健康は金では買えないが、金がなければ健康は損なわれる、という話

「子どもの貧困とライフチャンス」の第6章は、「ライフチャンスには健康が必須条件だ。健康のためにはそれをささえる経済資源が必須だ。つまり、貧困対策をしなければならない」という理屈で論が展開される。これは2010年に出された報告書、通称マーモット・レビューを下敷きにしているのだけれど、さもありなん、この章の著者は御大であるマイケル・マーモット医師ご自身ということである。

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一般に、「健康は金では買えない」といわれる。いくら金持ちでも不摂生な生活をしていれば健康はむしばまれていく。日頃の摂生ととしては、十分な睡眠や運動、野菜350グラムなど、どこかで聞いたようなお題目をあげれば十分だろう。だが、経済的に圧迫されると、それらを確保するのがむずかしくなる。低賃金で家計をささえなければいけないとなれば無理な労働時間で睡眠をけずらざるをえなくなるし、ちょっとした運動をする心の余裕もなくなる。「カロリーあたりの栄養素が豊富な食物は高価である」し、「果物・野菜の消費量が少ないことと食費の少なさ」は関係がある。人間はまず熱量がなければ動けないから、お金に余裕がなければカロリーあたりの値段が安いものをえらぶ。つまり、野菜ではなく穀物や油を買うようになる。「栄養的には優れているカロリーの低い食品は、比較的高価なものだ」。

つまり、健康的な食生活をするためには、心がけだけではなく、十分な収入がなければならない。実際、2歳から15歳までの子どもについての肥満の発症率調査では、「低所得側5分の2の集団の子どもたちのほうが肥満率が高い。この集団は、最低所得基準に達しない家庭の子どもたちである」わけだ。肥満が各種の慢性疾患の予測因子であることはいうまでもないだろう。「収入最低の層は、一般にタンパク質、鉄分の摂取量がすくなく、果物・野菜をあまりとらず、ビタミンC、カルシウム、魚類、葉酸の摂取量も少ない」。これで健康になれるはずもない。

こういった栄養不良は、出生前から子どもたちに影響する。「低所得世帯出身の女性は妊婦健診を予約することが少ないし、妊娠中の喫煙・飲酒の可能性も高く、食生活に問題がある場合も多い。これら最適とはいい難い状況はすべて、胎児の発達に影響し、低体重児の発生率を高める」。妊婦に酒をやめろ、タバコをやめろというのはかんたんだが、やめさせるのは容易ではない。しかし、経済状態が改善すれば、統計として、酒・タバコの消費が減ることはあきらかになっている。であるならば、妊婦を責めるより、経済状態をささえてやるほうがずっと効果が高いことになるはずだ。だいたいが、周産期には女性につよい精神的な負担がかかる。周産期の「うつ、不安障害、双極性障害統合失調症精神病性障害などの罹患率」は、「社会経済的な剥奪が大きくなるにつれ増加する。母親のメンタルヘルスが不調であれば、その子どもたちは行動上の困難、社会的困難、学習上の困難を経験するリスクが高くなる」。貧困が低学力につながるメカニズムは、こんなふうに説明することもできるわけだ。

さらに、貧困は子どもの精神状態に直接影響する。一般に、「低い社会経済的地位と子ども・若者のメンタルヘルス問題のあいだには明確な関係がある」のだし、「最貧世帯の子ども・若者は…、メンタルヘルス問題を発現する可能性が3倍近くにものぼ」り、「貧困下に暮らす思春期の子どもたちに行動上の問題が高い率で見られる」。「世帯収入の減少が子どものメンタルヘルスにマイナスの影響を直接あたえる」原因は、「経済的なプレッシャーの増加であり、親のメンタルヘルス、夫婦間のやりとり、子育ての質のマイナス方向への変化」とされている。

貧困は、住居の質が下がることをつうじて間接的に子どもの精神に影響をあたえる。住居がせまいと心理的に圧迫されるし、「寒い住居に住んでいる思春期の子どもたちの4人に1人以上が複数のメンタルヘルス問題のリスクにさらされている。暖かい家にずっと住んできた場合には20人に1人でしかない」というわけだ。

経済状況は、子どものネグレクトも増加させる。「継続的なネグレクトは健康や発達に重篤な損傷をあたえることにつながるだけでなく、社会機能、人間関係、教育上のアウトカムに対する長期的な困難も引き起こす。極端な場合には、ネグレクトには死という結果もまっている」。児童虐待の問題で親を責めるよりは、社会の不平等に起因する貧困をなくすほうがより被害を軽減できるのだろう。

健康は、きわめて個人的な問題だ。けれど、統計的にそれがあらわれるときには、社会問題としてあつかわれる。個別の人が個別に健康を心がけたり、あるいはあえて不健康を選択することを、他者がとやかくいうべきではないだろう。ただ、個別に対して意見するのではなく、社会の構造にたいしてはたらきかけることでそれが改善できるのなら、そうすべきだ。社会問題の解決とはそういうことだろう。社会の構成要素である個人は、あくまで自由な存在だ。ただし、その行動は、自由な意思の選択として、社会のありように影響される。行動をかえるために社会のありようをかえるのは、個人にたいする干渉ではない。健康の改善を社会問題として解決したいのであれば、健康を悪化させる社会的な因子をみいだし、それをつぶしていくことだ。そしてその最大の因子は、経済的な貧困である。

貧困を低減させようとすれば、当然、社会的なコストが発生する。それにたいして、本章の著者はいう。「忘れてならないのは、不健康は社会にとって高くつくということだ。不十分な収入の人々の数が増加すれば、それでなくともかつかつの国民保険サービスへの負担が増加し、政府にさらに出費を強いることになっていく」と警告して章を締めくくっている。なにもイギリスだけの話ではないだろう。

 

(次回につづく)

学校というやっかいな存在

私は学校がきらいだ。自分自身の経験として、すきではない。学校の唯一の魅力は友だちとあえることであって、それ以上ではない。授業のすべてがつまらなかったかといえばさすがにそこまでではなく、たまにおもしろい授業をしてくれる教師もいた。けれど、それが魅力でわざわざ行きたい気持ちになるかといえば、そんなことはなかった。

「なぜそんなつまらない学校に行くの?」みたいに、もしも当時の自分にたずねたら、おそらく「ほかに行くところがないから」と答えたことだろう。当時の自分の感覚では、おとなになればはたらかなくてはいけない。はたらくのは学校に行くよりもめんどうそうだから、まあ学校のほうがマシなんだろうな、程度にみえていたようにおもう。言葉をかえれば、おとなになったら自分もなんらかの手段でかせぐんだろうとはおもっていた。だが、不思議なことに、学校とその状態をむすびつけたことはなかった。「おとなになる」のは、年齢をかさねれば自動的になるのであって、学校で必要なスキルを身につけたからそうなるのではない。そのくせ、「自分はまだ子どもだから、とても仕事なんてできない」とはおもっていた。おとなになる過程でなにかを身につけなければいけないのだとおもっていたが、それを学校でおしえてもらうんだとは、ついぞおもわなかった。

これは、当時の社会が、現代ほどにさまざまなスキルを労働者にもとめなかったからでもあるかもしれない。当時の大学生は麻雀ばかりやっているとか酒ばかり飲んでるとか、そういうふうに世間からおもわれていたし、実際、いまの学生にくらべればはるかに学校によりつかなかった。大学がそういう状態だったから、社会に出るためになにか学ばなければいけないという感覚は、高校生、中学生、はては小学生にまでかんじられていなかったのだろう。おとなになるには、一定の年齢をかさねなければならない。それまでのあいだの子どもを世間から隔離して収容しておく場所が学校だ、ぐらいの感覚でいたのだろうとおもう。

そして、ある程度はそれもまた誤りではないという気が、いまでもする。たしかにむかしにくらべれば知っておくべき基礎知識や身につけておくべきスキルはふえた(とはいえ、むかしは必須だった農業に関する知識やちょっとした道具をあつかうスキルみたいなものは不要になった)。しかし、ひとはおしえられるから成長するのではなく、内在的な力によって成長する。たとえば、いま、過去数年のあいだ「勉強」から逃げられるだけ逃げてきた高校生をおしえはじめているのだが(通信制高校だとそういうことができてしまうらしい)、すこしおしえると「そうなんだぁ。なんでなんだろうなっておもってました」みたいなことをいう。「なんでなんだろうとおもう」ことはあらゆる学習の出発点であり、それがないところにおしえこもうとおもっても実際にはたいした力にはならない(だからカリキュラムどおりの授業はつまらない。もちろん、カリキュラムは実によくくふうされているのだけれど、それでもつまらない)。「なんでなんだろう」とおもいつづけてきた彼は、無為に過ごしたようにみえる数年のあいだに立派に成長して、正しく学べる位置にまできているのだと私はおもう。人間にはそういう力がある。

ともかくも、私のもつ学校のイメージは、よくて友だちと遊ぶ場所であり、わるくいえば収容所だ。本来そこには学ぶ場としての機能がそなわっていなければならないのだけれど、内在的な欲求が生じないうちにどんどんとカリキュラムにそってすすめられる学習にそこまでの意味はないようにおもえる。以前にもかいたが、おおくの社会人は、社会に出たあとで必要なスキルを自力で学びなおしている。必要性をかんじてスタートする学びは、それだけ効率がよく、ふかいところまでとどく。それが本質だろう。であるのに、学校には選別と競争の機能があたえられている。どれだけはやく正確に計算ができるかとか、どれだけの量の漢字をかけるかとか、どれだけの項目を暗記できているかとか、およそ学びの本質とは無関係なことでひとを測定し、それによってふりわけをおこなう。それがひとの生涯賃金や経済的な安定を左右する。ときには愛情や幸福感も左右する。

そういう実態があると感じている以上、私は社会学者が安直に教育の価値を説いてもうなづけない。彼らはいうのだ。貧困家庭が学校で不利になり、その結果として貧困が再生産されると。だからこそ、貧困家庭に教育援助をしてその再生産の輪からぬけだせるようにしなければならない。そういう理屈はたしかにわかるのだけれど、それって、学校でおこなわれている選別と競争を所与の前提として肯定していないのだろうか。選別や競争で不利になるからと、そこで勝てる方法をかんがえるのは正しいのだろうか。もしも貧困によって不当な選別をされるのだとしたら、わるいのは選別されたひとのほうではなく、選別するシステムではないのだろうか。

ことに、そういった貧困の再生産論を根拠に不利な立場におかれた子どもたち(貧困もそうだし、家庭の事情もそうだ)に対して無料の補習指導をやるボランティアみたいな美談が出るたびに、「それってただでさえ不利な人びとに質のわるい教育でさらに輪をかけるだけじゃないの」とおもわざるをえない。「ないよりマシだろう」的にたいしてスキルもない学生が「勉強を教える」ことをよしとするのは、ひとをバカにした話じゃないのとおもう。まあ、金をはらって似たようなサービスをうけるひともいるわけだからしょせんそんなものなのかもしれないが、どっちかといえば貧困の再生産がおこらないようにするには、学校をとりまくものをかえ、そして学校のありかたをかえることが本当じゃないのとおもわざるをえない。

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「子どもの貧困とライフチャンス」からずいんぶんはなれて持論を展開してしまったが、この本の第5章は学校教育の話だ。この章では、まず貧困の再生産論が実証的に語られる。貧困家庭に育つ子どもたちは、学校でうまくいかないことから、大学進学や就職、その先の収入で不利になる。「資格もとれずに卒業・中退することは、失業、低賃金、社会的疎外に至る確率を高め、広い意味でのウェルビーイングに影響をあたえる」。貧困家庭の子どもの学校での成績が低いことは統計的に実証されているし、長期欠席の可能性、退学処分の可能性も高い。15歳時点では、学力のおくれは平均2年分であるという統計もある。

なぜこのような差異が生じるのかといえば、ひとつには前章でとりあげた幼児教育の差異が影響するのだと著者は説いていく。しかし、それ以上の問題があると、著者はつづける。「低所得世帯の子どもほど…、刺激的な家庭学習環境に育つことが少ない」というわけだ。「社会学では文化資本が注目されているが、これは人の所有する習慣、技能、嗜好、選好で社会が評価するもののことである。教育分野に関して学界では、社会的に価値があるとされる文化資本の水準が低所得世帯で低いことが広い範囲の傾向として注目されてきた」と、再生産のしくみを説明する。いまとなっては古典的な理論であり、私は正直、「またかよ」とおもった。だからそういうものを低所得の家庭に援助しようとかいって、質の低いまがいものをあてがおうとかいう話になるんじゃないかと。

けれど、つぎの段落で、「おや?」とかんじた。「しかしながら集団ごとの親の文化・生活態度・将来への志望の差異を調べる研究には、つねに注意が必要である。…ステレオタイプを不利な立場にある家庭に持ち込み、『改善が必要』とかいった描写をして、そういった家庭が直面する主原因としての経済的制約の明らかな重要性から目をそらしてしまうからだ」と記されている。もやもやがすこし晴れた気がした。もしも貧困家庭の教育投資がすくないのであれば、それは単純に金がないからだ。まずそこをしっかりとみることが重要であり、「勉強がおくれているからサポートしましょう」「読書量がすくないようだから図書館にいかせましょう」「インターネットへの接続ができずにオンライン授業が受けられないようだから無料の接続サービスを手配しましょう」みたいなことは、現実にはほぼ無意味だ。そうではなく、先立つものがすべての家庭に十分にいきわたれば、そういった差異は自ずと目立たないほどに改善する。「さらに、貧困下に暮らす家族が直面する心理的なストレスの水準が高いことが、親が子どもの教育に時間や心の余裕を割けない原因になる」と、まさに「たりないものをおぎないましょう」では問題が解決しないことがあきらかにされる。

結局のところ、貧困の再生産による連環をたちきるために教育にはたらきかけましょうという発想にそもそもの無理があるのではないか。そうではなく、連環をたちきるなら、貧困そのものにアプローチすべきだろう。たしかに教育をつうじて貧困は再生産される。しかし、再生産されたとしてもどこかで貧困の状態を改善すれば、それで連環は切れる。教育の成果がたとえば就職や昇進の「チャンス」をあたえるものとして「ライフチャンス」に影響するのであれば、まずは貧困対策をすべきだという理屈になる。結果としての「チャンス」にはたらきかけようとしても、それはかえって不公平感を生むだろう。機会均等というなら、均等に機会があたえられる環境をこそ整備すべきなのだと、そんなふうに私は読んだ。

章の後半には、もうひとつのおおきな問題がかかれている。これはつまり、「いい学校」の問題だ。「低所得世帯の子どもは貧困地域に居住している傾向がある」ため、「こういった子どもたちはそういった地域にある学校に隔離されることに」なり、さらに「子どもたちを私立学校に送る余裕」や「公立の『いい』学校の校区に引っ越すだけの余裕」もない。宗教系の学校は、イギリスにおいてはそういう家庭でも手のとどく脱出戦略になりうるようだが、おおくの家庭ではそこまでの力もない。つまり、学校格差が目に見えないかたちで固定化していく。

さらに難関校であるグラマー・スクールは「何十年にもわたって均衡を欠いて富裕層の生徒を受け入れてきている」。人気のある学校は、入学志願者がおおいため選抜を恣意的におこなえる。したがって、「不利な立場にある生徒を、実際に親が入学願書を出しても、入学させたがらない」。そして、「貧困地区にある学校にはさまざまな困難がふりかか」る。そのメカニズムはあとのほうの章であきらかにされるということだが、この章でふれられているのは「社会構成効果」とか「ピア効果」とよばれるものだ。本来学校にはさまざまな社会的バックグラウンドのある生徒がいるものだ。貧困家庭の子どももいれば、裕福な家庭の子どももいる。ひとり親家庭の子どももいれば、両親ともに外に職場のある家庭の子ども、一方がつねに在宅の子どももいるだろう。こういった多様な子どもがバランスよくいることで、子どもの社会性はよく発達する。ところが、そのバランスがくずれたところで問題が発生する。「社会構成効果」というのはそういうことらしい。さらに、貧困地区で「あの学校はねえ…」といったうわさがたつと、経済的に余裕のある親は他地域の学校に子どもを送るため、学校の充足率が低下する。定員割れとなった学校は予算不足におちいり、「質の高い教員を維持することがむずかしくなる」。

こういう話をみると、とくに東京周辺で特異的にさかんな中学受験のことをおもわざるをえない。東京でおこっていることは、まさにこれと相似だ。裕福な家庭の子どもが私立校に集中することで、公立校の社会構成をいびつなものにしている。その結果、公立校の価値がおとしめられ、さらにおおくの生徒が親の経済のゆるす範囲で私立校に流出する。私立校の学費はなにもそんなに極端に高いものばかりではないが、受験のためには塾や家庭教師への投資が必要になるから、親の経済力にたいする選別圧力はおおきい。裕福な(といっても「富裕層」というほどではない)家庭の子どもとそうではない家庭の子どもは、べつべつの学校で学ぶことになる。こういったいびつな社会構成は(教えるがわ、管理するがわには都合がいいだろうし、そこにいかせる個人にとってもメリットはあるのだろうが)、長い目でみて社会に有益なものにはとてもおもえない。

どうやら学者たちも、学校の現状をそのままでいいとはおもっていないようだ。学校はときには、子どもたちの成長を阻害する。たとえば、単純にお金がないために学校行事への参加や学用品の準備が整わないことや親がイベントに参加できないことなどを、学校教職員が「教育熱心でない」と解釈するような事態もおこる。そういった誤解によって生徒を色分けすることで、生徒の教育に不利益をあたえるようなことを平気でやる。そういう指摘をつうじて、学校がかわらねばならないことを本章では示唆しているように、私なんかには読めてしまう。

教育を経由する貧困の再生産の連環をたちきるには、その連環から脱出する「チャンス」にうまく乗っかれるように補助することではなく、その連環の不具合をなおしていくことのほうが重要なようだ。ひとつには根本の原因である貧困への対策であり、もうひとつは制度と学校のあり方の是正だろう。そういうことなら、私は納得できるんだ。

 

(次回につづく)

幼児教育は有効なのか? - 「教育」という意味ではなく

「子どもの貧困とライフチャンス」という本の第4章は、保育・幼児教育と子どものライフチャンスについて書かれてある。私は近所の保育園に縁あって年に何度かお邪魔するぐらいの関係は小さな子どもたちとつないでいる。なので、この章にはとくに関心があった。

books.rakuten.co.jpそれはそれとして、家庭教師という仕事上、早期教育の効果に関して以前に調べる機会があった。とくに、その「非認知能力」に対する効果に関しては、かなり分厚いレポートを読んだ。これは政府関係の報告だから、それなりに信頼できるのだとおもう。それによれば、幼児期の早期教育には効果がある。ただし、無条件で早期教育の効果が云々できるものではない。というのも、効果があることが実証されたアメリカの研究はかなり古い時代のものであり、それは幼児期の教育サービスをまったく受けることができなかった人々に対してふつうの保育サービスを提供することによっておこった変化をモニタしたものだったからだ。たしかに幼児期の教育が非認知能力の向上に寄与したのは明らかだったが、それは無から有への変化であり、早期教育の特別な内容ではない。また、そのメカニズムが明らかになったわけでもない。学習産業界にとって都合のいい「こういう特別な早期教育をしたら効果があります」といったものではまったくない。

さらに学習産業界にとって都合がわるいのは、非認知能力をあげるとされる幼児期への介入のほとんどが、実際には効果が疑わしいものばかりだという事実だ。非認知能力にはいくつかの指標がある。それらの指標をあげることができるトレーニングは、確かに存在する。だが、その効果は長続きしない。結局これは試験対策とおなじことだ。指標とされるものに対して反復練習をすれば、確かにそのスコアは上がる。だが、それは単純に反復の効果であって、非認知能力そのものではない。トレーニングをやめればすぐにもとにもどることがそれを証明している。唯一効果があるとはっきり根拠をもっていえるのは読み聞かせだ。だが、そのメカニズムははっきりしていない。

したがって、その報告書を信用するなら、早期教育の効果にエビデンスはない。もちろん、特定の獲得目標に対する特定の訓練が特定の成果をあげることはある。お受験したければそれに特化した塾にでも行くべきだろう。そうすれば合格証は手にはいる。ただ、その訓練そのものが子どもの成長に何らかの役に立つということは、とくにない。強いていうなら、「それでも子どもは成長する」。多くの子どもは、それだけの強さをうちに秘めている。

人間の発達は脳の生理学的な発達とともにおこなわれるから、なんでも早くにやればそれでいいというものではない。日本には「芸を仕込むなら小さいうちから」みたいな発想で早くからやたらと複雑なことを子どもにおぼえさせようとする人々がいるようだが、仮にそれが訓練のたまものでできるようになったとしても、それが子どもの成長に意味をもつわけではないのがほとんどだ。

だから、この第4章で「子どもたちのライフチャンスに与える保育・幼児教育のプラスの影響については、重要で信頼すべきエビデンスが存在する」とあったときには、ちょっと眉に唾をつけた。これは1997年から2003年までの期間に保育・幼児教育を受けた集団と「家庭育児」集団を比較したものであるとのことで、やはり有か無の効果測定だ。

もうひとつの研究があって、それは2000年度に実施されていて、こちらは乳児期の保育と3歳時点の認知能力等との関係をみたもので、こちらは保育の種別や家庭の状況との相関もみている。もちろん、いずれにせよプラスの影響がある。

ということで、幼児教育は子どもの能力を開花させるが故に、ライフチャンスを改善する、という理屈がなりたつ。イギリス政府はそういった立場でこの分野に臨んでいるらしいし、おおくの政策提言もそういう方向でおこなわれるらしい。私としては「なんだかなあ」とおもったところで、私が読んだ上記の日本の報告書にも出てきたアメリカの古典的な研究が引用され、この失望感はさらにおおきくなった。

だが、その説明で、「今日の政策立案に現在でも有効であるのかどうかは、つねに疑問を呈されてきた」とあるのを見て、「おやっ」とおもった。つづいて「実際、保育・幼児教育の効果について誇張された効能が喧伝されていること、ことにそれ単独で子どもの貧困対策よりも効果があるとする風潮に憤慨する学者もいる」とアメリカ心理学の重鎮の発言を引用し、「幼児教育や幼児ケアを主体とした幼児期の介入がそれ自体で良好な教育的達成をもたらすのに十分だという信念、よって子どもたちにより良いライフチャンスをもたらすのに十分だという信念は、ある種の迷信に過ぎない」と結論づけているのを見て、「そうだよねえ」とうなづいてしまった。

保育・幼児教育の影響は、学校の成績から就職率にまで影響をおよぼしている可能性があるが、そこには親の経済状態や教育の質にも左右される。「保健サービス、安全な環境、十分な栄養、家賃を抑えた適切な住居、公共サービスのアクセスなど」が満たされていなければ、保育・幼児教育は、仮に有効なものであるとしても、その力を発揮できない。幼児教育は、「子どもの貧困の広範な影響に対する予防接種にはならない」。

それでも、とくに貧困家庭にとって保育・幼児教育の効果がみられるのは、それは一定の質が確保されていれば、そして金銭の負担がおおきくなければ、そういったサービスを受けることで親に余裕ができるからだろう。子どもの発達には「家庭学習環境が重要である」し、それは「親の社会階級や学歴よりも大きな影響を与える」。たとえば、最初の方で私が報告書から読み取った「非認知能力に唯一寄与する介入は読み聞かせだ」という事実をもとにかんがえても、そもそも余裕のない親が読み聞かせに時間をさけるわけはない。前章では「子どもに悪影響をあたえるのはひとり親かふたり親かという形の問題ではなく、親の精神が安定しているかどうかである」と読みとったわけだけれど、子どもを信頼できる場所にあずけることが子育て中の親の気持ちをどれだけ楽にするかは、多くの人が証言してくれるだろう。もちろん悪質な保育であればそれはかえって親にストレスをかけることにもなる。幼児期の子どもにとってたいせつなのは、どれだけ知識やスキルを身につけたかではなく、どれだけしあわせな時間を過ごせたかである。しあわせな時間を保育サービスで過ごした子どもは、親の心理状態を改善する。それが子どもの成長にプラスの影響をあたえる。保育・幼児教育は、そういった正の循環をうみだすためにもちいられるべきなのだろう。

ところが、どうもイギリスではそれがうまくいっていないようだ。イギリスでは低所得者向けの保育対策として税額控除や無料チケットなどの補助がなされているとのことだが、おおくの保育施設が公的に運営されているヨーロッパ諸国ではめずらしいことだという。イギリスは、保育・育児事業に関して市場モデルを採用しているわけだ。つまり、競争原理にもとづいた民間事業で保育園や幼稚園を運営することだ。その結果、親の負担は増加する。週に15時間の無料保育を政府が保証しているらしいのだが、この枠だけでは保育園は儲からない。なので、無料枠の利用に制限を設けたり、無料枠の利用とほかのプランを抱き合わせにしたりと、低所得の親が無料サービスを受けにくい状況が生まれている。市場モデルの弊害だ。だいたいが、15時間の保育を受けられたところで、それで親が働きに出られるほど雇用状況はあまくない。

市場モデルは、保育の質も下げる。事業者は人件費を下げようとするから、当然スタッフの給与、待遇、研修などが低下する。さらに、貧困家庭の多い地域では儲からないから、裕福な家庭の多い地域に質の高いサービスが集中し、質の低いサービスだけが取り残される。教育、医療、食料生産に市場原理はなじまないと、ある大学の教授が主張していたのをおもいだす。もう30年もまえだ。けれど、この日本でも市場モデルは拡大をつづけている。

本書では、市場モデルの変更という大幅な制度の変更を政府にもとめるのは無理とみて、市場モデルのなかでどうすればその弊害を抑えていけるのかという観点から、かなり具体的な提案をしている。それが日本の幼保事業にどのように関連してくるのかは門外漢の私にはわからない。ただ、「たとえば、保育士に対する有給の専門的研修の機会を含む最低賃金保障と雇用条件の改善」と書いてあるようなところにおおきくうなづくばかりだ。保育士は、肉体的にも精神的にもかなりきつい仕事だ。そして、プロである彼らのはたらきによって、多くの子どもが日々のしあわせをかんじているのは、まちがいないのだから。

 

(次回につづく)

「家庭崩壊」が原因か? - 子どもの「チャンス」をそこなわないために

「子どもの貧困とライフチャンス」の第3章は、「家族」に対する考えかた、価値観の相違について改めて考えさせてくれる。というのも、日本ではたとえば夫婦別姓問題をつうじて、「家族の絆」を主張する保守政治家の存在が浮き彫りになり、その一方で同性カップルを認める自治体が現れるなど、「じゃあいったい家族ってなによ」みたいな混乱がみられるからだ。日本の家族が根っこを「家制度」にもっていることはまちがいないし、それが制度として否定されたあとでは「子育ての単位」として法制度上の扱いを受けてきた一面があるのもまちがいないだろう。だが、子育ての単位としての家族は、伝統的な大家族にかぎらないのはもちろんとして、「核家族」が想定する「夫婦と子ども」というかたちだけでいいのだろうか。

たしかに、子育ての単位を夫婦と子どもとしておくのは、それなりにつごうがいい。けれど、現実にはさまざまな関係性のなかで子どもは育つ。とくに、ひとり親家庭は、めずらしいものではない。これは世界的にそうなのだろう。驚いたのは、イギリスにおいて、「ひとり親家庭が貧困の根本原因であるとされることが増加してきており、ふたり親家庭が最善であると持ち上げられ、推奨され報われるべきであるといわれるようになってきた」と3章冒頭に書いてあることだ。おやおや、ひとり親に対する風当たりの強さは日本だけじゃなかったんだ。

実際、2016年の首相演説が引用されているのだが、そこでは概略「離婚した家庭は離婚しない家庭より貧困になりやすいのだから、家族の絆を強めなければならない」みたいなことがいわれているらしい。安定した結婚こそが貧困対策だ的な考えかたが政策に反映されると、それは日本円にして年間1000億円にものぼる有配偶者への税額控除のかたちをとったりする。「経済的なインセンティブがあれば人びとは結婚し、離婚しないだろうという考えかた」であるわけだ。だが、人は経済的に有利になるからと結婚するのだろうか。そういう場合もあるかもしれない。離婚したら損だから結婚を続けるのだろうか。そういう場合もあるかもしれない。だが、そういった損得勘定で結びついた関係性が、本当に子どもの成長にとって有益なのだろうか。

男女がひと組の関係をもち、子どもをつくって育てるのは、本来究極の個人的な事情だ。ただ、社会にとっては再生産が重要であるため、この個人的な事情に社会が介入してくることになる。だから家制度のもとでは愛情であるとか価値観であるとかそういったことは基本的には抜きにして、社会の存続維持にとって有利なかたちでの結婚制度がとられることになった。それで不足する愛情や気配りは、拡大家族のなかでなんとか見つけられる場合もあっただろうし、なければないで済ませる場合もあったのかもしれない。個人の自由意志を尊重するたてまえになっている民主主義社会においても、やはり再生産の確保という意味で社会は個人的な選択に介入してくるだろう。だが、その介入が形式上の結婚関係を保護するものであれば、やはり子どもたちが必要とする愛情や気配りを十分に確保できないのではないだろうか。

そもそも、ひとり親家庭はさまざまな事情で発生する。個別の事情は個別の事情だから、社会を観察し、それに働きかけようとするときには問題にしない。問題とするわけではないが、「子どものことを考えたら離婚なんかできないはずだ」とか「結婚もせずに子どもを生むなんて子どもの幸せを考えていない」などといった言説は否定しておかねばならないだろう。世の中には夫婦がいっしょにいないほうがうまくいく関係もあるのだし、ときにはあえて結婚というかたちをとらないほうが子どもにとって幸せな場合もある。個別の事情はあくまで個別の事情だ。

そのうえで、社会学が注目するとしたら、それは統計だ。本書によれば、「家族の構造(つまりふたり親かひとり親かとか拡大家族か核家族かといったこと)そのものが子どものアウトカムにはほとんど影響しないというエビデンス」が存在するらしい。あるいは「ひとり親であることはごくわずかの因果関係を子どもの発達にあたえるに過ぎない」。「肉親と暮らす子どもたちとひとり親家庭の子どもたちは、ほぼいつでも同じ程度の結果を示している」のだし、「ひとり親家庭の子どもに生じる差異は、大半が親の学歴や職業に依存している」。

だとすれば、もしもひとり親家庭の子どもが不利な立場におかれるとしたら、その原因は「結婚」という形式にあるのではなく、それがもたらす仕事の上の困難と、さらにその結果としての家計への圧迫が真の要因だということになる。であるならばなすべきはひとり親家庭への支援であろう。しかしそれは、離婚したほうがトクだからという離婚へのインセンティブをあたえてしまうからダメだと、結婚という外形にこだわる立場からは見えてしまうようだ。本書でひとり親家庭への支援の必要性をとくに強調しているのは、そういった政府の態度をかえさせなければならないからなのだろう。

実際のところ、子どもに悪影響をあたえるのはひとり親かふたり親かという形の問題ではなく、親の精神が安定しているかどうかであるようだ。「両親が摩擦を解消できなければ、それは子どもの健康やウェルビーイングに長期的な影響を及ぼし」かねない。ちなみに、この「摩擦」という専門用語、翻訳者としてはこの文脈では「いさかい」ぐらいに訳したかったのだけれど、「これは術語だから」と採用されなかった。conflictという単語は専門領域によってべつべつの訳が存在する上に、日常的にはまたべつの言葉が適切なやっかいな言葉だ。訳し分けたら統一的な理解がうしなわれるし、統一したら統一したらで、門外漢にはなんだかよくわからなくなる。どっちにしても消化不良感が残る。ともかくも、子どもに悪影響をあたえるのは離婚そのものではなく、その前後のゴタゴタであり、さらにはひとり親を直撃する経済的な困難や忙しさであるようだ。それ故に、本書では「離別前後の家族に対する支援プログラム」が必要であると主張している。

結局のところ、かつてうまくいっているように見えた「ふた親そろった家族」は、実のところ、それがうまくいく場合もあれば、そうでない場合もある。おなじことはひとり親家庭にもいえるだろう。であるならば、どちらかを理想化するのではなく、あるいはそのどちらにもあてはまらないような子どもの生育環境もふくめて、あらゆる場において子どもがおおきく育つようにしていくことが、おそらくイギリスでも、日本でももとめられているのだろう。

 
 

なにはなくとも銭と金 - 低所得はライフチャンスをそこなう

「子どもの貧困とライフチャンス」の第2章は、お金の問題だ。それは冒頭にはっきりと書いてある。「子どものライフチャンスを改善することをねらった戦略を立てるのであれば……、適切な世帯所得をあらゆる家族に保障できるような計画を含めることが必要になる」と。はい、結論出ましたね、解散、みたいなぐらいに、はっきりと書いてある。「政府は貧困対策ではなくてライフチャンスだっていう。じゃあ、ライフチャンスを改善しようっていうんなら、なにが必要になるか見てみましょうね。えっと、あらゆる世帯にちゃんと収入がなければライフチャンスはグチャグチャになりますね。そこ、やらないとダメですよね。あ、それって貧困対策でした」みたいな感じだろう。まったくひとがわるい。

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あと、章のテーマそのものではないのだけれど、この本全体でくりかえし出てくる主張も、ここではっきりと述べられている。ライフチャンスという発想、あるいは「チャンスをものにして貧困から自力で脱出しよう」という考えかたがおちいりやすい認識は、「子ども時代を大人への準備期間であるとだけみる」ことだ。「子ども時代はそれ自身が人生のなかで重要な段階である。なにしろ平均寿命の5分の1は子ども時代なのだ」としごくまっとうな話をしたあとで、「したがって、子どものライフチャンスには、良好な子ども時代を過ごすチャンスが含まれねばならない」と展開するのには、おいおいと苦笑してしまう。「チャンス」という言葉に引っ掛けて、ほとんど言いがかりだとおもう。けれど、たしかに重要なことだ。幸せな子ども時代は、それがあることによって後の人生が豊かになるという意味でも、たしかに重要だ。だが、幸せな子ども時代は、それだけでも十分な価値がある。人生の価値とはなんなのかと問い詰めれば答えは人それぞれだろうけど、幸せだと感じることがその構成要素になるという考えかたには、ある程度の人びとが賛同するのではなかろうか。

家計が子どもの教育に影響し、その後の進学や就職、経済的な成功の多寡に影響することは、いうをまたないだろう。それ以前に、家計が子ども時代の幸せに影響することも明らかだ。それは単純な因果関係ではない。貧しくとも幸せな子ども時代を送る人もいれば、裕福でも不幸な子ども時代を過ごす人もいる。AならばBという直線的な関係ではなく、確率の問題だ。社会学は、個別の事情ではなく、統計的にあらわれたものを相手にする。そのときに、家計収入が十分でないことは、子どもの人生を確実にむしばむ。

そのひとつめとしてこの章であげられているのは、栄養だ。「2015年のイギリスでは、5組に1組の親が子どものために食事をがまんするか、……親族知人に食べ物をたよっている」というちょっとショッキングな事実が明らかになっている。日本ではどうなのだろう。「食事をがまんする」が「食べない」ということならそこまでの比率はないかもしれないが、子どもにはちゃんとした食事をさせても自分はラーメンをすするようなところまでふくめたら、似たような数字はあるのかもしれない。興味深いのは、「低所得世帯では収入が増えると、親はその分のお金を子どものためにまわす」のだし、具体的には「青果・野菜、子ども用衣料、おもちゃ、書籍への支出が増加し、酒類とたばこへの支出が減少する」ことが判明しているのだそうだ。酒やタバコをやってるから貧乏なのではなく、貧乏だとそういうものに逃げるしかなくなるのが真相のようだ。言葉をかえれば、だれも好きこのんで不健康な生活をしたいわけではない。「所得水準が収束するにつれ、低所得世帯の支出パターンが中所得・高所得世帯のものへと収束していく」。野菜や果物が食卓に少ないのは、単純にそれが買えないからだということを研究の結果は示しているようだ。

さらに、所得が低いことは、学校での社会的な地位を低下させる。それは服装や学用品である場合もあるし、活動への参加が制限されることでもある。食事を抜いて必要なお金を捻出しようとすれば、栄養に響いてくる。子ども時代の栄養は、健全な成長に欠かせないものだとはいうまでもない。

とはいえ、重要なのは親の目配り気配りだ。愛情だ。だが、「低所得での暮らしが親のストレスと悩みをふかめ、結果として家庭内の力学や関係性に影響する」。さらに「親のストレスが高まると子どもたちのストレスが高まりやすい」。そして、「親の最大のストレス源が貧困であることに多くの子どもたちが気づいて」いる。

結局、子どもの幸福と所得のあいだには、明らかすぎるほどの関係がある。それは出生時からそうだ。貧困は新生児の低体重と相関している。収入が増加すると酒類やタバコへの支出が減ることは上述のとおりだが、それは妊娠中の喫煙率にもあらわれている。

そして、学校の成績は、はっきりと世帯所得と相関している。「頭がわるいと収入が低くなるし、頭がわるい親からは頭がわるい子どもが生まれるのだろう」的な俗な解釈を排除するコントロールをしたうえで、やはり家計収入が高いほうが成績がいいのである。因果関係はいくらでもおもいつくが、そういう個別の、たとえば「塾に行かせる余裕があるから」みたいな説明を抜きにして、事実として所得と成績は相関している。さらに、世帯収入の増加は「社会的、情緒的、行動上の状態を改善する」。

そして、どうやら所得と教育成果の相関は、「教育投資」によるものではない。ある程度以上に裕福になればそういうこともあるのかもしれないが、たとえば私立学校への学費のような高額の支出にたりないわずかの家計収入の増加が、成績を改善する。その場合には、「収入の増加は家庭内で起こることの性質を変化させるようだ。落ち着いた環境をつくり出し、親の関わりを改善する」ということであるらしい。

第2章を読むだけで、「チャンスというのなら、まず貧困がチャンスをうばっているんじゃないの。お金がなければチャンスをつかみにいくこともできないじゃないの」という本書の立場がはっきりしてくる。「ライフチャンス」が「チャンスをあたえるから自助でがんばれ」というのであれば、それをもっとも効果的にするにはまず貧困対策が必要じゃないのと、本書は主張している。そして、それは第3章以下でさらに具体的に展開されることになる。

 

(次回につづく)

「ライフチャンス」って?

最初、この「子どもの貧困とライフチャンス」の原本を受けとったとき、「なんじゃいな、これは」とおもった。というのも、門外漢の私にとってlifechanceといえば生存機会であり、すなわちそれは生きるか死ぬかの問題であるようにおもえたからだ。「そんな御大層な本なのか?」とおもったら、どうもそうではない。なんなんだろうとおもって序文を見た。

www.kamogawa.co.jp序文は、貴族院の議員だかなんだかの長老政治家が書いている。保守党で閣僚も務めたことがあるらしい。彼のいうライフチャンスは、単純に直訳したそのまま、「人生のチャンス」であるらしい。つまり、保守的政治のいう「平等」とは、「機会の平等」である。なんでもかんでも平等にするのは合理的ではないし、自由でもない。努力したひとが報われるのは当然で、その結果として不平等が生じたとしてもそれは公正なものだ。もしもそれが公正ではないとすれば、それは努力以前に機会が不平等にあたえられたときだ。努力したくてもその場があたえられなければ、結果としての貧困は公正ではないといえるだろう。だから、平等な社会というのは機会が平等にあたえられる社会のことであると、これが自由主義的な平等観であろう。人には豊かになる権利と同様に貧しく生きる権利もある。それが選択できることこそ自由であるといってもいいだろう。選択の余地がなく、その結果として貧富の差が生じるときに、それは自由でも平等でもない、ということになるはずだ。

「ライフチャンス」の「チャンス」は、まさにそういう意味で政策に盛り込まれてきたようだ。保守系の政治家が「子どもたちのライフチャンス」といったとき、「チャンスをしっかりあたえれば、あとは個人の努力で幸福はつかむものだ(幸福をつかめなければそれは自己責任だ)」という考え方があるようにおもう。この本は、そういう冷たい話なのだろうか。

序章にすすむと、どうもそうではない。序章はこの本全体の要約になっていて、ある意味、そこを読むだけでだいたいの主張がわかるようになっている。それによれば、「政府はライフチャンスの概念を社会移動に従属するものと考えている」が、「社会移動の概念だけでは狭すぎる」と、それに異議を唱えるのがこの本の論調であるらしい。

そして、第1章を読むと、「機会均等」とはまったく別な概念としての「ライフチャンス」が説明される。この概念は、社会学の元祖の一方とされるマックス・ウェーバーにまでさかのぼるのだという。社会学は、「社会」という実体が存在するとして、その力学をさぐるものだ。人間の目には、「社会」は見えない。それはちょうど、ニュートン力学において「力」が目に見えないのとおなじことだ。目に見えないものは扱えないとするのが穏当な人間の態度なのだけれど、見ることも触れることもできない「力」を測定可能な量でもって定義し、それが存在すると仮定することによって、ニュートン力学は多くの物体の挙動を説明するのに成功した。おなじように、社会学は目には見えないし触れることもできない「社会」の存在を定義づけることによって、その挙動を明らかにする。社会は目に見えないが、その構成要素である個人やその集団は見ることも触ることもできる。だからときどき私たちは、社会学に個人の運命の帰結を説明することをもとめてしまいそうになる。しかし、それは社会学ができることではない。なぜなら集団を構成する個人は、統計的、あるいは確率論的にしか社会の挙動に関係しないからだ。だから、個人は、その属する社会経済集団によって財を手にできるかどうかがかわってくるのだけれど、その帰結は確率としてしか語れない。すなわち、人生における運命の確率が社会階級に関連してくる。もちろんそれは、個人の立場から主体的に関与することもできる。そういった確率論的な運命のとらえかたが、すなわち「ライフチャンス」である、ということらしい。

別段、上記のような解説が事細かに書いてあるわけではない。だが、ウェーバーを持ち出しての学者っぽい説明を、私はそういうことだと理解した。おそらくこういう理解が、「聖なる」ライフチャンスなのだろう。その一方で、「貧困から抜け出せないのはそのチャンスがあたえられないからだ。チャンスさえあればあとは自助で豊かになれるじゃないか」という理解は、「俗な」ライフチャンスなのだろう。この俗な理解に立てば、ライフチャンスを改善することは、社会の固定化を打破することになる。市民革命以後の民主社会の基本的な出発点は、「人間は生まれながらに平等である」という観念だろう。平等であるがゆえに身分制度は廃止されねばならないし、出自による差別はなくさなければならない。しかし、ある社会階級に生まれたことがそのまま有利になるような構造は現にあるのだし、生まれながらに不利な立場に立たされてしまう人びとも少なくはない。しかし、たとえば貧困家庭に生まれてもきちんとチャンスをあたえられるのなら、あとは努力次第で豊かになれるのだから、平等性は確保される。つまり、憎むべきは社会的に有利な立場、不利な立場が存在することではなく、それが固定化することなのだ。固定化させないためには、不利な立場の人びとにつねにチャンスをあたえて、そこから脱出できるようにしてやらねばならない。これが「社会移動」の概念であって、だからこそ、「ライフチャンス」は「社会移動」に従属するものとなる。これが現にイギリス政府が2010年代なかばに採用した態度であり、貧困撲滅のための政策の文言の中に「ライフチャンス」が盛り込まれたゆえんであると、そういうふうに第1章は展開していく。

ウェーバー以来の「聖なる」ライフチャンスの概念を引っ張り出して、それに真正面から異議を唱えることもできるのかもしれない。だが、第1章を読んで、この本はそういう展開をしないのだとわかる。たぶん、「いや、そのライフチャンスって言葉の使い方、ちがうから」みたいにいいたい気持ちはあるのだろう。けれど、あえてそうはいわない。もちろん、フェビアン委員会の報告書を引用して、「ライフチャンスに取り組む前提としての社会移動の概念を明示的に拒絶している」と、真っ向から「ちがうよ」といってはいる。けれど、既に政策として文言化されたものをちゃぶ台返ししようとしてもむなしいのが実務的な態度だ。だから、この章では、「社会移動一辺倒の狭い先入観から」ライフチャンスをもっとひろいものとしてとらえようと提言している。つまり、聖と俗を対立させるのではなく、俗な理解をつつみこんだうえで、「でも、そのためにはそれだけじゃダメでしょう」とひきとっていこうというわけだ。

「個人のライフチャンスはその人の特性、努力、態度によってのみ形作られるものではなく……、ハシゴの高さや勾配、桁の間の距離によっても形成される」とし、「加えて、理由はなんであれ、社会移動の階梯を登れない人」がいることにも注意をはらうべきだとしている。結局、「もしもライフチャンスという言葉を社会移動を促進する機会均等の意味で使いたいんならそれもいいでしょう。けれど、だとしたら、そのライフチャンス政策はそれでいいんですか」と、「あえて相手の土俵に乗ることで」(と、監訳者が何度も言っていたのだけれど)、もっと根本的な問題に目を向けさせようということであるようだ。

ここまで読んできて、ようやくおぼろげになんの話をしたいのだかが見えてきた。そもそもこの本を企画した「子どもの貧困アクショングループ」は、子どもの貧困をなくすことを目指して活動している組織だ。よくある慈善事業ではない。慈善事業は個別の事情に対して支援するものであって、「困っているなら助けましょう」というのが基本スタンスだ。それはそれで美しいものであるし、あるべきものだろう。だが、社会学が相手にする「社会」という存在は、個別の事情の集積ではない。あるいは、個別の事情の集積を分析することによって見えてくるものだ。「社会」の挙動や性質が見えてくるとして、それをかえていくのは個別の事情を個別に解決していくことではない。そうではなく、社会のしくみや動力に変更を加えることで個別の事情が発生する力学をかえようとするものだ。だから(日本語版向けに追加された前文によれば)、「子どもの貧困アクショングループ」は政策提言や裁判をつうじて判例をつくる活動(イギリスでは判例は法令とならんで重視されている)など、しくみをかえる活動に力を入れているわけだ。個別の事情に対しては、慈善ではなく、「研修、相談、情報提供」で改善をはたらきかけている。そういう組織が、理想をたもちつつも、実務的、実利的に保守党政権に政策提言をねじこんでいくために書かれた本がこの本で、だからこそ、怪しげな「ライフチャンス」の概念を怪しげなままに、「でも、それならもっと必要なことがあるでしょう」と引っ張っていこうというわけだ。

奇妙な本に関わったなとおもった。だが、すこしうらやましいなともおもった。この日本では、貧困の話になると、とたんに「それは生活がだらしないからだ」式の自己責任論がとびだしてくる。統計的に発生する事象の発生確率を減らそうという議論をしているのに、事象の個別の細かな事情をあげつらう。そんな言葉がとびかうのにうんざりするのだけれど、イギリスでは政府でさえ、子どもの貧困撲滅が最優先課題であることをみとめている。そういった共通認識が成立しているからこそ、「それを達成するのにライフチャンスが必要だっていうんだね。だったらそれをやりましょうよ。で、そのライフチャンスって、単純に成功へのチャンスをぶら下げることだけじゃないですよね」って議論が成り立つわけだ。

じゃあ、そういう議論がどんなふうに展開していくのか、それは第2章以下ということになる。

 

(次回につづく)

「子どもの貧困とライフチャンス」が出ます

久しぶりに、翻訳者としてのクレジットがはいった本が出る。英語の出版で謝辞を入れてもらったのはここ10年で2度ほどあるけれど、それは翻訳者としてではなくそのコーディネイトをしたという意味でしかない。翻訳者として名前を出してもらえるのは15年ぶりぐらいになるのではないだろうか。やっぱり嬉しい。

今回の翻訳、いつものことながら、私の専門外の本である。もともと専門というものをもたないのが専門だと言いいはってる私だから、訳書がすべて専門外なのはあたりまえといえばあたりまえだ。ただ、関心のない分野ではない。ひとつは教育ということであり、もうひとつは貧困ということだ。教育は、家庭教師という仕事とかぶさってくる。貧困にかんしては、いやでも向こうからやってくる。無関心というわけにはいかない。

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この本、もともとは5年ほどまえ、イギリスで出版されたものだ。もちろん私はそのあたりのことは知らなかった。業界の人間ではないからだ。しかし、業界人である北海道大学の教授はそれを見つけ、緊急に日本で出版しなければならないと考えた。彼には、日本の状況とイギリスの状況がダブって見えたのだろう。そして、「早い、安い、そこそこうまい」翻訳者である私のところに相談を持ちかけてきた。3年と半年ほど前のことだ。「3ヶ月で訳せるか?」という。「2ヶ月でやる」というのが私の答えだった。渡された本の序章を読んで、「ああ、これなら読みやすいからだいじょうぶ」とおもった。機械翻訳の進歩で仕事が減るなか、弱小翻訳事務所として仕事はいくらでもほしいし、回転率をあげるのは重要だとおもったからでもある。

ところがことはおもうように運ばなかった。実は序章は特別に読みやすかった。なぜなら、それは以後の各章になにが書いてあるのかをわかりやすく要約するイントロダクションだったからだ。つづく第1章はともかく第2章以後はかなりガチガチの論文で、論文特有のまだるっこしさがある。おもしろくないとまではいわないが、「さっさと要点に入れよ」とイライラさせられたり、「引用がはいるからといったって、そこは文章が長すぎるだろう」とツッコミを入れたくなったり、まあ、素直に読めない文が連続する。専門用語を調べるのは仕事だからそれはそれとして、イギリスのローカルな法制度なんかは、定訳があるわけでもなく、またその実態がどういうものかを知らなければ的確な訳ができるわけもなく、調べるのに実に手間取る。べつに自分が受け取るわけでもない補助金の受給手続きを調べるとか、正直、めんどうだった。

そのぐらいで弱音を吐いていては業務としての翻訳はできない。やることはやるんだからとがんばって作業を進めているなか、父親が体調を崩して入院した。おまけに、こちらは英訳本になるけれど、劣らず大きなプロジェクトを受注してしまった。待てるものなら待ってもらいたいと交渉し、結局2ヶ月どころか5ヶ月ちょっとかかってようやく納品した。病床の父親の枕元で翻訳の作業を進めたのも、いまとなってはおもいでだ。そういう事情があったから翻訳の出来としてはあまり満足できなかった。けれど、急ぎだというし、監訳をしっかりやるからという話だったので、手放した。温めておいて改善するだけの余裕はこっちになかったのだし、企画した教授としては間に合わせたい会議とかがあったらしいのだし。

そこから出版社の編集もはいり、出版に向けて順調にすすむように思えた。契約書まわりの事務翻訳もついでに私の方で担当することになって、どうにかこうにかそちらも動きはじめた。ところが途中で、おもいもかけず中断してしまった。細かい事情を書くと長くなるので書かないのだけれど、複数の事情が錯綜して、企画がピタリと止まってしまった。「緊急出版じゃなかったのかよ」とおもわないことはなかったが、私のどうこうできることではなかったので、傍観するよりなかった。

それが、1年以上のブランクを経てようやく今年になって動きはじめた。動きはじめてからもトントン拍子とはいかない。たかが200数十ページの本、いまの技術なら2週間もあれば下版できるだろうとおもうのだけれど、アカデミックな出版は感覚がちがう。いや、確かに早さが取り柄で仕上がりは雑という私なんかのやり方とは明らかにちがうわけで、そこはたいしたものだとはおもう。とにもかくにも、この秋に校正がたてつづいて出て、ようやく責了とおもったらもう販売だ。このあたりのスピードは、やっぱり現代。

 

さて、裏話は実はどうでもいい。書きたいのは、その本の内容だ。私は専門家ではないからことの重要性はわからないのだけれど、この本に記載されたイギリス社会の状況、とくに子どもたちの成長と貧困をめぐる状況は、あまりにも生々しく、また、日本の現状とつきくらべてみて「なるほどね」とか「そういうことだよなあ」とうなづかざるを得ない記述に満ちている。これは貴重だ。

だから、この本は教育学や社会学の専門家ではない人々にも読んでもらいたい。けれど、「じゃあ買ってください」と素直に宣伝できるかといえば、それも気が進まない。なぜなら、(読みやすいものにしようという担当編集者の努力にもかかわらず)論文が基調になっているこの本は、それなりに読みづらいからだ。こういってしまってはミもフタもないが、本の宣伝用のチラシには「省庁・自治体子どもの貧困対策担当、議員、支援者、研究者・学生など、子どもの貧困対策と子どもの権利実現を担う人々の未来に向けた必携書」と書いてあるのが、まあそういうことで、そういう人びとならまちがいなく買って読んだほうがいいんだろうが、それ以外の人びとがあえて買ってまで読むべきかというと、残念ながら「それって無茶ブリだろう」とおもわざるをえない。

具体的にいうと、この本は情報の宝庫だ。ひとつの事実が述べてあったとして、もともとの仕立てが論文だから、必ずその根拠になる文献があげてある。だからたとえば行政関係者が「こういう事実がイギリスでもあるから日本でもかんがえないといけない」と審議会かなんかの原案でもつくろうかとおもったときに、「じゃあ、その根拠はどこにあんの?」という質問に、かんたんに答えることができる(そのために参考文献のリンクとか、とくに念入りに校正で手をかけた)。研究者が論文を書こうとおもったときも、さかのぼって原資料にあたることができる。まだるっこしい議論の進め方も、正確で読みちがえがない。政策の流れがどんなふうにできてきたのかを的確に知ることができるだろう。

だが、それらは、上記以外の多くの読者にとってはたいした魅力にはならない。私のように「へえ、ゼロ時間契約なんてものがあるんだ。ひどいや。あ、でもかんがえてみたら、それって日本のバイトとおなじことじゃん」みたいな興味で読む人間にとっては、「いや、もう参考文献なんかどうでもいいから、もっと現状をおしえてよ」となるだろう。学問というものはつねに疑うものだから、必ず根拠が必要になるし、論証の手続きも重要だ。だが、一般人はそれを学者という商売に委ねてかまわない。とりあえず信じるから、結論だけおしえてくれよとおもう。そしてそういう要望にこたえる書物もある。安直なブログ記事なんかもあふれている。それはそれで必要なわけだ。

だから私も、そういうものとしてここから何回かに分けて、この本で語られたことを紹介していこうとおもう。おそらくベストの方法は原文に沿って、その学術的な部分を俗にかきかえ、参考文献なんかもぜんぶ省いて提示することだろう。けれど、そこまでやったらたぶん出版社に怒られる。なので、長めの読書感想文として、私自身の感想や経験を織り交ぜながら書いていこうとおもう。

 

(次回につづく)