指標が勝手に自己実現してしまう現象について知りたい

人間は外界の様子を知るために五感を備えているのだけれど、これが案外とアテにならない。アテにならないとはいえそれを使わなければ情報が得られないのだから、なるべくそのあやふやさをなくすために指標が用いられることになる。温かい寒いの感覚は前日の気温に左右されてしまうから、古くは山のコブシの花を見て農作業のスケジュールを決めた。こういうのを指標という。社会が複雑になってくるとこういう指標は数値化できるものが好まれるようになる。兵士を選抜するのに「コイツは強そうだ」みたいな検査官の主観ではなく、身長、体重、血圧などの測定可能な指標が参照される。指標は客観的であり、人間の感覚のあやふやさをよく補ってくれる。

ただし、この指標、知りたいことを知るためのものだから、指標が知りたい事象をよく反映しているかどうかということは常にチェックされねばならない。たとえば、百年以上前には俵を担げるかどうかは強壮であることのひとつの指標だったわけだが、現代の健康観からすればそんな指標に意味はない。多くの人が農村にいて、実際に米俵を人力で移動させなければならない現実があったから、そこで指標として意味をもっていたわけだ。ちなみに私は1俵どころか30kg入りの紙袋でさえ近頃は重すぎるように感じている。ダメだ、こりゃ。

特に、学問的に定められた指標ではなく、一般の人が感覚的に使う指標の場合、本当にそれが現実を反映しているのかどうかは十分に疑う余地がある。たとえばこれだ。

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「家賃と民度は比例する」から、少し高いと思うくらいの物件にしたほうが結果的に快適に暮らせる、は本当か?さまざまなケースの体験談集まる - Togetter

そもそも「民度」なんて測定不可能なんだし、「家賃」という指標が「民度」を正確に反映しているかどうかなんて、検討する価値もない。ただ、いいたいことはわかる。家賃が低い地域では住民のマナーがわるくて苦労するから家賃が高いところのほうが住みやすい、ということだろう。そうならそうと素直に書けばいいのに、ありもしない「民度」みたいな量を比例させるから話がややこしくなる。しかし、今日言いたいのはそこではない。

仮にこういう考えかたが一般化しているとしよう。あるいは、SNSなんかでそういう話が広まるとしよう。そうすると、どうなるか。だいたいにおいて、「マナーがいいほうが好ましい」と考える人々はマナーを内面化しているわけだから、自分自身のマナーもそこそこにはいいのだろう。そうすると、家賃が高めの地域には、マナーがいい人が集まるようになる。一方、「少々のことはお互い様じゃない」みたいに思ってる人は、そういう話を聞いてもなんとも思わない。むしろ、家賃は安いほうが好ましい。結果的に、お行儀のいい人から見たら少々眉をひそめたくなるようなフランクな人々が家賃の安い地域に集まることになる。そして、これを「家賃と民度は比例する」と考える人から見たら、「ほら、やっぱりそうじゃない!」ということになってしまう。

つまり、もともと「家賃と民度は比例する」という事実があったかどうかにかかわらず、いったんそういう言説ができてしまうと、結果として「家賃と民度は比例する」という現実が生まれる。そして、そうなってしまえば、「家賃」は「民度」の指標として有効になってしまう。仮に、下町の人情だとか慎ましやかな譲り合いだとか、そういった「民度」の高い暮らしがもともとあったとしても、そういった現実は「家賃と民度は比例する」を人々が受け入れるとともに消えてしまうだろう。人は自らつくりだした指標によって現実世界をつくりだしてしまう。

こういった現象を最も強く感じるのが、日本のごく一部の地域でみられる私立中学受験競争だ。私立中学校は偏差値によって細かく序列化されており、その偏差値は学校が優秀であるかどうかの指標とされている。入試なしで入れる公立中学校は指標ゼロであり、最底辺に位置づけられる。その指標が本当かどうか、私は大いに疑う余地があると思っている。入りにくいことがそれだけで優秀さを担保するわけはなかろうと、これは常識的に考えてそうなる。けれど、いったん多くの人がその指標を信頼すべきものとして行動を始めると、現実がそれをなぞるようになる。そして、「底辺公立中学校は動物園」みたいなおよそ根拠のない言説が自己実現を始めていく。そりゃ、人間をつかまえて「動物園」はひどすぎるのだけれど、優秀な生徒があらかた私立中学校に抜けてしまった公立中学校は、ある種の人々からはそう見える。そこで何か問題が起こったら「そらみたことか」と、その偏見が強化される。それは尾ひれをまとい、さらに多くの優秀な生徒が私立校に流出する現実をつくる。実際、関東の中学受験志望動機には、公立中学校への忌避が多い。現実がそうだからという以前に、「学力テストの成績で人間の優秀さが判別できる」という誤った指標の選択がそういう現実を生み出しているのだ。

このように、指標は、それが適切かどうかにかかわらず、それが代表すると人々が信じる現実を自己実現してしまうもののようだ。たとえば統計不正問題で信頼性が揺らいでいるGDPだけれど、GDPが伸びれば景気がいいという感じで、この数値は投資家たちの間で指標として用いられている。景気がよければ彼らは儲かり、儲かれば投資を増やすから、さらに景気がよくなるだろう。仮にGDPの数値が虚偽であったとしても、投資家はそれに進んで騙されることで好景気を信じることができ、彼らが好景気を信じて投資を続ける限りは景気はそこそこに上昇し、GDPもそれにつれてふくらみを増す。つまり、指標はそれが正しかろうが正しくなかろうが、いったん設定されるとそれを巡る現実を自己実現させていく。

だったらめでたいことじゃないかというかもしれない。けれど、そこで重要になるのは、本当にその指標が現実を反映しているかどうかということなのだ。家賃が民度を反映しているように見えるのはそれを信じる人々がそういう行動をとるからで、もしももっと適切な「民度」の測定指標が設定されれば実はその相関関係は見かけだけのものであったとわかるのかもしれない。子どもたちの生涯を通しての幸福を正確に測定することができるのであれば、通った学校の偏差値とその幸福度のあいだには特別な関係がないとわかるかもしれない。人々の暮らしやすさや安心感を別な尺度で測定したら、それは投資家の考える景気とは別な動きをしているのかもしれない。しかしもしも仮にそういった「本当の姿」を表現する新たな指標が設定されたとしても、今度はその指標が自己実現に向かって進み始めるだろう。そうなったら、私たちはいったい何を手がかりに外界の正しい様子を知ることができるのだろうか。

こんなことを、ときどき考える。そして思う。こういうことに頭を悩ませるのは私だけではないはずだと。そんなとき、私は調べてみる。ただ、この件に関しては、どこから手を付けていいのか、まるで手がかりがない。指標が自己実現に向かって勝手に動き出す現象に名前はあるのだろうか。せめてそれがわかれば調べようもある。あるいは、こういう事象は、どんな学問の対象になるのだろうか。社会学だろうか、統計学だろうか。どうにも漠然としている。

こういうときに、自分の教養の浅さを痛感する。いろんな仕事をして、いろんなことを学んできたつもりだけれど、膨大な知らないことの空間の中で、ほんの小さな手元だけを学んだだけのような気がする。途方に暮れるばかりだ。とはいえ、だから退屈せずに生きていられるのだと思えば…