を進めてきた生徒だから、基本的には長期計画を順調に遂行中というところだ。だが、理科と社会をどうするか、昨年秋あたりからちょっと悩んでいた。というのは、どちらの生徒も受験科目としては、理科も社会もない。一方は算数と国語プラス総合問題で、もう一方は教科指定のないいわゆる「適性検査問題」だ。適性検査問題は学校によって実に千差万別だが、志望している学校では細かな知識や技能が問われることはない。そういう前提があるときに、社会科をまったくやらないのは対策として不十分だけれど、入試対策レベルまで詳しくやるべきかといわれればそうではない。3大改革の判別みたいな細かなことはどうせ出ないのだ。それよりは、算数の図形の処理とか国語の読解とか、点数に大きく影響するところに力を注ぎたい。とはいえ、ある程度の流れを掴んでいないと総合問題も適性検査問題もリスクが高すぎる。

だったら、いつも講義で喋ってる内容をテキストに落とし込んで読んでもらえばいいじゃないかと思いついた。2人とも国語の力はしっかりしているから、読むことに苦痛は感じない。講義で聞くのと読むのとでは同じ効果は得られないかもしれないが、人間には同じ内容の話に別形式で何度かふれると理解が高まる傾向がある。読み物として読んでもらったうえで学校の授業で話を聞いたら、必要とする程度の理解は十分に得られるのではなかろうか。

そして、この生徒を念頭に、彼女らに講義しているつもりで日本の通史を書き上げた。これは小学校・中学校の歴史が基本的に日本史であることによるものだ。学校で習わないことまで教えてもいまのところはあまり役に立たないから、なるべくそこからはみ出さないように心がけた。結果、1冊の本ができ上がった。

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世の中に、教師が生徒に手渡す手作り教材はあふれかえっている。代表的なものは授業で配られるプリントだ。正直なところ、私はそういうものをつくる教師の心理がわからない。なぜきちんとした教科書があるのに、より不完全な手作りプリントを生徒に押し付けるのだろうか。確かに教科書には実に多くの情報が記載されていて、それを全部覚えるのは実質的に不可能だ。その一方で、テストに出る項目はそこまで多くない。であるならば「重要事項」だけまとめてプリントにしてやったほうが生徒のためだ、という親心なのかもしれない。けれど、そういうのは小さな親切・大きなお世話だ。教科書の記述は、歴史を理解するためには最低限そのぐらいの言葉がなければ足りないから印刷されているのであって、何も一言一句を暗記しろという意図で記述されているのではない。もしも暗記リストだけで歴史が十分に語れるのであれば、むしろ教科書がそうなっているはずだ。歴史とは人びとの営みの変遷であって、その理解のためには、それが語られねばならない。語る際にいくつかの用語は必須かもしれないが、用語はツールに過ぎず、重要なのは語ることによって得られる理解である。理解のためには、まずは語られることが必要であり、語る言葉こそが必須であるともいえる。

だから私は、「重要事項」を羅列したプリントのようなものをつくりたいとは思わない(ついでにいうと、そういうタイプの参考書も信用しない)。そういうのが役立つ場面もあるかもしれない。たとえば、そういう抜き書きを自分で作った場合だろう。ひょっとしたらプリントを配布する教師は自分がそれを生徒の頃に作った過去があって、それが役立ったという実体験があり、だからこそ、その役立つツールを共有したいと思っているのかもしれない。だが、実際には作る過程が役立つのであって、でき上がった無味乾燥の要点集にはほぼ意味はない。もちろん、暗記リストで取れる点数もあるから、テスト対策として完全に無意味ではなかろう。だが、学問はテストのためにあるのではない。テストの点数なんて、ついでで取れるぐらいが理想なんだから。

だから、私の講義はいきおい用語や人物名なんかの重要暗記項目はすっ飛ばしてしまう。今回の本でも、可能なら歴史用語なんかは一切抜きで書きたかった。けれど、それはそれで学校の予習としての意味をなさなくなる。だからネタにさえなる「墾田永年私財法」とか「承久の乱」とかの用語は適宜入れた。ただ、そういう言葉の定義まで踏み込む必要はなく、中学校で「そういえばそんな言葉をどこかで見たなあ」程度に思い出せれば十分だと思って、サラッと流しているものが多い。用語にはあまりこだわらず、重要な用語で抜けているものは多い。そのあたりの整合性の欠落は、教科書や、あるいは暗記リスト的なプリントであれば重大な欠点になると思う。この本は、そういうものとは性格が異なる。そういう意味では、用語や正確性を教科書に任せてどんどん喋りまくるいつもの講義と同じだ。講釈師、見てきたようなウソを言い、という川柳があるが、まあそれに近いものだと思ってもらってもいい。ウソすれすれでも、ウソとは言い難い教科書を際立たせるためであれば意味はある。

 

書きながら、ときどき頭をよぎったのは、数年前に話題になった「日本国紀」だ。私は読んでいない。ネット上の猛烈な批判をみれば読む気も失せる。だいたいが、「教科書が教えない」式の「真実」をうたう売り文句ほど警戒心を呼び起こすものはない。学習指導要領は最低限、現代の社会に合意された通説を扱うものであって、ときに「そうはいってもなあ」という部分があっても、それは通説をしっかり踏まえた上で「そこで止めたらアカンやろ」的なものでなければならない。読んでいない本の批判をするのは避けるのだけれど、「神話とともに誕生し、万世一系天皇を中心に、独自の発展を遂げてきた、私たちの国・日本。」みたいな売り文句は、それだけでアレな本だと主張しているんじゃなかろうか。

そうであってもこの本を思い浮かべることがあったのは、読み物として楽しめる通史という位置づけだ。そういうものがあってもいい。とくに、子ども向けにあってもいいと、これは家庭教師をはじめたころからずっと思ってきた。なぜなら、私自身が、そういった通俗的な歴史書から歴史に近づいていった子ども時代を経験しているからだ。通史としてみると相当なボリュームになってしまうのだけれど、何巻にも分かれて各時代のトピックスを扱った子ども向けの歴史書が、かつては多くの出版社から刊行されていた。執筆陣もいまふりかえってみればけっこう一流の学者や作家が起用されているケースもあったようだ。内容は、ときにはかなり俗流であったりもするけれど、興味をかきたててくれるものが多かった。何冊か飛び飛びにしか読まなかったけれど、小学校高学年の頃に読んだそういう本が私の歴史への入り口だった。やがて高校時代になると、大人向けに書かれた通史を何種類か読んだ。翻訳物とかを読むと同じ世界史を扱っているのにずいぶんと視点が異なっていて驚かされたりもした。分厚いものも薄いものもあったが、過去から現在へと歴史を通して見ることで、社会を見る視点がさまざまだと学んだように思う。

こういう話をすると、多くの人が小学生のときに読んだマンガの話をする。実際、最初の「まんが日本史」みたいなシリーズが発刊されたのが(私の個人的な記憶がもしも正しければ)私が子どもの頃だったと思う。その時代にはまだ「マンガなんて」みたいな風潮もあったのだけれど、たちまちのうちに「子どもの歴史入門はマンガから」みたいな常識ができあがってしまった。いま、たいていの生徒の家にはそういった歴史のマンガ本が置いてある。けれど、活字中毒者の私からいわせれば「それはちょっとちがう」。一般に画像は文字よりも多量の情報を伝えるが、文字に比べれば自由度が低いものだ。歴史のような抽象的な概念を伝えるのに、ストレートなマンガはあまり適していない。コマの印象は強いからそれが効果的にはたらくケースもあるが、その一方で、断片的、エピソード中心、人物本位になりがちで、せっかくの経時的な流れをつかみにくくする。そういうもので育った人にはまた別の主張があるだろうが、そこを回避して子ども時代を過ごした私のような人間からみれば、およそ歴史とマンガの相性はよくない。マンガはもっと文学的なものであるように思う。

文学は文学で貴重なものだ。だが、そこからもう少し外れた領域で、それでいて厳密な学問までいかないあたりに、なにかとっかかりのいい歴史への入り口があってもいい。そういう本があれば生徒に与えたいと思って書店に行くたびに書棚を見ていたのだが、これというものには遭遇しなかった(存在しないとはいわない。私もそこまで徹底して調べてはいない)。だから、大人向けではあるけれど「読みやすい通史」である「日本国紀」の話を聞いたときに、ある部分では「そうそう、そういうことだよ」と思い、ある部分では「やられた!」とも思った。学問としては厳密性を欠くのだけれど、あたかも社会を1つの有機体のようにみて、その物語を叙述するという手法は、歴史への入り方としてメリットがある。そういう意味で、学問としての歴史研究とは別な、語りとしての歴史があってもいいと思う。その場合、そこに独自研究を盛り込むべきではない。独自研究はあくまで学問としてやるべきで、それは専門家に任せるべきだ。もちろん郷土史家のような在野の研究者を専門家家から除外するつもりはない。しっかりと一次史料にあたり、エビデンスを積み上げて議論をおこなうひとはすべて専門家と言ってよかろう。一方、それを語るのは、講釈師であり小説家であってかまわない。ただし、その語る内容は専門家によって確立された通説であるべき。通説から踏み出す部分は明らかにフィクションであるとか、あるいは感想として語られるべきだ。「私はこう感じた」は、話を面白くする。そういう工夫はあってもいい。

だからこそ、「教科書が教えない」式の歴史本には眉に唾をつけねばならない。もちろん、教科書なんてしょせんは先端の研究のずいぶんあとから足を引きずりながらくっついていくものだから、専門家からはいろいろと批判があって当然だ。ただし、歴史全体の専門家なんてなかなかいないのだから、通史を書くとなったら一歩退いて、通説のレベルはおさえておかないといけない。まして、専門家でもない講釈師・小説家のレベルであれば、話を面白くするためだけに珍説を持ち出すべきではない。あるいは、持ち出すならばフィクションとして創作すべきだろう。そのうえでなお、語り口によって話を面白くすることはできるはずだ。

そういう本があれば私はぜひ読みたいし、生徒たちにも勧めたい。実際、そういう本はある。ただ、小中学生には荷が重い。とくに、学校で歴史を学ぶ前、あるいは学んでいる最中に、そことうまく整合するようなものはなかなか見かけない。だから書こうということになったわけだが、残念ながら私は講談師でも文学者でもない。どこまで面白く語れたのかは、まるで自信がない。とはいえ、当面、これ以上のものが書けるとも思わないので、電子書籍としてリリースすることにした。これが黒歴史になれば、それを打ち消そうとする努力もまた生まれるだろう。そんな努力がいい方向に作用すれば、それはそれでいいではないか。

身の程知らずだなあとは思う。ふつう、歴史、それも通史なんて、相当な大家じゃなきゃ書けないだろう。一介の家庭教師のやるべきことじゃない。それでも、私は自分の生徒のためにこれを必要としているのだし、そのときにリンクひとつ渡して済むのなら、それに越したことはない。ここまで生徒にはPDFで渡してきたのだけれど、いずれもプリントアウトして読んでくれた。それはそれで嬉しいけれど、A4で50枚以上ある文書をコンビニでプリントしたらずいぶん高くつくし、自宅のプリンタだとしてもランニングコストを考えたら数百円はかかる。それよりはAmazon電子書籍に代金を払ってもらったほうが安くあがるし、なんならプライム会員無料のはず。もちろんもっと完全に無料で配布する方法もいろいろあるにせよ、とりあえずはアマゾンの電子書籍の最低料金に設定しておくのがベストなのかなあと考えた。

私が必要とするのと同じように必要とするひとが見つけて、利用してもらえたら嬉しい。そして、この本が不要になるようなもっといいものが見つかれば、そのときにはこの本はディスコンにしてもいいと思う。今回のリリースが、それを見つけるきっかけになれば、それはそれで役目を果たしたことにもなるだろうから。

曲がり道を前にして

…クイーン学院を卒業したとき、未来はまっすぐに、一本道みたいに続いてる、そんなふうに見えた。マイルストーンがひとつひとつ、先の方にはっきりと見える気がした。でも、いま、道は曲がっている。曲がったところの向こう側に、何があるのかわからない。けど、もっとずっといいことがあるんだと信じようと思う。それはそれで素晴らしいことでしょ。道が曲がってることが。そこをぐっと曲がったら、その先がどこに続くのか、想像してみる。柔らかい輝きと陰影が緑に光る風景の中にゆれる、そこで見つかるもの。新しい景色。新しい美しさ。稜線や、丘や、谷間が進むにつれて…

L.M.モンゴメリの「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)の最終章、私の最も好きな一節だ。レドモンドでの奨学金が受けられることになっていたアンは、マリラとグリーンゲイブルズを守るため、地元で働く決心をする。マリラに自分を犠牲にすることはないと言われて、こんな答えを返す。ふくらんでいた夢はいったん諦めても、その先に、もっと豊かなものが待っているのではないかと期待する。その強さは、若かった私の胸を打った。おそらく作者自身も気に入っているシーンだったのだろう。続編の「アンの青春」(Anne of Avonlea)できっちり伏線を回収している。

人生の中で、先のほうがずっと見通せるような気がするときは、確かにある。もちろんそれは、ときには希望が広がる真っ直ぐな道である場合もあれば、絶望だけがどこまでも続く苦難の道である場合もあるだろう。いずれにせよ、「あ、この先、こうなって、ああなって、こういうふうになっていくんだろうな」と予想できるときはある。細かいところまでは見えなくても、途中に置かれた一里塚の存在は見える。そこに至る途中で道端に何があるかまではわからない。ではあっても、どこを通って、どんなふうに進んでいくのか、それはだいたい把握できるような気がする。

けれど、それが見えなくなることも、実にまたよくある。一寸先のことも見えない暗闇もあれば、少し先のことまでは見えるけれど、そこから先はまるで想像がつかないときもある。ちょうど、モンゴメリの主人公が感じたように、少し先のことは想像ができる。その先は道が曲がっていて見通せない。そんなときには焦りや絶望もやってくる。それでも、そういうときこそ、曲がっていった先に広がる新しい景色を、雄大な山並みの曲線を、輝く風を想像すべきなのだろう。いや、ひょっとしたら、曲がった先は相変わらず暗い森の中で、やっぱり先は見通せないのかもしれない。あるいは期待したものとはまったく違った工事現場みたいな景色が待っているのかもしれない。けれど、想像するのはfree(自由&無料)だ。

少し前まで、私はなんだかこの先が見通せるような気がしていた。もちろん未来のことはわからない。細かいところはさっぱり見えない。であっても、いくつかのマイルストーンが先にあって、そこをうまいことこなしていけば、きっとたどり着けると思える場所も見えていた。その場所が夢に見た桃源郷であるかどうかはわからない。これまでの経験からいえば、そうでない可能性も高い。けれど、そこにたどり着きたいし、きっとたどり着けると思っていた。

その風景はもう見えない。突然に見えなくなったというよりは、だんだんと視界を遮るものが増えてきて、そして、急に森の中に導かれてしまった。少しだけ先は見えるが、そこからは道が曲がっていてもう見えない。この道を抜けて、もともと目指していたところに出られるのか、それともまったく別な方向に連れて行かれるのか、それすら見当がつかない。それでも前に進むしかない。人生の道に後戻りはない。

こうなることは、ある程度、予想はついていたはずなのだ。だが、なんだか自分のことのような気がせず、楽観視していた。「どうにかなるだろう」と、タカを括っていた。高齢の母親のことだ。ここ数ヶ月、急速に弱ってきた。父親が亡くなって以来、一人暮らしになってもうじき3年、その前の父親の入院中からいえば3年以上も一人暮らしを続けてきたけれど、そろそろ危ないかなと感じるようになってきた。もうちょっともつだろうと希望的観測をしていたのだけれど、床掃除の姿勢から立ち上がれない様子を見かけて、あ、やばいなと思った。ベッドに寝ているのでふだんの寝起きはできるとして、床のような低いところから身を起こすだけの筋力がない。いったん倒れたら命にかかわる可能性だってある。そろそろ一人暮らしは続けられない。

施設とか、いろいろ選択肢はある。けっこうな時代だ。兄夫婦ともいろいろ相談した。結論として、当面は私が実家に移動して、そこで生活するのがもっともよかろうということになった。というのも、私はいま、オンラインの業務ばかりで、仕事の面だけでいえばどこにいても同じことだからだ。まあこれは、ある程度、こういう事態を想定して意識して調整してきたことでもある。他の仕事を入れられなくはなかったが、無理に入れなかった。いよいよとなったら、自分が動くという想定で進めてきた。だが、その「いよいよ」が来ると、「あーあ」と思わなくはない。

それに、日々の業務はオンラインの家庭教師や英語の翻訳だけなのだけれど、ほかにもいろいろとやろうとしていたことはある。むしろ、そっちのほうが、遠くまで見通せる夢の大きな部分を占めていたとさえいえる。けれど、漠然としたそんな計画よりも、まずは目の前のことだ。目の前のことといえば高齢の母親と、それから日々の稼ぎ仕事だ。だったら自分が動くのがいちばん無理がない。現実とはそういうもの。そして、風景は一変した。地味な仕事を毎日こなしていくこと、お互い行動パターンのちがう母親となるべく衝突しないように生活を回していくこと、そんなことは見える。引っ越しまでのさまざまな準備も、日程に組める。だが、その先は大きな曲がり道になっている。どれだけの期間それが続くのかも予想できないし、どんなふうに状況が変化するのかもわからない。最終的にどんなふうに終わるのかも、想像を絶する。私の両親は、あまり典型的な生き方をしてこなかった人たちなので、その分、後始末もどんなふうにするのがいいのか、世間相場というものが通用しない。

しかし、だからこそ、私は「その先」にあるものを楽しみにしようと思う。この曲がり道の先に、どんな風景が待っているのか、ほんとうに想像ができない。想像ができないということは、どんな想像をしても自由だということだ。だったら、できるだけ美しい風景、喜ばしい風景を想像しよう。ちょうど、グリーンゲイブルズのアンがそうしたように、曲がり道の先を楽しみにしよう。

 

ちなみに、アンが進学を諦めた理由のひとつは、育ての親であるマリラの視力が落ち込んで失明の可能性さえ宣告されていたからだ。そもそも(当時の基準では)高齢のマリラとマシューの介護問題が発生することは、最初からわかっていたではないかと、傍からは思えなくもない。傍目だけではない。当人たちもそれは十分にわかっていたのだ。そもそも最初に子どもを引き取る話が出たのも、マシューが年齢のために肉体労働をきつく感じるようになったからだ。だから、そこで対策をしようとしている。男の子を引き取るつもりが女の子を引き取ることになってからでさえ、人を雇って対策をしている。それでもさらに年をとれば働けなくなる。それに対しては、ちゃんとコツコツためたお金を信託銀行に預けている。マシューは自分たちの老後に対してそれなりに堅実であったわけだ。けれど、銀行の倒産と、そのショックによる心臓発作という二重の不運があって、思い描いた老後の生活は全て消えた。人生なんてそんなものだろう。そして、この物語は、介護と生活のために進学を諦めるという悲惨な話として終わる。

けれど、これがそんなストレートな話だったら、「赤毛のアン」はここまで長く人気を保てなかっただろう。結局のところ、客観的な目線では悲惨に見えるストーリーであっても、中に入ってしまえば笑いもあれば感動もある。人生とはそういうものだ。インドの遠い地でシッダールタ王子が見たように、人生は苦に満ちている。生まれてすぐに人がするのは泣くことだし、死は苦しくないわけはない。仮に当人に苦痛がなくとも、周囲に苦痛を感じる人がいるだろう。けれど、じゃあすべての人間の物語は悲劇なのかといえば、やっぱりそこに別のものがある。なにか、もっと「生きててよかったじゃないか」と思えるものがある。だからこそ、望んだわけでもないこの人生、とりあえず最後まで見届けてやろうじゃないかという気持ちにもなれる。

いったんいろんなことを整理して、とりあえず目の前のことに集中して、それでも、希望は捨てないでおこうと思う。それがごまかしでも、かまわない。とりあえず先にいかなければ見えないものがあるのなら、そこまで行ってやろうじゃないかと思う。その先に何が見えるか、行ってみなければわからないのだから。

牛乳の思い出

私はどちらかといえば牛乳をあまり飲まない。冷蔵庫にミルクカートンが常備されている、ということはなく、年に数回、500mLの紙パックを買う程度だ。ソフトクリームは好きだけれど、1つ食べるとほぼ確実にお腹を冷やしてしまうので、めったに食べない。乳製品でよく消費するのはチーズで、これはほとんど毎日のように食べてる。だから、けっして酪農一般に貢献していないわけではないと思う。牛乳を飲まないのは、単純に好みの問題だ。

もっとも、牛乳が嫌いというわけではない。若いころには牧場を訪れることも何度かあって、搾乳の現場も見学させてもらった。衛生上の問題とかもあるから自分で絞ったことはないが、手絞りも機械で絞るのも、興味深く眺めさせていただいた。そのたびに、「うまそうだなあ」と思った。

なぜなら、私がおそらく初めておいしいと思った牛乳は、そういうものだったからだ。おそらく小学校の低学年の頃のことだから、はっきりは覚えていない。味がどうだったとか、きれいさっぱり忘れている。ただ、いくつかの情景がうかぶだけだ。それすら遠く霞んでいて、いつ消えてもおかしくない。だから、思い出せるうちに書いておこう。

母方の祖父は、もともと牛飼いの家の生まれだった。長野県の小諸の山奥で、酪農を営む一家に生まれたのだという。祖父が生まれた明治の時代、酪農がどういうものであったのか、私は不勉強で知らない。現代のように生乳が日常的に飲まれる時代ではなかったはずだから、バターや練乳のような加工原料として出荷していたのではないかと思う。このあたりは憶測だ。

ともかく、祖父は生家をはなれて海軍軍人となった。戦争が終わったあとはある企業に勤めて大阪に住み、定年退職して京都府北部の田舎に引っ込んだ。妻である私の祖母の地縁・血縁がそこにあったからだ。それが1960年代の中頃のことだ。以後、私は年に数回、親に連れられて祖父母を訪ねる子ども時代を送った。私は偏食気味のアレルギー持ちで虚弱だったから、長時間自家用車に揺られてやっと田舎家に着いてもくたびれ果てて、ただぼんやりしていた。移動が大変だったということ以上の思い出はあまりない。

ただ、1960年代の末頃、家の都合で夏休みの割とまとまった期間、ひとりで祖父母の家に預けられたことがある。祖母とゆっくり過ごしたのはその夏だけだから、たぶん、思い出す情景はその夏のことだったのだろう。

軍人の妻として長く家庭を守り、また戦後には十数年に渡って大阪近郊の都市部に住んだとはいえ、祖母は農村の人だった。だから、田畑にはよく出ていた。祖父も大きな体で一輪車を押して野良仕事に出かけていた。私は祖母のあとをくっついてまわることも多かったが、ひとり留守番していることもよくあったように思う。なにせ弱っちい子どもだった。誘われても家にのこる方をえらぶことも多かっただろう。そのくせ、祖母の姿が見えないと不安になる甘えん坊でもあった。

そんな祖母が、あるとき、「牛乳、買いに行こか」と、私に言った。覚えているのはひとつの情景だけど、1回のことではなかったように思う。とはいえ、毎日でもなかったようだ。どういう時間帯だったかも思い出せないが、なんとなく夕方だったような気もする。祖母は空き瓶をかごに入れ、私はあとに従った。砂利道の田舎の国道から山道に折れ、すこし歩くとつよい家畜の匂いが漂ってきた。せまい牛舎に、牛が2頭見えた。牛飼いの家の人と祖母は少し話し、空き瓶を渡して牛乳の入った瓶を受け取ると、また私を連れてもと来た道を戻った。

記憶が薄れている割に詳しく書いているようだが、この場所はもっと大きくなってから(たぶん中学生ぐらいの頃に)自分で探検に歩いているので、あまりまちがってはいないと思う。さらにもっと後になって(たぶんこのシーンから十数年たって)行ったときには、もう牛はいなかった。牛は2頭きりだったのか、見えたのがそれだけだったのかはわからないが、いずれにせよ、ごくごく小規模の牛飼いだった。

祖母は、その牛乳を鍋でゆっくりと加熱して、そして飲ませてくれた。「牛乳は噛んで飲め」というのが祖父母の家に伝わる正しい牛乳の飲み方で、私はゆっくりと味わった。前述のようにその味は覚えていない。おいしかったかどうかさえ、記憶にない。

けれど、まちがいなくおいしかったはずだ。というのは、次に覚えているのは、おそらくその翌年か、あるいは数年後、私が牛乳を飲みたいと言い、祖母が残念そうに、「もう牛飼いさんからは牛乳を買えなくなった」と言ったことだからだ。私はびっくりして、もう牛はいないのかと聞いた。そうではない、牛はいるし、乳も絞れる。ただ、それを売り買いできなくなったというのだ。「保健所がきびしいから」というのがその理由だった。その言葉で、私は世の中に保健所というものが存在することを知った。

祖母によると、もともと、牛飼いが直接牛乳を販売することはご法度だったそうだ。いまなら理解できる。そりゃ、牛舎はそこまで清潔じゃない。そんな場所で小売をするのは、確かに衛生上問題がある。だから祖母も、必ず加熱してからしか子どもに飲ませなかった。牛乳は加熱殺菌するものだという常識と技術があって初めて、牛飼いが売る牛乳は飲めるものだった。田舎の小さなコミュニティの中だけなら、それでも通用したのだろう。保健所の規定がいつ頃どうできたのかは知らないが、1960年代のその頃までは、お目こぼししてもさして問題にはならなかったのではないだろうか。けれど、時代はどんどん変わっていく。そのなかで、やっぱりダメなものはダメ、ということになったのだろう。

幼い私はそんなことを理解することもなく、ただふしぎに思った。すぐそこに牛がいて、そして確かにそこでは乳搾りをしているのに、それが飲めない。その牛乳は農協にあつめられ、そしてまた販売されるという。祖母のところにも届けられる。「この牛乳にもちょっとぐらいはあの牛飼いさんのお乳がはいってると思うから」と祖母が出してくれた牛乳を飲んだ。そして、がっかりした。やはり味は覚えていないのだけれど、以前に飲んだ牛乳とはまったくちがうと思ったことは覚えている。偏食の子どもだっただけに、よけいにしっかりと覚えている。

 

法律が厳しくなったと私は理解したけれど、いろいろ考え合わせてみると、運用が厳格になったという方がいいように思う。実際の法制度の変遷をみたらそのへんははっきりするのだろう。運用の変化だったら、地域差も大きいかもしれない。ともかくも、搾りたての牛乳を飲むという贅沢をそれ以後、私はしていない。思えば貴重な体験だった。だが、その体験をしているときには、そんなことにはまったく気づかなかった。冴えない田舎で、臭い牛のそばに連れられていったことそのものは、ひどくつまらないことだと子どもには感じられた。そういうものだろう。

だから、若いひとに年寄りじみた忠告をしたい。どんなつまらないと感じられることでも、何十年経てばそれが貴重な体験だったと感じられる可能性があるのだと。もちろん、何十年経とうがひどい経験というものもある。年月とともにどんどん忌まわしさが増していく記憶もある。だからすべてのことをありがたがれとはいわない。けれど、たとえばいまごく当たり前に消費しているコンビニの商品だって、何十年後には絶対に買えない品になっている可能性だってあるのだ。そういえば、リプトンの紅茶が…

小学校卒業式、羽織袴の思い出

いま大学2年生の息子は、小学校卒業式に羽織袴で出席した。本来これは彼の思い出であり、私がどうのこうのと書くことではない。ひょっとしたら彼の中では黒歴史に近いものであるかもしれず、あまり触れられたくはないかもしれない。とはいえ、親には親の側の思い出もある。桜の花の季節に、少しそんなことを書いておこう。

小学校の卒業式に何を着るのか? 私の感覚は、こざっぱりしたものであれば何でもかまわない、というものだった。なにせ、古い話だが自分が子どものころ、1970年代の小学校の卒業式といえば、特別な格好をしている生徒はそんなにいなかったように思うのだ。自分のときにはふだん通学しているのとそれほど変わらない格好で出席した。だいたいが、子どもなんてすぐに服を汚してしまうのだから、晴れ着なんて無意味だよ、くらいの大雑把な時代だったのだと思う。中学校、高校の卒業式は制服だったし、大学はそもそも卒業さえしなかった。だから、「卒業式に晴れ着を」という感覚は、私にはなかった。

けれど、どうやら時代はそうではない。息子が小学校6年で卒業を目前にしたとき、卒業式は和服で出たいということを彼がいい出した。おそらくクラスの中で、「卒業式は何を着る」みたいな話題が出るようになっていたのだろう。ちなみに、彼は後に高校でも学年唯一の男子として女子に囲まれてもなんとかやり過ごせたぐらいに女子耐性が高く、小学校の頃も女子の仲間に入っておしゃべりしてることとか、普通だった。だから、特にそういったファッション系の話に敏感だったのかもしれない。

彼が和装だと言ったことに驚きはなかった。というのは、彼は小学校1年の頃から趣味として落語をやっていて(といっても正式に習ったわけではなく、完全に自己流)、年に5、6回は人前で舞台に上がっていたからだ。当然そういった機会には着物を着る。だから、その頃にはもう自分で着物を畳むことも帯を結ぶことも、一通りはできるようになっていた(ちなみに後に彼が高校に入って学校の日本文化の授業で踊りを習うことになったとき、「ちゃんと着付けを習える」と期待していたのに、先生は彼の着物姿をチラッと見て、「君はもういいね」と何も教えてくれなかったと、非常にがっかりしていた、という思い出もある)。彼から相談を受けた妻も、「あんたらしいから、えんちゃうん」と、反対はしなかった。けれど、私にはひとつだけ気がかりがあった。羽織、どうするよ?

落語を見ているとわかるが、ちゃんとした落語では、噺家は羽織を着て舞台に上がる。マクラを語り終わる頃にさりげなく羽織を脱いで、そこから本格的な話になるわけだ。和装のことは詳しくないが、やはり着流しはよろしくないのではなかろうか。ちなみに、妻の母親が着物を趣味にしていた関係で、彼は子どもにしてはけっこう小マシな着物はもっていたが、羽織まではついていない。それは身分不相応ということだ。けれど、着流し姿で卒業式は、そりゃ、ないんじゃないの?

私としては決してそこにこだわったつもりはないのだけれど、妻によると私が頑として受け付けなかったために、着物を着るなら羽織を着なければならない、ということになったらしい。じゃあ羽織をどうするか、ということに話は進んだ。既にある着物は彼の祖母に買ってもらったもので悪くはないのだけれど、それに合わせた羽織をつくるとなると相当な出費になる。だいたいが(私は着物に詳しくないからわからないのだけれど)羽織をつけて着るようなタイプの着物ではないらしい。羽織だけでも新調するお金はないのに、まして羽織付きで着物を新調するなど、とんでもない。

そこで、羽織だけでも借りられないかということになった。ちょうど中途半端に背が伸びてきたところだったのだけれど、着付けを工夫すれば彼の祖父の着物が着れるかもしれない(やっぱり羽織はない)。羽織だけでもどうにかならないかと、貸衣装屋に行った。

すると、貸衣装屋がいうには、お手持ちのものに合わせる羽織を探すよりは、一式借りてもらったほうがかんたんだし安いという。そりゃそうかもしれない。そして、羽織だけなんてのはおかしい、袴もつけなければ本当じゃないという。そういえばそうかもしれない。そして、羽織袴の礼装ならば、どこかにあったはずだと。なんだか、いつも着てる着物を着る話が、ずいぶんと大げさな、本格的な礼装になってしまった。けどまあ、それはそれでよく似合った。

ということで、彼は羽織袴の一式を借りることになった。卒業式の当日は早起きして着付けしてもらい、その大仰な格好で学校まで送るという面倒なことをやった。学校に駐車場はないので、いっぺん車を置きに家まで帰って、学校まで走っていった。やれやれだ。ただ、それだけの効果はあった。なにしろ、卒業証書授与で舞台に上がったときには、会場がどよめいたのだから。あれはなんとも言えなかった。「ようやるわ」と、まるで他人事のように半ば呆れ、半ば感心してたのを覚えている。

 

とまあ、決して華美にしようとか奇を衒うつもりで和装になったわけではなく、単にいきあたりばったりでそうなっただけだった。一応、学校にも確認したが、女子で和装の子がいる以上、特に男子だからダメということはない、という返答だった。あくまで本人らしさを優先した結果、世間を騒がせてしまった。それはそれで、また、彼らしいといえばそうだろう。親として悔いはない。とはいえ、もしもこれが後に「男子も和装で」みたいな影響を与えたとしたのだったら、それは申し訳ないなあとも思う。まあ、そこまでの影響力はなかっただろうけれど。

その息子、あの頃は輝いていたけど、だんだんと色あせてきた。二十歳超えればタダの人という言葉ではないが、まあ、そういうものなんだろう。もっと色あせて、渋色になって味わいが出てくればいいのだけれど、そこまではまだまだ辛抱なんだろうな。

第二次世界大戦中の英語教育について(メモ)

教育学業界のことは私にとっては謎だ。家庭教師という仕事をしている以上、それに関する学問に興味はあるのだけれど、入門書を眺めてみてもどうにも解せない。だから、アカデミックな教育の話になると私にはいろいろととんでもない誤解があるかもしれない。ということを前提に、教育史の話。たまたま、こういうTweeを見たので、戦時中の英語教育について興味をもった。

け64 on Twitter: "当時首相だった東条英機大将に国民の方から「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」と要求を受けて、東条大将は「国会で英語教育は戦争において必要である」として拒否している
だから上から禁止された事実はなく、国民が自発的に禁止していった同調圧力があったことは確認されている"

ありそうな話だと思った。実質的な禁止が同調圧力でもって行われ、制度としては行われないというのは、実にありそうなことだ。実効的に禁止できるから、制度でもって禁止する必要がないとも言える。英語教育が戦時中に極端に制限されていたのは有名な話だし、戦争が激化するとまともに授業ができない学校も多かったのだから、なおのこと英語が教えられる機会は減ったようだ。このあたりは昭和6年生まれの私の父親が戦後に高校に進学しようとして英語が全くわからなかったという話とよく符合する。実際、「星野博士の学問と松山商科大学の歴史(その3) 松山大学論集第30巻5-2」には、開戦後、英語の時間数が3ヵ年22時間から16時間に削減されたことが記されている。「敵性語」を排除するキャンペーンが広く行われたことも確認されているし、教育の現場から英語が減らされていったのは事実としてあるようだ。その一方で、「大戦下の東京高師文三(英語科)」によると、トップレベルの学校では英語教育は維持されたようであり、このあたりも大衆キャンペーンがあくまで大衆に対する教育を禁止していくのに対して研究レベル、戦略レベルではそうではなかったということがわかる。

ここで、実際に東條英樹の国会答弁はどうだったのかということになる。これは国会の議事録でも探せば出てくるのだろうが、どうやら元ネタがこちららしいので、そこを参照する。

archive.org

Traveller From Tokyo : John Morris : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

そうすると、この部分、

f:id:mazmot:20220312094129p:plain

となっていて、当時の英語教育に関する見方がよくわかる内容になっている。つまり、当時、日本は占領地に対する同化政策として(必ずしも同化の必要だけではなかったとも言えるが)、日本語教育の実施を必要としていた。実際、先の、「大戦下の東京高師文三(英語科)」にも、「英語教師は南方に行け」という論が新聞に掲載されていたことが記されている。ちなみに、たとえばマレーシアに派遣する人材を養成するにあたっては当初の英語から途中マレー語の習得に比重が移ったが、さらに後には英語が復活しているというようなことが「「総力戦」下の人材養成と日本語敎育」に記されている。イギリス植民地の「解放」にあたって、英語が必要とされたわけである。占領地における日本語教育に関しては、「占領地日本語教育はなぜ「正当化」されたのか」にも詳しい。そして、上記の東條英機の答弁では、オーストラリアの占領政策にまで述べられている。このあたり、一貫しているといえば一貫している。

 

よく言われるのは、「アメリカは対日戦争にあたって日本のことをよく研究していたが、日本はそうではなかった」という言説だ。上記を見てみると、これは半ばあたっていて、半ば外れていると言えるだろう。あたっている部分は、戦争遂行にあたっての諜報として相手の言語を研究していたかどうかということでいえば、アメリカはそうだったのだろうが、日本はどうやらそうではない。その一方で、占領政策としての研究ということでいえば、どちらも同じようにやっていたと言えるだろう。ただし、アメリカの占領対象は日本であったのに対し、日本はアメリカ本土の占領などは考えておらず、あくまで西欧列強のアジア植民地の再占領という観点だったわけだ。

このあたり、もっと掘ってみたら面白いのかもしれないが、とりあえず、息子を起こしてこなければ。まったくあいつ、いつまで寝てる気だ…

それは「予言の自己成就」ではない - 類似の構造ではあっても

前回の記事

mazmot.hatenablog.com

について、早速にブックマークコメントを頂いた。こういうことがあるからブログはやめられない。ありがたいことだ。

指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい - 天国と地獄の間の、少し地獄寄りにて

社会学的には「予言の自己成就」という用語がまさにドンピシャという感じですかね ( https://kagaku-jiten.com/social-psychology/interpersonal/self-fulfilling-prophecy.html )

2022/02/04 07:02

b.hatena.ne.jp

社会学的には「予言の自己成就」という用語がまさにドンピシャという感じですかね 

そういわれてみれば、「予言の自己成就」とよばれる概念に、私があげた事例はよくあてはまるのかもしれない。これは基本的には情報のフィードバック作用であり、未来予測がそれを避けようとする行動を引き起こし、その行動の集積が結果的に予測された事象を引き起こすという現象だ。確かに情報がフィードバックしていくということでは、私のあげた3つの事例は「予言の自己成就」と同じカテゴリーに分類されるのかもしれない。ちなみにその3つとは、

  • 「家賃と民度は比例する」という言説が流布することによって、表面上、「家賃の高い地域に民度の高い人々が集まる」現象が発生する。
  • 「学校の優秀さは偏差値によって測定できる」という言説が流布することによって、偏差値の測定から外れる公立校から優秀な生徒が流出し、結果として偏差値の測定基準からこぼれ落ちる公立校は優秀ではないという見かけ上の観測結果が現実化する。
  • GDPが景気の指標とされることで、虚偽のGDP統計によって実際に好景気が発生する。

さて、これらが本当に「予言の自己成就」にあてはまるかどうかということだ。たしかにGDPの例はあてはまりそうな気がする。古典的に予言の自己成就の例としてあげられるのは銀行の取り付け騒ぎだ。「あの銀行は危ないらしい」という噂が発生する。根拠のない、おそらくは虚偽の噂だ。ほとんどの人がその噂は真実ではないと思う。けれど、念のために預金は引き上げておいたほうが安全だろうと穏便な判断をする。そこで預金を引き上げようと銀行に向かう。すると、同じような穏便な判断をした人がすでに殺到していて、長蛇の列ができている。それを見た人が「やっぱり危ないって話は本当らしいよ」と第二次の噂を広める。その噂によってさらに多くの人が行動を起こし、結果として銀行がパンクする、というわけだ。これは「予言の自己成就」の概念を提唱したマートンの1948年の「自己成就する予言」という表題の論文に1932年の事例として掲載されている。もっと最近の事例だと、コロナ騒ぎの初期に起こったトイレットペーパー不足も、予言の自己成就だろう。「トイレットペーパーがなくなるかもしれない」という噂は、最初はほとんどネタ扱いでひろまった。多くの人は、それを信じなかった。けれど、「念のためにいつもより多めに買いだめしておくか」という程度の穏便な行動が輻輳した結果、実際に多くの店舗の店頭からトイレットペーパーが消えた。それがさらに人々の購買行動を加速し、結果的にトイレットペーパー不足という予言を実現した。

こういった典型事例と引き比べると、たとえばGDPの事例は銀行の取り付け騒ぎのちょうど反転であるようにも見える。「家賃と民度」の話も似たようなものかもしれない。けれど、私の問題意識は、どうもそこにはない。どういうことか。

それは、私の関心が未来予測とその事象そのものにはないからだ。まず重要なのは、「指標の設定」だ。これは「未来予測」ではない。指標設定は、前の記事でも書いたけれど、人間が不完全な五官での知覚を補うために採用するものであって、近年では特に計測手段を用いて数値化されることが多い。指標を設定する目的は、基本的には外界の状況を知覚したいからである。もちろん、人間が何のために外界の状況を把握したいのかといえば、それはそこから状況の判断を行い、場合によっては未来の行動を予測するためのものだ。そういう意味では、指標の設定は未来に関わるものだと言えるかもしれない。けれど、その予測は、指標を設定した段階ではニュートラルなものであって、何らかの方向性をもったものではない。

次に、前回記事ではこのあたりは明確にできなかったのだが、指標の設定によって発生する現象は、「指標が有効化される」ということだ。これは、指標が本来の有効性を喪失し、なおかつそれでも有効なものとして機能してしまうという現象だ。指標が表現する特定の事象のことではない。

これら2つを踏まえると私の問題意識、つまり、「指標がいったん設定されると、それが本来の目的として有効かどうかに関わらず、その指標が有効なものとして機能してしまう」は、明らかに予言の自己成就ではない。あるいは、「指標あれ」との言説によって「指標が機能する」という現実が生じるのだといえば、それは予言の自己成就と言えるのかもしれない。けれど、そこまで風呂敷を広げたら、ほとんどあらゆる事象が予言の自己成就だと言えてしまうのではないか。

実際、「ソシオロジ/40 巻 (1995-1996) 1 号」は小特集として予言の自己成就をとりあげているらしいのだけれど、中野正大氏による「コメントⅠ」では、

まず岩本氏は、受験の際、合格不合格の目安になるといわれる偏差値によるいわゆる「輪切り」現象の発生と展開のなかで、予言の自己成就を見て行こうとする。そこでは、「A校の方がB校よりランクが高い」という予言=噂が広まると、実際、A校の方へ学力の高い受験生が流れ、その結果、A校とB校の聞に格差が生じる、つまり予言が自己成就するということをシミュレーション・モデルを使って明らかにしようとしたものである。

という研究を批判して、

結果として学校間格差が生じるのは、受験生の行動のそれも合理的/行動の単純な集積、つまり意図された結果にすぎないように思われる。

と、概略これは予言の自己成就現象と言えないのではないかというような意味のことが述べられている。つまり、行為者/参与者が複数いてその意図に対して自己を含めた行為者/参与者の行動がフィードバックされるような事象は現実にはふつうにあり、それをすべて「予言の自己成就」として括ってしまうことはかえって「予言の自己成就」現象を研究する上では妨げになるのではないか、ということのように私は読み取った。

 

ここで、どこまでが「予言の自己成就」になるのかを少し考えておこう。もともと私の関心はそこにないのでこの分析は少々的はずれなのだけれど、自分の関心をはっきりさせるためには意味があるだろう。まず、社会は多様な多数の人々から構成されるとして、その一部の人々の中に共有される考えかたがあるとする。これはある部分は信念であり、ある部分はその信念から生み出される意図である。信念の中には科学的な知見もあれば、習慣的な文化行動や個人的な迷信・俗信の類もあるだろう。意図の中には意識的なものもあれば無意識的なものもあるだろう。これら信念や意図が、合理的/非合理的な判断を経由して、個人を行動に駆り立てる。この行動は、同じ社会の他の構成員によって観察される。この観察が、個人の合理的/非合理的判断にフィードバックされ、行動を変化させる。その一方で、この観察や行動が考えかたに一部フィードバックされる場合もある。このような過程は、社会生活を営む人間にとってごく一般的なものであり、日常的に常に行われていると考えていいだろう。

その中で、「予言の自己成就」とされるものは、どのようなものだろうか。まず、「予言」だが、これは必ずしも未来に関するものでなくてもかまわないだろう。というのは、多くの現状認識は、現状を表現するとともに未来に関わるものでもあるからだ。たとえば「日本の政治は自民党が支配している」という現状認識は、そのまま「この先も自民党支配が続くだろう」という予測に変化する。もちろんそれが変わるという未来をその上に描くこともできるわけだが、それはべつの命題になるだろう。だから、「予言」の部分は、「命題」と言ってもいい。もちろん、あらゆる命題があてはまるのではない。現実に関するある種の命題が「予言」である。そしてそれが流布すること、つまりある程度の人々の間に共有されることが前提である。その上で、「自己成就」というのは、その命題が存在することによって、命題が現象として観測されることである。これは、その命題が存在しなかったら観測されなかったか、少なくとも観測された様子が異なったものであったことを前提としている。そうなってはじめて、「自己成就」といえるわけだ。

ここで、まず、その命題が事実をどの程度反映しているのかということで、このプロセスは二種に分けられるだろう。およそ事象を完全に正確に反映した命題は自然言語では通常ありえないので「程度」というのだけれど、たとえば「あの銀行は倒産するかも」というのは、すべての銀行に倒産の可能性がある以上は完全な偽ではないけれど、たいていの場合は偽、すなわちデマだと言えるというようなことだ。だから論理学的な意味ではなく、実用的な意味で、「予言」は真と偽に分けられるだろう。検証不可能なものや検証可能性が著しく低いものは偽に突っ込んでおいてかまわない。

次に、その命題の存在によって人がとる行動が、その命題の実現を避けようとするものか、それともその実現を積極的に肯定しようとするものかに分かれる。たとえば、「トランプが大統領選挙で優勢だ」という命題によって、「それだけは勘弁してくれ」と反対票を投じるのが前者であり、いわゆるバンドワゴン効果でトランプに投票するのが後者だとする。そうすると、次のような組み合わせが考えられることになる。

  1. 命題:真 かつ 行動:ポジ
  2. 命題:真 かつ 行動:ネガ
  3. 命題:偽 かつ 行動:ポジ
  4. 命題:偽 かつ 行動:ネガ

1の場合、これは「予言の自己成就」とは呼べないだろう。たとえば、「みんなでがんばれば運動会は楽しくなる」という命題は(実際には検証できないけど)、経験則的に真といっていいだろう。それを信じた生徒たちが運動会の練習に励んだ結果として、運動会を楽しんだとして、それを「予言の自己成就」と呼ぶだろうか。最大に枠を広げればそうかもしれないが、多くの人はこれを「予言の自己成就」からは外すと思う。楽しもうと思って楽しむのは、共同幻想か何かの研究対象とはなっても、「予言の自己成就」の研究対象とはならないように思う。

2の場合も、「予言の自己成就」ではないように思う。たとえば、「教室内のひとりひとりが互いをきちんと理解しなければいじめが発生する」というのは、ある程度は真と分類してかまわない命題だと思う。そこで、ある学級で、いじめを根絶しようと、互いの理解を深めるためのワークショップが行われる。しかし、いじめられる側の生徒にとってはそのワークショップそのものが地獄であり、さらに、そこでさらされた個人的な弱みから、さらにいじめが加速するという現実が発生する、なんてことはふつうにあり得るだろう。けれど、これは命題の現実化を避けようとしてとった回避行動そのものに欠陥があったに過ぎない。現実にいじめが発生している場における正しい相互理解のためにはまずいじめの構造を解消しておくことが前提であり、それなしでいきなり「お互いのことをよく知りましょう」みたいなことをやってもまるで対策になっていないわけだ。だから、命題が正しいときには、それを適切に回避する正しい手段が選択できる限りは、予言は自己成就しない。もちろん回避方法がない場合はそうではないが、それについては行動によるフィードバックが影響しているとはいえないので、やはりこの範疇からは外れるだろう。

3の場合も1の場合と同様のことが言えるだろう。極端な場合は「ハルマゲドンが来る」という命題を信じた結果として、その実現のために毒薬を撒くような行動になるかもしれない。まあ、そのたとえは穏当ではないだろうが、命題が偽りであっても、それを現実化させようとする努力があれば、その命題が真になることは十分にあり得る。「我々は絶対に負けない」という信念のもとに戦えばその戦いには勝利できるかもしれない。けれど、こういうのはどちらかといえば目標設定と努力であって、「予言の自己成就」とはちょっとちがうような気がする。広義にはそこまで含めてもいいのかもしれないが、疑問がある。

誰から見ても「予言の自己成就」の例として適切なのは、4の場合だろう。命題が偽であり、なおかつ人々の行動がそれを避けようとするのに、その行動の集積がフィードバックされて、命題が現実化してしまう。古典的な銀行の倒産の例はまさにそうであり、トイレットペーパーが店頭から消える現象もそうだ。実際のところ、大元のマートンの論文でも、最終ページでわざわざイタリック体で、

The self-fulfilling prophecy, whereby fears are translated intoreality,

恐怖が現実を生み出していくものである自己成就する予言は、…

と、書いている。さらに上の方で引用した中野正大氏の文でも、

何故なら、マートンの予言の自己成就の命題が意図せざる結果だということ以外に、いまひとつのポイントは、先に見たように、彼の例示するエピソードを見ても明らかなように、予言の内容が噂やデマや偏見であるような根拠のない〈誤った〉予言であり、しかもそれが広く行為者によって信じられる、という点にあるからだ。

と、「予言の自己成就」の成立要件としてそれが誤っていることが必要であると述べられている。結局のところ、狭義の「予言の自己成就」は、現実を正しく反映していない情報をもとに望ましくない結果を避けようとして多くの人が行動することが結果としてもともとの情報にあった現実を実現させてしまう、ということなのだろう。

 

さて、そういう視点から見ると、私の関心があるのは、「予言の自己成就」と類似ではあってもそれそのものではないことがわかる。ここで前回あげた3つの事例に戻って検討してもいいのだけれど、本当のところ、私が最も関心がある事例はそれではない。ただ、そのことはこのブログで何度も書いてきているので「あんまりにもくどいなあ」と感じたから、意識してべつの事例を持ち出した。どうも話が見えにくかったのはそのせいもあるだろう。ということでくどいのは承知の上で、自分が最も関心のある事例で話を進めよう。それは学力試験の点数だ。

学力試験はもともと、講義その他の学習内容をどれだけ生徒が理解したかを測定する目的で行われるようになったのだと言って差し支えなかろう。もちろん、中国の科挙に由来する東洋的な歴史だとか、産業革命期における労働者のスキル測定だとか、そういったところまで遡ってもっと正確な記述をすることもできるだろう。だが、大まかなことでいえば、近代以降の学力試験、我々がおなじみになっているテストは、生徒の達成度を測定する目的で行われるものだ。

その結果は、成績として、生徒の評価に用いられる。子どもたちの進路を決め、その将来を決めていく。極めて重要なものだ。だが、その点数は、ごく簡単に操作できる。その操作を受験業界では「対策」と呼んでいる。あるいは一般には「勉強」と呼ばれる。勉強すれば点数は上がる。

ここで多くの人には私が何を問題にしているのかがわからなくなるはずだ。だって成績は勉強を反映したもので、勉強した人が報われるのは当然だろうと、多くの人が考えているからだ。けれど、実際に受験業界で生徒に点を取らせる仕事をしている者から言わせれば、点数をとるのはゲームであって、本来の学習内容とはほぼ無関係だ。よく作り込まれたテストは、たしかに生徒の達成度が上がることによって点数が上がるように設計されている。教科内容をよく理解した生徒は、たしかにしっかりと堅実な点数をとってきてくれる(だから私はそこを重視して指導する)。けれど、そんなことは一切無視して点取りゲームに勤しんでも、やっぱり同じように点数は取れる。場合によっては、教科内容の理解だけではとれないような高得点もとれる(だから私だって必要なときには生徒に点取りゲームの必勝法を伝授することだってやる)。だが、ゲームの熟練度が上がることと、子どもたちの成長とは、基本的に無関係だ。あるいは、関係があるとしたら、スマホやプレステのゲームの熟練度と成長の関係程度の関係だ。そりゃ、ゲームのやりこみで成長する部分もあるだろう。だが、それが本来の教育が求めているものとはとても思えない。

実際のところ、教育の効果の測定指標として学力テストが適当かどうかの検証は、ほとんどなされていないように見える。なぜなら、検証の結果はやはり何らかのテストでしか測定できないからだ。そして、テストとなると、必ず生徒は対策をしてしまう。勉強してしまう。だから、測定結果は常に本来意図しない操作によって汚染される。あるいは、「勉強」部分までを教育の意図であるとしてしまうことによって合理化される。だが、それが誤魔化しであることは言うをまたない。

重要なことは、そのように信頼性がそもそも検証されないものであるにも関わらず、この学力試験が社会的に機能してしまうことなのだ。私自身は学力試験的な測定指標によって子どもたちの将来を振り分けるような考え方には賛同できないのだけれど、それでもその建前は理解できる。つまり、成績はその生徒の適性を反映しているはずだから、適性に応じて専門性を振り分け、さらには職業を振り分けていくのが合理的だという考え方だ。たとえば高度な判断力と知識が必要な医師には成績上位者を振り分ける。あるいは国家を動かす重要な仕事である官僚には成績上位者を振り分ける。そういった考え方だ。その建前をとりあえず受け入れるとして、さて、それでは実際に成績上位者が学業優秀なのだろうかといえば、そうではない。その中には本当に学業優秀な人々もいるが、単純に点取りゲームに秀でただけの人も少なからず混じっている。学力試験はそれを判別する機能を持たない。つまり、現実には学力試験は本来の意味では機能していない。

けれど、別の視点で見ると、学力試験は実によく機能してしまっている。それは、確実に一定の能力をもった人々を選別する。その能力とは、無意味だけれど実利のある点取りゲームに粛々と従事するだけの耐性であったり、そのゲームを続けられるだけの経済的・文化的なバックグラウンドであったりする。そういった、本来測定するはずのものでないものを学力試験は測定してしまっており、そして、その測定による選別が社会的に機能する。なぜなら、これほど職業や生き方が細分化された社会においては、そのひとつひとつのニッチに若い人々を送り込んでいくためには何らかの装置が必要であり、その装置として学力試験による選別は見かけ上非常に優れているからだ。だから、社会は検証され得ない、おそらくは目的と大きくズレてしまっている学力試験を所与のものとして受け入れる。

そして、現実が逆転する。本来は、生徒の達成度を測定するのが学力試験であったはずのものが、学力試験の得点が高いことが生徒の達成度が高いことであると定義されるようになる。点数を上げることが学習の目的であり、点数が上がってさえいれば学習がうまくいっていると判定されるようになる。これが現代の日本を覆う常識であって、それに異を唱える私のような者は異端者となる。いや、語呂合わせで暗記したって、そんなもの、何の理解にもなりゃしないからという明らかな事実は、だってそれで点数が上がるじゃないかという厳粛な事実の前に効力を失う。解の公式を導き出せる論理的な思考のほうが重要であって解の公式で方程式が解けることはそれほど重要じゃないよという正論が(これは学習指導要領を見ればわかるはずだ)、実際に点数に結びつくのは後者でしかないという事実によってキレイゴトと切って捨てられる。

だから、「指標が自己実現する」というのは、こういうことだ。ある指標が設定される。すると、その指標は、その指標の有効性いかんに関わらず、現実を代表するものとして扱われるようになる。その結果、「現実が変化すれば指標が変化する」という当初の図式が「指標を変化させることによって現実が変わる」という認識に変化する。そして人々は、指標を直接操作しようとし始める。最終的に、指標の操作こそが現実を変えるための条件であると認識されるようになり、指標はその有効性を確実にする。

これは「予言の自己成就」ではない。「この指標が現実のある側面を表現する」という命題がある。たとえば、「学力試験の点数は生徒の教科理解を反映する」という命題だ。そして、それは当初は真であることのほうが多いだろう。学力試験はそうやって設計されるのだ。次に、「指標を変えれば現実が変わる」という逆転が起こる。「点数を上げれば勉強が成功した」という考え方だ。だが、指標を上げる方法は、実はひとつではない。教科内容の理解はそこそこにして反復練習をしたほうがよっぽど点数が上がる場面は少なくない。これ以上圧縮しようがないほど圧縮された情報が詰まった教科書(例えば歴史の教科書なんかその典型だ)よりも、さらにそこから重要語句を抜き出したドリルのほうが愛用されるのを見れば明らかだろう。GDPの例で言ったら、景気を回復させるよりも異次元緩和を行ったほうがよっぱど指標は上がる。指標なんてものは、直接それを操作するほうがよっぽど容易いものなのだ。そして最後に来るのが、「操作されることを前提に、なおかつ指標が機能する」という現実だ。指標が何のために設定されるかといえばそれは社会的に機能を果たさせるためであり、そして、その目的は本来の意味を離れても機能してしまう。これが私の知りたい現象のメカニズムだ。そしておそらくこれは一般的に研究の対象となっているに違いないと思う。だって、私が思いつくぐらいだもの。

 

ともかくも、最初に家賃と民度だのGDP不正操作だのを持ち出したのがいけなかった。やはり疑問はストレートに疑問として表明すべきなのだろう。そういえば、マートンの大元の論文、

Merton. Self Fulfilling Profecy

にしたところで、実は「予言の自己成就」をテーマにした論文ではない。たとえば現代文の問題でこの論文の和訳を受験生に読ませ、「この論文のタイトルを次から選べ」と設問して

 ア.予言の自己成就
 イ.人種差別をなくす方法
 ウ.リンカーンの偉業
 エ.信念によって形成される現実

と選択肢を出したら、まともな受験生なら間違いなくイを選ぶだろう。そう、この論文は5つの節からなっているが、上で分析した定義上の「予言の自己成就」を扱っているのは最初の1節だけでしかない。以後の節ではアメリカ社会を覆う人種差別問題が描かれている(日系人のクロカワ氏も登場する)。たしかにその差別は「予言の自己成就」の一形態であると主張されているのだけれど、最初に出てきたスト破りの事例のほかは、どちらかといえば「信念が現実を形作る」というより広い命題によってカバーされるものである(ちなみにその命題「もしも人が状況を現実であると定義するならば、その文脈においてそれは現実となる」が冒頭に書かれているので、上記の設問だとエも正解候補としてはかなり有力になる)。では、なぜマートンはこの論文に「自己成就する予言」みたいな釣りタイトルをつけたのだろうか。それは、予言の自己成就の事例として典型的な銀行の倒産があまりに鮮やかで人を惹きつけるから、だけではないだろう。実は、その銀行の倒産事例には、解決策がある。それはデマをデマだといって人々を安心させるようなものではない。倫理や理性に訴えるものではない。そうではなく、実際に銀行の倒産を防ぐ政策装置をルーズベルト政権が施行したから、倒産が劇的に減ったのである。つまり、先程半分しか引用しなかった結論のイタリック体の部分を最後まで書くと、

The self-fulfilling prophecy, whereby fears are translated intoreality, operates only in the absence of deliberate institutional control.

恐怖が現実を生み出していくものである自己成就する予言は、意図をもった制度的なコントロールが存在しないときにのみ働くものである。

ということだ。最後の節でイタリック体で書かれていることから、これがマートンがこの論文で主張したかったことの本質だと考えて差し支えないだろう(もしもそうでないとしたら、やっぱり日本の現代文のテスト設計はおかしいということになる)。つまり、マートンは、人種差別問題を解消するためには、政府が率先して社会装置としてさまざまな制度を実装しなければならないと主張しているのだ。

それが論文の本質であるときに、いくらその重要な根拠であるとはいえ、銀行の倒産事例をキャッチに使ったのは、マートンの失敗だっただろう。だから私も思うのだ。受験の構造がおかしいと思うのなら、やっぱりストレートに言わなきゃいけなかったんだって。過去から学ぶには、やっぱり先人の古典は読まなきゃいけないよなあ…

指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい

人間は外界の様子を知るために五感を備えているのだけれど、これが案外とアテにならない。アテにならないとはいえそれを使わなければ情報が得られないのだから、なるべくそのあやふやさをなくすために指標が用いられることになる。温かい寒いの感覚は前日の気温に左右されてしまうから、古くは山のコブシの花を見て農作業のスケジュールを決めた。こういうのを指標という。社会が複雑になってくるとこういう指標は数値化できるものが好まれるようになる。兵士を選抜するのに「コイツは強そうだ」みたいな検査官の主観ではなく、身長、体重、血圧などの測定可能な指標が参照される。指標は客観的であり、人間の感覚のあやふやさをよく補ってくれる。

ただし、この指標、知りたいことを知るためのものだから、指標が知りたい事象をよく反映しているかどうかということは常にチェックされねばならない。たとえば、百年以上前には俵を担げるかどうかは強壮であることのひとつの指標だったわけだが、現代の健康観からすればそんな指標に意味はない。多くの人が農村にいて、実際に米俵を人力で移動させなければならない現実があったから、そこで指標として意味をもっていたわけだ。ちなみに私は1俵どころか30kg入りの紙袋でさえ近頃は重すぎるように感じている。ダメだ、こりゃ。

特に、学問的に定められた指標ではなく、一般の人が感覚的に使う指標の場合、本当にそれが現実を反映しているのかどうかは十分に疑う余地がある。たとえばこれだ。

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「家賃と民度は比例する」から、少し高いと思うくらいの物件にしたほうが結果的に快適に暮らせる、は本当か?さまざまなケースの体験談集まる - Togetter

そもそも「民度」なんて測定不可能なんだし、「家賃」という指標が「民度」を正確に反映しているかどうかなんて、検討する価値もない。ただ、いいたいことはわかる。家賃が低い地域では住民のマナーがわるくて苦労するから家賃が高いところのほうが住みやすい、ということだろう。そうならそうと素直に書けばいいのに、ありもしない「民度」みたいな量を比例させるから話がややこしくなる。しかし、今日言いたいのはそこではない。

仮にこういう考えかたが一般化しているとしよう。あるいは、SNSなんかでそういう話が広まるとしよう。そうすると、どうなるか。だいたいにおいて、「マナーがいいほうが好ましい」と考える人々はマナーを内面化しているわけだから、自分自身のマナーもそこそこにはいいのだろう。そうすると、家賃が高めの地域には、マナーがいい人が集まるようになる。一方、「少々のことはお互い様じゃない」みたいに思ってる人は、そういう話を聞いてもなんとも思わない。むしろ、家賃は安いほうが好ましい。結果的に、お行儀のいい人から見たら少々眉をひそめたくなるようなフランクな人々が家賃の安い地域に集まることになる。そして、これを「家賃と民度は比例する」と考える人から見たら、「ほら、やっぱりそうじゃない!」ということになってしまう。

つまり、もともと「家賃と民度は比例する」という事実があったかどうかにかかわらず、いったんそういう言説ができてしまうと、結果として「家賃と民度は比例する」という現実が生まれる。そして、そうなってしまえば、「家賃」は「民度」の指標として有効になってしまう。仮に、下町の人情だとか慎ましやかな譲り合いだとか、そういった「民度」の高い暮らしがもともとあったとしても、そういった現実は「家賃と民度は比例する」を人々が受け入れるとともに消えてしまうだろう。人は自らつくりだした指標によって現実世界をつくりだしてしまう。

こういった現象を最も強く感じるのが、日本のごく一部の地域でみられる私立中学受験競争だ。私立中学校は偏差値によって細かく序列化されており、その偏差値は学校が優秀であるかどうかの指標とされている。入試なしで入れる公立中学校は指標ゼロであり、最底辺に位置づけられる。その指標が本当かどうか、私は大いに疑う余地があると思っている。入りにくいことがそれだけで優秀さを担保するわけはなかろうと、これは常識的に考えてそうなる。けれど、いったん多くの人がその指標を信頼すべきものとして行動を始めると、現実がそれをなぞるようになる。そして、「底辺公立中学校は動物園」みたいなおよそ根拠のない言説が自己実現を始めていく。そりゃ、人間をつかまえて「動物園」はひどすぎるのだけれど、優秀な生徒があらかた私立中学校に抜けてしまった公立中学校は、ある種の人々からはそう見える。そこで何か問題が起こったら「そらみたことか」と、その偏見が強化される。それは尾ひれをまとい、さらに多くの優秀な生徒が私立校に流出する現実をつくる。実際、関東の中学受験志望動機には、公立中学校への忌避が多い。現実がそうだからという以前に、「学力テストの成績で人間の優秀さが判別できる」という誤った指標の選択がそういう現実を生み出しているのだ。

このように、指標は、それが適切かどうかにかかわらず、それが代表すると人々が信じる現実を自己実現してしまうもののようだ。たとえば統計不正問題で信頼性が揺らいでいるGDPだけれど、GDPが伸びれば景気がいいという感じで、この数値は投資家たちの間で指標として用いられている。景気がよければ彼らは儲かり、儲かれば投資を増やすから、さらに景気がよくなるだろう。仮にGDPの数値が虚偽であったとしても、投資家はそれに進んで騙されることで好景気を信じることができ、彼らが好景気を信じて投資を続ける限りは景気はそこそこに上昇し、GDPもそれにつれてふくらみを増す。つまり、指標はそれが正しかろうが正しくなかろうが、いったん設定されるとそれを巡る現実を自己実現させていく。

だったらめでたいことじゃないかというかもしれない。けれど、そこで重要になるのは、本当にその指標が現実を反映しているかどうかということなのだ。家賃が民度を反映しているように見えるのはそれを信じる人々がそういう行動をとるからで、もしももっと適切な「民度」の測定指標が設定されれば実はその相関関係は見かけだけのものであったとわかるのかもしれない。子どもたちの生涯を通しての幸福を正確に測定することができるのであれば、通った学校の偏差値とその幸福度のあいだには特別な関係がないとわかるかもしれない。人々の暮らしやすさや安心感を別な尺度で測定したら、それは投資家の考える景気とは別な動きをしているのかもしれない。しかしもしも仮にそういった「本当の姿」を表現する新たな指標が設定されたとしても、今度はその指標が自己実現に向かって進み始めるだろう。そうなったら、私たちはいったい何を手がかりに外界の正しい様子を知ることができるのだろうか。

こんなことを、ときどき考える。そして思う。こういうことに頭を悩ませるのは私だけではないはずだと。そんなとき、私は調べてみる。ただ、この件に関しては、どこから手を付けていいのか、まるで手がかりがない。指標が自己実現に向かって勝手に動き出す現象に名前はあるのだろうか。せめてそれがわかれば調べようもある。あるいは、こういう事象は、どんな学問の対象になるのだろうか。社会学だろうか、統計学だろうか。どうにも漠然としている。

こういうときに、自分の教養の浅さを痛感する。いろんな仕事をして、いろんなことを学んできたつもりだけれど、膨大な知らないことの空間の中で、ほんの小さな手元だけを学んだだけのような気がする。途方に暮れるばかりだ。とはいえ、だから退屈せずに生きていられるのだと思えば…