牛乳の思い出

私はどちらかといえば牛乳をあまり飲まない。冷蔵庫にミルクカートンが常備されている、ということはなく、年に数回、500mLの紙パックを買う程度だ。ソフトクリームは好きだけれど、1つ食べるとほぼ確実にお腹を冷やしてしまうので、めったに食べない。乳製品でよく消費するのはチーズで、これはほとんど毎日のように食べてる。だから、けっして酪農一般に貢献していないわけではないと思う。牛乳を飲まないのは、単純に好みの問題だ。

もっとも、牛乳が嫌いというわけではない。若いころには牧場を訪れることも何度かあって、搾乳の現場も見学させてもらった。衛生上の問題とかもあるから自分で絞ったことはないが、手絞りも機械で絞るのも、興味深く眺めさせていただいた。そのたびに、「うまそうだなあ」と思った。

なぜなら、私がおそらく初めておいしいと思った牛乳は、そういうものだったからだ。おそらく小学校の低学年の頃のことだから、はっきりは覚えていない。味がどうだったとか、きれいさっぱり忘れている。ただ、いくつかの情景がうかぶだけだ。それすら遠く霞んでいて、いつ消えてもおかしくない。だから、思い出せるうちに書いておこう。

母方の祖父は、もともと牛飼いの家の生まれだった。長野県の小諸の山奥で、酪農を営む一家に生まれたのだという。祖父が生まれた明治の時代、酪農がどういうものであったのか、私は不勉強で知らない。現代のように生乳が日常的に飲まれる時代ではなかったはずだから、バターや練乳のような加工原料として出荷していたのではないかと思う。このあたりは憶測だ。

ともかく、祖父は生家をはなれて海軍軍人となった。戦争が終わったあとはある企業に勤めて大阪に住み、定年退職して京都府北部の田舎に引っ込んだ。妻である私の祖母の地縁・血縁がそこにあったからだ。それが1960年代の中頃のことだ。以後、私は年に数回、親に連れられて祖父母を訪ねる子ども時代を送った。私は偏食気味のアレルギー持ちで虚弱だったから、長時間自家用車に揺られてやっと田舎家に着いてもくたびれ果てて、ただぼんやりしていた。移動が大変だったということ以上の思い出はあまりない。

ただ、1960年代の末頃、家の都合で夏休みの割とまとまった期間、ひとりで祖父母の家に預けられたことがある。祖母とゆっくり過ごしたのはその夏だけだから、たぶん、思い出す情景はその夏のことだったのだろう。

軍人の妻として長く家庭を守り、また戦後には十数年に渡って大阪近郊の都市部に住んだとはいえ、祖母は農村の人だった。だから、田畑にはよく出ていた。祖父も大きな体で一輪車を押して野良仕事に出かけていた。私は祖母のあとをくっついてまわることも多かったが、ひとり留守番していることもよくあったように思う。なにせ弱っちい子どもだった。誘われても家にのこる方をえらぶことも多かっただろう。そのくせ、祖母の姿が見えないと不安になる甘えん坊でもあった。

そんな祖母が、あるとき、「牛乳、買いに行こか」と、私に言った。覚えているのはひとつの情景だけど、1回のことではなかったように思う。とはいえ、毎日でもなかったようだ。どういう時間帯だったかも思い出せないが、なんとなく夕方だったような気もする。祖母は空き瓶をかごに入れ、私はあとに従った。砂利道の田舎の国道から山道に折れ、すこし歩くとつよい家畜の匂いが漂ってきた。せまい牛舎に、牛が2頭見えた。牛飼いの家の人と祖母は少し話し、空き瓶を渡して牛乳の入った瓶を受け取ると、また私を連れてもと来た道を戻った。

記憶が薄れている割に詳しく書いているようだが、この場所はもっと大きくなってから(たぶん中学生ぐらいの頃に)自分で探検に歩いているので、あまりまちがってはいないと思う。さらにもっと後になって(たぶんこのシーンから十数年たって)行ったときには、もう牛はいなかった。牛は2頭きりだったのか、見えたのがそれだけだったのかはわからないが、いずれにせよ、ごくごく小規模の牛飼いだった。

祖母は、その牛乳を鍋でゆっくりと加熱して、そして飲ませてくれた。「牛乳は噛んで飲め」というのが祖父母の家に伝わる正しい牛乳の飲み方で、私はゆっくりと味わった。前述のようにその味は覚えていない。おいしかったかどうかさえ、記憶にない。

けれど、まちがいなくおいしかったはずだ。というのは、次に覚えているのは、おそらくその翌年か、あるいは数年後、私が牛乳を飲みたいと言い、祖母が残念そうに、「もう牛飼いさんからは牛乳を買えなくなった」と言ったことだからだ。私はびっくりして、もう牛はいないのかと聞いた。そうではない、牛はいるし、乳も絞れる。ただ、それを売り買いできなくなったというのだ。「保健所がきびしいから」というのがその理由だった。その言葉で、私は世の中に保健所というものが存在することを知った。

祖母によると、もともと、牛飼いが直接牛乳を販売することはご法度だったそうだ。いまなら理解できる。そりゃ、牛舎はそこまで清潔じゃない。そんな場所で小売をするのは、確かに衛生上問題がある。だから祖母も、必ず加熱してからしか子どもに飲ませなかった。牛乳は加熱殺菌するものだという常識と技術があって初めて、牛飼いが売る牛乳は飲めるものだった。田舎の小さなコミュニティの中だけなら、それでも通用したのだろう。保健所の規定がいつ頃どうできたのかは知らないが、1960年代のその頃までは、お目こぼししてもさして問題にはならなかったのではないだろうか。けれど、時代はどんどん変わっていく。そのなかで、やっぱりダメなものはダメ、ということになったのだろう。

幼い私はそんなことを理解することもなく、ただふしぎに思った。すぐそこに牛がいて、そして確かにそこでは乳搾りをしているのに、それが飲めない。その牛乳は農協にあつめられ、そしてまた販売されるという。祖母のところにも届けられる。「この牛乳にもちょっとぐらいはあの牛飼いさんのお乳がはいってると思うから」と祖母が出してくれた牛乳を飲んだ。そして、がっかりした。やはり味は覚えていないのだけれど、以前に飲んだ牛乳とはまったくちがうと思ったことは覚えている。偏食の子どもだっただけに、よけいにしっかりと覚えている。

 

法律が厳しくなったと私は理解したけれど、いろいろ考え合わせてみると、運用が厳格になったという方がいいように思う。実際の法制度の変遷をみたらそのへんははっきりするのだろう。運用の変化だったら、地域差も大きいかもしれない。ともかくも、搾りたての牛乳を飲むという贅沢をそれ以後、私はしていない。思えば貴重な体験だった。だが、その体験をしているときには、そんなことにはまったく気づかなかった。冴えない田舎で、臭い牛のそばに連れられていったことそのものは、ひどくつまらないことだと子どもには感じられた。そういうものだろう。

だから、若いひとに年寄りじみた忠告をしたい。どんなつまらないと感じられることでも、何十年経てばそれが貴重な体験だったと感じられる可能性があるのだと。もちろん、何十年経とうがひどい経験というものもある。年月とともにどんどん忌まわしさが増していく記憶もある。だからすべてのことをありがたがれとはいわない。けれど、たとえばいまごく当たり前に消費しているコンビニの商品だって、何十年後には絶対に買えない品になっている可能性だってあるのだ。そういえば、リプトンの紅茶が…