平成の米騒動について

トンガの火山大爆発は、ほんとにすさまじい。被害の様子もまだよくわからないというのが、不気味だ。現地の人々の無事を祈るとして、ここにきて何やら話題になっているのがいわゆる平成の米騒動、1993年の冷害による不作に端を発した米不足だ。なぜなら、この不作が1991年のピナツボ火山大爆発の影響であることはほぼ間違いないので、「火山の大爆発→寒冷化→米不足」と連想が及んだのだろう。

農業は自然に依存するから、今回の大爆発でも農業への影響は避けられない。けれど、1993年のような米不足が再来するかといえば、それはないだろう。未来のことだから断言することはできないけれど、少なくとも物理的には米の供給不足が発生するとは考えにくい。

なによりも、1993年から94年にかけての騒動は、いい教訓になった。米は蓄えておくものだという農家伝来の常識が改めて見直されるようになったわけだ。あの騒動の頃でさえ、「ウチは農家なんで新米は食べたことがないんです」という人に実際にお目にかかったことは何度もある。かつて多くの農家は、販売分を「供出」したあと、自家飯米を備蓄に回し、前年の備蓄を取り崩して食べるようにしていた。いまでいうローリングストック法だ。往時は備蓄していた米は味が落ちた。だから、農家なのにおいしいお米が食べられないというのは、よく聞く嘆きだった。ちなみに、1970年代の米余りが言われた時代にこの習慣は崩れはじめたように思う。子どものころの曖昧な記憶だから、これはあまり確実なことではない。

ともかくも、あの米騒動は一部に人災だと非難された。米の備蓄が大幅に少なかったからだ。その反省を受けて、農水省は以後、米の備蓄はしっかり確保するようになった。このあたりを見れば、いまだにそれを忘れていないことがよくわかる。

政府備蓄米の制度について教えてください。:農林水産省

だから、まず、制度として備えがある。さらに、米の品種も変わった。冷害に対する備えも農家の側にある。だから、大幅な減収は起こりにくくなっている。

 

最初にこういうことを書いておかないと、過去の事例を引っ張り出して不安を煽る人が出てくるだろうと思う。人間は過去から学ぶものだから、過去の事例をとりあげるのは、それはそれで重要だ。だが、そこから学んで変化したことを織り込まなければ、状況を見誤る。ま、いつになっても学ばないのが人間だということもまた、コロナ初期のトイレットペーパー騒動を見れば学べるのだけれど。

じゃあ、なんで既に対応済みの平成の米騒動のことをいまさら書こうと思ったかといえば、あの騒ぎの記憶が、多くの人と私でずいぶんちがうのではないかと感じたからだ。私にとっては、あの騒ぎは農業というものについて深く考えさせてくれる契機だった。その前年あたりから農家を訪問することをはじめていた私にとってちょうどタイムリーだったということもあるだろう。人間は食い物があってはじめて存在できるのだし、その食い物は一次産業からしか生まれない。自然に100%依存しているのが人間だということが、農村を歩いているとよくわかる。お天気を一喜一憂するのは人間にとってあたりまえのことなのだと、米騒動は教えてくれているような気がした。

ところが、どうも多くの人にとって、あの米騒動は「まずいタイ米を食わされた事件」でしかないような気がするのだ。そして、それが実に、あの騒動が起こった時代の感覚をよく表していると思う。そして、「まずいんじゃないの?」という気になる。

なぜ1991年の作況指数が95であったのに、冷害前の1992年、あるいは1993年の作付けにあたって政府が動かなかったのか、それは当時のバブル経済と関係がある。ちなみに、当時はまだ減反政策が行われており、農村には米をつくるだけの労働力も(既に高齢化が深刻だったとはいえ)存在した。だから、政府が減反の割当を減らせば、簡単に米の増産はできる状況にあった。けれど、政府はそれをしなかった。むしろ、逆だった。

その時代のオピニオンリーダーたちがどんなふうに言っていたのか。それは国際分業論であり、高収益型産業への転換だった。彼らによれば、日本の農業は国家の生産性を大きく下げている。同じ面積あたり、農業が生み出す金額とゴルフ場が生み出す金額なら、後者のほうがはるかに大きいではないかというわけだ。日本の土地は高いのだから、そんな地価の高いところで生産性の低い農業をするのはおかしい。農地では投資価値もない。レジャーランドやリゾートでもつくれば生産性は上がるし、投資効果も高い。食糧は、そうやって儲けた金で外国から買ってくればいいではないか。地価の安いところで大規模化できる広大な農地が外国にはある。農業はそういう国に任せて、日本はもっと収益性のある産業に進むべきだ、というのが、彼らの主張だった。

これがおかしいのだということは、その後のバブル崩壊を目の当たりにしてきた現代の人々には明らかだろう。経済は、コントロールしようとしてもそうは問屋が卸さないものだ。そして、いくら成長しようが外国との比較で負けてしまえば国際分業論なんて机上の空論になる。いくら買いたいといっても、奪い合いになれば金のない側が買い負けるのは当然だ。ジャパン・アズ・ナンバーワンでどこまでも走れることを前提にした国際分業ほど危ういものはない。

けれど、当時の政治家の主流は、経済成長に目を奪われていた。東京の土地を売り払ったらアメリカ全土が買えるみたいな現実にはあり得ない計算を根拠に、食糧は輸入すればいいのだという構えでいた。だから、1993年の凶作に際しても、あっさりと米の輸入を決定した。農業関係者は強い調子で「ひと粒の米も入れさせない!」と力んだが、実際のところ、不作で米を輸入した実績は過去にもあったのだし、だいたいが1960年代になるまで日本で米が十分にとれた時代はないわけで(戦前は植民地である朝鮮半島から米を入れていた)、「米は聖域」という理屈にも無理はあった。一方で減反を押し付けながら他方で輸入するとは矛盾も甚だしいではないかと農家には感じられたが、農業を潰してリゾートを建てたほうが儲かると考えている人々にとっては何の矛盾もないことだったのだろう。

これに対して、農業界からの声は小さかった。農協は既に金融機関と化していて不動産で儲けていたのだから、ある意味、当然だったかもしれない。それでも、農業関係ではかなりコアなフォロワーがいる農文協は、こんな論を張っていた。

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農文協の主張:1993年11月 凶作=コメ輸入はもう1つの貿易摩擦への道

私はこの少し前から「現代農業」をときどき買っては読んでいたので、この文は雑誌で読んだ記憶がある。要点は、もともと国際商品としての流通量が少ない米を大量に買い付ければ、価格が暴騰して、資金力のない国が買えなくなるだろう、というものだ。つまり、「カネの力で強引に買い付ける」ことで「国際価格をつり上げることになり、買えなくなる国々がアジアやアフリカなどで続出する」と警鐘を鳴らしている。一般に、供給量の変化は価格を通じて需要量を変化させる。そして市場価格は適正なところでバランスするだろう。けれど、それが生存に関わるときに、それでいいのかということである。この時代、「生存に関わるもの、つまり食糧、医療、教育は市場システムに任せてはいけないんですよ」と主張していた人にも出会った。不要不急のものであれば「市場価格が高いから買わない」という選択ができるとしても、生命に関わるものやサービスにそれが許されるのだろうかということである。人間、食べなければ死ぬ。だからこそ、日本は米不足に際して命をつなぐものとして米を緊急輸入した。けれど、それでもって食べられない人が出るのであれば、これは道義に反するだろう。であるのに、やれ外米はまずいの、パサパサしてるだの、何をいってるのだと、そういう話は当時からあったように思う。

で、結局、「国際価格をつり上げることになり、買えなくなる国々がアジアやアフリカなどで続出する」は、現実のものとなったのだろうか。これに関しては、「そうなった」という話をそのころによく聞いたが、あくまで噂話程度にしか聞かなかったように思う。実際、農文協の翌年の主張も、伝聞でしか述べていない。

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農文協の主張:1994年08月 いま食と農は、「脱欧入亜」の時代

日本のコメの緊急輸入は輸入元であるタイや中国はもちろん、タイとコメの取引きのある、ベトナムやマレーシア、フィリピン、さらにはコメの輸入国であるアフリカ諸国などの食糧事情に少なからぬ影響を与えたとも聞く。

1993年の論説がやたらとデータをあげてきっちりと論考しているのと対照的だ。では実際どうだったかというのは、ちょっと調べても出てこない。もちろん、農学者がちゃんと調べてくれたらいくらでもデータ出てくるのだろうけれど、素人の目につくところにそれがあがってきていない。唯一、簡単な検索で出てきた文献はこれだ。

日本の近代化と食生活
吉田 睦子(YOSHIDA Mutsuko)
生活科学論叢(Review of Living Science)
No.34:39-47
2003
Bulletin Paper / 紀要論文

1993年、日本は大変な凶作となり、米を緊急に海外から大量に輸入した。この凶作の原因も、
冷夏・長雨・台風が原因であると言われているが、米の商品としての価値を追い求めるあまり、コシヒカリ等の気候変動に対する耐性の弱い品種が生産の主流となっていたことも挙げられる。そして、日本が突如大量の米を輸入したために国際的な米の取り引き価格は2倍以上にもはね上がり、従来から米を輸入していたアフリカ諸国などが深刻な打撃を受けた。今、日本はまだ食料の輸入のための資金に困るような状況では無いが、このまま食料の自給率を高める努力を放棄し輸入に頼り続けていると、いずれは1993年のアフリカ諸国のように食料の国際価格の暴騰によって深刻な打撃を受けるようなことになりかねない。「食」を商品と考え、自給を放棄し、農地すらもないがしろにしてしまうようなことは、長い目で見て、決して賢明なことでは無いだろう。

日本の論文であまり嬉しくない慣行は(最近はだいぶ変わってきたのだけれど)、記述に対応する参考文献番号が付されていないことだ。だから、この米の価格が2倍以上になったこととか「深刻な打撃」とかの典拠が参考文献のどれに当たるのかがよくわからない。ということで、上記の農文協の論説と合わせ、実際にどの程度の影響があったのかは、やはり伝聞程度のことしか言えないのだろう。

ではあっても、これは十分に説得力をもつ考察だと思う。エビデンス重視の時代、まるで根拠となるデータがなければ何一つ喋ってはいけないかのような風潮がある。そりゃ、データはなにより重要だし、それがあれば話は早い。けれど、たとえば私たちは人をぶん殴りたいときにそれを思いとどまるのに、拳が与えるダメージのデータを参照するだろうか。そうではなく、「あ、殴られたら痛いだろうな」というごく健全な当て推量をもとに、「痛いのは嫌だろうな」と、物理的な打撃を与えるのを控えるのだ。データを参照しなくても、理屈の上でこういう順序でこうなるんだろうなと思ったらとりあえずその判断は価値がある。もちろんそれが検証されることは重要だが、検証のデータがない間は、正確性を保留しても、その考えかたは行動の礎となる。そういう意味で、私はこういう因果関係は十分にあり得ると思っている。

 

なにはともあれ、「なければ買ってくればいいじゃない」という発想で食糧を語るのは危ない。私はそう思う。もちろん、どうしても食い物がなくて、飢えるかカネを手放すかという段になったら、手放すのはカネだ。そういう意味では、「ないから買う」はあり得るだろう。けれど、重要なことは、食い物は誰かが食えば誰かが食えなくなるものだということだ。カネが即、食い物に変わるわけではない。資金の投下は農業においても生産を増大させるだろうが、それが結実するまでには自然の時間がかかる。だからこそ、農家は豊作貧乏に怯えながらも豊作を願うのだ。食糧は、少し余るぐらいにつくっておかないと、必要なところに行き渡らない。そこにあまりに細かな効率の計算を入れ始めると、ちょっとした自然の変動であたふたしなければならなくなる。そういう意味では、きちんと備蓄をおこたらない日本の農政は、過去から学んでいるといえるんだろうな。

 

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ちなみに、この記事は、米不足を煽るようなデマっぽいTweetにつけたブックマークコメントで書き足らなかったことの補足として書いた。もとのコメントは、こんな感じ。

長粒種うまいとかのんきなこといってる人は、あのとき、日本がコメを買い占めたせいでアフリカで飢餓が発生したという噂を聞かなかったのかな(事実関係は確認していないけど、ありうると思っている)。

「飢餓」は、だいぶ不正確だったかもしれない。うろ覚えで書くと、こういうことになるよなあ。私ももっと学ばなければ…

アンラッキーと貧困と

「子どもの貧困とライフチャンス」の各章の紹介、というよりも読書感想文をここまで書きつづってきた。監訳者のあとがきをのぞけば、これですべてである。あとがきについては、ふれる必要はないだろう。あとがきだ。このシリーズは、これでおわりにしよう。今回は、自分なりのまとめ、というか雑感だ。

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今回よみかえしてみて、最初におもったのは、「翻訳、ヘタクソだなあ」。言い訳はあって、まず特急でたのまれたということ。さらに監訳者がつくということだから、そこに気をつかった。具体的にいうなら、自分の翻訳なら文章の構造をくみかえて論旨を整理したり、伝聞の形式を整理してまだるっこしさをなくしたり、いろいろとくふうをする。そんな箇所も、できるだけ原文の構造はかえないように訳出した。監訳者が原文とつきあわせるときにまよってしまうからだ。そのせいで、日本語の感覚だとなかなか論旨がはっきりせずにいらいらするような文もできてしまった。監訳者が適当になおしてくれるかなとおもったのだけれど、文章のよみやすさは学者の関心外なので、結局そのままになった。指示語のつかいかたとかも生硬で、どうもいただけなかったりする。ところどころ唐突にはいる「ターム」は、学者の仁義なのだろうけど、「それだとわかんないよなあ」とおもわざるをえない。彼らの世界ではそれで通用するんだろうから、やっぱりそこは現実とズレがあるんだろう。

とはいえ言い訳は言い訳で、やっぱりまだまだ修行がたりないのだろう。足もとにはDeepLをはじめとする自動翻訳がおいあげてきている。人間の翻訳者としてはさらに高品質なものをつくってはじめて仕事になる。誤訳まではいかなくとも「これは誤読されるよね」とか、「もうちょっとしっかり原文の意図をよみこんでから訳すべきだったよね」的な文も今回みつけてしまったし、誤植(同音異義語の誤変換)もさっそくひとつみつけてしまった(といってるあいだに、監訳者がまたひとつみつけた)。ああ、はずかしい。本づくりはかたちがのこるから、あとあじがわるい。人間、失敗はふせげないのだし、その失敗のあとがいつまでものこる。だが、それにくじけていたのでは翻訳も編集も業としてできない。後悔しながらもまえにすすむしかない。

内容にかんしては、「勉強になった」につきる。知らないこともおおかったし、イメージで「こんなかんじなんだろう」とおもっていたことがだいぶズレていたこともわかった。イギリスの若いひとがずいぶんとくるしいところにおいつめられているのが、おどろきでもあり、納得でもあった。イメージとしては、イギリスをEU離脱においやった反移民感情は中高年のものであり衰退する地方のものであって、一方の若者やロンドンのような大都市は国際化によって繁栄を謳歌しているとおもっていた。だからこその分断だろうとかってにおもいこんでいた。だが、本書によれば、大都市にひきよせられる若者のくらしもけっしてラクではない。彼らは一山あてるブリティッシュ・ドリームをおいもとめてあつまるのではなく、単純にそこにしか仕事がないからやってくる。けれど、その仕事は不完全で不安定だ。成功を手にするのはごく一部であり、大多数は貧困線をこえてあがったりさがったりをくりかえす。くるしいのは地方在住者とかわらない。

国民投票で都市部がEU離脱に反対したのは、単純に、大都市の仕事がEUとの関係性におおきく依存しているからにすぎないのではないか。反移民なんていってられないぐらいに、EUとの関係を切ることでうしなうものがおおきい。それだけのちがいであり、くるしいのは若者も中高年層もかわらない。だから本当の問題はEUにとどまるかはなれるかではなく、もっと根深い社会構造の問題だったわけだ。それをEU離脱という一見わかりやすいかたちでまとめあげた政治のうごきが、本来分断されているところをおおいかくし、ありもしない分断をつくり出したのではないか。

そして、世界のうごきは想像以上に一体化している。現代が通信と交通の発達によってちいさくなったこと、つまりはグローバル化の時代だからだ。ただ、中高生に歴史をおしえていて、程度の差こそあれ、これは現代だけのことではないとかんじている。たがいにその存在を意識するようなこともなかった古い時代においてさえ、世界の人びとはおもいがけず同期しながらおなじ時代を生きていた。世界は均質ではないが、やはり全体としてひとつの有機的な存在だ。地球がひとつなのだから、これは無理のないことだ。寒冷化や温暖化のような気候変動には世界が同時に影響をうけるし、巨大火山の爆発の影響はやはり広範囲におよぶ。疫病の流行は現代とはちがって地域的なものにとどまったにせよ、もしも大流行のせいでひとつの地方の社会構造が大きな変化を受ければ、その隣接する社会が影響を受けないわけはない。人間の社会はそのごく初期から相互依存的であり、ひとつの社会集団が単独で長期に存続できるものではない。古代文明の象徴ともされる農耕も、周辺の牧畜民との相互関係のなかでしか語られないようになっている。グローバル化の時代は、歴史にたいする見方もかえた。

そういう視点から本書をみると、ユーラシア大陸のこちらのはしとむこうのはしで、おなじようにまずしさがひとをくるしめていることがわかる。古めかしいかんがえかたや慣習が既得権益をがっちりかためてしまっているのは、いずこもおなじだ。だが、既得権益者がぬくぬくと安住しているかというとそうでもない。彼らとて一歩あやまれば貧困へとおちこむだろう。だれかが安楽をむさぼっているからダメなのだという感覚は、どうもちがう。すくなくとも大多数にはあてはまらない(まあ、ごく少数の「富裕層」はさておくとして)。

となると、分断をあおるのはちがうのだろうとみえてくる。だれもがくらしをおびやかされる可能性がある世の中に生きているのであれば、なすべきことは、それが恐怖にかわらないようにすることだろう。およそ、恐怖こそが人間をもっともむしばむ。くらしがなりたたないことにたいする恐怖は、幸福感をうばう。であるならば、「どんなことがあっても、あなたのくらしはだいじょうぶ」と安心をあたえることが、もっとも重要だ。つまり、社会保障政策ということになる。

社会保障はたかくつくということで批判される。しかし、不幸におちいったひとをすくうことと、ひとが不幸にならないようにすることと、最終的にたかくつくのはどちらだろう。本書のテーマはどうやらそこにある。「ライフチャンス政策」は、貧困におちいったひとが貧困の再生産のサイクルから脱出できるようにすることを眼目としている。しかし、それはほんとうに可能なのだろうか。「チャンス」をあたえようとしても、いったん貧困におちいったひとは、それをつかめない。そこを無理にもつかめるようにしようとすればどんどんコストがかさむ。それよりは、そもそも貧困におちいらないようにすること、つまり、仕事や健康、家庭の事情などでくらしがおびやかされたひとに直接やくだつ支援をすることのほうが安あがりなのではないか。それこそが本質的な意味での「ライフチャンス」の改善につながるのではないか、と主張するものだと、私は読んだ。

全体でみたら不幸をつくっておいてそこからすくいだすよりも不幸をつくらないほうが安あがりだとみえるのに、それでも社会保障が否定的にみられるのは、「それってズルじゃない」という感覚ではないかとおもう。「自分はこれほど苦労して財産を手にいれたのに、なにもしないひとがそれをもらうのはゆるせない」という感覚だ。それはたしかにそうだろう。苦労してなにかをうみだしたひとが、それにみあった成果をうけとるのは当然だと私もおもう。ただ、現代の社会で財を成したひとのうち、ほんとうに自らの手でそれをうみだしたといえるひとがどれほどいるだろうか。もちろんたくさんいるのは知っている。けれど、それ以上に、自らの手でなにかをうみだしながら、貧困におちいるひとがおおいのはまぎれもない事実だ。そんなときに、ゆたかになったのは苦労したことの成果だといいきれるのだろうか。世の中にはいっしょうけんめいはたらくひともいれば、そこそこにがんばるひと、あまりがんばれないひと、まるではたらけないひともいる。また、ゆたかなひと、まずしいひともいる。この2系統の尺度が強い相関にあれば、「苦労したからこそ、ゆたかになったのだ」といえるだろう。けれど、相関が弱ければ、「苦労したかもしれないけれど、あなたがゆたかなのは運がよかったからじゃないの」と、当人にとってははなはだ不愉快な指摘をされることになる。ただこれは「がんばったけど運がわるくてまずしい」というよくある状態の裏返しでしかない。そして、世の中にまるで苦労もなく、ただ運がよかっただけでゆたかなひとがふえればふえるほど、富は生産の結果ではなく、単に運のよしあしによって偏在するようになっているのではないかといううたがいがつよくなる。

「たしかに私は苦労してないかもしれないが、そのぶん、親が苦労したんだ。苦労して親がのこしてくれたものでとやかくいわれたくない」というひともおおいだろう。気持ちはわかる。けれど、苦労したのは親であって、そのひとではない。苦労したひとがむくわれるのは正しいかもしれないが、たまたまその子どもにうまれたのは「運がよかった」部類にはいるだろう。

人間が生存していくためには、その生存をささえる労働が必要だ。それは否定できない。ただし、人間は社会的生物だ。自分ひとりの生存をささえるだけの労働をきっちりとやり切ることはできない。かならず余分な労働をして、それを他者と交換することでささえあう。あるいは自分の労働で不足するぶんをおぎなってもらう。太古のむかしから、それはなにもかわっていない。そのときに、どうしても運のよしあしが発生する。運のいいひとのもとには富があつまり、運のわるいひとからはにげていく。これはおそらくさけられないのだろう。ただ、それによって運のわるいひとが生存をおびやかされるようなことがあれば、それは社会の存続にかかわってくる。運のいいひとだって社会が崩壊すれば生きていけない。だからこそ、運のいいひとは、自らの富がたまたま幸運によってそこにあつまったものだということをかえりみるべきなのだ。そうすれば、「自分は苦労したのに不公平だ」みたいな感覚はなくなるのではないか。たしかに苦労もしたかもしれないが、そこに運のよさはなかっただろうか。たいていはある。だったら、その運のよさは、運のわるかったひとの不足する部分をうめあわせるのにつかってもかまわないのではないだろうか。それが社会保障というものではないのだろうか。

おそらくこういう感慨は、学者からみれば生ぬるいのだろう。また、生産の現場で苦労している当事者からみれば、べつの意味でお花畑にみえるだろう。けれど、不公平感というものが事実に即しているかどうかを冷静にみれば、実はみかけほどの不公平は世の中にはないのだということがわかってくる。それは給食のおかずの盛りかたみたいなささいなことでもそうだし、ひともうらやむセレブな生活と庶民のくらしのあいだでもそうだ。どこにいても人間ひとりがうけとることのできる快楽の量には限度があるし、安楽は一定をすぎれば安楽でなくなる。けれど、生命の危機にかんしては、そんなのんきなことはいってられない。プラス方向には大差のない不公平が、ある敷居をこえて下がわにいくと、生存そのものにかかわってくる。生命の危機といえばおおげさかもしれないが、それを微分すれば健康の危機、精神の不安定、栄養の不足、労働の過剰、家族生活のきしみ、明日への不安などになる。つまりは貧困だ。だからこそ、貧困は「あいつがズルい」みたいな不公平感とは別次元のものとしてあつかわなければならない。

古い歌ではないが、運がいいとかわるいとか、ひとはときどき口にする。そういうことってたしかにあると、あなたをみててそうおもうわけだ。ひとは、それぞれの能力や適性に応じて、社会のなかでそれぞれにあたえられた役割をはたしている。そしてほとんどの場合、幸運にたすけられる。なぜなら、おおくのひとは自分自身の生存の必要をこえて富を生産するのだし、その余剰分がたまたままわってくるのは必然だからだ。それがたまたま不足するところにまわるから、社会は全体として生存に必要なだけの生産をして持続している。根本はそういうしくみになっている。ところが、運のよさが偏在し、固定化されると、不足するところはいつまでも不足するようになる。その状態がおかしいのだ。だから、これは公平とか不公平の問題ではない。

翻訳をしながら、結局はこの本の主張とはとおいところを夢想していた。もともと社会のうごきにはあまり関心のなかった私だけれど、ながいこと生きてきて、いろんなことを学ぶなかで、結局、みながおなじように人間のしあわせをねがっているのだとおもえるようになってきた。そのときに、どこまでのひろがりでみることができるのかによって、かんがえかたがかわる。私の視野はだいぶひろくなったが、それでもまだ、たとえば動物の権利みたいなところまではひろがらない。まだまだ知らないことがおおいし、みえないところがおおい。

人間のいのちの時間はかぎられている。だから、いろんなことを学び、いろんなことを知っても、結局それは墓場へもっていくだけだ。そうおもうとちょっと残念にもなるが、同時に、だからこそおもしろいのだという気もしている。そうやって朽ち果てていくものがあるから、そのうえにまた、あたらしい芽がふき、花がさく。そういうものだとおもう。ああ、さらにさらに、とおくまで雑念がながれてしまった。

 

(このシリーズの終わり)

提言を価値あるものにするために

「子どもの貧困とライフチャンス」の第10章〜12章は、ここまでのまとめということになっている。10章は各章で述べられてきた事実、すなわち所得、家族の構造、幼児教育、学校教育、健康、健康、メンタル、住居、就労の問題を有機的にまとめ上げている。11章は測定指標の提案だ。「ライフチャンスを改善するというのなら、それはどうやって測定可能になるのですか?」ということをあきらかにする。12章は、むすびとして「子どもたちの未来のためにライフチャンスが必要だというのなら、じゃあどうやったらそれがめざす結果をあげられるのですか?」という疑問にこたえようとするものだ。結局は、それがこの本全体をとおしたテーマでもある。

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私のようなシロウトはとばして読むのだけれど、実は本書のなかでもっとも実用価値がたかいのは第11章なのだろう。実際、監訳者もここには力をこめていた。4ページにわたるリストは私の担当外だったので、私はラクをさせてもらったし、思い入れもない。けれど、いわれてみればたしかにたいせつなところだ。なぜか。

およそ、政策の効果は指標によって測定され、評価されなければならない。このことは日本ではしばしば無視される。おもいつきのような政策がいったい効果をあげたのかどうか、いつまでたっても決着がつかない。あるいはあきらかに決着がついているはずなのにアクロバティックな擁護者が出てきて議論をまぜかえしたりする。「この政策はこの指標を改善する」という因果関係をあきらかにせずに政策が実施されるのだから、当然といえば当然だ。評価をしようにも、なにを評価していいかわからない。もしも最初から政策の効果を判定する指標があきらかにされていれば、効果の有無ははっきりと検証できる。

ただし、そのためには、指標が正しく現実を反映していることが重要だ。たとえば、一般に株価は経済の状況をあらわす指標とされている。だからこそ、おおくのことがあいまいに、なあなあにされる日本においてさえ、経済政策は株価で評価される。株価があがればそれは正しい政策であり、下がれば政府がわるいということにされる。けれど、この株価という指標は、現在でもほんとうに有効なのだろうか。経済とはなにかといえば、結局はそれは商品の生産や流通をつうじて人びとの幸福が増大することである。ところがいまは、株価がたかいことが経済がいいことであると、指標をつうじて逆向きに定義されるものになっている。そのとき、株価という指標をあげることが、ほんとうに本来の意味での経済の状況を反映しているといえるのだろうか。むしろ、格差の状況をしめすジニ係数や時給の平均値にたいする最低賃金の比率のような指標のほうが人びとの物質的な幸福の総計としての経済をよくあらわしているのではないだろうか。株価は、単純に投資家の金儲けの指標にすぎなくなっているのではないだろうか。また、経済指標としてよくひかれる住宅着工数のようなものは、「豊かになれば人は家を建てるものだ」というかつて有効だった観測をもとにしている。けれど、そういった人間の行動は、現代でも有効なのだろうか。指標が正しく現実を反映しているかどうかは、つねに検証され、訂正されていかねばならない。

そして、指標を設定したとしても、本質を見失ってはならない。たとえば、経済指標として失業率は重要なものとされているが、本書で見たように、人びとの適性や将来性とは無関係にむりやり就業させたり職業訓練にあてはめたりすることで、見かけ上の失業率は下がる。見かけの数字だけを変化させても本質は変化しない。これは、私が再三にわたって文句をつけている「勉強」とおなじことだ。学力テストの点数は、もともと学力を測定する指標として設定された。ところが、点数をあげるには、学力をあげること以上に対策をとることのほうが効果がある。たとえば高校の三角比の基礎である正弦と余弦がどういう概念なのかは円周角にたちもどってかんがえればしっかりした理解ができるのだけれど、それよりも「サインは筆記体のs、コサインはc、タンジェントはtでおぼえたらいいよ」というチートのほうがテストの点数を効率的にとれるようになる。なぜ「この方程式の判別式をDとおくと」と前置きしなければ証明にならないのかは論理的にかんがえる訓練をつめばおのずとあきらかになることだけれど、その修行をするよりは「判別式Dはことわりなしでつかっちゃいけないきまりだから、まずは呪文をとなえましょう」式な暗記をしたほうがよっぽど手っとりばやい。そうやってチートをかさねることが勉強であると本質がおきかわり、最終的には「テストの点数で高得点をとることこそが勉強の目的である」みたいな逆転したかんがえかたがしみわたる。点数は指標にすぎなくて、その指標が正当かどうかはつねに批判の対象にならねばならないということがわすれさられる。

だからこそ、指標を設定することが重要であるのはもちろんとして、それともに、その指標が正しく現実を反映しているかどうかを批判すること、指標はあくまで目安であって、指標そのものを目的にしてはならないことをわすれてはならない。すべて公共的な行為は検証可能でなければならないし、検証可能性を確保するには指標が必要になる。けれど、的外れの指標は意味をなさない。また、指標を操作することは、仮にその数字が正しく導き出されたとしても、その過程を意図的に誤ったのではやはりチートでしかなくなる。

実際、本書にも「測定尺度が利用価値をもつためには、有効性と信頼性が必要だ。有効な尺度とは、根本にある概念を適切に表しているものだ」と記されている。有効な尺度の例として健康にたいする出産時の体重をあげているわけだけれど、それは、「子ども時代、さらには成長後のあらゆる…リスクに低体重が関連している多くの実証的な根拠があるからだ」。さらに、「信頼性のある尺度とは、測定しようとしているものを測定しているものだ」とある。なんのこっちゃとおもうのだけれど、たとえば上記の低体重の話だと、日本人はもともと小柄なので、同じ基準で低体重を測定しても尺度としては信頼性が下がる、というような例があげてある。医療の進歩によって低体重児でも生存確率があがったことも同様だ。だから、信頼性を確保するには、つねにその指標のおかれた状況を確認する必要があるのだろう。

そして、「ライフチャンスの指標」としては、「測定値が定期的に得られていること」「子どもたちのニーズ全体がカバーされていること」などの追加の条件が設定されている。そういったきびしい目でえらばれた指標群だからおそらくこの章にあげられた指標はほんとうにやくにたつのだろう。

しめくくりの12章では、これまでかかれてきたことがくりかえされているところもあるが、あらためて指摘された事実もある。たとえば、「低賃金は構造的な問題であり、単純に最低賃金を引き上げるだけでは解決できるものではない。直近の経済危機の期間をつうじて失業率は増加しなかったが、その一方で賃金は低下を続けた。2007年から2015年にかけてイギリスの実質賃金は10パーセント近くも下がった。OECD諸国の中ではほとんど最大の低下である」という記述をみると、「あれ? それってこの国の話じゃなかったの?」とおもってしまう。リーマンショックのとき、雇用でおこった変化は失業ではなく非正規雇用の増加だった。雇用の質が低下し、それにともなって実質的な可処分所得は減少をつづけている。「さらに、不安定な雇用という見逃せない問題がある」として、失業者が短期間で再就職できる状況ではあっても、そのなかで正規雇用に相当する「期限を定めない雇用契約」を手にできるのは「半分にも満たない」という。つまり、せっかく職を手にして貧困から脱出しても、また貧困に逆もどりする頻度がたかい。そして、「低賃金の仕事についている人びとのうち、10年たって高賃金の安定した仕事に移行できた人はたったの25パーセントに過ぎない」。つまり、格差がしだいに固定化されつつある。「大多数は低賃金と高賃金のあいだを行ったり来たりしており、さらに相当数は低賃金と無給のあいだを行ったり来たりするサイクルから抜け出せない」。いったん非正規雇用におちいるとそこからぬけだすのが困難な日本の状況とオーバーラップしないだろうか。

それでもイギリスがうらやましいなとおもうのは、それがおかしいという批判が、きちんと政治の場にまでとどくことだろう。日本でも個別には批判はおこる。学者はきちんとデータをつみあげているのだろう。けれど、ニュースになるのは建設的ではないグチや、あるいは糾弾調、告発調のおおげさなものばかりだ。政治の場での批判は議論としてなりたたず、単純に政争の一部にしかみえなくなっている。議会は議論の場ではなく多数派工作の場にしかなっていない。本書をうみだした「子どもの貧困アクショングループ」は、一流の学者が核になって、政策の場に提言をおこなっている。そういう提言が空回りせずにきちんと政治の場での議論の土台になる。それは、たとえ敵対する勢力の論であっても、論理がとおったものは検討にあたいするという姿勢が政治家にもあるからだろう。他者の話に耳をかたむけ、ちがうとおもうのならその根拠をあきらかにして論争をいどむ。それが正しい議論のありかたなのに、この国では些細な瑕疵をみつけて論破したり、見当ちがいなこたえかたをしてすれちがい状態をつくったり、はなからとりあわなかったり、およそ議論らしい議論をしないためならどんな手段をとってもかまわないという風潮がある。議論ではなく、中傷や声のおおきさ、数の力でもっておしきるのが政治だという常識ができてしまってながい。これでは、なにもかわらない。

そうなると、気のながい話だけれど、やっぱり教育に期待するしかないんだろう。正しい議論のしかたは、そんなにむずかしいことではない。ちゃんとひとの話をきき、それを論理的に整理し、論理にもとづいてそれに反論していくことをくりかえすだけだ。それは学習指導要領でもやることになっている。それが正しく学校教育にとりいれられていれば、やがて世の中はかわる。

そして、また絶望がやってくる。学校教育は正しくおこなわれているだろうか。いくら学習指導要領にいいことがかいてあっても、それが曲解され、序列化の道具としてもちいられるかぎり、その効果はみこめない。そして、出口に入試がまちかまえているいまの基礎教育システムは、本質よりも表面的な得点力にばかり注力している。

だが、グチはこのぐらいにしておこう。それが建設的でないのは、すでにかいたとおりだ。グチではなく、事実をつみあげていくことからしか出発できない。そういう意味で、この本をつくりあげた学者たちのような人びとに、私は期待している。淡くはあるけれど、期待している。

 

(次回につづく)

金がないのは、かせげないからだ

かせぐにおいつく貧乏なし、とはよくいったものだが、最近ではどうも貧乏の足がはやくなったのか、ときどきおいつかれてしまう。経済の基礎代謝があがっているからだ。過去30年ばかりも賃金はあがっていないのに、固定的に出ていく金額はジリジリとあがってきている。そりゃ、そのぶんだけ便利にもなったし快適にもなった。けれど、「生活が苦しいからその便利さと快適さをがまんするんで支出をへらしたい」といっても、世間標準がそれをゆるさない。具体的にいうなら、通信費が高いからといってスマホをやめたら、たちまち仕事がなくなるだろう。クレジットカードをつかいすぎるからと解約したら、日常の光熱費の支払いにもこまる。むかしのように6畳一間の安下宿があるわけではないし、外出するならマスクだってつけなきゃならない。ラジオで必要な情報がとれる時代じゃないから、アマゾンプライムに課金ぐらいはしとかなきゃいけない。文化水準はあがり、楽しみがふえ、生活も豊かになったかもしれないけれど、お金がかかるのはさけられない。自分ひとりがぬけるわけにはいかない。

その一方で、平均をとったら賃金はかわらないのかもしれないが、実感としては下がっている。最低賃金の見直しがあったここ数年はようやくすこし変化があったのかもしれないが、2000年代、2010年代の下りかたはきびしいものがあった。それは非正規雇用の拡大だ。正規と非正規なんて本来制度上分けられるものではないのに、実際にはそこで身分の一線が引かれる。その線の向こうがわで賃金がすこしずつ上がる一方で、こちらがわでは時給が下がる。統計的な根拠があっていうのではない。職安にかよった肌感覚としてはそうだった。平均賃金が下がらないのに目のまえの手のとどく仕事の時給が下がっていくのは、格差がひろがっていくからだというのがよくわかった。

こんなふうに賃金が下がっているのは日本だけだよというのが、ネットのニュースでみる情報だった。だいたいは「日本の政治はなってない」という愚痴とセットになって、世界のなかで日本の賃金だけがあがらない状況がグラフとともにしめされることがおおかった。なるほど、そうかもしれないとおもっていたが、どうもこの本の第9章を読むとようすがちがう。「子どもの貧困とライフチャンス」のことだ。

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子どもにとって、仕事と賃金は2とおりの意味をもつ。ひとつは親の収入だ。子育て世代の親はまだ若いことがおおく、若い人の賃金はそのまま子どもたちの生活のゆたかさにかかわってくる。もうひとつは生涯の経済的地位をきめることになる職歴であり、その第一関門は就職ということになる。

就職に関するかんがえかたは、日本では過去数十年のうちに完全に様変わりした。若い人と話していて「一生そこにつとめるつもりで就職先をえらべって親はいうんですけど、そんなの現実的じゃないでしょ」みたいなことをきいた。安定就職をめざそうにもそんな職場のほうがすくないのが現代の労働市場だ。そして、おどろいたことに、それはイギリスでも大なり小なりにたようなことであるらしい。「就職の概念さえ、非常にちがった意味合いをおびるようになりつつある。…これには 2 通りの意味合いがあって、まず、現代の若者にとって不完全雇用が常態化しつつある」ことで、「次に、不安定雇用が増えてきていることだ」とある。不完全雇用というのは仕事を見つけることはできるのだが、その仕事がパートタイムや短期雇用のような非正規型の契約である場合だ。イギリスでは「16~24 歳の若者の不完全雇用率は 20 パーセント付近」とされていて、ほかの世代にくらべて倍以上の高率になっている。不安定雇用というのは、たとえば、「会社都合で一方的に呼び出され、需要の大きいときには長時間労働、そうでないときには短時間労働もしくはゼロ時間労働」という雇用形態である。これは「ゼロ時間契約」とよばれるのだけれど、「ゼロ時間契約で雇用される労働者の数は増加していると推計され 、最新の推定ではイギリス労働力の 2.4 パーセントがゼロ時間契約であるという。そして、若者は中高年層に比べてここにあてはまる比率が高い 」とのことだ。ひどい話だとおもったけれど、よくかんがえたらこれは日本の「アルバイト」で常態化している雇用形態だと気がついた。シフトは雇い主側の都合で入れられる。月に何時間とか定時が何時から何時とか、そういうことがきめられた雇用形態ではない。さらに不安定雇用の例としては、「ギグ・エコノミー」とされるUberのように「断片的な労働を組み合わせて当座をしのいでいる。これが現代の雇用構造や若者の個人的な経済をどうにかこうにか下支えしている」とされている。

たしかに、失業率は下がっている。ニートという言葉の本家はイギリスで、雇用されているわけでも学校にいっているわけでも職業訓練を受けているわけでもないひとの意味で、完全に仕事からはじき出された人びとをあらわす概念としてつかわれてきた。この数字は、どんなかたちであれ仕事がふえればへる。アルバイトでもしていれば、それは統計上はニートではない。不完全雇用、不安定雇用でも、雇用されていれば失業者ではない。また、必要があろうがなかろうが、学校に籍があったり職業訓練を受けていたりすればニートではない。そこで、統計上の失業率を下げるため、若者を適性や将来性、安定性にかかわらず、いずれかの状態におしこむ政策がイギリスではとられてきた。たとえば失業給付金は、仕事をしなくてもどうにか暮らせる状態をつくるので、就業への意欲を下げるとして、給付条件が強化されてきた。あるいは、16歳から24歳までの若年層にたいして最低賃金制度からの適用除外を用意するなどの方法で、若者にたいする求人をふやそうとしてきた。その結果、不本意でも就業への道はひらかれ、失業率は下がる。

しかし、そこでえられる仕事は、安定にはほど遠い。とくに就業とも訓練ともつかない「6ヶ月の無給研修」とか、中世の徒弟制度に源を発するアプレンティスシップの拡大が不安定性と不確実性に輪をかけている。アプレンティスシップは、もともと伝統的な職業(18世紀ごろの産業化以前から存在するもの)について労働法関連の規制対象外とするものだったが、1960年代に規定のOJTや研修を実施することを条件に近代産業にも拡大され、1990年代、2000年代と、さまざまな業界に拡大されていったものだ。これは2010年代にはいっても「急成長中」であるのだが、「実際に行われているアプレンティスシップの多くは、貧困に陥らない成人期を保証してくれそうにもない」。たとえば、「清掃業、倉庫業のアプレンティスシップさえ存在するし、伝統的に低賃金で不安定な雇用の代表とされてきた…保健介護関連セクターでのアプレンティスシップが…最も多くを占めている」。けっしてこれらの業種の専門性をとやかくいうつもりはないのだけれど、アプレンティスシップが「学校では教えない現場のことを学んでその道の専門家になり、修行時代がおわったら独立して一人前の親方としてかせぐ」ものであるという考えかたには、とうていそぐわないものだろう。つまり、アプレンティスシップは、単なる低賃金労働者を雇用するための口実につかわれているのが実情のようだ。実際、「アプレンティスシップは長期雇用ではない」し、「不利な立場に立たされた若者を貧困から脱出させるような質の高い雇用にアプレンティスシップからつながる道すじは、何も保障されていない」。無給研修の制度もそうで、本章にはピザハットが「スキルを若者にあたえる」と称して「ホスピタリティのトレイニーシップ」を募集している広告の例があげられている。無給でピザハットの接客を「職業体験」しても、それが将来の人生に役立つだろうか。けれど、こういう枠組みにおしこめられれば、その若者はもうニートではない。

これにかんしては、本書とは関係ないのだけれど、The Global Auction: The Broken Promises of Education, Jobs, and Incomes(Phillip Brown, Hugh Lauder, David Ashton, 2010)という本のイントロダクションの内容が理解をたすけてくれる。これによれば、高等教育を受けた労働力の爆発的な増加、価格/品質革命、標準化、格差の拡大が高度な教育をうけたスキルのたかい安価な労働力をうみだしている。知識産業社会への移行が語られるようになって半世紀、高等教育が世界標準でおこなわれるようになり、大卒、院卒の肩書があふれるようになって、その経済的価値が下がった。そんななかで企業は「高価だが良質な労働力」と「安価だが低質な労働力」の2択で雇用する必要がなくなり、「安価で良質な労働力」を買いたたけるようになった。本来、知識は力であって、スキルのたかい人材は代替がきかないものだった。ところが、知的労働を標準化して断片化することで本来は一連の知的活動が分業化できるようになり、結果として労働者と雇用者の力のバランスが雇用者がわにかたむくことになった。標準化され切りはなされた労働は、それが高度なスキルを要求するものであっても買いたたける。そして、同じ水準の教育をうけても、エリートコースにのったひととそうでないひとでは、給与水準が数桁のちがいにたっする。教育は、その内容でもってひとをたすけるものではなくなっている。

本書にもどると、職業訓練として無給で雑貨屋の店員をする大卒者の例があげられ、それが「成功への機会を増大させる」といえるのだろうかと疑問を呈している。単純に「不安定な雇用を20代半ばから後半にまでひきのばす」だけではないのかと提起している。「質の低い雇用と失業のあいだの短期間の往復をくり返すパターン」におちいるだけであり、それは「中年になっても続いていく」。つまり、「失業が長期にわたることよりも不安定な状態が長期にわたることのほうが」問題であって、見かけ上の指標の改善のために質の低い雇用や見込みのない職業訓練をあてがうのはあやまっているのだろう。

本章の分析で「なるほど」とおもうのは、政府が若者の失業問題にたいしてもつ「若者がニートになったり質の低い仕事から抜け出せない問題はスキルアップで解決可能である」という前提をきびしく批判していることだ。「どのような基準から見ても、いまの若者世代はかつてないほど資質が高い」のだし、その意欲は「過剰なほどに高い」。つまり、「若者の資格、意欲、スキルと実際に提示される仕事との乖離」「すなわち労働力需要側の問題」こそが本質であり、労働力供給側の問題ではない。「資格を手にすることがスキルを生かせる高賃金の仕事を必ずしも保証しない」しくみができてしまっている。つまり、<スキルや資格のある労働者の増加→すくない求人をめぐる競争→最も資格能力の高い人が雇われる→本来スキル・資格を要求しない仕事までが有資格職になる←ただし、賃金は据え置き>というながれで、どんどんと標準があがってしまう。そういう現状があるときに、教育や職業訓練にいくら力を入れても若者の就業状況は改善しない。現状イギリス政府の政策は、「仕事のない人に仕事を創り出そうというものではなく、だれも望まないような仕事のための労働者を創り出そうということ」になっている。そうではなく、せっかく有能で意欲もたかい若者に、それにふさわしい仕事をつくり出す政策が必要なのではないかというのが、本章の趣旨だ。

「いまの若者世代は、このままでいけば両親とそれ以前の世代に比べて生涯の経済状況が低くなる初めての世代になる」。なにせ、「若者は雇用率が低く、不完全雇用の率が高く、時給が低い」。そのうえ、「若者が持ち家を所有したり公的住宅に入居したりできる比率は…低下してきている。その結果として若者は高価な民間賃貸部門に頼らざるを得なくなり、可処分所得、…持ち家資産の取得能力がどんどん低下してきている」。さらに教育費の負担も増加し、「生活費給付奨学金が生活費ローンへと置き換えられる」なかで「相当な借金を背負って社会に出る」わけだ。イギリスの若いひとは、相当な苦境にたたされている。

日本では、なにかというと「氷河期世代」の苦難が取り沙汰される。現代の若者は、それにくらべればマシだとみられることもおおい。けれど、実質的な給与があがらず、雇用が不安定化し、正規採用と非正規採用の格差がどんどん拡大し、能力と意欲に見合った職がなかなかみつからず、就職後も奨学金の返済と利子に苦しめられるようすは、なんだかイギリスと相似形にみえる。もちろん個別の例をとりだせば実に多様な人びとがいるわけだが、全体としてみればいまの若者は優秀だ。まじめに勉強させるシステムができあがっているし、教えるがわもむかしよりは手がぬけなくなった。インターネットのおかげで情報にさとく、英語の能力もはっきりとあがってきている。そういう人びとにふさわしい仕事があるのかといえば、世の中には旧態依然とした仕事ばかりがあふれている。あまり明るい展望があるようにはおもえない。

けれど、そんな時代は過去にもあった。夜明けまえがいちばん暗いともいう。希望がみえなくなったときが、実は新しい時代のはじまりだ。歴史はそうおしえてくれる。

そのためには、若いひとが自由にうごける環境が必要だ。経験を積んだがわからみれば、あまりにもあぶなっかしかったり、むちゃだったりすることもあるかもしれない。それでもおもうとおりにやらせてみるべきだ。もしも年かさのがわに知恵があるのなら、それは若いひとをささえるためにつかうべきだ。年があらたまり、ひとつ年をとって、そんなふうにもおもう。

 

(次回につづく)

住む場所の問題 - 生きることの基礎として

長く生きてきたおかげで、いろんな場所に住んできた。豪邸からアパートまで、ひととおりの暮らしはわかる。いちばんせまかったのは公称6畳、天井を見上げたらベニヤ板が3枚半という便所共用の中野のアパートだった。いちばん惨めったらしかったのは、田んぼの真ん中にある作業場併設の飯場みたいな小屋に住んだ半年ほどで、あそこでフロッピーディスクにぜんぶカビをはやしてしまった。事務所の床にころがって仮眠したこともあれば、ホームレスさながらに深夜のゴミ置き場で新聞紙にくるまって寒さをしのいだこともある。いまは一戸建てでストーブに薪をくべながら優雅な生活をさせてもらっているが、結婚してからでも田舎の古民家、地方都市の棟割長屋、都市郊外の高層アパートと転々とした。子育てに住居がどれほど重要かも実感してきた。

だから、「子どもの貧困とライフチャンス」の第8章で住居の問題が語られていても、「そりゃそうだろう」とおもうばかりだった。どんなところに住むのかは、子どもの成長におおきく影響する。そして、「どんなところ」といったときには、住居そのものの物理的な特性と、その住居が存在する環境と、その両方がからんでくる。さらにはそこでの暮らしかたも重要だろう。この章では住居のなかでどのように暮らすかについては語られていない。それがいかに子どもの育ちにとってたいせつでも、そこはあまりに個人的なことであり、社会学がどうこういうことではないということなのかもしれない。

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物理的な住まいそのものの問題では、まず、その有無が重要だろう。安定した住居がないとき、その状態をホームレスという。ちなみに、英語のhomeは「かえるべき場所」というイメージがいちばんまちがいがない(だから、野球ではランナーがかえってくる場所をホームベースというのだし)。イギリスの政策では住居に困っている困窮者には政府が一時的居住施設をあてがうことになっているのだが、そういうところはあくまで一時的にそこにいるだけなので、homeではない。つまり、野宿者のほかカフェや親類や友人の家を転々としているせまい意味でのホームレスにくわえて、一時的居住施設に入居しているひとも、「かえるべき場所」をもたいないので広い意味ではホームレスである。

つぎに、住居の質がある。せまかったり破損していたり、湿気ていたり暑すぎたり寒すぎたりという問題だ。本書ではとりあげられていないが、シックハウスの問題も無視できないだろう。化学物質だけでなく、ダニや蚊などの害にさらされることもQOLを下げる。住設備にかんしては贅沢をいいだしたらきりはないが、あまりに老朽化しているものや時代おくれなものは、やはり子どもの成長に影響するだろう。

物理的な住居と関連しながらも独立した因子としてはたらくのが、家賃や住宅ローンの返済だ。家賃はその住居の地理的な位置とも関係する。だから、家賃の高い物件がそのまま質の高い家であるとはかぎらない。東京の家賃の高さは有名だが、本書によればロンドンも相当なようだ。
そして居住地域だ。どんな環境が子育てにいいのかは、個人の感覚であり、指向性だ。ただ、その個人的な選択の集積として貧困家庭が特定地域に集中するようになると、そこに負の連鎖が発生する。好ましいことではない。

 

さて、本章の内容にうつる。まずホームレスだが、これは地域によってずいぶんちがうとはいえ、2003年をピークに減少をつづけている。それはけっこうなことなのだけれど、たとえばイングランドでは0.25%の世帯がホームレスと、けっしてすくなくない。おまけに「これら世帯の4分の3には扶養の子どももしくは妊婦がいる」。子育て世代のほうが住居にこまる割合が高いのだ。一時的居住施設に入居しているひとは上記の数字よりおおいのだけれど、そちらもやはり8割近くが子どももしくは妊婦のいる世帯だとのことだ。そのおおくがロンドン在住ということは、大都市でなければ若いひとの仕事は容易にみつからず、かといって大都市の家賃がたかく、ちょっとした困難ですぐに支払不能におちいってしまう脆弱な立場にたたされていることをあらわしているのだろう。「イギリスの若い人は高齢の人に比べて3倍もホームレスに陥りやすい」。たいへんだ。

そういう状況でよく子どもをもとうとおもえるな、ともかんじるが、しかし、経済状況がわるいからと子どもはおろか結婚もかんがえられないようなどこかの国の若者の状況と、とりあえず家庭をもつところまではたどりつけるイギリスの若者の状況と、どっちがより未来にとってマシなのかと視点をかえると、他人事ではない気持ちにさせられる。

それでもようやく住居を確保できたとして、それが生活の質をあげてくれるとは一概にいえない。イギリスの住宅の2割は「保健上の基準、安全上の基準の未達、メンテナンス不備、旧式設備、温度管理などの問題がある」のだし、「とくに民間賃貸部門では全体の3分の1が不適切される」とのことだ。賃貸物件には公的賃貸住宅と民間賃貸住宅があるわけだが、とくに民間賃貸の質が低く、それでいて家賃が高い。けれど、公的賃貸住宅への入居は容易ではないので、子育て世帯は民間賃貸住宅を利用する傾向がある。「扶養対象となる子どもがいる家庭のうち36パーセントが民間賃貸住宅に居住している」。それもあってか、「貧困下に暮らす子どもたちが…深刻なほど補修が行き届かない家や、過密状態の家に暮らすことになる確率が相当に高い」。

質の低い住居が子どもの成長に悪影響をあたえることは容易に想像できるのだけれど、「子どものウェルビーイングやライフチャンスに対する質の低い住居の影響を因果関係として取り出すのはむずかしい」。というのも、質の低い住居は貧困とむすびつきやすく、貧困はべつの経路をとおって子どもの成長に影響するからだ。だから、質の低い住居に暮らす子どものいくつかの指標が低かったとして、それが住居の影響なのか、それとも貧困の影響であるのか、判定ができない。それでも、たとえば成績や健康などの指標で、あきらかな相関はみられる。寒さ、湿気、カビ、ダニなどの健康への影響、学習スペースの欠如による成績低下、プライバシーを保てないことによる心理的影響などは、因果の経路を推定しやすいものだろう。

それにしても、イギリスの家賃は高い。公的賃貸住宅では収入の31パーセント、民間賃貸住宅では収入の43パーセントが家賃に消えている。これは補助金を差し引いた額で、補助金なしならそれぞれ42パーセントと52パーセントになる。収入の半分が家賃に消える計算だ。一方の住宅ローンの支払いは収入の19パーセントとのことで、これはもともとあった格差をさらに拡大する方向にはたらいているのだろう。「子どもがいる人の27パーセントが住宅ローンや家賃の支払いが心配で光熱費や被服費を減らしたと答えている」とのことだから、住居費はかなり生活を圧迫する。

日本では北海道が「灯油の値段が上がると死ぬ」といわれるほど冬期の燃料費がかかるのだけれど、イギリスには「エネルギー貧困」という概念があるらしい。それに該当する世帯が全体の2割ほどもある。さらに、「子どもたちの10パーセントが家が湿気ていて黴臭いと述べており、28パーセントが家が寒すぎると考えている」そうだ。

住居費の負担が大きいことは、とくに収入の低い世帯では、親の労働時間の過剰につながりやすい。結果として、子どもと過ごす時間が減り、必要な目配りもとどかない。その影響は以前までの記事でふれたとおりだ。

貧困家庭が特定の地域に偏りやすい傾向は、統計的にあきらかになっている。それは、民間賃貸住宅のほうが環境問題をかかえやすい傾向と関係があるのかもしれない。「貧困生活を送る世帯は、環境問題のある地域の率が高い」し、「子どものいる世帯は、子どものいない世帯に比べて、わずかではあるが、最も問題の多い地域に住む率が高い」上に、「ひとり親は最も問題の多い地域に住む率がはるかに高く」なっている。このようにして貧困家庭のおおい地域がうまれれば、それが学校に問題をひきおこし、貧困の再生産につながる。そのようすもまた、以前にふれたことだ。

家庭教師という仕事をしてきた関係で、私は自分が住んできた家のほかにも、子どもが育つ住居を数おおくみてきた。そのなかでかんじるのは、やはり新式の家は子どもにとって快適なのだな、ということだ。もちろん、高気密の家でエアコンを必要以上にかけてかえって不快をかんじるような子ども部屋とか、家はあたらしいのだけれど掃除がいきとどかなくて息がつまりそうなケースとか、高層階で地上に出るまで時間がかかりすぎる住まいとか、一概にはいえない。けれど、伝統家屋の座敷はやっぱり寒くて、こたつをいれてくれていてもなかなか勉強に集中できなかったりする。あるいは築50年たつような古いビルにあった子ども部屋は、西日がさすのにエアコンもなくて、一気に体力を消耗した。狭いアパートで子ども部屋もなくちゃぶ台を片づけて勉強したときも、すぐとなりでちいさな弟がテレビをみているわきで教えなければいけなかったときも、これでは成績があがらないのも無理はないとおもってしまった。もちろん、どんな逆境でもくふうとがんばりでのりきるひとはいるのだし、そういった経験こそが成長の糧になったというひともすくなくはないだろう。成績があがらないことを住居のせいにしてはならない。だが、そうおもうたびにまた、山に登っていた若いころをおもいだすのだ。

大学山岳部は、きびしいところだ。山登りをはじめたばかりの初心者を、ほんの1、2年前までその初心者だった先輩が引率していくのだから、厳格すぎるぐらいに厳格でないと危ないというのはわかる。装備も安全がわをとり、だから荷物はおもかった。その重荷のなかにかならずセーター(まだ現代のようないい素材がない時代には天然素材のセーターが最後のトリデだった)が1枚、厳重に包装されてはいっていた。非常時に身につけるためのものだ。また、風雪をふせぐヤッケも同様に厳重に包装されていた。これらの衣類、なかなか出番がない。非常用セーターなんか、私は1回もつかったことがない。ヤッケでさえ、めったに出さない。1年生が「寒いから」とセーターを出そうとしたら、たちまち先輩からしかられる。「風が出てきたからヤッケをきますか」ときいたら、「いまヤッケなんかきて汗をかいたら稜線に出たときに寒さで死ぬぞ」とおどされる。防寒着は基本的にかつぐものであり、きるものではなかった。そういうふうに育てられたから、私も鬼の先輩になったときには、1年生にやかましくそういいつづけた。

ところが、おなじ大学山岳部でも、学校によって文化がちがう。ある大学の山岳部と合同でのぼっていたとき、そっちの1年生は最初っから分厚い防寒着をきている。うちのような貧乏学生ばかりのクラブでなかったこともあるだろうが、当時出はじめたばかりの機能性繊維のジャケットだったりする。「あんなものきてあるいたら、汗をかいてバテるだけじゃない」と、こっちはこっちの常識でおもうのだけれど、たしかにあせはかいているけれど、そこまでの差は出ない。そして、だんだん寒くなってくる。こっちはいつもの調子でガマンしている。そうやってきたえるんだ、ぐらいの気持ちでいる。「こんなところで厚着するなんて軟弱な」ぐらいにおもっている。そして稜線をまえに、「もうよかろう」とヤッケをとりだすのだけれど、実はその時点ですっかり身体が冷えている。そこから先、うごきがいいのは実は最初っからジャケットをきていた連中で、「軟弱な」とそれを冷ややかにみていたこっちのほうはもう寒さにやられている。

そのときになって、うかつな私もようやく気がついた。根性だとか鍛錬だとか、そんなことにこだわるのはバカげている。たしかにすこしはきたえられるかもしれない。けれど、最終的に結果を出すのは軟弱といわれても文明の利器を活用する連中なんだ。登山みたいな「生きのこったら勝ち」式のゲームをやってる以上、つかえるものはどんどんつかえばいい。人生もおなじで、ラクをすることに恥じてはならない。質素な暮らしもエコライフも、趣味でやるぶんにはかまわないけれど、最終的に勝ちのこるのはつかえるものを活用したほうだ。だから、若いひとが「あまやかされてる」とか「贅沢だ」とかいうふうにみえるたびに自分をいましめてきた。そうやってラクをしたほうがしあわせなら、それを選択すればいい。しあわせに育ったひとは、長じてしあわせな世の中をつくるだろう。

もしもせまい家やさむい子ども部屋、じめじめしたアパートや身体がかゆくなるような建材の住居からぬけ出すことができるなら、絶対にそのほうがいい。そういう場所が人間をきたえる場合があるかもしれないが、ダメにする場合だってある。確率論的にいえば、後者のほうがさけるべきだろう。だから、子どもたちにはできるだけ快適な住居をあたえたいし、もしもそれが経済的な理由でできないのなら、それが可能になるような社会制度をかんがえなければいけないのだとおもう。本章では、イギリス政府にたいして民間賃貸住宅部門に対する制度改正や公的賃貸住宅の増設、補助金の改正などを提言している。しかし、もしも収入の不足が理由であるのなら、結局はすべてのひとに適正な収入を確保すること、つまりは貧困対策がもっとも早道ではないのだろうか。

家賃がはらえるなら、だれが粗悪な物件に住みたいとおもうだろう。それは単純に、いのちをすりへらすだけなのだから。

 

(次回につづく)

心が不調でチャンスがつかめるか

「子どもの貧困とライフチャンス」の第7章は、第6章にひきつづいて健康の問題だ。そのなかでもとくに、メンタルヘルスにかんする問題をあつかっている。貧困下に暮らす子どもたちはメンタルをやられる。それがライフチャンスに影響しないわけはないだろう。だったらまずは貧困をどうにかしないといけないんじゃないのかと、ほかの章でもくりかえされた論法で話がすすむ。

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一般的な健康ととくに分けて章立てされているのは、心の不調が外見上わかりにくいからだろう。ときには怠惰であることや協調性がないことなど態度を改めれば解決するとおもわれたり、反抗的であることや粗暴であることなど周囲の指導で矯正可能であるとおもわれたりする。実際には、すくなくともその一部は健康の問題であり、医療をふくめた専門家の介入がなければ解決しないものである。ときにはそれは本人の変化だけでなく、周囲の合理的な配慮と対応によってのみ解決可能であったりする。つまり、心の健康は一般的な健康以上に社会的な問題である。心の不調は、本人の幸福だけでなく、周囲にたいする影響もおおきい。貧困問題にとりくむことで当事者のQOLが改善すれば、周囲のQOLもそれに応じて改善する。貧困対策によって改善するのであれば、それは社会政策として比較的安価で確実なものとなるのだろう。

心の健康は身体の健康と同様、生得的な要因と、環境的な要因の双方の影響をうける。貧困は環境的な要因のなかでもおおきな位置をしめる。貧困の影響としてこの章でまず指摘されるのは、周産期の母親にたいするものと、生育の過程でうけるもの、とくに貧弱な住居の影響だ。「仮住まいはとくにダメージが大きい。家族が安心できず、空間あたりの人数が多くて騒音もひどいことが多いからであり、そのせいで睡眠の質が下がり、結果として行動も不良に陥る…、外部空間への安全なアクセスが提供されることもめったになく、結果として運動へのアクセスが制限される」として、そういった影響によって「子どもたちのメンタルヘルス問題が3倍増となる」と、居住空間の影響をあげている。

それでも、生得的な要因のほうが重要ではないかというかんがえもあるだろう。だが、「生得的な要素が大きい部分を占めるとされているメンタルヘルスに関しても、貧困との強い関係を示す証拠が存在する」という。「子どものウェルビーイングはより平等で豊かな国ほどよい」というグラフが掲載されている。所得の不平等が大きいければ大きいほど、子どものウェルビーイングは低い。つまり、環境的な要因はやはり心の健康におおきな影響をあたえている。ちなみに、このグラフで、ひとつだけ、所得の不平等が小さいのに子どものウェルビーイングが小さいハズレ値をしめす国がある。日本だ。

貧困がどのように心の健康に影響をあたえるのか、ひとつには単純に物理的な欠乏である。住居の影響は上にのべたとおりだが、栄養、運動、睡眠なども貧困によってそこなわれがちなものであり、それらが心の健康にかかわってくるのはどこかで聞いた話だ。しかし、「興味深いことに、メンタルヘルスに関する影響については、周産期の栄養ほどには、出産後の栄養摂取は重要ではない。むしろ子どもたちがもっとも必要とするのは他者との交流である」とあるように、実は心理的な欠乏のほうが影響がおおきい。そして、貧困は心理的な充足をおおきくそこなう。だいたいが、物質的な面だけでいえば、現代のイギリス(そして日本)はそこまでおいこまれていない。「メンタルヘルスの不良に関係するのは物質的な貧困そのものではなく、資源の分配の極端な不平等のなかで底辺にいるという経験なのだ」。相対的貧困の概念は、「そんなこといっても現代の貧困生活は100年前のそれと比べてずっと豊かじゃないか。日本の貧困層はより貧しい国の貧困層よりもずっと豊かじゃないか」といった言説で批判される。けれど、分配の不平等は、実質的にひとを圧迫し、心理的においつめる。貧困は、それが相対的なものであっても(あるいはそれゆえに)、心理的な欠乏をうみだす。それは、豊かさのなかにありながらも物質的に欠乏するというねじれた現実をうみだす。

まず、貧困は親の時間をうばう。低賃金であればひとは長時間はたらかざるをえないのだし、両親のどちらかが家庭で育児に専念するわけにもいかない。非正規の雇用は勤務時間も不規則になりがちで、子どもと顔をあわせる時間がうしなわれる。さらに、経済的な貧しさは、さまざまな問題につながる。(身体的・心理的・性的)虐待、暴力、両親の離別過程の摩擦、親の収監、親のメンタルヘルス悪化などは、「貧困下に暮らす子どもたちだけが経験するものではないが、貧困下の子どもたちのほうがこういった経験にさらされる可能性が高い」。さらに、いじめは子どものメンタルヘルスを悪化させるのだけれど、「いじめは低所得の家庭の子どもに起こりやすい」。

どんな問題がおころうと、人間にはそれをのりこえていく力がある。とくに子どもは強靭だ。若竹のようなしなやかさがある。けれど、こういった「回復する力」を身につけるためには、家庭内で「いっしょに活動してともに時間を過ごすこと、運動、良質の睡眠、食卓をともにすること、いじめがないことなど」が必要になる。そしてこういったことは、貧困によってうしなわれる。心理的な欠乏からの悪影響をのがれるために必要な「回復する力」は、貧困がつづくかぎり、容易に涵養されないしくみになっている。

子どもの心の健康を確保することが社会にとって重要であることは、イギリスでは行政にもしっかり認識されているようで、各種サービスが受けられる制度がととのっている。この制度そのものの問題点も指摘されているが、支援を受けられるのはけっこうなことだ。とはいえ、「逆境をくぐり抜けてきた子どもたちが小ぎれいれに分類されてサービスを受けるとは考えにくい」という指摘にははっとさせられた。「貧困家庭では予約どおりに受診すること、書面による問い合わせに回答すること、継続的に利用することがむずかしくなる」。連絡のとれない子どもを受診対象からはずしてしまえば、いくらかたちのうえでは支援をうけられることになっていても、実際にそれはとどかない。「日々の収支にともなう緊張、転居の頻度が高いこと、交通費、言語的な困難、親の仕事が不規則で低賃金、不安定であれば休みをとるのに苦労することなどはすべて、貧困家庭がサービスを継続的に利用することを困難にする」。そもそも努力が不可能な状態になって支援をもとめているひとに、支援をうけるための努力を要求するような制度は、案外におおい。「そんなもの努力のうちにはいらないだろう」とおもうような一見ちいさな障害物が、実際には支援へのうごきをおおきくはばむことがある。

そしてここでも、学校が「不平等の発生源」となる。学校にはカウンセラーがいるし、心の不調をうったえる生徒には支援が用意される。それはすばらしいことだとして、それがほんとうに必要なところにしっかりととどくかといえば、案外とそうでもない。その心の不調が不安や悲しみというかたちで表現されれば、それはたしかに支援の対象になる。ところが、心の不調が怒りとして表現された場合、その生徒は支援の対象ではなく、処罰の対象となってしまう。怒りはおおくの場合、ものの破壊や対人的なトラブルに発展するからだ。そして「貧困下の子どもがメンタルヘルスに困難をかかえているとき、後者の表現をとることが多い。このため、貧困家庭の子どもたちに対する排除が進行してしまう」。本来はもっとも支援を必要とする人びとが支援をうけられず、ほかにもオプションがある経済的にめぐまれた人びとに優先的に支援がまわってしまうしくみが、ここにもあるわけだ。

そしてこれが「ライフチャンス」にとって大問題になる。まず、「メンタルヘルス問題の経験は、子ども時代の経験全般を損なう」。つまり、幸福な子ども時代への「チャンス」を下げる。さらに、「子ども時代のメンタルヘルス障害は成人してからのメンタルヘルスに関連していく」。「メンタルヘルス障害をかかえた子どもたちは、成人してから精神疾患を発症する比率が3倍高くなる」。「愛着障害は幼児期の虐待やネグレクトと関連し…、成長してからの人格障害や障害をつうじての困難につながる」。「メンタルヘルス問題をかかえた人は、身体的な健康問題も引き起こしやすく、さらに、その診断や治療の質が低くなる」。暴力被害にもあいやすいが、ここにはジェンダーによる非対称性も存在する。結局、「慢性的なメンタル疾患のなかで生きることは、ライフチャンスに相当な因果関係を及ぼす」わけだ。

金がないからといって、それだけでひとは精神を病むわけではない。貧しくとも健全な心をもったひとはいくらでもいるだろう。それはありあまるほど金をもっていながら心に問題をかかえた人よりもずっと多いはずだ。だから、個別のケースについて経済的な困難とメンタルの不調をただちにむすびつけるのは穏当ではない。そうではなく、社会をみるときは統計だ。統計的に相対的な貧困が心の不調の発生率と相関するのであれば、そこに因果があるかどうかをみきわめなければならない。そして因果があるのであれば、社会のしくみを調整することで、そこにはたらきかけることができる。若いころ、「社会学は政策科学である」という話を聞いてどうにも納得できなかったのだけれど、そういうふうにかんがえれば、たしかにそういう一面はあるのだなあと、ようやくおもえるようになってきた。

 

(次回につづく)

健康は金では買えないが、金がなければ健康は損なわれる、という話

「子どもの貧困とライフチャンス」の第6章は、「ライフチャンスには健康が必須条件だ。健康のためにはそれをささえる経済資源が必須だ。つまり、貧困対策をしなければならない」という理屈で論が展開される。これは2010年に出された報告書、通称マーモット・レビューを下敷きにしているのだけれど、さもありなん、この章の著者は御大であるマイケル・マーモット医師ご自身ということである。

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一般に、「健康は金では買えない」といわれる。いくら金持ちでも不摂生な生活をしていれば健康はむしばまれていく。日頃の摂生ととしては、十分な睡眠や運動、野菜350グラムなど、どこかで聞いたようなお題目をあげれば十分だろう。だが、経済的に圧迫されると、それらを確保するのがむずかしくなる。低賃金で家計をささえなければいけないとなれば無理な労働時間で睡眠をけずらざるをえなくなるし、ちょっとした運動をする心の余裕もなくなる。「カロリーあたりの栄養素が豊富な食物は高価である」し、「果物・野菜の消費量が少ないことと食費の少なさ」は関係がある。人間はまず熱量がなければ動けないから、お金に余裕がなければカロリーあたりの値段が安いものをえらぶ。つまり、野菜ではなく穀物や油を買うようになる。「栄養的には優れているカロリーの低い食品は、比較的高価なものだ」。

つまり、健康的な食生活をするためには、心がけだけではなく、十分な収入がなければならない。実際、2歳から15歳までの子どもについての肥満の発症率調査では、「低所得側5分の2の集団の子どもたちのほうが肥満率が高い。この集団は、最低所得基準に達しない家庭の子どもたちである」わけだ。肥満が各種の慢性疾患の予測因子であることはいうまでもないだろう。「収入最低の層は、一般にタンパク質、鉄分の摂取量がすくなく、果物・野菜をあまりとらず、ビタミンC、カルシウム、魚類、葉酸の摂取量も少ない」。これで健康になれるはずもない。

こういった栄養不良は、出生前から子どもたちに影響する。「低所得世帯出身の女性は妊婦健診を予約することが少ないし、妊娠中の喫煙・飲酒の可能性も高く、食生活に問題がある場合も多い。これら最適とはいい難い状況はすべて、胎児の発達に影響し、低体重児の発生率を高める」。妊婦に酒をやめろ、タバコをやめろというのはかんたんだが、やめさせるのは容易ではない。しかし、経済状態が改善すれば、統計として、酒・タバコの消費が減ることはあきらかになっている。であるならば、妊婦を責めるより、経済状態をささえてやるほうがずっと効果が高いことになるはずだ。だいたいが、周産期には女性につよい精神的な負担がかかる。周産期の「うつ、不安障害、双極性障害統合失調症精神病性障害などの罹患率」は、「社会経済的な剥奪が大きくなるにつれ増加する。母親のメンタルヘルスが不調であれば、その子どもたちは行動上の困難、社会的困難、学習上の困難を経験するリスクが高くなる」。貧困が低学力につながるメカニズムは、こんなふうに説明することもできるわけだ。

さらに、貧困は子どもの精神状態に直接影響する。一般に、「低い社会経済的地位と子ども・若者のメンタルヘルス問題のあいだには明確な関係がある」のだし、「最貧世帯の子ども・若者は…、メンタルヘルス問題を発現する可能性が3倍近くにものぼ」り、「貧困下に暮らす思春期の子どもたちに行動上の問題が高い率で見られる」。「世帯収入の減少が子どものメンタルヘルスにマイナスの影響を直接あたえる」原因は、「経済的なプレッシャーの増加であり、親のメンタルヘルス、夫婦間のやりとり、子育ての質のマイナス方向への変化」とされている。

貧困は、住居の質が下がることをつうじて間接的に子どもの精神に影響をあたえる。住居がせまいと心理的に圧迫されるし、「寒い住居に住んでいる思春期の子どもたちの4人に1人以上が複数のメンタルヘルス問題のリスクにさらされている。暖かい家にずっと住んできた場合には20人に1人でしかない」というわけだ。

経済状況は、子どものネグレクトも増加させる。「継続的なネグレクトは健康や発達に重篤な損傷をあたえることにつながるだけでなく、社会機能、人間関係、教育上のアウトカムに対する長期的な困難も引き起こす。極端な場合には、ネグレクトには死という結果もまっている」。児童虐待の問題で親を責めるよりは、社会の不平等に起因する貧困をなくすほうがより被害を軽減できるのだろう。

健康は、きわめて個人的な問題だ。けれど、統計的にそれがあらわれるときには、社会問題としてあつかわれる。個別の人が個別に健康を心がけたり、あるいはあえて不健康を選択することを、他者がとやかくいうべきではないだろう。ただ、個別に対して意見するのではなく、社会の構造にたいしてはたらきかけることでそれが改善できるのなら、そうすべきだ。社会問題の解決とはそういうことだろう。社会の構成要素である個人は、あくまで自由な存在だ。ただし、その行動は、自由な意思の選択として、社会のありように影響される。行動をかえるために社会のありようをかえるのは、個人にたいする干渉ではない。健康の改善を社会問題として解決したいのであれば、健康を悪化させる社会的な因子をみいだし、それをつぶしていくことだ。そしてその最大の因子は、経済的な貧困である。

貧困を低減させようとすれば、当然、社会的なコストが発生する。それにたいして、本章の著者はいう。「忘れてならないのは、不健康は社会にとって高くつくということだ。不十分な収入の人々の数が増加すれば、それでなくともかつかつの国民保険サービスへの負担が増加し、政府にさらに出費を強いることになっていく」と警告して章を締めくくっている。なにもイギリスだけの話ではないだろう。

 

(次回につづく)